4-7
アリーは、家に閉じこもることが多くなった。
いや、少し語弊があるかもしれない。午前中はいつものように公園に行き、読書をしたり読み聞かせをしたりするのは変わらない。ただ、外に出ている時間は、前よりは長くなくなった。
ここ最近は、一冊の本を読むことに時間を使っている。
魔女。そう書かれた本を受け取ってから、七日が過ぎていた。
結局、商人はこの本を読み解くことができなかった。公園にやってきた商人の、ふくよかだった頬がげっそりとこけ、やつれて一回り縮んだような姿は、今でもアリーの目に焼き付いている。
使えるもの全てを駆使したが、結局何もわからなかった。そう言って本を差し出した商人は、どこか寂しそうだった。
――何かわかったら、おじさんにも必ず教えるね。
そう言ったら、商人は疲れ切った顔に優しい笑みを浮かべてくれた。けれどやはり、寂しさは隠しきれていなかった。
その日から、アリーは魔女の本を憑かれたように目を通した。
最初はほとんどわからなかった文字たちも、日が経つにつれて何となく理解できるようになってきた。一昨日より昨日、昨日より今日のほうが、読める文字は多くなっている。
「不思議だな。なんで、わかってくるんだろ」
一息入れた時にポツリと声が漏れ、アリーは自分の声なのに少し驚いてしまった。この七日間、本を読んでいる時は殆ど言葉は表に出てきていない。
もう、この本を何度最後まで読んだだろうか。読み返せば返すたびに、何かが掴めそうな感覚に陥る。頭の中ではぼんやりと情景が浮かび、しかしそれに手を伸ばそうとすると途端に消えてしまう。その繰り返しで、未だに断片的にしか分かったことはない。
何度も読んでいるうちに、アリーはこの本が五つの話で構成されていることに気づいた。大分古い本だから、ところどころ欠けているのは否めない。それでも、重要な部分は殆どが削れずに残っているように思えた。
出自、巫女、喪失、魔女、末路。読み取れたものに表題をつけるとしたら、こんな感じだろうか。この本には四つの挿絵があって、それぞれが違う光景を描いている。それらに当てはめると、その言葉が何となく合っているように感じた。
ただ、三つ目の喪失だけは、曖昧なものでしかなかった。この部分だけは損傷がひどく、文字は多く削れている。挿絵も、破れてなくなってしまっていた。それでも辛うじて読み取れたものから、アリーは何かを失った話だと解釈していた。
――けれど、やっぱりまだ曖昧だ。
それは三つ目に限らず、どの話にも言えることだ。部分的に読めたものをつなぎ合わせただけだから、それは仕方がないかもしれない。だが、何かを見落としてしまっているような感覚が、常にアリーの心へと纏わりついてくる。
アリーは、挿絵のあるページを順番に開いてみた。描かれている光景の中にあるのは、実際にありそうな、どこかの場所だ。
――ありそうな、じゃない。この場所は、存在している。
そんな声が聞こえた気がして、アリーは思わず周囲を見渡した。辺りには見慣れた自分の部屋しかなく、もちろん誰もいない。それでも聞こえた声は気のせいではない、とアリーは思った。
「もしも、どこかにあるのなら、行ってみたいな」
いや、行かなくてはいけない。自分の呟きを打ち消すように、アリーはそう思った。そこに行けば、何かがわかる。
ふと、一緒に開いていた地図にアリーは目をやった。いくつかの場所が、微かに光っては、すぐに消えた。
信じられないものを見た思いで目をぱちくりさせたが、その場所は一瞬でもアリーの目に焼き付いていた。もしかしたらそこが、行くべき場所なのかもしれない。
「ラインハルトに、会っておかないと」
ふと思い立って、アリーは外に出た。夕刻までにはまだ間があるのか、日はまだそれなりに高い位置にあった。
ラインハルトは、正式に親衛騎士の推挙を受けた。
それはレヴィアから聞かされていたことで驚きはしなかったし、そのために旅に出なくてはならないことを告げられても、淡々と受け入れるだけだった。
