6-3
中央公園は、先程までの喧騒が嘘のように、ひっそりと静まり返っていた。
都市のありとあらゆるところに人の姿はひしめき合うようにあったのに、この公園には誰もいない。公園なのに子どものただ一人さえおらず、広々とした芝生の緑も、子どもが遊ぶための遊具も、時折吹きすさぶ風に吹かれ、寂しげに揺れるばかりだ。
その寂しげな光景に、丁度真ん中に置かれた石像が、不気味な色を書き足していた。
「これは……」
石像に近づき、ラインハルトが絶句した。
アリーは驚きのあまり、口を押えて思わず後ずさった。
気持ち丸みを帯びた体から、多分、石像は女性だと思われる。多分と言うのは、その石像にあるものがないからだ。
顔。まるで切り落とされたかのように、首から上が石像にはなかった。
確かに、それだけでも見ていて気分がいいものではない。だが、そこに拍車をかけるように、首の断面にはべっとりとした赤い液体が塗られていた。
首から、赤い雫が零れる。ぴちゃりと小さな音を立て、石像の足元を赤黒く染めた。液体は、まったく乾いていない。
少し眩暈がして、アリーは一、二歩、よろめいた。気づいたラインハルトが、体を支えてくれる。膝から崩れ落ちそうだったのを、アリーはそれで何とか堪えた。
「大丈夫?」
ラインハルトが心配そうに声をかけてきて、アリーは小さく頷いた。
恐る恐る、アリーは石像に目をやる。あまり見ていたくはなかったが、何故か気持ちを引いて、目を逸らせなかった。
生きている人間が、ついさっき首を刎ねられた。石像の有様は、そうとしか思えないような現実味を帯びている。その情景が頭に浮かんできそうで、アリーは目を逸らしてしまいたかった。
しかし、やはり石像から目が離せなかった。
――何だろう。何か、あったような。
頭の片隅によぎる、朧な情景。とても大切で、だけど二度と見たくない、その一瞬。
首を刎ねる。ふと思い浮かんだその言葉が、妙に引っかかった。
思い出そうとして思考を巡らせたら、途端に頭の中で激痛が走り、アリーは小さく呻いた。ラインハルトが、心配そうに顔を覗き込んでくる。アリーは、ちょっと石像にあてられただけだよ、と誤魔化すように返した。
よろよろと重い足取りで、アリーは石像に近づいた。ラインハルトの、困惑した声が背中を追って来る。それでも足は止めず、アリーは石像の間近まで行き、そっと胸元辺りに手を触れた。
視界が、一瞬白くなる。瞬きすると、次の瞬間には別の場所をアリーは見ていた。
巫女の記憶。もう、かれこれ三度目になる。さすがに、アリーはもう驚かなかった。
驚かなかったが、眼前に広がる光景に、アリーは愕然としていた。
燃え盛り、崩れ落ちる家々。えぐられたような大きな傷を見せる地面。そして、全身を真っ赤に染めながら倒れ伏す、無数の人々。
喚声が、近くで聞こえる。視線を少し右にずらすと、武器を持ったたくさんの人が、無抵抗の人々を襲っている姿が目に映った。
襲っているのは、魔族か。いや、それだけではない。人間族も、混ざっている。はっきりしているのは、襲われている人が人間だけということだ。
一人、また一人と剣が体を切り裂いていく。勢いよく噴出した鮮血が、体を、大地を、狂気に歪んだ殺戮者の顔を染めていく。
助けて、と命乞いする声は、誰にも届かない。それは断末魔と怒号に呑まれ、人知れず消えていく。
瞬きするのも忘れて、アリーは呆然とその光景を見ていた。喉の奥から、何かがせりあがってきそうな錯覚を覚え、余計に気分が悪かったが、それも不意に聞こえた声で一瞬掻き消された。
――これは見せしめだ。徹底的に殺し尽くせ。
冷たい響きを持った、女の憎しみに満ちた声。アリーはその方に目を向け、姿を見た途端にはっとした。
眩い銀色と燃えるような紅い色を併せ持つ髪と深紅の双眸を持つ一人の女性が、冷たい視線を逃げ惑う人々目掛けて、まっすぐ投げかけている。
