5-9
やがて、木造のこぢんまりとした家に、招き入れられた。
先生が椅子を用意し、アリーとラインハルトは遠慮がちにそれに座った。男は意地を張っているのか、壁に背を預けて立っている。
「さあて、改めてご挨拶だ。ようこそ、魔族の村へ。と言っても、なかなか歓迎できる雰囲気ではないのが、恐縮ではあるけれど」
湯気の立つ湯呑を並べながら、先生が言った。
「ううん。歓迎されない理由は、わかってるつもりだよ」
「すまないね。本当は、君たちにお礼を言いたい気持ちを、みんな持ってるんだよ。彼を救ってもらったからね。でも、心がそれを許さない。どうかそれは、わかってあげてほしい」
深々と頭を下げる先生に、アリーはラインハルトと共に、顔を上げてほしいと願うように言った。
ゆっくりと頭を上げた先生の顔からは、もう笑みは消えていた。
「でも、驚いたろ? ここまで人間を蔑視する村なんて、そうそうあるものじゃないからね」
「他にも、魔族の村ってあるの?」
「そりゃあ勿論さ。この国の至る所に、ボクらの同胞は村を構えている。まあ、目立たないように小ぢんまりとしているけどね」
先生が湯呑に、少し口をつける。ふんわりと、濃い緑茶の香りが漂ってきた。
「魔族と人間族が和解した頃は、もっと堂々と村を構えていたそうだよ。魔族の民も、もう少し心に余裕がある人が多くて、人間を対等に見ていたんだって。まあ、今の状況からじゃ、およそ想像もつかないけれど」
「うん。どうして、仲が悪くなっちゃったんだろ。そんなの、悲しいだけなのに」
アリーの言葉に、先生が苦笑を浮かべた。
「ああ、君たちは知らないんだね。いや、もう知ろうとする者さえいないか」
もう一度湯呑に手を伸ばした先生が、ちらりと男を見た。知らないとでも言っているかのように、男が首を横に振る。
先生が、小さく溜息をついた。
「大昔の話さ。とある巫女の懇願によって、魔族の王は人間族の王と手を取り合って国を守ろうとしたんだ。実際、しばらくは平和が守られたそうだよ。けれどね、王は裏切られた。手を取り合うことを拒んだ一部の者たちに襲われて、命を落としたんだ」
場に重い空気が流れ、誰も物音一つさえ立てない。
先生は、尚も言葉を続けていく。
「襲撃を企てたのは、殆どが人間族だった。魔族は当然怒り、人間族を再び支配するべく、戦いを挑んだ。しかし、まじないによって魔族は魔力を制御され、追い打ちをかけるように敵対する人間族は、魔族の何倍もの兵力を出してきた。もう、以前のように圧倒することはできない。それでも血で血を洗う戦いを続け、とうとう魔族は敗れ去った。多くの同胞を失った魔族は支配されるような立場となり、人間族に対して根深い恨みを抱いた」
一息に言い終えた先生が、湯呑の緑茶を一気に飲み干した。
「……古い言い伝えさ。言い伝えだから、どこまで真実を語っているのかはわからない。だからかな、今ではもう、これを語り継ごうとする者はあまりいないんだ。全てが真実ならば、魔族にとってこのことは汚点だっただろうし、何よりもそんな恨みは伝えるべきものではないと、当時の魔族は判断したんだろう。だからこの言い伝えを知っているのは、古老か歴史家ぐらいさ」
「……本当に、あったことなのですか?」
ラインハルトが、額から汗を流しながら言った。
「僕は、家の立場上、多くのことを学ばされてきました。それこそありとあらゆるものを。国の歴史だってその一つです。けれど、そんな話は聞いたことがない。人間と魔族が、争ったなんて」
「聞いたことがないのは、仕方がないかな。さっきも言った通り、そのことを語り継ぐ者があまりないんだ。それは人だけでなく、歴史書にも及ぶ。相当に古い書物を紐解かないと、知ることはないだろうね」
「し、しかし、あなたは知っている。そんなに若いのに」
ラインハルトの言葉に、先生が声をあげて笑った。
「こんななりをしているけど、ボクはもう七十年は生きているんだ。尤も、歴史家としてはまだ五十年程度で、それでも他の同業者よりは、知識が深いと思っているよ」
いたずらっぽく笑う先生を、アリーはラインハルトと一緒に驚きの目で見つめた。
どう見ても、ラインハルトよりちょっとだけ年上の、青年のような印象を受ける。張りのある肌や精気に満ちて爛々と輝く漆黒の瞳は、とても七十のそれとは思えない。
これが魔族。改めて感じる種族の違いに、アリーは不思議な思いに捉われていた。
「とにかく、今話したことは多分本当のことだと思うだよ。これは、ボクが若い頃に村の歴史家に聞いたことだし、その歴史家はボクなんかよりずっと深く、この国の歴史を紐解いてた」
