7-3
灰色の空が、頭上に重く垂れこめている。
時折強く風が吹くが、流れがわからないほどに雲は空を埋め尽くしている。それでも黒ずんだものは見えず、雨はまだ降らなそうだが、沈みがちの気持ちをさらに沈ませるには十分すぎるだろう。
王城内の中央にある庭園に足を運んでいたライオット・グランツは、小さく、誰にも気づかれないくらいに小さく溜息を吐いた。
「まさか、私の代で本物と対峙せねばならぬとはな」
呟き、今一度溜息を吐く。いつもならば思考の全てを胸の内にて吐き出すものだが、今日に限っては不思議と口に出してしまいたくなった。気持ちを落ち込ませる空が、そんな気分にさせたのかもしれない。
ライオットの胸中には、先ほど王から前もって告げられた事柄がある。それは、グランツの一族が背負ってきた使命と切っても切れない関係にある、重大な秘事でもあった。
「魔女、か」
呟き、ライオットは空を見上げる。気持ちまでも曇らせる一面の灰色が、この時ばかりは気になって仕方がない。自身の心を沈ませているからか、ライオットはこの空模様に微かな怒りに似たものを感じていた。
魔女が現れた。なり損ないではない、本物の魔女だ。王からの報せは、それだけだった。それだけだったが、ライオットには十分すぎた。
呪われた存在。魔女を一言で表せば、そう言った感じだろうか。この国を呪い、自身さえも呪われつくした、憐れな存在。客観的ではあるが、ライオットにはそのようにしか思えなかった。
グランツ家に課せられた使命は、その魔女を追い、どうにかすること。遥か昔の先祖が遺した使命を果たすために、今も尚命がけで追い続けている。
その使命のために、若くして命を落とした当主も少なくはない。魔女が呪われているように、グランツ家の当主も呪いを受けていると言っても過言ではない。肉体的にもそうだが、断ち切ることの許されない使命そのものが、代々の当主からすれば呪いに等しかったのだろう。現にライオットの祖父も父も、使命に尽くしながらも、少なからず不満を抱いていた節があった。
ライオットは、課せられた使命を忌まわしい呪いと感じたことは、これまで一度もなかった。為すべきことを為すのみ。ただその一念が、ライオットの心を支え、突き動かしてきた。
しかし、今日は違った。いや、正確にはここ最近、と言うべきか。魔女が誰かを知ってしまった時、ライオットは初めてこの使命に嫌悪感を覚えてしまった。それを打ち消そうにも、あらゆる想念が邪魔をして、一度抱いたものは簡単には消えなかった。
とはいえ、ライオットは己が使命がどれだけ大切なものかも、痛いほど理解している。自身の中でせめぎ合う二つの意志が、これまで不動とも言えたライオットの心を揺り動かし、底知れぬ気疲れを感じさせていた。
「どうかしている」
自嘲気味に笑い、吐き捨てるように呟いた。
「何がですの?」
不意に少女の高い声が後ろからかけられ、ライオットは目を見開いて声の方へと勢いよく顔を向けた。
転瞬、悲鳴にも似た小さな声が、短く上がる。
そこには、目を丸くしながら口元を手で覆い隠したこの国の王女が立っていた。ライオットの反応に怯えてしまったのか、体が微かに震えている。
「ご無礼を、王女様」
すぐに跪き、ライオットは頭を下げる。常ならば微かな気配さえも感じ取るのだが、今日に限っては戦闘の心得など皆無である女子に、背後を取られても気づかなかった。
――本当に、どうかしている。
口の中で呟き、胸の内で苦々しく笑った。
「い、いいえ。気にしてませんわ。わたくしこそ、考え事のお邪魔をして申し訳ないですの」
怯えた表情はすぐに消え、王女クリスティーナは次にしょげたような顔を見せて言った。
クリスティーナに過失などない。寧ろ、威嚇するような態度を見せたライオットに、全ての非がある。こういう場合に自分が悪いような態度を見せるのは、相手にいい顔をするといった下心か、自身の良心に素直であるかのどちらかだろう。クリスティーナの場合は後者であり、表情と言葉からは一切の下心は感じられない。
どこか調子が狂う。まだたった一言二言しか言葉を交わしていないのに、ライオットはもう一度口の中で苦笑した。
「いえ、ただ気を紛らわせていただけなので、お気遣いは無用にございます」
「そうですの? でも意外ですわ。お義父さまにも、そういう時がございますのね」
頬をほんのり赤く染めながら、クリスティーナははにかんだ笑みを浮かべた。
