5-5
旅は、アリーにとって何もかもが新鮮なものだった。
どこまでも広がる草原に目をやれば、たくさんの動植物が存在している。そよそよと吹く風は王都のように遮るものがないからか、そよ風でもほんの少しだけ強く感じたりした。
空の色も、どことなく明るい。晴れ渡る青空は、王都にいる頃よりもずっと澄んで見えた。
見慣れない光景に好奇心が刺激され、アリーは時々ラインハルトから離れて、草花や小動物を近くに見に行ったりした。
ただ、歩き慣れていないこともあり、宿屋に着いた頃にはアリーの足は悲鳴を上げていた。心なしか熱い足の痛みは、今まで感じたことがないもので、アリーはちょっと戸惑った。
旅の興奮が冷めると、アリーはひどい疲労と眠気に襲われた。食事もそこそこに布団に向かい、アリーはすぐに眠ってしまった。
目が覚めると、既に日は高く昇っていた。窓からそっと空を覗くと、既にお昼時を過ぎている。
慌てて身支度を整え、アリーは外に出た。ラインハルトがイデアルと何かを話していたが、アリーに気づくと、どちらも優しい瞳を向けてきた。
「よく眠れたかい、アリー?」
「う、うん。ごめんね、遅くなっちゃった」
「大丈夫だよ。寧ろ、初めての旅なんだ。元気だったら逆にどうしようかと思ったよ」
朗らかにラインハルトは笑っているが、アリーはどこか気恥ずかしくて、俯いていた。
「それより、足の方は大丈夫?」
「うん。ちょっと痛いけど、多分大丈夫だよ」
本当は結構痛かったが、アリーはどうしてか見栄を張りたい気持ちだった。二、三歩軽やかに歩いて見せて、問題ないと言わんばかりに、アリーはラインハルトを見た。
ラインハルトが、何故か困ったような笑みを浮かべている。
「そうか。じゃあ、軽く食事をとってから、出発しようか」
「ううん、いいや。あんまり、お腹が空いてないんだ。ラインハルトは?」
「僕は、もう済ませたんだ。悪いとは思ったんだけど……」
さっきまでの困った笑みはどこへ行ったのか、ラインハルトはバツが悪そうに笑った。
「じゃあ、行こうか」
言って、ラインハルトがイデアルに飛び乗る。そして、アリーに馬体を寄せては、手を差し出してきた。
「さあ、乗って」
「えっ。でも、私は歩けるよ?」
「そうかもしれないけど、イデアルの上から眺める景色も、悪くないものだよ」
言われて、アリーはまだ見たことがない景色に、思いを馳せた。
つまらない見栄を捨てて、アリーは差し伸べられた手をそっと握った。瞬間、ふわりと体が浮いたかと思えば、気づいた時にはイデアルの上に跨っていた。
アリーがちゃんと乗ったことを確認したラインハルトが、馬腹を蹴る。
「行くよ。僕に、しっかり掴まってて」
「う、うん」
そう言ったものの、どうすればいいのかよくわからず、アリーは戸惑った。馬に乗るのも初めてなら、誰かと一緒に乗るのもまた、当然初めてなのだ。
その間にもイデアルはゆっくり駆け出し、徐々に速さを増していく。
――こうしたほうがいいのかな。
少し恥ずかしいが、アリーはラインハルトの胴に両手を回し、抱き着くようにしてしがみついた。どうしてか、不思議と気持ちが落ち着いてくる。
「あ、アリー……?」
ラインハルトの声が、どこか上ずっている。背中越しに聞こえる彼の鼓動は、早鐘を打っているかのように間断なく鳴り響いていた。
「そ、そこまでしなくても大丈夫だよ。鎧を掴む程度でいい。それに、そんなに密着してたら、景色は見えないよ」
相変わらず上ずった声だったが、アリーはあまり気にせず、ラインハルトの言うとおりに鎧を軽く掴んだ。ラインハルトが、ほっとしたように息を吐いた。
そうすると、辺りを見渡す余裕が出てきた。
「気持ちいいね」
通り抜けていく風を感じながら、アリーは言った。
歩いている時とはまた違った緑の光景が、眼下に広がる。イデアルが駆けることで草花があっという間に通り過ぎ、一帯の緑が波立っているように見える。
