6-5
物々しい気配で、アリーは目が覚めた。
気分がどうしようも悪くて、宿屋の一室に着いた途端に、アリーはベッドに倒れ込むようにして眠っていた。目が覚めた今はいくらか回復したものの、嫌な気分は続いていて、体調はちょっと優れない。
この都市に来てから、耳の奥で声が聞こえ始めたような気がする。心なしか、誰かに見られ続けているような感じもする。
それらが、アリーの気分を悪いものにさせていた。
思えば、石像から離れてからずっとだ。見つけた、どこに行くの、逃がさない。そんな言葉が、時折聞き取れた。
不気味な声のことは気になるが、今は他にも気にするものがあった。
「何だろう」
少しふらつく足取りで、アリーはゆっくりと廊下を歩いていく。
一階へ通じる階段に差し掛かった時、言い争いをしているような声が聞こえてきて、アリーは思わず足を止めた。
そっと、下を覗き込む。魔族の騎士と宿主である中年の男が、険しい顔をして言い合っている姿が辛うじて見えた。
「だから言ってるでしょう? 任務のために、少し中を改めさせてほしいって」
「ふざけるな! うちは何もやましいことはやっちゃいないし、変な客を泊めた覚えもない。騎士風情に、中を荒らされることは何もないんだよ!」
「わかってます。本当に、ただ改めるだけですから。一通り部屋を見て回ったら、帰りますので」
「わからん奴だな。お前たちがこの宿に踏み込んだだけで、変な噂が立ってうちの評判がガタ落ちになるんだ。そうなりゃ、俺はもうおしまいだ。そうなったら、どう責任を取るつもりだ!? お前みたいな能無しが、賠償してくれるとでも言うのか!?」
怒鳴り散らす宿主に対して、騎士は努めて平静を装っている。だが、握りしめられた拳がわなわなと震えているのを、アリーは見逃さなかった。
「……質問を、変えます。ここ最近の客で、フードを目深く被った少女がいませんでしたか?」
「おい、いきなりなんだ?」
宿主が、怒りで赤黒くなった顔を怪訝そうに歪めた。
だが、そんなことに気をとめる余裕が、アリーにはなくなった。
宿主が問われた瞬間、心臓が跳ね上がるように高鳴った。動悸が激しく、喉が詰まってしまったかのように息苦しい。
「いませんでしたか?」
繰り返される言葉に、妙な凄味がある。宿主も、一瞬たじろいでいる。
アリーは、何となく悟った。自分が、探されている。それも、悪い意味で。
どうして。理由を探そうにも、思考がうまく働かない。まだ頭が目覚めていないのか、それとも極度の緊張のためなのか、アリーには判断がつかなかった。
「そ、そうだな。確か、今日来た客にそれらしき人は、いたかもしれん」
「いるんだな」
語気が変わった騎士が、片手を上げる。待機していただろう他の騎士たちが、二人、三人と中に踏み込んできた。
「お、おい! 誰が改めていいと言った!」
「どけ。もう、問答の時間は終わったのだ」
さっきとは打って変わった荒さを見せながら、その騎士は宿主を突き飛ばして一階の中央に立った。うずくまる宿主を尻目に、整列する騎士たちを見てから、魔族の騎士が指示を下す。
「俺の隊のみで、中を改める。だが、くれぐれも丁寧にやれよ。荒らさないように、一部屋一部屋を静かに見て回れ」
「はっ!」
騎士たちが部屋の捜索を始める。アリーはそれをちらりと見ただけで、自分が泊まっている部屋にそっと逃げ込むようにして入った。
恐怖が、じわじわと這い上がってくるように、アリーを侵食していく。
麻の袋を抱きかかえ、アリーは部屋の隅でうずくまるように座った。袋を通して、体の震えが伝わってくる。自分の体をじかに抱きしめていたら、多分こんなものじゃすまない。
逃げないと。そう思ったが、どうしたらいいのかわからなかった。一階には降りられないし、他に出口はない。部屋には窓はあるが、二階から飛び降りて無事でいられるとは思えない。
袋に顔をうずめながら考えている間も、下の動きは着実に進んでいる。
不思議と、今は音が異常なくらいによく聞こえた。下の階で捜索する音、交わされる微かな会話、鎧が床を踏みしめる音まで、アリーの耳には鮮明に通る。
一階にはいない。これから、二階を見て回る。その声が確かに聞こえて、アリーは袋を強く抱きしめた。
どうしようもない恐怖が、さらに強く襲って来る。体の震えも、なお激しいものになっている。
――ラインハルトがいてくれたら。
きっと私を、守ってくれるのに。
そんな思いが頭の片隅に浮かんで、アリーはほんの少しだけ戸惑った。ラインハルトがいても、この状況はどうにもならないかもしれない。けれど、傍にいてさえくれれば、こんなに怯えることもない気がする。
自分でもよくわからない思いも、今は突き詰める余裕はない。
隣の部屋に、人が入っていく音がした。もう、見つかるのも時間の問題だ。
このままうずくまって、成り行きに任せようか。アリーは、何となくそう思って、目を閉じた。視界が真っ暗になると、尚更音がよく聞こえる。
「アリー」
