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私を忘れて  作者: 千変万化
七章 「魔女」
54/125

7-8

 イデアルが、森の中をゆっくりと進んでいく。

 アリーとラインハルトは、再び目的地である、森の奥にある村を目指していた。

 男たちの亡骸は、出発前に埋めてきた。自分のために命を捨てた彼らをそのまま放っていくことが、アリーにはできなかった。

 皮肉なことだが、土を掘り起こし、移動させるのは魔法で容易くでき、六人を埋めるのにあまり時間はかからなかった。それだけに関しては、アリーは少しだけ魔法に感謝した。

 馬上に揺られている間、アリーは何も言わなかった。俯き、気を紛らわせるように魔女の本へと目を落とすばかりだ。

 気を遣っているのか、ラインハルトも口を閉ざしたままだ。時折地図を確認する仕草を見せるだけで、ひたすら黙って前を見続けている。

 ここまで思い出した記憶の全てが載っている、魔女の書。しかし、今はどれほど読んでみても、全く頭に入ってこない。

 アリーの心に去来するのは、自分がどうすればいいか、という一点に尽きた。魔女や巫女だった者たちはこの国の滅びを望み、かつて魔女に付き従った者たちは、復讐を願っている。その思いに応え、行動を起こせるのは、アリーしかいない。

 しかし、アリーはそんなことをしたくはなかった。間違っても、多くの命を奪いたいなどとは思わない。

 ――だけど私の手は、もう汚れてる。

 たくさんの人を殺め、この手は既に赤く染まってしまった。もう、彼女たちの思いを、拒絶する資格はないのかもしれない。

 思いが後ろ向きになると、またあの声が聞こえてくる。

 魔女になってしまった少女たちが、甘い囁きをしてくる。アリーの耳元で、何度も何度も、そちら側に引きずり込もうとする。

「やめて」

 口の中で力なく言っても、今度は声は消えない。クモの糸が纏わりつくように、しつこく付き纏って来る。

 眼を強くつむり、耳を塞いで、アリーはしばらく俯いた。

 不意に、馬上の揺れがなくなっては、イデアルが小さく鳴いた。人の降り立つ音も、一つ聞こえた。

 アリーがそっと瞼を開けると、ある光景が飛び込んできて、思わず目を見開いた。

 立ち尽くすラインハルトも、イデアルの姿も、この時ばかりは一瞬で意識の外に消えた。

 澄んだ色をしている湖が、眼前に広がっていた。決して広すぎるものではなく、どちらかと言えばこじんまりとしたものだ。しかし、いつしか夕日となった陽の光を照り返し、きらきらと煌めく水面は、今まで見た何よりも美しい。