その顔に、アリーは見覚えがあった。
「あれは、巫女様?」
呟き、アリーは自分の記憶と今見ている顔を照らし合わせる。つい先日垣間見た記憶の顔と、彼女のそれは酷似していた。
しかし、巫女は眩いほどの銀髪だった。今見ている彼女は、まるで鮮血を大いに吸ったかのように、前髪の辺りが紅い色をしている。そして何よりも、どこか大人びて見えた。
アリーが困惑している間も、殺戮は続いた。
やがて、その気配が遠くなると、その女性に一人の若い騎士が駆け寄ってきた。
――この都市にいた者たちは、ほとんど討ち果たしたそうだ、魔女殿。
顔を冑で覆った騎士が、半ばくぐもった声で言った。
魔女殿と呼ばれた女性が、そう、と興味なさそうに呟く。しかし瞳に宿った憎悪は、今も激しく燃え盛っている。
近くで呻き声が上がり、魔女がその方に顔を向ける。微かに身じろぎし、何とか立ち上がろうとしている人の姿が、そこにはあった。
しかしそれも、次の瞬間には姿を消した。
魔女が片手を上げ、その人が一瞬で炎に包まれたかと思えば、すぐに形を失った。炎は途端に消え、灰のひとかけらさえ、残っていない。
――ここだけじゃ、まだ足りない。この近くにある村も、このまま攻め落とせ。
魔女が、冷たく言い放つ。
騎士が頷き、大声で何かを命じて回る。すぐに多くの人たちが集まり、整然とこの場から去って行く。
一人残った魔女が、徐に空を見上げた。アリーも、つられるように視線を向ける。
空は、立ち上る黒煙で、くすんだ色をしていた。
――あなたはきっと、望んでないんだろうな。わたしがこんなことをするのを。
さっきとは打って変わった、悲しい響きが声にはあった。
――でも、ダメなんだ。わたしは、どうしてもこの国が許せない。許すわけには、いかないの。
呟くように言った魔女の瞳から、一粒の雫が零れ落ちた。
そこで、アリーの視界が白くなった。瞬きすると、もう元の場所に戻っている。
「おかしいな」
少し違和感を覚えて、アリーは小首を傾げながら誰にも聞こえないように呟いた。
記憶が、繋がらない。そんな気がした。魔女の書の通りに記憶が運ぶのならば、次に見るはずの記憶は、喪失のはずだ。
――でも、あれは。
魔女。そうとしか考えられなかった。
アリーが不思議に思っていると、ラインハルトが心配そうな顔をして肩を並べてきた。
「本当に、大丈夫? 顔、真っ青じゃないか」
「そう、なの?」
言われて、アリーは自分の顔に手をやる。生きているものと思えないほど、それは異様に冷たかった。
意識すると、どうしてか気分も悪くなってくる。アリーは、せりあがってくる苦いものを、何度か無理やり飲み下した。
ちょっと休みたい。アリーがそう思った時、不意に後ろから人の気配がして、アリーはちらりと振り返った。
少し離れたところで、長身で目が細い壮年の男が、意外そうな顔をしてこちらを見ていた。
「おや。これは珍しい」
男が、抑揚のない声で言った。
「誰も近寄ろうとしないこれの前に誰かいるかと思えば、君だったか、ラインハルト君」
「……フランドル卿」
ラインハルトが、少し苦い顔をしながら言った。
フランドル。ヨハネスと同じ姓だ、とアリーは思った。
「いやはや、実に久しぶりだね。ヨハネスの奴は元気かな? あの生意気な甥は、私にたった一通の手紙さえ寄こさないんだよ。まったく、礼儀というものを知らない奴だ。そんなだから、君に先を越されるというのにね」
君もそう思うだろう、とフランドル卿は嫌味っぽく言った。
ラインハルトは、何も答えない。ただただ、黙ってフランドル卿を睨むように見据えるばかりだ。
やれやれ、とフランドル卿が首を竦めて見せる。
「どうやら、私は君にも嫌われているようだ。何年か前に国の歴史を聞かせてあげた時は、もっと目を輝かせていたのに」
「時が経てば、人は変わるものですよ。フランドル卿」
冷たく言い放つラインハルトの声は、いつになく刺々しかった。
