5-6
一目見ればわかるという意味が、よくわかった。
奥に奥にと進んで行けば行くほど、遠くに見えていた緑がどんどん大きくなる。それが大木から広がる緑だと気づいたのは、目的の場所に大分近づいてからだ。
遠目にだが、確かに家屋も見えている。長老がいるという場所は、まず間違いがなさそうである。
やがて、大木の下にまでアリーとラインハルトは辿り着いた。
「すごいね、ラインハルト」
さっきの動揺も忘れるくらいの大木の緑に、アリーは圧倒されていた。
古い大木というから、枯れ気味の木を想像していたが、まったくそんなことはない。大集落の四分の一は覆ってしまいそうな緑の数は、大分生き生きしているように見えた。
ラインハルトも動揺を吹き飛ばされたのか、言葉もなくただ頭上を見上げるばかりだ。
これだけの枝葉を支える大木の幹が気になって、アリーはゆっくりと近づいて行った。
立派な、太い幹である。大分古いようだが、まだまだ元気は失われていないように見える。
アリーは、その幹にそっと触れた。ざらざらした感触が手に伝わった時、不意に耳鳴りに似たようなものがアリーを襲った。
視界が、一瞬白くなる。一度瞬きすると、次にアリーの目に映ったのは、さっきまで見ていたものとは異なる景色だった。
大木は姿を消し、代わりに古びた小屋が建てられている。しかし、他に人の姿はなく、ラインハルトも見当たらない。
アリーは戸惑い、思わず自分の手を見て、絶句した。透き通っている。手だけではない。自分の体全てが、反対側が見えてしまうほどに透明なのだった。
訳が分からず、アリーはただ立ち尽くした。立ち尽くしたというには、今ここに立っている感覚さえも不明瞭だ。地に足がつかず、妙にふわふわした感覚は、不安ばかりを駆り立てる。
少しの間、あちこちを見渡していると、小屋の中から小さな女の子が出てくるのを認めた。別の誰かがいることに内心ほっとし、アリーは声をかけようとしたが、何故か言葉を口にすることはできなかった。
――どうしちゃったんだろ、私。
不安が募るまま、その少女に目をやる。少女にはアリーの姿が見えていないのか、まったく気づいた風はない。
少女の姿に、アリーは驚いて目を丸くした。深紅の瞳に、背中まである銀色の髪。アリーと、同じものを少女が持っている。
ただ違うのは、着ているものが大分ボロボロなのと、肌が見えている部分が傷だらけであることだ。表情は愁いを帯びていて、双眸は暗いものが覆っているように見える。
その少女の許に、何人かの子どもたちが駆け寄ってきた。しかし誰もが、いい顔をしていない。からかったような顔や、時には嫌悪に満ちた顔で、口汚く少女を罵っている。
化け物の子ども。そう言われた少女が、一瞬子どもたちを睨んだが、すぐに瞳を伏せた。怯んだ子どもの一人が震えながら少女に近づき、その銀の髪を無造作に引っ張った。
少女が痛がるが、子どもはやめようとしない。他の子どもも、石を投げたり、叩いたり、罵声を浴びせたりしている。
事に気づいた母親らしき女性が、小屋から飛び出してくる。いじめがやみ、子どもが逃げ去った時には、少女は痣だらけになっていた。
子どもが去って行く方向をじっと見据える少女を、女性が勢いよく抱きしめた。
ごめんね。涙ながらに、女性は何度も何度も少女に謝っていた。
少女が振り返り、にこりと笑う。
――母様のせいじゃないよ。ううん。誰も、悪くないんだ。私が、みんなと仲良くできないのが悪いんだ。
一切涙を見せずに言う少女の言葉に、母親は一層彼女の体を強く抱きしめていた。
抱きしめられた少女が、空を見上げながらぽつりと呟く。
――いつか、みんなが仲良くできるようにしたいな。ううん。絶対に、してみせるよ。
少女の声が空に消え入るのと同時に、アリーの視界はまた白くなった。
次の瞬間には、さっきまで見ていた大木が眼前に現れていた。後ろには、呆けたように頭上の枝葉を見上げるラインハルトがいる。
アリーは恐る恐る、自分の手を見た。何の変哲もない、普通の手である。アリーはほんの少しだけ、安心した。
「何だったんだろ、今のは」
口から絞り出した声が、心なしか震えている。
あの光景が何だったのか、考えてもわかるはずがない。わかるはずがないのに、アリーの胸はずきずき痛んだ。
どうして。自分に何度問いかけても、答えが返ってくることもない。
「どうしたんだい、アリー?」
ラインハルトの声が、いやに大きく聞こえる。肩に手が軽く乗せられ、アリーは大きく肩を震わせて、思わず勢いよく振り返った。唖然としたラインハルトと目が合って、アリーはばつが悪くて俯いた。
「もしかして、気分でも悪い?」
ラインハルトが、心配そうに問いかけてくる。
