5-10
巫女様。その言葉が、頭の中をぐるぐる回る。回るだけで、何も整理はできない。ただただ、こだまのように響き回るばかりだ。
ぼんやりと、アリーはひざまずいている先生を見た。依然として感極まっているようで、どう接すればいいのか、アリーはわからなかった。
その先生が、震える口を動かした。
「フードを、取ってくれないかな? 君の姿を、ボクに見せてほしい」
先生の言葉にアリーはいくらか抵抗があったが、懇願する声に切実な響きがあって、ためらいながらもそれに従った。
おそるおそる、フードを取る。銀色の長い髪が、束の間踊るように舞い、顕になった。
先生が、感嘆の声を漏らす。両の目は、これ以上ないくらいに見開かれていた。
「やっぱり、間違いない。その銀の髪と紅の瞳は、魔王と人間の子どもである、巫女の証だ。ああ、生きていたんだね。良かった、本当に良かった……」
堪えきれなくなった涙が、顔を伏せた先生の頬を濡らす。
その涙を、アリーは呆然としながら見ていた。呆然としながらも、朧気だが頭の中に一つの顔が浮かんできていて、アリーはちょっと考えた。
まだ、本当に幼子だった頃、母に抱かれたアリーを覗き込んだ、いたずらっぽい笑みを浮かべた顔。徐々にだが、その顔がはっきりとしてくる。霧が晴れるように覗き込んだ顔が姿を現し始め、やがて今のそれと重なった。
あっ、とアリーは小さく声を上げ、目を丸くしながら先生を見た。
「もしかして、あの時の?」
「そうさ」
頷いた先生は、まだ涙を流していた。
「……ボクは、待っていたんだ」
涙がやんでから、先生がひざまずいたままポツリと言った。
「あの日、魔王様がこの村から逃げる時、魔王様はボクにこう告げたんだ。もしも、俺の娘がいつかここに来ることがあれば、道を示してやってほしい、って」
「父様が?」
「ああ。魔王様は、君のことを案じていたんだ。君が、巫女様として生まれてしまったから」
「わからない。全然、わからないよ。あなたの言ってることが、私にはわからない」
――だって私は、父様と母様の子どもで、それ以上でも以下でもないから。
そう言いたかったが、先生が先に口を開いたことで、噤まざるを得なかった。
「ボクが歴史を紐解いている話は、さっきしたよね。その中で知ったことだけど、巫女様として生まれるのは混血児で、それも魔王と人間の間に生まれた子だけなんだ」
「魔王と人間」
言われて、大集落で見た不思議な光景を、アリーは思い出した。
アリーと同じ容姿の子ども。先生が言うことが本当ならば、あの子どもは混血児で、巫女ということになる。
――だったら、あの光景は。
うすら寒い思いと共に、妙に頭が冴えてくる。さっきまでの混乱がまるで嘘のように、頭の中が整理されていく。
あれは、巫女の過去。そうと考えるのが、妥当だった。伝えられるはずのない、彼女の記憶。
どうして私に、などとアリーは思わなかった。朧にだが、アリーには一つ、思い至るものがある。
しかし、自分で結論付けるのは、底知れぬ恐怖感が邪魔をし、どうしても憚られた。アリーは深く考えるのをやめ、先生の次の言葉を待った。
「巫女と言うのはね、特別な存在なんだ。かつて、この国を救ったのが巫女様ならば、滅ぼしかけたのもまた、巫女様だったから」
「えっ」
アリーの口から、小さな驚きの声が漏れた。
先生は、構わずに言葉を続ける。
「巫女様は博愛のお方だった。しかし、その愛が広く深すぎるがゆえに、ある事件によって巫女様は豹変してしまった。博愛の巫女から、殺戮の魔女へとね」
「魔女」
唐突に、頭が殴られたような鈍い痛みを発し、アリーは顔を少し歪めた。頭の中から揺り動かしているような、嫌な響きも感じる。気分も、一気に悪くなっていく。
「ある事件のことは、ボクにもまだ解明できてない。なんとかわかったのは、その魔女も大昔に死んでいることと、恨みはずっと受け継がれていることさ。異常な魔力を秘めた、魔王と人間の混血児に」
「どう、して?」
震える声を絞り出すのが、アリーには精いっぱいだった。
「理屈はボクにもわからない。けれど確かなのは、巫女様として生まれた子が、白にも黒にもなるということだけだよ」
立ち上がり、ゆっくりと近づいてきた先生が、アリーの間近でまたひざまずく。
「偶然だったけど、ボクは一度見た。君じゃない巫女様が、恨みに呑まれて魔女となったのを。何の変哲もない幼子が、突如として豹変し、誰彼構わず襲ってしまうのを」