歩いている時とは違った風景を、アリーは新鮮な思いでしばらく眺めていた。
「旅はどう? と言っても、まだ一日しか経ってないけどさ」
「すごく、新鮮な気持ちになるよ。私、今まで狭い世界で生きてたんだな、って思うよ」
「そうか。でも、辛くなったら遠慮しないで言ってほしい。アリーが苦しむのは、見たくないからさ」
振り返ったラインハルトの顔は、どこか悲しそうなものを孕んでいた。
――気を、遣わせちゃったな。
自分のちっぽけな見栄が恥ずかしくなって、アリーは顔を隠すために、ラインハルトの背中にもたれかかった。ラインハルトが動揺しているようだが、構わずアリーはしばらくそうしていた。
「私ね」
背中に顔を隠したまま、アリーは呟くように言った。
「いろいろなものが新鮮で、嬉しいんだ。初めての旅で、本当は足が痛かったりするけど、その痛みさえ新鮮なの。変、かな?」
そう言うと、ラインハルトが声をあげて笑った。
「そんなことはないと思うよ。誰だって、目新しいものには心が反応するものさ」
「そうなの?」
顔を上げ、アリーはラインハルトの横顔を見る。さっき笑った時そのままに、顔には笑顔が浮かんでいた。
「そうさ。僕だって、初めて苦しい稽古をした時は、辛いのに他の気持ちがあった。体がダメになると思ってもまだ動けて、こんなに動ける自分が意外に思えたよ。それでも、悪い気はしなかった」
ラインハルトが振り返って、しっかりと笑顔を見せる。
「つまりは、自分の感じ方次第さ。今、新鮮に感じるなら、それでいいんじゃないかな?」
「そっか。そうなんだね」
言って、アリーはまた、ラインハルトの背中にもたれかかった。やはり、この大きな背中は気持ちが落ち着いてくる。
暖かな日の光と、爽やかな風に誘われて、アリーはついうとうとした。ラインハルトは察したのか、何も言わずにイデアルを走らせ続けている。
まどろみの中で、アリーは父の幻影を見た気がした。父の、精悍な横顔。少しごつごつした、堅い背中。アリーがもたれかかる大きな背中は、とても温かくて、安心する。
「とう、さま?」
自分の父を呼ぶ声で、アリーはまどろみから覚めた。父の顔がラインハルトのそれに代わったが、アリーはいつものように寂しさに駆られはしなかった。
「起きたかい、アリー。もうすぐ、大集落だよ」
ラインハルトが、優しい笑みを浮かべながら言った。
眩い光に目を細めながら、アリーはラインハルトが指さした方へと視線を向けた。
少し遠くに、たくさんの田畑と木造の家々が見える。土を耕しているのか、何人もの男の人が畑で鍬を使っていた。
どれくらい眠っていたのだろうと思い、アリーは空を見上げた。日は、あまり高さを変えていなかった。ほんの一時間程度しか、経っていないのかもしれない。
「ねえ、ラインハルト。大集落って、どんなところなのかな?」
「実は、僕も行ったことがないんだ。けれど、父さんによく聞かされていたことがある。国が飢えることなく生きていられるのは、大集落の生産あってこそだ、ってね」
ラインハルトは、自分が知っていることをそのまま話してくれた。
この国を支える農作物の生産の大半が、この大集落で行われているという。人の数は王都や交易都市の次に多く、自ら大集落に住まおうと移住を希望する者も少なくない。来るもの拒まずの方針で老若男女問わずに受け入れるため、もしかしたらこの国で一番活気づいている場所かもしれない、とラインハルトは言った。
話が終わる頃には、大集落の入り口はすぐ間近まで迫っていた。
入口へ向かうと、村人の何人かとすれ違い、その誰もが笑顔を浮かべて挨拶してきた。ラインハルトがイデアルから降りて一礼し、アリーもそれに倣った。
旅の途中で訪れる人も多いのか、入口の近くに見える厩舎はかなり広めのものがいくつかあった。ラインハルトがイデアルを繋ぎ、手入れをしている間、アリーは他に繋がれたたくさんの馬を眺めていた。
「待たせたね。さあ行こう」
