6-6
少しの休憩を挟み、アリーとラインハルトは再びイデアルに先を急がせた。
あてはない。けれども、ひとまず北へ北へと向かった。地図の上では大きめの川が流れていて、いくらか行けば見えてくるはずである。川を渡ってしまえば、少しは追跡の目を晦ませられる。
川を目指している間、ラインハルトが街で耳にした話を聞かせてくれた。
「私が、そんなに大切なものを持っているの?」
馬上で揺られながら、アリーはきょとんとしながら聞いた。
「うん。都市の騎士は、君が国家に関わるものを持っていると言っていた。あんなに騎士を動員するくらいだ。余程大事なものなんだろう」
自分の持ち物で、そんなに大事なものがあっただろうか、とアリーは束の間考えた。今、手元にあるのは、三冊の本と自分の衣服などの雑貨ばかりである。気にかかるのは、本くらいだろうか。
アリーは、抱いたままだった袋をそっと覗き込む。
自分の日記と名無しの本、そして魔女の書。
――魔女の書、なのかな。
国に語られることがない魔女。それについて記されたこの本が、もしかしたらそうなのかもしれない。
でも、それは少しおかしな話だ。仮に魔女の書がそうなのだとしたら、国が厳重に管理しているはずである。もしも紛失して探させるならば、もっと多くの騎士を国が動員するはずだ。なのに、一将軍の大隊のみが隠密裏に探しているとは、なかなか筋が通らない。
「ごめんね。わからないや」
考えてみても答えが出なくて、アリーは首を傾げながら言った。
振り返ったラインハルトの横顔が、難しいものを浮かべている。けれどそれも束の間で、一度溜息をつくと、ラインハルトは困ったような顔をした。
「八方塞がり、かな。これじゃあ、先生に真意を尋ねることもできない」
「先生?」
「うん。レヴィア先生は、僕の剣の師匠なんだ。凄腕の魔族の剣士で、部下からの信任も厚い人でね。僕も尊敬しているんだ」
だけど、とラインハルトが困惑気味に続ける。
「今ばかりは、信用しちゃいけない気がするんだ。迂闊に近寄ってしまえば、僕は君を危険に晒してしまうかもしれない」
「その人が、自分だけで部隊を動かしてるから?」
「そう。先生が独断でこんなことをするなんて、余程のことだ。見つかって捕まったら、本当にどうなるかわからない」
ラインハルトの言葉に、アリーはどことなく不安になって俯いた。
気づいたラインハルトが、少し慌てた素振りを見せる。
「し、心配しないで、アリー。僕が、そんなことにはさせないから。必ず、何とかするから」
それは何の根拠もない言葉だったが、アリーはただ頷いて見せた。ラインハルトがそう思ってくれているのは、言葉の端々ににじみ出る誠意でわかる。
アリーは、もう一度袋の中に目を落とした。やはり、中身は変わりがない。
「あっ」
袋を見ていて思い出したことがあって、アリーは小さく声を上げた。
「どうかした? もしかして、何か思い当たることが?」
緊張した面持ちのラインハルトに、アリーは顔を横に振った。
「ううん、違うの。逃げるのに夢中で、ラインハルトの荷物を、宿屋に置いてきちゃった。ごめんね、自分のはちゃんと持ってたのに」
伏し目がちに言うと、ラインハルトが困ったように笑った。
「仕方ないさ、あの状況だから。それに、お金とか大切なものは手元に置いてあるから、とりあえずは凌げるよ」
優しく言ってくれるのが逆に申し訳なくて、アリーはごめんね、ともう一度呟き、顔を俯けた。
ラインハルトも言葉に困ったのか、口を噤んでしまった。
しばらく、沈黙が続く。馬蹄の響きと風の音が、より一層大きく聞こえた。
その音の中に、声のようなものが混じる。
――どこまで行っても、逃がさない。
冷たい響きを持つその不気味な声に、アリーは思わず顔を上げた。
恐る恐る左右を見るも、声の主らしき人はいない。着いて来ているのは、いつの間にか夕日になった太陽に照らされた、自分たちの影ばかりだ。
ぼんやりと足元に視線を落としていたら、その自分の影がこちらを向き、不気味な笑みを浮かべたように見えた。
アリーは驚き、目を強く瞑った。影が、自分を見ることなどありえない。ましてや、表情ができるはずがない。
そう強く言い聞かせて、再び目を開く。アリーの影は、彼女の動きを真似て着いて来るばかりだ。おかしいところは、何もない。
それでも怖くなって、アリーはラインハルトの鎧をぎゅっと掴んで寄りかかった。ラインハルトが驚いたような声を上げたが、アリーは構わず体を預けた。
「……大丈夫?」
体の震えを感じ取ったのか、少しの間を置いてから、ラインハルトが心配そうに声をかけてきた。