「その子は、どうしたの?」
「死んだよ。いや、殺された。完全な魔女になってしまう前に、国がその子を秘密裏に始末した。多分、他の巫女様も、命を奪われたのだろう」
だからね、と先生が両手でアリーの手を強く握ってきた。
「ボクは、気が気でなかった。魔王様が遺した願いが、ボクの知らないところで潰えてしまっているんじゃないかって。それが、すごく怖かったよ」
「先生」
「本当ならば、すぐにでも迎え入れてあげたかった。けれど長である以上、ボクに勝手は許されず、ましてや巫女様を村に置くことなど、皆が許すはずもない。ボクはただ、祈っていただけだ。巫女様である君が、無事に生きていることを」
再び涙を流す彼を、アリーは虚ろな瞳で見下ろしていた。
頭の痛みがひどい。時折、意識が飛びそうになって来る。それでも、アリーは何とか堪えていた。
「ああ、そうだ」
先生が跳ね上がるように立ち上がり、小走りで近くの机へ向かう。そこの引き出しを勢いよく開け放った先生が、中にあった小箱を大切に抱きかかえるように持つと、またアリーに近づいてひざまずいた。
「魔王様、つまりは君の父親から預かったものだ。どうか、受け取ってほしい」
差し出された小箱に戸惑ったが、ためらいながらもアリーはゆっくりと手を伸ばした。
父が遺したもの。朦朧とする意識の中でも、それだけははっきりと意識できた。そして、自分が絶対に受け取らなければならない、とアリーは思った。
小箱を受け取り、アリーは震える手で、そっと中を開けた。
中にあったのは、翡翠色の石に軽い装飾を施した、古びたペンダントだった。
アリーは、そっとペンダントに手を伸ばす。
刹那、視界が暗転し、アリーは思わず意識を手放した。
次に意識が戻った時に目の前へと広がっていたものは、見慣れない光景だった。
大きな城と、それを囲むようにして聳え立つ城壁。そして、城と壁の先にある、所狭しと居並んだ城下町。
夜の帳が下りた中で月影に照らし出されるそれらを、アリーは空中に立ちながら見ていた。
――ああ、そうか。
また、巫女の記憶を見ているんだ。
納得してしまえば、アリーはこのことを何となく受け入れることができた。
周囲を見渡すと、城から城下を見下ろしている二人がいるのを、アリーは見つけた。
一人は筋骨逞しい偉丈夫で、もう一人は銀髪の紅い目をした少女だった。二人とも、緊張した面持ちで話をしている。
魔王と巫女として。そんな言葉が、男の口から出た。その言葉を聞いた少女は、とても悲しそうな顔を隠そうともしない。
男と少女が、ぎこちないまま話を続けていく。少女ももう諦めたのか、顔に浮かんでいた悲しみはいつからか真剣なものに塗り固められていた。
魔族と人間族が、手を取り合うために動いてほしい。少女が哀願するように言うと、男は少し考えるような素振りを見せてから、小さく頷いた。
少女が、束の間明るいものを顔に出す。輝くような笑顔は、月の光にも劣らないほど眩しい。
その笑顔に、男もまた小さく笑みを返した。ぎこちない感じは、いつの間にか溶けてなくなっている。
ここからは、立場は関係ない。男が、優しい声で言った。
――お前には、辛い思いをずっとさせてしまった。罪滅ぼしとは言わないが、せめてお前が望むことは叶えてやりたい。
男が、ぎこちない動きで少女の頭を撫でた。少女が少し驚いたような顔をしたが、それでも嬉しそうに、されるがままでいる。
――わたしね、みんなが仲良くできる世界を見るのが夢なんだ。人間も魔族も、わたしみたいな混血の子も、分け隔てなく。できるかな、父様。
少女の言葉に、男は大きく頷いた。
――大丈夫だ。きっと、叶えられる。お前の言葉で、俺の心も定まったから。
冴えたような月の光に目をやりながら、男が言った。
男が、懐から何かを取り出す。翡翠色の石のペンダントだ。それを、ゆっくり少女の首にかけていく。
少女が嬉しそうに笑い、似合うかな、と男に問いかけた。男はとてもきれいだ、と言い、また少女の頭を撫でた。
そこで一瞬、アリーの視界に闇が訪れた。けれどそれは本当に一瞬で、闇が通り過ぎた時には、アリーの眼前にはまた違う場所が広がっていた。
王城の広間と思われる場所で、三人の人が向き合うようにして佇んでいる。
魔王と巫女、そしてもう一人は人間族の王だろうか。少しきれいな装束を纏い、頭に小さな王冠を乗せた男が、堂々とした佇まいで魔王と巫女と向き合っている。