見識を広げるためという、よくわからない理由で旅に出されることには首を傾げたくなる思いはあったが、ラインハルトは深く考えることはしなかった。古くからのしきたりらしく、考えたところでわかるはずもない。
出立は二日後。父が唐突にそう命じたが、それさえもラインハルトはおとなしく受け入れた。
婚姻を告げられたあの日、ラインハルトは一人でじっくり考えた。納得できなくても、婚姻は避けて通れない。レヴィアの真意など当人にしかわからない。自分の心を無理やり納得させ、親衛騎士になる意味だけを、その日はしっかり考えた。
この腐りきった国の王を守る盾に、果たして自分がなりたいと思うのか。まずそこから考え、にべもなく否定する自分を、まず否定した。国を変えるということは、綺麗事だけで済むはずがない。自分でも信じられないような手の汚し方も、多分避けられないだろう。
それに何よりも、自分は王の人柄そのものを見たことも感じたこともない、とラインハルトは思った。これまで、ラインハルト自身は王とは距離がありすぎた。父のように、傍に行くことはできない。
そう考えると、親衛騎士になるのは好機とも言えた。王の器を量れれば、少なくとも変えなきゃいけないものの片鱗くらいは掴めるかもしれない。
まずは、なってみることだ。そう結論付けたら、ラインハルトは妙にすっきりとした。葛藤していた自分が、馬鹿らしく思えるほどだ。
ただ、その爽やかな気持ちも、ついさっきどこかに吹き飛んでしまっていた。
――あの娘のことは、この旅の中で忘れろ。決して、結ばれることはない。
出立の日時を告げた後、父は耳元で確かにそう言った。
自分がアリーと頻繁に会っていたことを知られていて驚いたが、それ以上に自身の気持ちまで察せられていたことが意外だった。
意外だった分、父への恨みがましい気持ちも大きい。アリーへの気持ちを知っていたのなら、何故唐突に婚姻を突き付けたのか。ラインハルトはその時、父に対してそう食って掛かった。
父は何も言わなかったが、ラインハルトに向けた射貫くような視線は、お前のためだと言っているように感じた。
しかしラインハルトは納得できず、父の前から駆け去った。これ以上顔を合わせていたら、余計な気持ちまでぶつけ合ってしまいそうだった。
あてもなく走り続け、気づけばラインハルトは平民街まで来ていた。
貴族街に戻れば、嫌でも父のことを思い出してしまう。ラインハルトは足並みを落とし、街を適当に見て回ることにした。
ラインハルトは、辺りをゆっくりと見て回った。巡回以外で平民街をじっくり見て回るのは、実は初めてだったりする。人々が多く集まり、活気に満ちた市場や町並みは、いつもと違って新鮮なものを感じさせた。
まるで御上りさんのように辺りを見て回っていたら、遠くに見知った顔を見つけた。
「やあ、ヨハネス。今日は君が巡回しているんだね」
駆け寄り、ヨハネスに笑いかけながらラインハルトは言った。
「ああ。それよりもラインハルト、親衛騎士に推挙されたそうだな」
「もう知っているのか?」
「ふん、当たり前だろう。この国の騎士にとって、親衛騎士は仰ぎ見るべき存在だ。推挙の話だけで、あっという間に広がるさ」
あまり面白くなさそうに、ヨハネスは言った。
実際、ヨハネスは面白くなさそうだった。顔はいつも以上に不機嫌そうで、引き連れている部下はどこか落ち着きがない。ヨハネスは激情を秘める性質だから、必然、言葉に刺々しいものがいつもより多くなる。ひょんなことで何か起きてしまうために、こういう時は部下たちは一切気が抜けないのだ。
ラインハルトは、一度考える素振りを見せた。そして、何となく思ったことを口に出す。
「もしかして、先を越されたって、思っているのかい?」
「黙れ」
ラインハルトが言い終わるよりも早く、重い一撃が腹に見舞われた。今日は生憎正装のままで、鎧をつけていない。まともに食らったヨハネスの拳に、想像以上の痛みが走った。
小さく呻き、ラインハルトはうずくまる。辛うじて見上げると、そっぽを向いたヨハネスの姿が目に入った。