お義父様と呼ばれて、ライオットは苦笑しそうになるのを辛うじて堪えた。王がグランツ家を王家に縛り付けるために、一人息子のラインハルトと婚姻の約定を交わさせたとはいえ、まだ正式に夫婦になったわけではない。一応公のことにはなっているものの、まだ正式に婚礼の儀を済ませたわけではなく、今の段階では迂闊なことをしていらざる事象が起きないとも限らない。
王家に仕える者は、誰もが権力を欲している。もしくは、誰かを陥れようと画策している。誰も彼も、立身への欲望に浅ましいほど忠実だから、王女が不用意にグランツ家に肩入れすることは、いらぬ嫉妬の種となりかねない。
立ち上がり、少し顔をしかめながら、ライオットは口を開く。
「王女様、まだ倅との婚儀は済んでおりませぬ。今からそのように仰せになっては、陛下が苦い顔をしますぞ」
「ううっ……。わ、わかってますの。ただ、言ってみたかっただけですわ」
頬を膨らませ、ちょっと拗ねたようにクリスティーナは言った。
その様子に、ライオットは苦笑を堪えることができなかった。とはいえ、嫌な気持ちを抱いたわけではない。感情に素直なその表現は、差別や欲望で汚れたこの国には珍しく、美しく尊いものだ。ただ、汚れたものに囲まれて生きているライオットからすれば、クリスティーナはあまりにも眩しすぎる。
ライオットの表情に気づいたクリスティーナが、尚も頬を膨らませる。やはりその素直さは、見ていて辛くなるほどに眩しい。
「……しかし、倅も幸せ者ですな。あなた様のようなお方に、こうも慕って頂けるとは」
表情を改め、王女の機嫌を取り繕おうとしてそう口にしたが、それは失敗だった、とライオットは言ってから気づいた。
「逆ですわ! わたくしの方こそ、ラインハルト様の妻になれて、この上ない幸せなんですの!」
先の不機嫌はどこへ行ったのか、パッと満面の笑みを浮かべたクリスティーナが、声を大にして言った。
またか、とライオットは咄嗟に周囲に気を配る。幸い、目につくところには誰もなく、近場に気配も感じられない。クリスティーナを窘めようと表情を曇らせてみたのだが、しかしそれでも彼女は笑みを浮かべたまま言葉を続けてくる。
「ラインハルト様は、本当に素敵な方ですのよ。いっつもこの国のために頑張ってらして、誰よりも民のことを考えておりますわ。ご自身のことなど、二の次にしてしまうほどに」
「倅は若いですからな。人に少しでも認められるには、誰よりも努力する必要があります。あれも、大衆に認められようと躍起なのでしょう」
「十分認められてると思いますけれど、それでも驕らない姿は、本当に素敵ですわ。ラインハルト様なら、この国をしっかり守って下さいますわ。いっつも一生懸命に、国に尽くして下さってるもの」
「……そうですな」
窘めようと思っていたが、クリスティーナの言葉に、ライオットは思わず思考を切り替えざるを得なかった。
国のために尽くす。ラインハルトは確かに日々をそう励んでいたが、何を望んでいるのかは、おそらくクリスティーナと自分が考えるものでは異なるだろう。国の平和を守る。クリスティーナはそう思っているだろうが、ライオットにはラインハルトの真の望みが、はっきりと見えている。
国の変革。国の在り方に疑問を、不満を持つが故に抱いた、不安定な思想である。今はまだ何の方策も未来の絵図も描けていないだろうが、ラインハルトはその方法を見出すために国に尽くし、いずれ倒す時の糧にしようとしている。
ライオットとて、実はその気持ちがないわけではない。自身に課せられた使命は、この歪んだ差別が生み出したものと言っても過言ではないからだ。国がもっと平和であったならば、グランツ家が命を懸けて魔女を追う必要などなかった。
だが、ライオットは抗うことはしない。抗えば抗うだけ、ある苦しみが増えてしまうことを、ライオットは理解していた。
「しかし、父親は疎か王女様にさえ手紙の一つも寄こさぬ愚息など、そう褒められるべきではありませんな」
思ったことの全てを胸の内に秘め、ライオットは苦笑を交えてそう口にした。元々表情が硬いのと、本音を包み隠して話すのは、王に仕えることで慣れきってしまっていた。
「そ、そんなことは、なくはないですけれど……。でもでも、だからといってあまり酷いことを言わないでほしいですわ」
何の報せもないことに多少なりとも不満はあったようだが、それでもクリスティーナはラインハルトを庇うようなことを口にした。と言っても、その声は自信がないのか、あまりにも弱弱しく、小さい。