「う、ううん。この大木に圧倒されて、ぼんやりしてただけなんだ。それで、ちょっと驚いちゃって」
「本当にそうなのか? 顔色がちょっと悪いけど」
「ちょっと、疲れただけだよ。気にしないで」
そう言っても、ラインハルトの表情は晴れなかった。
どう言えば納得してくれるか。アリーがちょっと考えていると、不意に家屋の扉が軋んだ音を立てて開いた。アリーもラインハルトも、自然とそちらの方へと視線を向ける。
中から出てきたのは、大分歳がいっているだろうと思える背の低い老人だった。腰は折れ曲がり、手に持つヒノキの杖は、心なしか震えている。真っ白になった眉と口周りと顎の髭は長く伸び、双眸は隠れ、髭は胸元まで伸びていた。
ただ、ひと際目立つのは、普通よりもかなり長い尖った耳だろうか。
その老人が、アリーたちに気づいて、低い声で笑った。その声で、この老人がおじいさんであることがわかった。
「ほっほ。立派じゃろう、この大木は。もうどれくらい生き永らえているのか、このわしにもわからんほどじゃ」
「おじいさんって、もしかして長老様?」
「いかにも。この大集落で、長く長老を務めさせてもらっておる。かれこれもう、二百年くらいかのう」
何でもないことのように言う長老の言葉に、アリーはラインハルトと顔を見合わせた。
二百年という数字は、まだ二十年も生きていないアリーからすれば、まったく想像できないものだ。しかも、長老を務めているのがその長さなのだから、この老人はもっと長く生きているのに違いない。
アリーは、さっきの女性が言った意味を何となく理解した。
「ねえ、長老様。私ね、巫女様についてお話を聞きたいの」
「ほう」
唸った長老の、眉が大きく動いた。隠れていた双眸がちらりと現れ、大きく見開かれているのが、アリーには辛うじて見えた。
「巫女様を知りたがる旅の者は、久しぶりじゃのう。さては集落の者に聞いて、興味を持ったか」
「うん。この大集落が誰でも暮らせるのは、巫女様が生まれた場所だからって聞いたんだ。巫女様って、そんなにすごい人だったの?」
「それはもちろんじゃ。今、この国が豊かであるのは、巫女様が命懸けで和平の道を探ってくれたからなのじゃ」
一度言葉を切って、長老は遠くを見つめる。わしも爺様が聞いた話を聞いただけであまり多くは知らんが、と前置きしてから、長老が話を始めた。
「この国はのう、わしの爺さんが生まれた頃よりも遥か昔に、魔族によって支配されておったのじゃ。魔族が自慢の魔法で、人間族を好き勝手虐げてな、それはもう酷い有様だったそうじゃ」
じゃが、と長老は大木に近寄り、そっと撫でながら続ける。
「一番虐げられていたのは、この国の大地そのものじゃった。魔族が操る魔法は、大地の生命力を使って発現する。それを知っていても、魔族は魔法を使い続け、人間たちを支配し続けた。国が亡んだら、また別の国を支配すればいい。そんな考えだったために、一部の自然は枯れ果て、そこに住まう自然の住民たちは、皆死に絶えてしまった」
長老の声に悲しげな響きが混じったが、それもすぐに消えた。
「最早国が滅び、魔族が去るのを待つしかないと、人間が諦め始めたそんな時に立ち上がったのが、巫女様じゃ。大昔のこの集落で生まれた娘でな、ある予言士にいずれ国を大きく変えるだろうと言われ、大切に育てられていたその娘は、知らず知らず巫女様と呼ばれ、崇められていたそうじゃ」
長老が、もう一度言葉を切って、息を吸った。
「巫女様は、博愛のお方だったそうでな。人間と魔族が手を取り合ってほしくて、魔族と人間族の王に単身で会いに行ったそうじゃ」
「たった一人で?」
「うむ。巫女様は集落の中では崇められていても、彼女に従って魔族に物申そうという者はたった一人さえいなかったのじゃ。それも仕方があるまい。当時、人間族は魔族を恐怖し、忌み嫌っておった。魔族は魔族で、人間などこれっぽっちも顧みていない。手を取り合うなど、およそ考えられないことだったのじゃよ」
「それでも、巫女様は行ったんだね」
長老が大きく頷いた。
「どれほどの苦労があったのかは伝わっておらぬ。じゃが、巫女様は魔族の王を見事に説得した。魔王は人間族を解放し、それどころか人間族の王と力を合わせ、魔力を制御するまじないをこの国にかけたそうじゃ。それがどんなものなのかはわからぬが、結果として魔族は魔力を弱体化させられ、この国は滅亡から救われたのじゃ」
「魔族は、そのことに納得したの?」
「したのだと、わしは思うよ。魔族の全てが、粗暴というわけではないのじゃ。わしの爺様の爺様だって、魔法が弱まってよかったと言っておったそうじゃ。魔法を使いすぎることで知らず知らず生命を搾取していると知った時、爺様の爺様は深い後悔に苛んだと聞いたわい」