――本当にいいんだな。
人間族の王が、確かめるように言った。
魔王が頷き、腰の剣を抜き払っては、自らの腕を少し斬った。
一条の赤い筋が現れ、やがてそこから、溢れんばかりの血が流れ始めた。肘から滴り落ちる雫が、床を少しずつ汚していく。
人間族の王も、それに倣った。血と血が、混じり合う。小さな血だまりが、二人の間にできていった。
その血だまりに、巫女が小瓶に入った透明な水を垂らした。途端に、眩い光が弾けるように広がり、瞬く間に辺りは真っ白な光に包まれた。
あまりにも眩しくて、アリーはしばらく目を開けられなかった。
右目を薄く開けて、何とか目が利くようになったと思い、アリーはゆっくりと両目を開けた。
魔王と人間族の王が、握手している姿が映った。
――成功だ。魔力が弱まったのを感じる。ありがとう、アルベール。俺を、信じてくれて。
魔王が、照れたような笑みを浮かべながら、言った。
――ありがとう、はこちらのセリフさ。お前が歩み寄ってくれたおかげで、俺たちは新しい一歩を踏み出せる。
力強い笑みを浮かべた人間族の王が、顔を少し動かし、巫女に向けた。
――君のおかげでもあるな。本当に、感謝してもしきれない。
巫女は首を横に振り、目元に溜まった涙を拭いながら、口を開く。
――これからだよ。これからみんなで頑張って、誰でも仲良くできる国にするんだ。だから、ありがとうはまだ早いね。
巫女の言葉に、二人は力強く首を縦に振った。
アリーに見えたのは、そこまでだった。
世界が唐突に色を失い、一瞬意識が飛んだ。次に気づいた時には、目の前にはひざまずく先生の姿があった。手のひらには、さっきのペンダントがちょこんと乗っている。
不思議と、激しい頭痛は消えていて、意識もはっきりしている。あれが過去を垣間見る前兆だったとしたら、唐突な不調も何となく理解できた。
「これ、父様が遺してくれたんだね」
ペンダントに目をやりながら、アリーは何事もなかったかのように言った。
疑問を感じたのか、先生が首を傾げる。だが、すぐにアリーの調子の変化に気づき、先生は嘆息して頭を垂れた。
「……そうか。君も、やっぱり見ているんだね。巫女の記憶を」
驚き、心臓が一度高々と鳴った。どう答えようか一瞬迷ったが、隠しても仕方ないと割り切り、アリーは首を縦に振った。
「どうして、そのことを知ってるの?」
「調べたんだよ。君以外の巫女が、どうしていたのかを。そしたら、身内の日記とか本人の手記とかで、色々わかったんだ。豹変する前に、彼女らは見たことのない景色や出来事を目にしたと、それらに書かれていたんだよ。巫女様が、夢の中に現れたっていう人もいたらしい」
一度言葉を切り、先生はゆっくりと立ち上がって、窓の近くに行った。
日はもう沈みかけ、辺りは夕闇が支配しつつあった。開いていた窓からさっと風が吹き込み、アリーは身を震わせた。もうじき初夏だというのに、この頃の夜はまだ肌寒い。
先生が窓を閉め、こちらに顔を向けた。
「巫女様が死んでも、不思議と次の巫女様が生まれる。そして決まって、巫女様のことを白昼夢に見るんだ。恨みを、その身に宿すんだ。まるで、呪いでもかかったように」
苦虫を噛み潰したような顔をしながら、先生が言葉を続ける。
「君ならば、もうわかるだろう? 現代に生まれた巫女が、何なのか」
アリーにも、その答えはもうわかっていた。しかし、信じたくない現実に、アリーは頷くことができなかった。頷いてしまえば、認めてしまうことになる。それは、自身を否定することに似ていた。
それでも、先生はその答えを口にした。
「巫女は、古の巫女……、いいや、魔女そのものなんだ。恨みを晴らすべく現代まで追って来た、呪われた存在なんだ」
言い切った先生が、肩で息をしている。表情は、相変わらず苦り切っていた。
アリーは、それを言葉で聞いた時、半分は納得してしまっていた。魔女そのものならば、生まれた時から知識が与えられていたのも、何となく頷ける。不思議なものを自分が見なければならなかったのも、頷ける。
それでも、やはり半分は信じたくなかった。大切な父と母がくれたアリーという自分を、呪われた存在に上書きしたくなかった。
――でも、きっと私は。
その事実を、受け止める日を迎える。
漠然とした予感だが、それが間違いではないだろうことを、アリーは何となくだが感じていた。