「……仮に本当だとしても、やっぱり伝わっていないのはおかしい。だって、魔族はあんなにも人間を嫌っているじゃないですか」
納得できないと言わんばかりに顔をしかめながら、ラインハルトが言った。
先生が溜息をつき、席を立ってはもう一度湯呑を満たして座り直した。注がれた湯呑からは、湯気と共に緑茶の香りが漂っている。
「そりゃあ、嫌いもするさ。今の立ち位置の仕組みができて、どれくらいの時が流れていると思う? 少なくとも、ボクが子どもの頃はとっくに魔族は人間族から蔑まれていたし、酷い差別はいくらでもあった。ボクは歴史を学びに学んだから、今は因果応報だと割り切れるけど、大抵はそうじゃない。自分や同胞を必要以上に虐げられて、それでも憎まない人なんて、そんなの稀さ」
先生の言葉に、ラインハルトは項垂れた。顔には諦めの色が出ていて、それでも納得できないと言っているかのように、唇を噛みしめていた。
しかしアリーは、何となくだが納得していた。いじめられるのがとても辛いことなのは、子どもの頃からずっと知っている。それによって抱いてしまった暗い気持ちの捌け口が、あまりないこともまた、知っている。
――でもそれは。
魔族だけじゃない。辛い思いをしている人は、種族を超えてもっとたくさんいる。
そう言いたかったが、重々しい空気がアリーの口を閉ざしていた。
「……人間族は汚い。俺たちを、ただの道具としか見ていねえ。あの時だって、汚い手を使ってやっちゃいけねえことをしやがった。あんな奴ら、みんな死んじまえばいいんだ」
男が苦り切った顔で、吐き捨てるように言った。
「そんなことを言うものじゃないよ、坊や。もしも魔王様が聞いていたら、張り倒されるところさ」
「……もういない人が、どうやって張り倒しに来るんだよ」
男の表情が一転し、俄かに曇った。顔も俯きがちで、今にも泣きそうなほどの弱弱しいものが伝わってくる。
魔王と聞いて、アリーは胸の奥がざわつくのを覚えた。懐かしい響きと物悲しさが、同時に襲い掛かって来る。
「あの、魔王様って?」
重かった口を精一杯開けて、アリーは言葉を絞り出した。
「ちょっと前までボクらを守ってくれていた、当代の魔族の王だよ」
先生が、どこか遠くを見つめるように、視線を外に向けた。
いつの間にか日が暮れたのか、夕暮れの茜色が窓から差し込んでいる。
「当代の魔王様は、この村の生まれでね、人間との共存を望んだ稀な人だった。でも、理想論者ではなくてね。相手に真っ向から向き合い、心をぶつけ合おうとする人だったよ。間違っていることには誰であろうと反発し、互いが納得いくまで話し合う。そんなことが、自然とできる人だった」
言った先生の言葉は、どこか懐かしいものを思い出すような響きがあった。
「堂々たる偉丈夫だったからか、それとも圧倒的な風格のためか、魔王様の言葉には人間もちゃんと耳を貸した。そんな魔王様は、魔族の中では羨望の的だったし、この村では英雄扱いだったよ」
けどね、と寂しげな表情を一瞬浮かべて、先生がため息交じりに言う。
「魔王様は、国を脅かす存在として討伐隊を差し向けられ、命を落としたんだ。確か、十七年くらい前にね」
「十七年前」
自分の呟くように言った声が、アリーには遠く感じた。胸のざわつきが、痛みに変わる。思い出したくない光景が、脳裏から呼び起こされる。
たくさんの人に追われ、攻められた、月影もないあの夜。何本の剣に刺し貫かれても、決して倒れなかった、父の雄々しい姿。追いかける人々の篝の炎に照らされた草木の色や、流れ出る赤黒い血の色まで、アリーは鮮明に思い返せる。
体が、小刻みに震える。そっと自分の体を抱くようにして見たが、震えは一向に止まらない。
「大丈夫?」
ラインハルトがアリーの肩にそっと手を置き、小声で心配そうに呼びかけてくる。不思議と、震えが止まった。アリーは、大丈夫だよ、とだけ小さく返した。
「この村の魔族が特に人間嫌いなのは、そのためさ。みんな、魔王様を奪った人間が、どうしても許せなかった。一時、反乱を起こしかねなかったくらいにね」
「反乱があったことなんて聞いたことがない。もしかして、あなたが抑えたのですか?」
「まさか」
先生が困ったような笑みを浮かべた。
「長をしてると言っても、ボクにそんな統率力はないよ。皆を何とか踏み止まらせたのは、死んだ魔王様の書き遺した言葉だよ」
「なんて、書いてあったの?」
おそるおそる、アリーは聞いた。
