7-2
どれだけの時間、そうしていただろうか。
気持ちがちょっとだけ落ち着き、アリーはラインハルトから離れた。
「ケガ、してるね。大丈夫?」
涙を拭いながら、アリーは言った。
アリーの体を抱き寄せる時に、ラインハルトがぎこちなく右腕を動かしたのを、アリーは何となく気づいていた。
「大丈夫だよ。ちょっと、強く打っただけだから」
腕を上げようとしたラインハルトが、痛みのせいか顔をしかめる。多分、ケガの度合いは相当悪い。
「無理しちゃダメだよ。ちょっと待ってて」
アリーはラインハルトの右肩に手を置き、頭の中で傷を癒す力を思い浮かべた。再び力の流れを感じ、次の瞬間にはラインハルトの右肩は眩い光に包まれていた。
唖然としたラインハルトが、光が消えた途端に驚きの声を上げる。右肩をゆっくりと振り上げ、目をぱちくりさせながら何度か腕を回して見せた。
「痛みが、なくなっている……? 何が起きたんだ、アリー?」
「傷を癒す魔法、なのかな。初めて使ったから、うまくいってよかった」
「魔法、か……。本当に、不思議な力だ」
驚いた顔のまま、ラインハルトは自分の右肩を見つめていた。
アリーは、ほんのちょっとだけ救われた気持ちになった。たくさんの命を奪った魔法が、今は大切な人を癒す力となって役立ってくれた。たったそれだけでは辛い思いを掻き消すことなどできないが、今のアリーには十分すぎるほどの慰めだ。
何とかして癒しの力だけを発現できれば、少しは生きる意味も見つけられるのではないか。ふとそう思い立ち、アリーは自分に希望を見出そうとした。
しかしその思いも、不意に聞こえた声が掻き消した。
――それは、使わないほうがいいよ。
いつの間にか隣に寄り添っていた見慣れない少女が、悲しげに呟いた。
ハッとして隣を見た時には、もうその少女の姿はどこにもなかった。
どういう意味なのか考えようとしたが、アリーはすぐにやめた。正確には、やめざるを得なかった。
「アリー、イデアルに乗って」
ラインハルトの静かながらも切迫した声に、アリーは迷わず従った。その理由は、遠くで聞こえる音で何となくわかる。
イデアルに乗ると、ラインハルトがすぐさま馬腹を蹴った。イデアルがいななき、猛然と駆け始める。
振り返ると、五、六人の騎士が剣を抜いて馬を走らせているのが見えた。
馬に差があるのか、追手との距離はどんどん開いていく。騎士たちが何事かを叫んでいるようだが、ごうごうと立つ風の音に掻き消され、よく聞き取れない。
その代わりに、聞き慣れてしまった不気味な声が、アリーの耳に届いた。
――どうして逃げるの? あの程度の追手なんか、簡単に殺してしまえるのに。
冷たく言い放つ声の主が、アリーの視界の端に映る。アリーより多分年上の、少し背が高い少女。先程見えた少女とよく似ているが、どことなく雰囲気が違う。
魔女。禍々しいまでの気配が、彼女がそうだと告げていた。
どうやら、その姿はもうはっきりと見えるようになってしまったらしい。イデアルがどれだけ早く駆けようが、魔女はまるでアリーの影であるかのように、ぴたりとついて来る。
魔女の声に、アリーは意識が揺れるのを感じた。冷たい憎悪が、胸の奥からせりあがって来る。それを、アリーは何とか堪え続けた。
「アリー?」
異変に気付いたのか、ラインハルトが心配そうな声をかけてくる。しかし、その声もどこか遠い。
ふと視界に闇が広がり、アリーの意識はその中に溶けた。
アリーが気づいた時、目の前には真っ白な空間が広がっていた。そこに、さっきの少女が右の口角を釣り上げ、目を見開きながらこちらを見ていた。
「あなたが、ずっと前の私なんだよね。大昔の、魔女」
「そうだよ。ワタシは魔女で、アナタ自身。アナタは、ワタシがこの世に再び現れるための、ただの入れ物」