「……本当ならば、ボクが口出しすべきではないのかもしれない」
先生が、息を整えてから言った。
「でもボクは、魔王様のために言う。君は、これ以上巫女様の過去を知らないほうがいい。いや、知るべきではないんだ。知ってしまえば、君も魔女になってしまうかもしれない。そんなこと、魔王様は望まないよ……」
「そうかもしれない」
でもね、とアリーは静かに首を横に振った。
「きっと私は、知らなきゃいけないんだ。私が私であるためにも、ちゃんと向き合わなきゃいけないんだ。たとえ、何が待っていても」
はっきりそう言い、少しの間、見つめてくる先生と視線を交わし合った。
先生が、そうか、と弱弱しく呟き、瞳を伏せた。それっきり、もう反対する言葉は返ってこなかった。
「……そろそろ、騎士君が戻って来るよ。そしたら、夕飯にしようか」
「えっ、あっ、うん」
唐突の言葉に反応できなくて、アリーは戸惑った。
先生が言った通り、ラインハルトが戻って来たのはそれからすぐだった。
「ここにずっといたんだね、アリー」
隣の席に腰を下ろしたラインハルトが、気持ちほっとしたように言った。
「うん。あれ、さっきの人は?」
「案内が終わったら、さっさと自分の家に帰ってしまったよ。これで借りはなしだ、って不機嫌そうに叫んでたな」
そのことを思い出したのか、ラインハルトが小さく声をあげて笑った。
ラインハルトが楽しそうだったから、アリーもつられて声もなく笑った。
「二人とも、楽しそうだね。ボクも混ぜてほしいな」
湯気の立つ鍋を持ってきながら、先生が軽い口調で言った。
もう、さっきまでの暗い雰囲気はどこにもない。先生は、最初に会った頃に戻っていた。
先生が鍋の蓋を取り、熱い湯気が辺りに立ち込める。野菜がたくさん入った鍋を、何の障りもない話をしながら三人でつつき合い、食べていった。
食事が終わると、あとは各々自由にしていいことになった。
アリーは湯浴みを済ませ、宛がわれた一室に入った。ベッドと机と椅子しかない、簡素な内装である。
精神的に疲れていたが、不思議と眠気はまだ襲ってこなかった。眠くなるまでと、椅子に座り、アリーは魔女の本を開いた。
「読めるところが、増えてる」
アリーは、少し息が詰まるほどに驚いた。出自と巫女の書かれている部分が、いくらか読めるようになっていた。
記憶を見たからだろうか。そう思うと、アリーは何となく納得できた。新たに読める部分は、白昼夢のように見たあの出来事を鮮明に書き出している。
それ以外は、依然としてぼやけて読める程度だ。ただ、読めそうなものがいくらかありそうに思える。
「あの魔王さんは、アルベールって言ってた」
気になる名前を魔王が呟いていたのを、アリーは覚えていた。
アルベール。アリーが真っ先に思い浮かんだのは、死んだジョシュアのことだ。彼もまたアルベールであり、偶然同じだったのかもしれないが、アリーは妙に引っかかっていた。
「何か、わかるかな」
逸る気持ちを押さえながら、アリーは近場の蝋燭に火を灯し、本を読もうとした。しかし、急いた気持ちが微かな焦りとなったのか、机の端に置いていた名無しの本に手がぶつかった。その拍子に、本は音を立てて机の上から落ちてしまった。
「いけない」
床に落とした名無しの本を拾おうとして、手を伸ばした時、アリーはその手を思わず止めた。
落とした拍子に、本が開かれている。しかしそのページは、これまでに見たことがないものだった。
「何だろ、これ」
不思議に思ってそのまま拾い上げ、アリーはそのページに目を通した。
そのページは、挿絵になっていた。黒く塗り潰されたたくさんの人が、少女を追い回している。そんな感じの絵だ。
アリーは、小首を傾げた。最初に読んだ時もその次に読んだ時も、こんなものはなかった。何度も何度も読み返したのだから、抜けたところがあるとは思えない。
どこか気味の悪いものを感じて、アリーは本を閉じ、ベッドに潜り込んだ。毛布を頭まで被り、体を丸めて目を瞑る。
瞑りながらも、アリーはあの挿絵について考えていた。
――あれは、なんだったのかな。
妙な胸騒ぎがして、アリーは落ち着かなかった。唐突に現れたあの不気味な挿絵は、一体何なのか。
考えても、わかるはずがない。それでもアリーは、夜が更けて眠気に誘われるまで、ずっと挿絵について思いを巡らせていた。