 イデアルからゆっくりと降り、アリーはそっと湖の傍に歩み寄った。

 近くに行くと、その澄み具合がよくわかる。水は透き通っていて、汚れたものを一切感じさせない。まるでピカピカに磨いた鏡のようで、覗き込んだ自分の顔が映って見える。

「きれいだね」

 アリーが呟くと、ラインハルトがそうだね、と小さく答えた。

 さっきまでの屈託が束の間姿を隠し、アリーは少し穏やかな気持ちになりながら水面を覗き続けた。

 自分の、赤が混じった銀の髪。少し穏やかになった、自分の顔。それらを、ぼんやりと眺める。

 その顔が、ふと表情を変えた。

 アリーの顔が、悲哀に歪む。見つめてくる悲しげな瞳と自分のそれが、重なり合う。

「あなたは」

 その顔が魔女のものだと気づいた時、アリーは思わず呟いていた。

 悲しげな瞳が伏せられ、次いで、アリーの視界が白く霞んでいく。記憶の世界に呼ばれているということは、アリーにはもうわかっていた。

 世界に色がついた時には、アリーはさっきまでと同じ場所にいた。

 違うのは、そこには別の誰かが佇んでいることくらいか。

 水面を覗き込んだ時に見えた顔の持ち主が、湖の前で立ち尽くしている。声もなく涙を流し、佇む様は、今にも消え入りそうなほどに儚い。

「どうして、こうなってしまったのだろう」

 魔女が、ぽつりと呟くように言った。

「わたしは、こんなことを望んだわけじゃない。こんな未来を、夢見たわけじゃない。わたしは」

 言葉が途切れ、魔女が口を押えて何度か咳をする。重い風邪を引いた時のような、鈍い響きだ。

 一度、ひと際重い音が、魔女の口から洩れた。そこで咳は治まり、魔女は口から手をゆっくりと離す。手のひらには、赤いものがべったりとついていた。

 その手を、魔女はかざすようにして見ている。

「いまさら何を言っても、遅いよね。もう、過ぎてしまったことなんだ。この現実は、なかったことにできない」

 魔女の双眸がより潤み、涙がとめどなく零れていく。

 それでも、口から嗚咽が漏れることはない。吐き出されるのは、魔女の後悔ばかりだ。

 たくさんのものを壊して、数えきれないくらいの命を奪って、多くの恨みを生み出して。

 数多の罪が、自身を苛ませる。それでも消えない、憎しみの炎。自我を奪おうとする、呪われた力。

 魔女が、ぽつりぽつりと、そう呟いた。

「……もう、たくさんだよ。わたしは、もう終わりにしたい」

 ふらつく足取りで、魔女は湖に向かって歩いていく。目の前に底の見えない水面が迫っても、その歩みを止めない。

 やがて、魔女はその身を湖に投げた。

 それとほぼ同時に、アリーの脳裏に、魔女の思念が浮かび上がってくる。

 薄れゆく意識の中、虚ろな目で遠のいていく地上の光を見ながら、最期に思うのは、やはり消えない憎悪のことばかり。

 どれだけかかっても、復讐してやる。気持ちの半分を覆い隠しながら、魔女はそれだけを思い、やがて意識を手放した。

「……そしてわたしは、怨念のような存在となった」

 いつの間にか隣にいた魔女が、俯きながら言った。

「次に意識を取り戻した時、わたしはこの国を空から見ていた。それは例えでも何でもなくて、わたしは宙をふわふわと浮いていたの。魔力に囲まれた、この国を見下ろすようにね」

「魔力に囲まれたって言うのは、アルベール王とあなたの父様が施した、まじないのこと?」

「そう。あれは、結局は大きな魔力によってなされている。膨大な大地の魔力によって、発現している。わたしは、その魔力の囲いに引き寄せられてた。どうやっても離れられなかったけど、それならばと寄り添って力を奪うことで、存在を保っていた」

 魔女が、アリーに向き直る。見つめてくる視線は、どこか寂しげだ。

「わたしの憎悪が、わたしが思っている以上に深いものだったと知ったのは、その時だよ。わたしの体にも流れていた異常な魔力は、憎悪と結びついて制御が利かないものになっていた。言ってしまうならそれは、呪いの魔法。命を奪う呪われた存在に、わたしはなっていたんだよ」

 魔女が言葉を紡ぐたびに、アリーの記憶にかかっていた靄が、少しずつ晴れていく。末路の記憶が、目を覚ましていく。

 アリーは、自分に蘇る記憶を確かめながら、魔女の言葉を待った。

「強すぎる力には、相応の対価があるの。わたしはね、存在するだけで他者の命を吸ってしまうんだ。わたしが存在し続けるために、無意識のうちに命を奪っていく」

「魔族が魔法を使って、大地の生命力を奪ってしまうように?」

「それと似たようなものだよ。違うのは、ありとあらゆる命を、何もしなくても奪うこと。わたしの言う命って、何も生命力だけじゃないの。魔族の持つ魔力だって、命そのもの。わたしにとってはエサに等しかった」

 だからね、と魔女は俯きながら続ける。

「自分が死んでなお、魔力を吸って長らえている時、わたしは微かに残っていた自我の中で、絶望してた。わたしのせいで、みんなが傷ついてたんだなって。わたしがいたことで、たくさんの仲間が死んでたんだなって。そう思ったら、気持ちが抑えられなくなってた」

 魔女が、涙をそっと流す。拭われることもなく流れるそれは、止まることを知らないように流れ続けた。

「わたしを引き寄せていた魔力の囲いに、わたしは憎しみを込めて目いっぱい抗った。誰に対してかは、わからない。けれど奪って奪って、奪い尽くして。長い時間をかけて、この国の囲いをわたしのものにしたの」

「だから、魔力を持つ者はこの国から出られないんだね」

「そう。この国の囲いは、今やわたしが魔力を奪うためだけに存在してる。それにね、魔族には裏切り者もいたから。そいつを逃がさない意味もあったと思う」

 うっすらとだが、アリーはそのことを思い出した。魔女の父を裏切ったのは、人間族の他に、少ないが魔族もいた。

 頭を押さえ、よろめくように何歩か後退って、魔女が顔をしかめた。アリーが気になって声をかけようとしたが、その前に魔女は落ち着いたような顔をして、言葉を続けた。

「自由になったワタシは、それからどうしたのかわからない。もうその時には、意識なんてほとんどなくて。どれくらい経ったかわからないけど、次に気づいた時には、ワタシは別の人の中にいたの。魔力をたくさん持ってる、混血児の中にね」