暗がりの中、どこか遠くで自分の名が呼ばれた気がしたが、アリーは顔を上げなかった。自分を呼んでくれる人が、近くにいるはずがない。
けれどその声は、また聞こえた。
アリー。いくらかくぐもっているものの、自分を呼ぶ確かな声に、アリーははっとして立ち上がり、ゆっくりと窓辺へと歩いて行った。
恐る恐る、両開きの窓を開ける。
宿屋の前で、猛然と駆けてきた白馬が前足を上げていななき、止まった。唐突だったのか、不思議と近寄ろうとする者はいない。ひそと言葉を交わす人たちは宿屋から少し離れ、遠くから事の成り行きを見守っている。
アリーが窓から身を乗り出すと、束の間、二階を見上げる騎士と目が合った。
目があったというのは、少し語弊があるかもしれない。騎士は顔を覆い隠す冑を被っていて、その目さえはっきりとは見えない。けれど確かに、アリーは目が合ったと感じた。
「むっ。そこの者、こちらを向いて貰おうか」
後ろで扉が開く音と共に、男の低い声が聞こえてきた。恐る恐る振り返ると、驚いた騎士たちの目とアリーのそれが重なり合った。
魔族の騎士が、顔に緊張を漲らせる。
「やはり、いたな。さあ、おとなしく我々と来てもらおうか」
騎士たちが、じりじりと迫って来る。後ずさろうにも、もう窓辺にいる。逃げ場所はない。
どうすればいいのか迷ったアリーの耳に、刹那、切迫した声が届いた。
「飛び降りるんだ、アリー!」
声が聞こえた時には、アリーは無我夢中だった。窓の縁に足をかけ、ためらわずに飛び降りた。背中越しに聞いた騎士たちの慌てて追う足音も焦った声も、どこか遠いものだった。
ふんわりと風を纏い、妙な浮遊感を感じたのも束の間で、アリーの体はすぐに下へと引っ張られた。地面が、すごい勢いで近づいてくる。体を打つ風も、いつもより強い。
それも、ぴたりと止まった。代わりに感じたのは、優しく抱き止められた感触だけだ。
物語で王子様がお姫様を抱っこするように、白馬の騎士はアリーを受け止めてくれていた。
途端に、白馬がいなないては、猛然と駆け出す。どこかにいたのか、騎士たちがぞろぞろと湧いて出るように現れたが、白馬の足に追いつくはずもなく、怒声を浴びせてくるばかりだ。
都市の入り口が見えてくる。何人かの騎士が、剣を抜いて立ち塞がっていた。
白馬の騎士がアリーの体から右手を離し、手綱を握りしめる。しっかり掴まってて。囁くような騎士の声に、アリーは小さく頷いた。
その間にも、立ち塞がる騎士との距離は狭まっていく。あと五歩程度で、多分剣が届く。
刹那に過ぎるはずの時が、不思議とこの時はゆっくりに感じられた。一歩、二歩と瞬く間に進むはずの白馬の足が、しっかりと数えられるほどだ。
「イデアル!」
白馬の騎士が叫んだのと同時に、白馬――イデアルが高く飛び跳ねた。呆気に取られる騎士たちの頭上を軽やかに飛び越し、そのまま入口を駆け抜けた。
怒りにも似た声が追って来たが、それもすぐに遠ざかった。しかし、白馬の騎士はイデアルの足を緩めない。
しばらく、駆け続けた。都市の姿は、もうどこにも見えない。
白馬の騎士が、イデアルの足を止めた。促されるように、アリーはゆっくりと地に降り立つ。ずっと馬上で抱かれていたからか、足元は妙にふわふわしていた。
騎士も、軽やかにイデアルから降りては、冑を取った。見慣れた優しい顔が、心配そうな色を浮かべている。
「大丈夫かい、アリー?」
彼の優しい声に、アリーはただ頷いた。
ほっとしたのか、自然と涙が零れてくる。しかし、嫌な涙ではなくて、アリーは流れるままに任せた。
「来て、くれたんだね。ラインハルト」
アリーの言葉に、ラインハルトが当たり前だよ、と優しい声で返してくれる。
その声が、恐怖に震えていた心を穏やかにしてくれた。いや、ラインハルトが傍にいるだけで、アリーは心の底から安心するのを感じていた。
――どうしてなのかな。
ラインハルトと一緒にいると、とても幸せな気持ちになる。どんなに辛いことがあっても、苦しいことがあっても、乗り越えられる気がしてくる。
不意に、母の面影が脳裏に浮かんだ。父と寄り添い、幸せそうに微笑む、母の姿。その母の口が、ゆっくりと動く。あなたを、愛してる。
ぽつりと呟くように言っていた言葉だが、アリーはそれをはっきりと思い出した。
――ああ、そうか。
母の気持ちを思い返し、自分の気持ちの正体が何なのか、アリーは漸く理解した。
いや、本当は最初からわかっていたのかもしれない。ただ、それに気づくための心が、ほんの少しだけ頑なになっていたに過ぎない。
――私は、ラインハルトのことが。
誰よりも好きなんだ。
その想いを、口の中でそっと呟いた。
「大丈夫かい、アリー? 顔が赤いけど、まだ調子が良くないのか?」
心配そうに顔を覗き込むラインハルトに、アリーは首を横に振った。
「ううん、大丈夫。安心して、泣きすぎちゃっただけだよ」
できる限りの笑みを浮かべて、アリーは言った。
今なら、赤くなった顔もごまかせる。ラインハルトへの想いに気づいて火照った顔に手を当てながら、アリーはそっとそう思った。