魔女が、ゆっくりと歩み寄って来る。
「耐えなくていいんだよ、アリー。ワタシに身を任せてくれれば、アナタはこの苦痛から逃れられる」
「本当に?」
「本当だよ。ワタシが、全部失くしてあげる。ワタシが、こんな汚い人たちを、醜い国を、消し去ってあげる」
はっきりとアリーに届いた冷たい声は、どこか寂しさのようなものを感じさせた。
一歩、また一歩と距離が縮まって来る。あと数歩で、手が触れ合う距離になるだろう。
「聞いて、いいかな。あなたは本当に、この国を滅ぼすつもりなの?」
その手が届く前に、アリーは恐る恐る聞いた。
「当たり前じゃない。アイツラが、ミンナに何をしたのか、アナタにもわかるでしょ? 自分たちだけのために、大切な人をたくさん奪って、今ものうのうと生きてる。そんなの、絶対に許せない」
魔女が立ち止まり、高々と狂気に満ちた笑い声をあげ、恨み言を吐き出していく。この国の醜さ、汚さ、卑劣さを論っていく。
アリーはそれを、ぼんやりと聞いていた。
喪失の記憶が脳裏へと鮮明に浮かび、魔女の心が闇に閉ざされた理由を、アリーは噛みしめるように思い返す。確かに魔女の言うとおり、この国はとても表に出せない醜いものを、内に抱えている。それをなかったことにしている国そのものを滅ぼしてしまいたくなる気持ちも、わからなくはない。
しかし、アリーは鮮明になった記憶の中で、気になったことがあった。
「あなたの言うとおり、許せないことかもしれないね。だからこそ、一つ聞かせて?」
「なあに?」
魔女の、冷たい瞳がぎょろりと向いてはアリーを見据える。
一瞬、アリーは言い淀んだ。それでも勇気を振り絞り、記憶の中の、優しい顔をしたまま死んでいった男の顔を思い浮かべながら、アリーは思い切って問いかけた。
「大切な人は、あなたがずっと恨み続けて復讐してくれることを、本当に望んでいるの?」
アリーの問いかけに、束の間、魔女が言葉を失った。
しかし、すぐに怒声が飛んでくる。
「望んでるに決まってる! あの人は、自分の夢を踏みにじられたんだ! そんなの、許すはずがない!」
「そうかもしれない。でもそれは、あなたの気持ちだよ」
「うるさい!」
魔女がずかずかと歩み寄り、アリーの頬を一度、思い切り引っぱたいた。
じんわりと熱い頬を押さえながら、アリーは魔女を見る。怒りと悲しみがないまぜになった瞳と、目が合った。
「アナタに何がわかる! ワタシが、どんな思いであの人の最期を見ていたのか、わかってたまるか!」
「ううん」
アリーは、首を横に振った。
「私は、あなただもの。あなたの気持ちは、私なりに理解してるつもりだよ」
そう返すと、魔女は声に詰まり、苛立たしそうにアリーに背を向けた。その背が、すぐに霧のようなものに包まれ、消えていく。
「……わかるはずないよ。わたしが、どんなに苦しんだかなんて」
そっと囁くように告がれた声は、不思議とほんの少しだけ、声音が違って聞こえた。
待って。その言葉を出そうとした刹那、アリーの意識は唐突に揺らいだ。視界が、また暗転する。
目が覚めると、アリーは木の幹に背を預けて座っていた。空を見上げると、日はとっくにお昼時を過ぎていた。
「よかった。目が覚めたんだね、アリー」
周囲をきょろきょろと見渡しているアリーに、ラインハルトが優しく声をかけてきた。
「あれ。私、どうしたんだっけ?」
「君は、突然意識を失ったんだ。心配したよ。顔色が、とても真っ青だったから」
ラインハルトが言いながら、水が入った木のお椀を差し出してきた。思えば口の中はからっからに乾いていて、アリーはその水をゆっくりと流し込むようにして飲んだ。
アリーは立ち上がり、一度周囲を見渡した。追われている気配は、感じない。