フランドル卿が、もう一度首を竦めて困ったような笑みを浮かべる。しかしそれが上辺だけであるのは、アリーには何となくわかった。
「ところで、君はここに何しに来たのかね? 一応、この都市の長として、石像に対しては過敏にならざるを得ないのだが」
横に小さく反った鼻の下の髭を手で弄びながら、フランドル卿が言った。
「ただ、この石像の話が気になって、ここに来ただけですよ。旅の途中とはいえ、僕だって騎士の端くれですから」
「ふむ、そうか」
言って、フランドル卿の青い目がちらりとアリーを見る。射抜くような、冷たい双眸。底知れぬ嫌悪感を感じ、アリーは思わずラインハルトの後ろに隠れた。
ラインハルトの影から、アリーはそっと顔を出す。フランドル卿は、もうアリーを見ていなかった。
「私としても、困っていてね。ただでさえ、この石像はよく思われない。それなのにこの有様じゃ、私の交易都市が余計に穢れてしまう」
「前々から思っていたのですが、この石像は何なのです? ヨハネスや他の誰に聞いても、明確に答えてくれる人はいない。口にすれば、怒鳴って拒否する人だっていた」
「これか? これはな、忌々しい過去の象徴だよ」
フランドル卿の顔が不快に歪み、苦々しそうに吐き捨てた。
「この都市はな、フランドル家に所縁のある者が代々治めてきた場所だ。都市を繁栄させ、交易を差配することで、誰よりもこの国に貢献してきたし、富をもたらせ続けた。だがね、一時それが途絶えてしまった。遠い昔に、魔女によって都市が滅ぼされたことでな」
フランドル卿の顔が、醜く歪む。眉間には皺が寄り、目は真っ赤になるほどに血走っていた。
「魔女?」
ラインハルトが、怪訝そうな顔で聞く。フランドル卿は険しい顔のまま、意外そうに小さく声を上げた。
「そうか、知らんのか。……いや、そうだったな。この国を脅かし、数多の殺戮を繰り返した災厄のことは、国が揉み消した歴史だったな」
「ま、待ってください。あなたは、何を言ってるのです? 国が、揉み消した歴史って」
「ふん。見えるものが全てではないということだよ、ラインハルト君。この国には、なかったことにされた歴史がある。語り継がれるべきではない、汚点がな」
呆然としているラインハルトに、フランドル卿が近寄り、ずいと顔を寄せた。
「この国はな、かつて大きな過ちを犯したのだ。魔族と手を携えるなどという、馬鹿げたことをな。そのために、災厄を呼び込むこととなり、結果として、真っ先に我が交易都市が標的にされたのだ」
フランドル卿の額に、青筋が立つ。一度、歯が強く擦れたような音が鳴った。
「繁栄を誇っていたこの都市は、多くの人間が殺戮され、建物は破壊し尽くされ、一夜にして死体と瓦礫の山が作られた。辛うじて生き残れた我らが先祖は憤り、激しい憎悪を燃やしたそうだ。やがて災厄が消え去ってから、先祖は都市の復興に着手した時、真っ先に魔女を模した石像を作らせ、その首を斬り落としては自分の子らにこう伝えた。魔女を許すな、末代まで恨み続けろ、とな」
ちらりと、フランドル卿がまたアリーを見た。あまりにも冷たいその視線がたまらなく嫌で、アリーはすぐにラインハルトの影に隠れた。
露骨に舌打ちしながら、フランドル卿が続ける。
「もうわかるだろう、ラインハルト君。この像は、その魔女の像なのだよ。この交易都市を使い物にならなくした、忌むべき化け物のな」
フランドル卿が徐に石像に近づき、忌々しそうに一度蹴る。鈍い音が、束の間響いた。
「この都市には、大昔の生き残りの子孫が案外いる。その者たちは、我らのように魔女への憎悪を燃やしているのだ。我らは憎悪を忘れないために、この首なし像を残し続けている。景観を損なうのと、引き換えにな」
「でも、おかしいじゃないですか。この都市の人の口に伝わっているのに、まったく表には出てこない。そんなことが、あるわけないじゃないですか」