イデアルの手入れを終えたラインハルトが、大集落の中を指さしながら歩き始める。アリーはその隣を、遅れないように着いて行った。
中は、多くの人々が賑わいを見せながら過ごしていた。あちこちで、談笑しながら何かをこなしている。それは物作りであったり、収穫した作物の仕分けだったりと様々だ。
しばらく、中を歩き回った。
何人もの人にすれ違い、アリーはそのたびに顔を俯けたが、誰も気に留めた風がない。ちょっとだけ不思議に思って、気持ち顔を上げたら、その理由が何となくわかった。
「ねえ、ラインハルト」
「うん。僕も、驚いてる」
驚きを隠せずにラインハルトに声を掛けたら、似たようなものが返ってきた。
目の前に歩く二人の男が、談笑しながら肩を並べている。それだけならば何も気になるところではないが、片方の男は魔族特有の尖った耳を持っていた。
辺りを見渡してみれば、そこかしこに人間と魔族がいる。険悪なものや遠慮した風などは一切なく、同じ目線で過ごしているように見えた。
「あっ、あれ」
ふと向けた視線の先に、真っ赤な髪の子どもを見かけて、アリーは小さく声を上げた。
子どもは、両親と思われる男女に連れられ、笑顔で中を歩き回っている。それを見た周りの人たちも、一切の咎めることはしなかった。
――燃えるような赤の髪色と瞳は、混血児の証。人間でも魔族でもない、外れ者の証。
それが何故、受け入れられているのか。記憶の中の混血児は迫害の的だったから、アリーは少し混乱していた。
いつも頭に浮かぶのは、貴族にボロ雑巾のようにされても使われる、痛々しい姿ばかりだ。それはどこに行ってもそうだったし、王都にいた頃だって、混血児のことでいい話を聞いた覚えはなかった。
「こんなことが」
呟いたラインハルトの顔には、驚愕の色が濃く張り付いていた。
「あらあらあら。お若いお二人さん、そんなところでぼんやりして、どうしたのかしら?」
二人して呆然と立ち尽くしていると、妙齢の女性が近づいてきた。
紺のローブの上に白のエプロンをした、笑顔の素敵な女性である。片手に持ったかごには水に濡れた果物がたくさん入っていて、日の光がその雫を眩く反射させていた。
女性が、笑顔のまままじまじと二人を交互に見比べる。人に見られ慣れていないアリーは、すぐにラインハルトの後ろに隠れた。
「あらあらまあ、ごめんなさいね。この辺りでは、見ない顔だったから」
「ええ。僕たちは、旅の途中でここに立ち寄ったので」
「あらそうだったの。それじゃあ見ないはずだわ。でも納得。だから、この集落に戸惑ってたのね」
女性が、ころころと鈴を転がすように笑いながら言った。
アリーは、ラインハルトをちらりと見た。目が合い、互いの戸惑いを伝え合うと、女性に向き直って二人して頷いた。
「あらあら、正直なのねぇ。でも、ここに初めて来た人はみんなそういう反応をするわ。私たちからすれば、普通のことなのにね」
「普通、なの?」
ラインハルトの後ろから恐る恐る顔を出し、アリーは口を開いた。
にこりと、女性が小さく頷きながら笑った。
「そう、普通なの。この大集落はね、昔からいろんな人たちが一緒に暮らしてきているわ。人間族も魔族も、混血児でさえもね」
「それって、大丈夫なの?」
アリーが母と旅をしていた頃は、魔族が村に来るだけで追い出そうとする有様だった。混血児に至っては、騎士団や上位の貴族に引き渡そうと、捕えようとしてきた。
アリーの心配を悟ったのか、女性は首を大きく縦に振った。
「ここはね、特別なの。公にはしてないけど、王様だって、認めてくれてるのよ」
「それは、ここが一番物を作り、国に献上しているからですか?」
ラインハルトが、割って入るようにして言った。
それもあるけど、と女性がちょっと困った笑みを浮かべた。
「この集落はね、巫女様が生まれた場所なのよ」
「巫女様?」
アリーの声とラインハルトのそれが重なり、二人は顔を見合わせた。巫女の名は、これまでに聞いたことがない。