ライオットは失礼、と一度頭を下げた。そして、クリスティーナの見えないところでもう一度苦笑する。あまりにもまっすぐすぎるこの王女は、やはり眩しすぎた。
「今頃、どうなさっているのでしょう? ラインハルト様、無理をなさっていないといいのですけれど……」
少し不安そうな顔をクリスティーナはしたが、ライオットは何も返さなかった。
ラインハルトは、今魔女と共にいる。それはライオットだけが知ることであり、誰にも、王にさえ明かしていない秘事であった。尤も、人を放って情報を得たのではない。ラインハルトと共に旅に出た少女が魔女だった。それだけのことに過ぎない。
少女のことをラインハルトは隠していたようだが、ライオットはそのことを当然のように知っていた。
銀の髪を持つ、異色の混血児。それは宛ら、古の巫女そのものだ。先祖から伝え聞いた話は、嘘を語ってはいなかった。
――尤も、誰に言っても、そのことは理解されまい。
今の時代になって、果たして巫女について知る者はどれほどいようか。この国が覆い隠し、なかったことにした災厄の主について、果たして知ろうと思う者はいるのだろうか。
「魔女という恐ろしい人がいらっしゃると聞きましたから、尚更心配ですわ……」
「何と……?」
思いがけない人からその単語を聞き、ライオットは想念を放り出して、思わず聞き返していた。
クリスティーナの不安げな瞳と、自分の見開かれたそれが、束の間交じり合った。
「王女様、誰からそのことをお聞きになりました?」
「えっ? ええとそれは、お父さまからですけれど……」
ライオットの語気が強かったからか、クリスティーナは少し怯えながら言った。
また同じことをしてしまった、と一瞬思わないでもなかったが、ライオットは気にしている余裕がなかった。
「陛下は、何と仰せになられました?」
「確か、お母さまやお姉さまが苦しんでいるのは、魔女の呪いのせいだと言われました。魔女が目覚めた今、忌まわしき呪いのために、いつ殺されてもおかしくないとも」
クリスティーナが、不安と悲しみを満面に湛えて言った。
ライオットは、尚も表情を強張らせた。将軍たちを招集することで薄々感づいていたが、王はもう、魔女のことを隠す気がなくなっているらしい。全力で魔女を捕え、殺す気でいる。ライオットが背負うグランツ家の使命など、端からないものと思っているのかもしれない。
「魔女の呪い、ですか。確かに、その話が本当ならば、見過ごすことはできないでしょうな」
腸が煮えくり返りそうになるのを堪えながら、ライオットは声だけは努めて平静を装った。いつもの抑揚のない声は、意識すれば容易に出せる。
「本当ですの。魔女がどんな方かは知りませんけど、何も関係がないわたくしの家族をいたぶるなんてあんまりですわ! お母さまもお姉さまもとてもお優しい方なのに、どうしてこんなひどい仕打ちを受けなくてはなりませんの!?」
少し興奮したのか、突っかかってきたクリスティーナだったが、すぐに自分の荒い言葉に気づいたようだ。素早く一歩飛び退き、クリスティーナは顔を少し青くしながら俯いた。
ごめんなさい。俯きがちのその顔から、か細い声が返って来た。ライオットは言葉を返さず、ただ頷いた。
「……ねえ、ライオット様。どうして、魔女はこの国におりますの? どうして、たくさんの人を苦しめますの?」
クリスティーナの疑問に、ライオットは答えない。いや、答えられなかった。ライオットは、大昔に何が起きたのかを、ちらとだが知っている。魔女が何を望み、そのためにしでかしたことも、微かに知っている。だがそれは、この国を善と信じている純粋無垢な王女には、信じがたいもののはずだ。
「王女様、魔女がお嫌いですか」
「えっ? え、ええ」
意図していない言葉が返ってきたからか、クリスティーナは動揺しながらも頷いた。
困惑しているクリスティーナをまっすぐ見つめながら、ライオットは尚も続ける。
「何ゆえです?」
「それはもちろん、お母さまやお姉さまを苦しめる、とても悪い方だからですわ」
「成程。それだけでも、確かに十分ですな」
ならば、とライオットは一度言葉を切り、表情を引き締めてから二の句を継いだ。
「魔女が何か、あなた様は知っておいた方がいいのかもしれない」
きょとんとしたつぶらな瞳が、まっすぐにこちらを見つめてくる。
自分は何を言おうとしているのだ、と思ったが、ライオットは言葉を止めることができなかった。