「ふん。わかっていないのは君のほうだ。そんな汚点を、軽々しく晒せると思っているのか? 交易はな、信頼が何よりも必要なのだ。恨みを糧に生きているような奴らと、好んで商売をしてくれる物好きなどいるわけがないだろう? 顔色は、常に明るくなくてはならん」
「だから、恨みを抱いていても、全て自分たちの腹の中だけで収められると?」
「そういうことだ。それにな、この交易都市を仕切る者たちは、皆が皆、王の信任に厚く、高い地位を与えられている。汚らわしいものなど、身につけるわけにはいかないのだ」
吐き捨てるように言ったフランドル卿の目は、酷く冷たいものだった。
――ああ、そうか。
アリーは、この都市に感じていた嫌なものの正体を、何となく理解した。
誰もが、仮面を被っている。そう形容するのが、一番しっくり来るだろうか。本当の表情が、誰の顔からもほとんど見えない。
けれど、その仮面の下から微かに見え隠れしている他者への怒りが、妬みが、蔑みが、どこか暗いものを生み出している。アリーには、そんな気がしてならなかった。
「あの、フランドル卿」
ラインハルトが、身を固くしながら口を開いた。
「もう少し、あなたが知っている話を聞かせてくれませんか?」
「ほう。昔ほどとはいかないが、なかなかいい目をしているよ、ラインハルト君」
乾いた声で、フランドル卿が笑う。しかし、目は全く笑っていない。
「いいだろう。全て、というわけにはいかんが、君には特別に教えてやろう」
ただし、とフランドル卿がアリーに向けて人差し指を突き出した。
「そこの小娘は駄目だ。忌々しい混血児になど、私の話を聞かせたくはない」
「それは」
ラインハルトが、アリーをちらりと見る。少し怒った瞳。それでも、自分を押し殺し、アリーを取ろうとする、優しさを秘めた瞳。
しかしアリーは、そうなることを望んでいなかった。ラインハルトには、自分がしたいようにしてほしい。
「気にしないで、ラインハルト。私、先に宿で待ってるから」
ラインハルトの口が動く前に、アリーはそっと囁くように言った。
「で、でも」
「いいの。それにね、ちょっとだけ気分が悪いんだ」
そう言うと、ラインハルトは諦めたように頷いた。
「……わかりました。僕だけが、聞きます」
「それでいい。では、私の邸宅へと向かおうか。こんなところで立ち話をしているのも、癪に障るからね」
フランドル卿が踵を返し、ずんずんと先へと進んでいく。ラインハルトがそれを追おうとしたが、その前にアリーへと振り返った。
「ごめん。できるだけ早く、僕も宿に行くから」
アリーが頷くと、遠ざかりつつあるフランドル卿の背を、ラインハルトが速足で追っていった。
一人残されたアリーは、その場にぺたりと座り込んだ。
緊張の糸が解けたのもそうだが、ラインハルトに言ったことは、あながち間違いではなかった。
「頭が、痛いや」
それだけではない。本当に気分は悪く、体が震えるほどの寒気がしている。でも、風邪とは何か違う。自分の顔を触ると、驚くほどに冷たかった。
しばらく座り込みながら、さっきの話をアリーは思い返していた。
――魔女によって、都市が滅ぼされた。
アリーが見た記憶は、きっとそのことだったのだろう。確かに記憶の中で、魔女はたくさんの建物を壊し、それ以上に人を殺した。
しかし、何故そうしなくてはならかったのかが、わからなかった。フランドル卿の話でも、自分が見た記憶でも、明確なものはない。
ただわかるのは、魔女の深い憎しみだけだろうか。憎しみに駆られ、それでいて悲しげに呟いた彼女の言葉は、しっかりとアリーの頭の中に残っている。
「巫女様に、何があったんだろ」
考えてみようとしたが、頭痛がそれを阻んできて、アリーは仕方なく諦めた。
ゆっくりと立ち上がり、汚れたところを手で払ってから、アリーは歩き始める。震える体を抱きしめ、少しふらつきながら、アリーは宿屋を目指した。