それに、と老人が気持ち胸を逸らして、誇らしげに言う。
「当代の魔王はえらく強くて、格好良かったらしくてのう。逆らう者など、殆どおらんかったそうじゃ」
「ふふっ、そうなんだ」
「うむ。わしの若い頃には及ばんと思うがのう」
老人が大きく頷き、顎の髭を撫でながら自信たっぷりに言った。
その言葉にどう反応すればいいのか困って、アリーはラインハルトに目をやった。瞬間、視線が交わる。ラインハルトも同じ気持ちだったようで、二人して少しの間困ったように笑った。
「ま、まあ何はともあれ、国を救った救世主として、巫女様は讃えられるようになったのじゃ。人間族の王が想像を絶する褒美を賜ろうとしたほどにのう」
一度咳払いをして、長老がごまかしがちに話を戻した。
「じゃが、巫女様は受け取らなかった。代わりに、自分が生まれた集落を、誰でも住んでいい場所にしたいと願い出た。人間も魔族も、誰であっても。王は喜んでそれを認めてな、自身も協力したそうじゃ。以来、紆余曲折ありながらもこの集落は徐々に栄え、今ではどんな者でも受け入れる大集落となったのじゃ」
「だからなんだね。この集落に、混血児もいるのは」
「そうじゃよ。巫女様がこの集落の礎を作って下さったお陰で、わしは今、多くの人をこの地に受け入れることができる」
長老が、アリーに視線を投げかける。長く伸びた眉のせいで双眸は見えないが、真剣な眼差しを向けているのは、何となくわかった。
「わしはな、巫女様が願った平和を守りたくて、長老をやっておる。皆、この地に生きておるんじゃ。誰でも、笑って生きてほしい」
じゃが、と長老が視線を地に落とす。
「悲しいことに、ここの集落にいるのは、心にあまり傷を持たぬ者達じゃ。人に虐げられ、蔑ろにされて傷つき、恨みを持ってしまった者たちは、他に安住の地を求めて近寄ろうともせん。魔族も、混血児も、そして人間族でさえもな。皆を平等に扱うこの集落は、もしかしたら眩しすぎるのかもしれんのう」
寂しげに言う長老の言葉に、アリーもちょっとだけ寂しい気持ちになった。
アリーは何か言いたかったが、うまく言葉にできなかった。その間にも、長老は言葉を継いでいく。
「思えば、いつからかこの国は、人間族が上に立つようになったのう。差別も偏見も、昔と比べたら多くなった。時と共に、国の形は変わってしまった。巫女様も、その理想も、いつかは遠い夢のように忘れられてしまうのかもしれんなぁ」
「そんなことはありませんよ」
不意にラインハルトが、長老を強く見据えながら言った。
「伝え、受け継ごうとする者がいる限り、大切な人や理想を忘れたりしません。仮に、もしも忘れそうになったら、また誰かに語ればいい。聞いてくれた人がいれば、その人がまた別の人に語っていく。そうやって、大切なものは残っていくのだと思います」
力強い言葉に、誰もが押し黙った。ラインハルトも言いたいことは言ったのか、口を真一文字に引き結んで黙ってしまった。
「……お若いの、なかなか言うのう」
長老が口を開いたのは、少ししてからだった。
「その通りじゃな。大昔のことなど、語り継がなければ消えるに決まっておる。当時の理想ならば、尚更じゃ。そんな簡単なことにも思い寄らんとは、まったく年は取りたくないものよ」
曲がった腰を気持ち伸ばしながら、長老がラインハルトを見上げるように見た。
「わしは、集落の者に語ることしか、頭になかった。旅人の目には、見える物しか映っていないと思い込んでいたからのう。じゃが、違うかもしれん。おぬしたちのような、物好きもいる。これからは語り部にでもなって、より多くの者に聞かせてやろうかの」
「私は、その方がいいと思うな。きっと、たくさんの人が聞いてくれる。そしたらその人たちが、きっと別の人にも語ってくれるよ」
「そうなれば嬉しいのう」
口元に笑みを浮かべながら、長老が言った。
ふと、長老が空を見上げる。つられて、アリーも同じようにした。
いつしか空は茜色に染まり、遠くに見える太陽は燃えるように輝きながら沈んでいっている。
「もうそろそろ、宿を探した方がいいぞ。大集落とはいえ、泊まれるところは限られてくる。ここは旅人が多いから、運が悪いと野宿になりかねんぞ」
「それはよくないな。行こう、アリー」
アリーの足を一瞬ちらりと見たラインハルトが、長老に一礼して背中を向けた。
「あっ、待って」
アリーも長老に一礼し、速足で歩くラインハルトを追いかける。
最中、背中越しに長老の声が聞こえた気がした。
「言えなかったことがあるのは、悪かったのう。巫女様は、確かに国を救った。救ったが、守ることはできなかった」
けれどその声はあまりにも小さく、アリーはうまく聞き取れなかった。