「……ごめん、大丈夫じゃないよね。でも、もう少しだけ辛抱してほしい。川までもう少しだから、そこで休もう。そうしたら、落ち着けるかもしれない」
「う、うん、わかった」
さすがに、今見たものを悟ってのことではないだろうが、ラインハルトの気遣いがアリーは嬉しかった。
ラインハルトが馬腹を蹴り、イデアルが少し速さを上げる。
やがて、川が見えてきた。
「これは」
川の少し前でイデアルを止めたラインハルトが、絶句する。アリーも、呆然と川を眺めていた。
地図の上では少し広い川のように思えたが、実際のものは相当に広かった。対岸が、小さく霞んで見える。流れも、少し速い。
そして、あるはずの橋がかかっていなかった。
何かがあって流されてしまったのか、壊れてしまったのかはわからない。ただ、橋がかかっていた形跡だけが、この場に残っているだけだ。橋は、近場だけを残して姿を消してしまっている。
「まずいな……。今から迂回するわけにはいかないし、かといって、この時間に無理やり川を渡るのは危険すぎる」
空を見上げながら、ラインハルトが言った。
夕日は山の端に沈み始め、遠くの空は宵闇の色に染められつつある。もうじき、この辺りも暗がりが覆うだろう。晴れている空の上で星々が光を放ったとしても、足元さえ見るのも覚束なくなる。
それに、イデアルがいくら駿馬であると言っても、今日は大分駆けさせている。小休止を挟んでいるとはいえ、大分疲れているに違いなかった。
不意に、遠くで音が聞こえた気がした。交易都市を去ってからも、アリーの耳は不思議と良く聞こえるままだ。
音がした方に視線を向けると、暗がりに紛れて土煙が上がっているのが微かに見えた。追手と思われる騎兵。十騎ぐらいが、猛然と駆けているように思える。
「ラインハルト」
アリーの声に、ラインハルトが振り返る。ラインハルトも追手の姿を認めたのか、小さく呻き声を上げた。
迷っている時間は、もうなくなった。けれども、選ぶべき選択肢は、どちらをとっても厳しいものだ。
「どうしよう」
呟くような、か細い声でアリーは言った。
「……仕方ない、迂回しよう」
ラインハルトが苦り切った顔で言い、イデアルの馬首を変えようとする。
瞬間、イデアルが前足を高々と上げ、いなないた。ラインハルトとアリーが呆気に取られる暇もなく、イデアルは川目がけて疾駆を始める。
「い、イデアル!?」
ラインハルトが驚きながらも手綱を引こうとするが、イデアルは拒絶するかのように顔を大きく横に振って、川の中へと飛び込んだ。
飛沫が上がり、束の間雨のように降り注ぐ。水はまだちょっと冷たかったが、イデアルは構わず進み続けていた。
時折流れに呑まれそうになるのを堪えながら、イデアルは必死に泳いでいる。相当疲れているはずなのに、水をかき分ける足は一向に緩めたりはしない。
こうなってしまっては、もう腹を括るしかなかった。ラインハルトも制止するのを諦め、イデアルに気を配っていく。
「頑張って、イデアル」
そっと声をかけ、アリーはイデアルの背を優しく撫でた。
川の真中を過ぎた頃、アリーがそっと振り返ってみると、先程の岸に騎兵が馬を止め、何かを放つような仕草をしているのが見えた。
勢い良く、何かがいくつも飛来してくる。矢だ。一向に勢いが落ちることなく、それは迫り来る。
矢羽の唸り声を聞いたラインハルトが、剣を抜いてそれらを叩き落す。魔力が込められているのか、落とした矢がまた迫ってきたが、ラインハルトはその矢さえも斬り落とした。
その間にも、イデアルは休むことなく泳ぎ続ける。荒い息を吐きながらも、冷たい水を力強く駆けるように進んでいく。追手は諦めたのか、弓を引くのをやめ、立ち尽くしている。
やがて、対岸に辿り着いた。
陽は落ち、すっかり暗くなったが、幸いにも今日は月がきれいな夜だ。ぼんやりとだが、先が見える。
ラインハルトに促され、アリーはすぐにイデアルから降りた。それを見計らったように、イデアルが大きく身震いする。体中に纏わりついた水が、弾けるように勢いよく飛び出した。飛沫が月明かりに照らされ、きらきらと輝いては消えていく。
「無茶しすぎだぞ、イデアル。でも、よく頑張ったね」
イデアルの首を優しく抱きながら、ラインハルトが語りかける。しかしイデアルは首を横に振り、一歩二歩と先へと歩いては、振り返って二人を見てきた。
ハッとしたラインハルトが、苦笑しながらイデアルに近づき、跨る。アリーも、遅れないようにラインハルトに倣った。
「そうだね、イデアル。もう少し先に行かないと、安心できないな」
イデアルが、納得したように大きく頷き、ゆっくりと駆け始めた。
未だ残る水滴が風で流れ、夜気と混ざってよりひんやりしたものを感じさせた。