「追っ手を撒いてから結構経つけど、まだ大丈夫みたいだ。一応、街道からは逸れて走っている。もう少し休む余裕はあると思うよ」
アリーの気持ちを見透かしたように、ラインハルトが言った。
本当は、その言葉に甘えて休みたかった。しかし、アリーは首を横に振り、イデアルの傍に歩いていく。
「大丈夫だよ。もう、十分休んだから」
それよりも、とアリーは少し首を傾げながら言った。
「どこへ、向かうつもりなの? どこか、当てがあるの?」
「当てがあるわけじゃない。だけど、僕はこれしかないと思っている」
ラインハルトがゆっくりと歩み寄り、地図を広げてある一点を指さす。
国境。指し示されたその場所の意味を悟り、アリーは少し困惑しながらラインハルトの顔を見た。
「国の外へ、逃げるしかない。君が安全に生きるには、多分これしか道はない」
「でも、誰もいないよ。私を知ってる人は、誰もいないんだよ? それでも私は、生きていられるの?」
「生きさせるさ。僕も、君と一緒に行くから」
迷いなく言うラインハルトに、アリーは眼を大きく見開いて驚いた。声も、奥に引っ込んでしまったかのように、一瞬出なかった。
ラインハルトは、本気だ。それは、アリーを見つめるまっすぐな眼差しだけでもよくわかる。その場の勢いで、言ったわけではない。
それでもアリーはほんの少しためらったが、その抵抗もすぐに折れた。
小さく頷くと、ラインハルトも頷き返す。イデアルにすぐさま乗り、アリーはラインハルトに任せるまま、国境を目指した。
休んでいた場所から、ずっと北にひた走り、五日後には国境の近くまで来れた。
追手は、虱潰しに周辺を探索しているからか、一度も捕捉されなかった。時々、旅の商人に姿を見られたが、ラインハルトは兜をつけ、アリーはフードを深く被ることで、顔を知られることは避けた。
国境の傍に着くと、アリーはイデアルから降りた。
小さな木の看板が立っていて、そこを越えると、もうこの国の外へ出ることになる。
国境の先は、ずっと変わらない草原が広がっている。国境という括りで隔てることがちっぽけに思えるほど、目に映る緑はどこまでも続いている。
ふと寂しい思いに駆られ、アリーは振り返って遠くを見た。様々な思いが去来して、涙がうっすらと滲んだ。
「アリー」
ラインハルトに呼びかけられ、アリーは声の方に目を向けた。既に国境を跨いだラインハルトが、イデアルの上で手招きしている。
頷き、ラインハルトを小走りで追いかけ、アリーもまた国境を跨いだ。
瞬間、体が焼けるような激痛が走り、アリーはうずくまった。
ラインハルトが、慌てたような声を上げている。しかしそれも、耳に響いた別の声が掻き消した。
「逃がさない」
冷たい声が頭の中で反響し、ひんやりとした手が、アリーの首を背後からそっと掴んだ。
何とかアリーが振り返ると、魔女の冷たい瞳と目が合った。
「アナタは、ワタシのモノ。アナタの魔力も、ワタシのモノ。魔力を持つ人は、誰だろうと逃がさない」
首を掴む力が、徐々に強くなってくる。振り解こうにも激しい痛みが邪魔をして、アリーはふらふらと歩くのが精いっぱいだった。
やがて、国の中に戻ると、襲い掛かってきた異変は消えた。魔女の姿も、もう見えない。
息苦しさから解放され、アリーは何度か咳き込み、荒い息を吐いた。ぺたりとその場に座り込み、膝を抱えて顔を伏せる。
「どうしたんだ、アリー!?」
ラインハルトがイデアルから飛び降り、駆けつけて来る。
「ダメみたい、なんだ」
顔を伏せたまま、アリーはぽつりと言った。
「魔女が、追って来るの。私はもう、この国から出られない。この国に、いるしかないんだよ」
「そんな……」
愕然としているような、ラインハルトの声。二の句は、いくら待っても告がれることはなかった。