嘆息し、女性が瞳を伏せる。艶のある長いまつげが、どことなく愁いを帯びたもののように見えた。
「そっか。集落で生まれた子じゃないと、巫女様のことも知られないのね。そういえば、他の人も興味を示さないっけ。大集落って呼ばれてても、やっぱりみんな、農作物や交易品ばかりに目が行くんだろうなぁ」
女性の声は、少し沈んでいた。
「ねえ、巫女様のお話って、どういうお話なの?」
「あらあら、興味を持ってくれるの?」
女性の顔が、パッと明るくなった。
「うん。何だか、気になるんだ」
「だったら私に聞くより、長老様に聞いた方がいいと思うわ。私たちは、物語を聞くようにして教わってきたけれど、長老様だったらずっと深く教えてくれるはずよ」
そう言って、女性は長老の住まう家の場所を丁寧に教えてくれた。村の最奥にあり、目印はひと際古い大木と寄り添うようにある家屋。見れば、すぐにわかるという。
「ありがとう、お姉さん」
「あらあらあら、いいのよ。巫女様に興味を持ってもらえて、私は嬉しいのですもの」
女性がにこりと笑う。引き込まれるようなその笑顔は、とても眩しかった。
「それにしても」
眩しい笑顔に、ちょっとからかいに似たものが浮かんだ。
「その素敵な騎士様は、旦那様なのかしら?」
「なっ!?」
ラインハルトが大きく声を上げて、その声にアリーは驚いた。
その様に、女性は口元を押さえて笑っている。
「あらあら、違うのね。そんなに真っ赤になっちゃうなんて」
「ぼ、僕たちは、ただの友達で! そ、そうだよね、アリー」
慌てたラインハルトの勢いに押されて、アリーは流されるままに頷いた。
――ただの友達、だよね。
ちょっとだけ寂しい思いが胸によぎって、アリーは内心で戸惑った。どうしてそんな気持ちになるのか、理由が分からない。
ふと視線を感じ、アリーはその方へと目を向けた。依然として、いたずらっぽく笑みを浮かべている女性が、アリーを見つめている。
「あらあらまあ、ただのお友達なんだ。でも、とってもお似合いよ、二人とも」
「か、からかわないでください!」
耳まで真っ赤にしたラインハルトを、女性はクスクスと笑い、それから止めていた足を進め始めた。
アリーとすれ違いざまに、女性がぼそりと呟いた。驚いて振り返ると、女性がにこりと笑いながら、手を振っていた。
「じゃあね。長老様によろしくね」
呆然としている二人をよそに、女性の姿はどんどん遠ざかって行った。
しばらく、沈黙が続いた。
女性の言葉を妙に意識してしまって、少し気まずい空気が流れている。
「と、とりあえず、長老が住まう場所に行ってみようか」
「う、うん。そうだね」
ラインハルトの言葉もアリーが返す言葉も、やはりどこかぎこちなかった。
――あなたにきっと気があるから、逃がしちゃダメよ。
照れた顔を隠すように前を歩くラインハルトを追いながら、アリーはさっき言われたことを反芻していた。
気がある、誰が。ラインハルトが、私に。
それがどういう意味なのか、世間をあまり知らないアリーでも、何となくわかる。
俄かには、信じられなかった。そもそも、そういった感情がどういうものなのか、生まれた時から持ち合わせている知識を探りに探っても、明快な答えは出てこない。
仮に、ラインハルトの気持ちが本当だったら。妙に恥ずかしくなって、アリーにはどうしたらいいのかわからなかった。
――私は、どう思ってるのかな。
考えてみようにも、心が大きく動揺していて、改めて向き合うことができない。ラインハルトのことを考えようとすると、どうしても何かが邪魔をしてくる。それが、とてももどかしい。
「いつか、わかるのかな」
ラインハルトに聞こえないように呟き、アリーは溜息を吐いた。自分のことなのにわからないのが、気分を重くさせている。
もやもやしたものを抱えながら、アリーはラインハルトの背を追っていった。




