6-1
朝日が昇り始めた頃に、アリーはラインハルトに起こされた。
窓から見える空は、まだ夜の闇が薄く残っていて、いつもならばアリーはまだ眠りについている時間だ。
眠い目を擦りながら、アリーは既に身支度を終えているラインハルトを見た。顔を少し赤く染めた彼は、何故か視線を合わせてはくれない。
「ちょっと早いけど、もう少ししたら村を出よう。あんまり、長居はしないほうがいいかもしれないから」
ラインハルトが、少し寂しそうに言った。
その理由は、昨日の夕飯の時に聞いた。ラインハルトが男と村を見て回った時、決まって付きまとうのは敵意だったという。男を救った感謝の言葉はやはりなく、寧ろさっさと出て行ってくれ、と直接言われたのも一度二度ではなかったらしい。
できるだけ村を早く出ようというのが、二人の一致した意見だった。これ以上魔族の民を刺激するのは、不要な危険を呼び寄せかねない。
それは先生にも告げてあって、ならば皆が寝静まっている早朝に出た方がいい、と助言してくれた。
「僕は先に、村の入り口で待ってるからね」
「う、うん」
アリーが頷くと、ラインハルトは足早に部屋から出ていった。
その背を見送りながら、何気なく手を頭にやって、アリーははっとした。髪の毛がいくつもあらぬ方向に伸び、酷い寝癖となっている。よくよく下を見れば、着ている寝間着もちょっとはだけていて、胸元がちらりと見えたりしていた。
あまりにも恥ずかしくて、アリーは自分の顔が異常に熱くなるほど真っ赤になっていくのを感じた。眠気はあっという間に覚め、それを忘れるように無我夢中で身支度を整える。いつもの服装を身に纏い、最後に昨日貰ったペンダントを首にかけ、鏡の前に立った。目新しい翡翠色に見入ると恥ずかしさは自然と消え、代わりにアリーは嬉しさと寂しさを覚えた。
胸に去来した思いを忘れるように鏡から離れ、アリーは部屋を静かに出た。
家の中は、さすがに静まり返っている。先生に一言挨拶しておきたかったが、部屋の戸は閉まりきったままで、居間にもその姿はない。名残惜しくも、アリーは先生の部屋に一度頭を下げてから、家を後にした。
村の入口に行くと、ラインハルトが別の誰か二人と話しながら待っていた。
朝日の眩しさに目を細めながら見ていると、それが先生と怪我の男であることが分かった。
「おや、ようやくお出ましだね」
いたずらっぽい笑みを浮かべながら、先生が言った。
「どうしてここに?」
「どうしてって、見送りに決まってるじゃないか。少なくともボクは、君たちに好感を持っているんだから。ねえ、坊や?」
先生がそう言うと、男は一度鼻を鳴らし、そっぽを向いてしまった。
やれやれ、と呆れながら先生が言う。その様に困った笑みを浮かべる先生の顔には、やはり昨日の暗いものはない。しかし、無理をして表情を作っているのが、アリーには何となくわかる。それがどことなく、申し訳なかった。
「おっと、早速身に着けたんだね」
先生が、ペンダントに目をやりながら言った。
「うん。大切なものだから」
「……そうだね。よく、似合ってるよ。君たちも、そう思うだろ?」
先生が少し意地の悪い笑みを浮かべながら、二人に振り返る。男は相変わらずそっぽを向いているが、ラインハルトは気持ち顔を赤くしながら、とても似合ってる、と頬を掻きながら言った。
その言葉は嬉しかったが、どこか気恥ずかしい思いに駆られて、アリーは思わず顔を伏せた。
「それで、これからどこに行くんだい?」
「次は確か、交易都市ですね」
ラインハルトが確認するように視線を向けてきて、アリーは小さく頷いた。
「交易都市か」
先生が少し考えるような素振りを一瞬見せたが、それもすぐに困ったような笑みに隠れた。
「あそこはなかなか一癖あるところだから、気を付けた方がいいよ」
「一癖?」
「うん。まあ、行ってみればわかるよ。折角の旅なんだから、自分の目で確かめた方がいい」
ラインハルトが頷き、アリーもまたそうした。
イデアルに足をかけ、ラインハルトが一息に乗る。ラインハルトが手を伸ばしてきて、アリーはその手を掴もうとゆっくりと近づいていく。
「おい」
不意に、男が呼び止めてきて、アリーは足を止めて振り返った。
小首を傾げて見ていると、男がほんのりと頬を赤く染めながら、無造作に木箱を突き付けてきた。
「これは?」
「昨日の傷、まだ治ってないだろ。この中に、傷によく効く薬が入ってるから、治るまでつけろよ」
確かに、昨日叩かれたところは、食事や口を漱いだ時や、ふと触った時に痛みが走ったりする。しかしアリーは気にしていなくて、逆に面食らった形になった。
「私、大丈夫だよ。そんなに、気を遣わなくても」
「いいから、受け取れよ。思えば、あんたにも借りがあったんだ。受け取らねえと行かせないからな」
強い口調で言っているのに、どことなく照れた物言いに聞こえて、アリーは少しおかしくて声を上げずに笑った。