「無駄死にする暇があるなら、今をどう生きるか考えろ。たったそれだけだったけど、皆はしばらく動けなかったよ。唇を噛みしめ、震える拳を強く握りしめながらも、反乱の意思だけは捨てたんだ」
感慨深げに頷きながら言った先生の言葉を、アリーは何度も何度も反芻した。
父の言葉。それは自分に向けられたものではないが、アリーはそれを聞けただけでも心が休まる思いがした。つい最近まで、父の面影を夢に見ることはあっても、言葉を思い返したことはなかった。
――父様。私は、みんなと生きてられるのかな。
他と違う混血児である自分が、みんなと同じように生きていってもいいのだろうか。
そう問いかけてみたかったが、答えてくれる父はもういない。アリーはそれを、胸の内に秘めるしかなかった。
「それにしても、懐かしいなぁ」
先生が、アリーに視線を投げかけて、笑みを浮かべながら言った。
「君を見ていたら、魔王様がいきなり妻と赤子を連れてきた時を思い出したよ。魔王様は美男で、奥方もとてもきれいな人だったから、お似合いだったなぁ。ああでも、そういやその赤子は」
言いかけた先生が、急にハッとして口を噤んだ。先までの笑みはいつの間にか消え、顔には驚きの色がありありと浮かんでいる。
先生の黒い瞳が、アリーの深紅のそれを覗き込む。束の間目が合い、アリーは思わず目を伏せた。
なんで気づかなかったんだ。あまりにも小さい声で、それでも確かに先生がそう言ったのを、アリーは聞き逃さなかった。
「どうかしたのか、先生?」
男が首を傾げながら、問いかけてくる。先生は、ちょっと度忘れしただけだよ、と無理やり笑みを作ってはぐらかしていた。男は不審に思っていたが、先生が何も言わないから、黙って引き下がっていった。
「……そういえば聞きそびれていたけど、君たちはどうしてここへ来たんだい?」
少し間を置いてから、先生が唐突に話題を変えた。
「そ、それは僕が説明します」
あまりにも急だったことにラインハルトは戸惑っていたが、それでも何とか旅の目的を話していった。
アリーは、差し障りないように、その付き添いだと言った。あまり理解できないだろうことを語っても、仕方がない感じがある。
「成程ね。うん、わかった」
話を聞き終えた先生が、両手を軽く合わせて頷く。ぱちん、と少し乾いた音が鳴っては、すぐに空へと溶けた。
「それじゃあ坊や、この騎士君に村を案内してあげなさい」
「はあっ!? なんで俺が!」
壁から飛び上がるように離れた男が、驚いたような顔をして先生へと一気に詰め寄る。
それでも先生はどこ吹く風で、いたずらっぽい笑みを浮かべて男を見返している。
「なんでって、君が適任だからだよ。魔族の村を見て回るのに、まさか人間一人で行けるわけがない。魔族が付き添っていないと、いらない問題が起きてしまうかもしれないよ?」
「そりゃそうだけどさ、そんなのは先生がやればいいじゃねえか」
「おや、いいのかな? ボクがやったら、君はもう借りを返す機会がなくなるけど」
先生の言葉に、男が言葉が詰まったように息を呑んだ。
「彼らは今日はボクのところに泊めるとしても、明日には村を出ていくだろう。そしたら、もう会う機会はないのかもしれない。君は、明日からずっと今日の借りを胸に抱いて、歯ぎしりしながら生きていくことになるけど、それでいいのかな?」
「……ああ、もう! 案内すればいいんだろ、案内すれば!」
来い、と荒々しく言い捨て、男が足を踏み鳴らしながら外へ出る。戸惑いながらも、ラインハルトはその背を小走りで追っていった。
その背を追おうと、アリーは少し慌てて席を立った。だが、先生がゆっくりと行く手に立ち塞がってきて、アリーは一歩も踏み出せなかった。
「君は、残ってもらえるかな? 話したいことがあるんだ」
アリーを見つめる先生の瞳は、今日の中で一番真剣なものだ。アリーは黙って頷き、椅子にまた座り直した。
その先生の姿が、視界から一瞬消えた。
先生がいきなりひざまずいて、アリーを見上げている。その眼には涙が浮かんでいて、アリーはどうしたらいいのかわからず、ただただうろたえた。
先生も、なんて言ったらいいのかわからないのか、少しの間は何も言わなかった。
「……何から話せばいいのかな。それとも、お待ちしておりました、って言うべきなのかな」
いくらかの沈黙を破り、ひざまずいたままの先生が、目頭を押さえながら涙声で言う。
「巫女様」
先生の口から、言葉が呟くように漏れ出る。
しかし、自分が今なんて呼ばれたのか、アリーは一瞬理解ができなかった。