「どうして、混血児だったの?」

「人と魔族の間に生まれた混血児は、不思議と強い魔力を持ってる。特に、魔王と人間の間に生まれた女の子は、ワタシみたいに異常な魔力を宿してるの。多分、命を求める呪いの魔法は、より強い魔力を欲したのね」

 魔女が、ふと振り返る。アリーがそちらに目をやると、いつの間にか何人もの少女が、ぼんやりとした面持ちで立ち尽くしていた。

 どことなく、アリーは嫌な感じがした。胸の鼓動が、少しずつ速まり始める。

「ワタシはその時、唐突に気づいたの。生身の体がないあのままじゃ、何もできないって。どれほど強力な魔力を擁していたって、それは大地の生命力の一つに過ぎないんだって。だからね」

 不意に、空気が張り詰める。アリーの背中に、冷たい汗が流れ落ちた。

 さっきまで悲しげだった魔女の顔に、いきなり狂気に満ちたものが浮かんでいた。涙も、いつの間にか止まっている。

「体を、貰うことにしたんだ」

 魔女が、一歩詰め寄る。無意識のうちに、アリーは一歩下がっていた。

「その強すぎる力のせいで、そこにいるミンナは異端児扱いされて、辛い日々を送ってた。ミンナ、この境遇を憎んでた。その恨みを果たしてあげるために、ワタシはそっと手を差し伸べたんだよ」

 魔女の右の口角が吊り上がる。その魔女の右手が不意に上げられ、次の瞬間にはアリーの少し後ろで激しい炎が燃え盛っていた。

「ミンナ、拒まなかった。誰もが、この力を持て余していたから。この力で自分の境遇を変えられるならと、ワタシに体をくれたんだ」

 魔女が、また一歩近づいて来る。今度は、アリーの足は動かない。

「前に、言ったよね? アナタの命も、ワタシにちょうだい、って。それは、ワタシに体をちょうだい、ってことなの。アナタみたいな特別な子の体だったら、今度こそこの国を滅ぼせる」

 狂気に歪んだ顔を向け、不気味な笑い声を上げながら、魔女がまた一歩進める。もう三歩も進めば、アリーに手は届くだろう。

 しかし、アリーに恐怖はなかった。しっかりと魔女に目を向けて、今自分が見ている真実に、向き合おうとしていた。

 本当は、魔女が言った特別な子という意味を考えてみたかった。しかしそれ以上に、アリーは魔女の心に触れたかった。

「また、聞いていいかな」

 魔女が一歩進んだ時、アリーもまた一歩進んで、口を開いた。

 少し驚いたような顔をした魔女が、体の動きを止めた。笑い声も、ぴたりとやんでいる。

「……なに?」

 魔女の声は、少し動揺を孕んでいる。

「どうして、あなたは泣いてるの?」

「……えっ」

 魔女がはっとして、自分の顔に手を当てる。

 魔女の双眸からは、涙が静かに流れていた。何度も何度も魔女が乱暴に拭っていくが、そのたびに涙は零れていく。

「なんで、どうして」

 魔女が戸惑いながらも、拭い続ける。それでも、やっぱり止まらない。

 アリーは、また一歩進んだ。もう、互いに距離はない。手を伸ばさなくても、触れ合えるほどに近い。

 それに気づいた魔女が、うろたえたような顔をして、アリーを見つめてくる。まるで悪いことをしてしまった子どもが、この後どうすればいいのかわからないと言っているような弱弱しさが、そこにはあった。

「私ね、思うんだ。本当に救われたいのは、あなたなんじゃないかな、って」

「ワタシが……?」

「うん。だってあなたは、ずっと辛そうにしてるんだもの。狂気でごまかしてるけど、ずっと悲しそうに見える。あなたは本当は」

「やめて!」

 魔女がキッと睨んできて、いきなり平手が飛んできた。しかし、アリーはかわすことなく、されるがままに頬を打たれた。

 頬がじんわりと熱いが、アリーはすぐに魔女を見つめ、また口を開こうとする。

 だが、それよりも早く、魔女が喚くように言った。

「それ以上、言わないで! わかったような口を、利かないで!」

 悲痛な響きを持つ声にも、アリーは耳を貸さなかった。

「復讐なんてしたくない。そう、思ってるんじゃないの?」

「違う!」

 魔女が大声で怒鳴り、もう一度平手が飛んできた。

 激しい音が鳴り、アリーの唇の端から、血が流れる。さっきよりもずっと頬が熱いが、それに耐えながら、アリーは魔女を見つめた。

「復讐したいに決まってる! 復讐しないといけないの! ワタシは、この国を滅ぼして」

 勢いのあった言葉が不意に途切れ、魔女は口を閉ざして俯いた。

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