男が、少し不機嫌そうな顔をして睨んでくる。アリーは笑うのをやめて、そっとその木箱に手を伸ばした。
「じゃあ、貰っていくね。大切に使うよ」
「ああ」
木箱を渡すと、男はすぐに背を向け、去って行く。だが、少し行ったところで振り返り、アリーをまたじっと見つめてきた。
「えーと、そのなんだ」
言い淀んだ男が、赤くなった頬を指で掻きながら言葉を継ぐ。
「気を付けて、行って来いよ」
「うん。ありがと」
アリーが言うと、男は前を向いては駆けて行った。その姿はあっという間に遠ざかり、すぐに見えなくなった。
「いやぁ、若いねぇ。これも青春の一つ、なのかな?」
先生が、にやにやしながらアリーの隣に来る。軽口を叩く先生の顔は、どこか意地悪な感じがした。
その先生の顔が、すっと引き締まった。
「ボクはもう何も言わない。さようなら、巫女様。せめて、あなたの行く末に幸があらんことを」
アリーにだけ聞こえるくらいの小さな声で、先生は言った。
頷き、アリーはラインハルトの手を借りてイデアルに乗った。振り返ると先生が手を振っていて、アリーもまた小さく手を振り返した。
ラインハルトが馬腹を蹴り、イデアルがゆっくりと駆け出す。先生の姿が見えなくなるまで、アリーはずっと手を振り続けていた。
「寂しいところだったね」
ラインハルトがそう口にしたのは、村を去ってしばらくしてからだった。
「魔族の彼と村を歩いていても、結局僕は受け入れてもらえなかった。冷たい言葉も、何度も投げかけられた。それだけ、あの村の民は心が荒んでいたんだろう。人間が、許せないんだろう」
「そうかもしれない。けどね、多分それだけじゃないよ」
アリーの言葉に、ラインハルトが顔をこちらに向けた。
「みんな、どうしたらいいのかわからないんだと思うの。ずっとずっと恨んだり、憎んだりしてきたせいで、素直な気持ちの出し方がわからなくなっちゃったんだ。だから、冷たく当たっちゃう」
「そう、なのかな……?」
「多分、そうだよ。あのケガした人だって、最初に会った時は取り付く島もなかった。けど最後には、戸惑いながらもちゃんと向き合ってくれて、私のケガの心配までしてくれた。本当に許せないだけなら、そんなことしないよ」
少し難しい顔をしながら、ラインハルトは唸った。
「君の言うことも、何となくわかるよ。でもさ、あの村はもうちょっと、違うと思う。先生も言ってたけどさ、魔王を失った怒りがまだ消えていないのが、大きいんじゃないかな」
「怒りが?」
「うん。魔王を失ったことは、魔族にとってどうしても受け入れられないことなんじゃないかな。心の拠り所を奪われたも同然だからね。だから、魔王に近かったあの村の人たちの心は冷え切っていたし、もしかしたら各地の魔族が人間と折り合いが悪いのは、そのせいなんじゃ」
「違うよ」
ラインハルトの言葉を、アリーは無意識のうちに強い声音で遮っていた。
少し強い口調で言われたラインハルトが、目を丸くしながらアリーを見つめてくる。
「だって、大集落の人たちは違ったもの。あんなに、辛そうな人はいなかったもの。結局は、受け入れられるかどうか、だと思う」
自分で言っておきながら、胸が締めつけられるように痛くなって、アリーは俯いた。
一部の魔族は父の死を受け入れ、今笑う道を選んだ。それは勿論、正しいことだ。正しいことだが、父のことが忘れられてしまっているようで、アリーは寂しくてならなかった。
――私は、受け入れられるの?
寂しくなる自分の心に、嘘はつけない。けれど、人間を憎もうという気持ちは、アリーには湧かない。
どこか矛盾した気持ちが、アリーの胸を締め続けている。
「……もしかして、あの村に思い入れがあるのかい?」
おそるおそる、ラインハルトが聞いてきた。
少しだけためらったが、アリーは俯けていた顔を上げ、ラインハルトの目をしっかり見て口を開く。
「うん。あそこはね、私の父様の生まれ故郷だったんだ」
ラインハルトの顔に、少し驚いたようなものが張り付く。
そうなるのも、無理はないかもしれない。アリーは、魔王の娘ということになるのだから、どんな奇異の目を向けられても至極当然にすぎない。
しかしラインハルトは、そのことについては言及しなかった。
「……もう少し、いたかった?」
少し沈んだようなラインハルトの声に、アリーは首を二、三度横に振った。
「大丈夫だよ。父様のお話を聞けただけで、私は十分だよ。それに」
あそこにいても、父様には会えないから。
その言葉は、寂しい思いと共に飲み込んだ。
続きを待っているラインハルトに、アリーは首を振って、何でもないよ、と答えた。
ラインハルトは怪訝な顔をしていたが、それでも頷き、また前を向いた。
イデアルが、変わらない速さで駆けていく。少しだけ気まずい雰囲気が続いたが、それも日が経つにつれて徐々に氷解していった。