「俺は、交易を差配する家の生まれだ。親衛騎士には間違ってもなれん。俺にだって、望むものはあるのにな」
口を尖らすヨハネスを見て、ラインハルトは彼が拗ねていることに漸く気付いた。
ごめん、と一度謝ると、ヨハネスは見上げるラインハルトの額を、一度指で弾いた。
「そんなことより、旅に出るのだろう、ラインハルト。いつだ?」
「ふ、二日後だよ」
ひりひりする額を押さえながら、ラインハルトは言った。
「そうか。では、明日の昼にでもお前の部隊を集めておいてくれ。お前が留守の間は、俺がお前の部下を預かることになった」
「本当かい? それはよかった」
自分の部下をどうするのかを聞いていなくて、ラインハルトはほっと胸を撫で下ろした。馴染みのあるヨハネスの下なら、部下たちも抵抗なく指揮に従えるはずだ。
未だ痛む腹を押さえながら、ラインハルトはゆっくりと立ち上がった。
「ラインハルト、旅には一人で出るのか?」
「そのつもりだよ。同行者はいてもいいって言われてるけれど」
「ほう、そうなのか。なら、アリーでも誘ったらどうだ?」
口の端でにやりと笑いながら、ヨハネスが言った。
からかい交じりに言っている。もちろんそれはわかっていたが、ラインハルトは自分の顔が異様に熱くなってくるのを感じた。もしもアリーと一緒に旅ができたら。一瞬それを思った時、心臓がひと際高く鳴り響いた気がした。
「な、何を言っているんだ!? 大変な旅かもしれないんだ。もし他に誰か連れて行くなら、ライアやレウスを連れて行くよ!」
「ふん、そうか」
そう言ったヨハネスはまだ、同じように笑ったままだった。
しばらくあれこれ反論したが、ヨハネスには一切通じなかった。
「さて、そろそろ俺は行くぞ。アリーによろしくな」
「よ、ヨハネス!」
怒鳴るように叫んでも、ヨハネスはやはり意に介さず、ひらひらと手を振りながら去って行ってしまった。
からかわれたことに苛立ったように見せながら、ラインハルトはヨハネスとは反対方向に足を鳴らしながら歩いて行った。実際は照れているのを誤魔化したいだけだったが、一体誰に対して取り繕うとしているのか、自分でもわからなかった。
歩きながら、ラインハルトはヨハネスが言ったことを反芻していた。
「アリーを誘う、か」
ヨハネスといた時は強く反発したが、その気がなかったと言えば嘘になる。ただ、自分が見識を広めるための旅に誘ってもいいのだろうかという気持ちが、それを邪魔していただけに過ぎない。
ダメでもともと、言ってみようか。ラインハルトは、ふとそんな気になった。その気になったら体は正直なもので、知らず知らず公園へと向かっていた。
公園がずんずん近づいてくる。自分が結構早く歩いていることに気づいたが、ラインハルトは緩めずに入口へと向かった。
次の曲がり角を曲がれば、公園の入り口はすぐである。夕刻までまだ間があるとはいえ、この時間にアリーと会ったことはない。それでも、公園に行くことにためらいはなかった。
「あっ」
曲がり角を曲がった時、瞬間二つの声が重なった。
早めていた足に力を入れて止め、ラインハルトは目の前の人物に意外な目をやった。アリー。彼女も少し急いで歩いていたのだろうか、いつもの色白な肌には朱が差し、息はいくらか乱れていた。
「奇遇だね、アリー。こんな時間に会うなんて」
アリーの息が整うのを待ってから、ラインハルトは言った。
「うん、そうだね。ラインハルトも、その格好で出歩くなんて、珍しいな」
「着替える暇もなく、飛び出しちゃったからね」
そう言ってから、ラインハルトは自分が親衛騎士に推挙されたことと、そのために旅に出なければいけないことを告げた。ただ、婚約のことだけは、言い出すことができなかった。
残念そうな反応をしてくれるかと思ったが、アリーは薄い反応を示しただけだった。
少し意外な思いと残念な気持ちに駆られながらも、ラインハルトは自分の気持ちを口に出そうとした。しかし、なかなか出てこない。喉に何か詰まっているような感じで、ひどい息苦しさをラインハルトは感じた。
ふと気づけば、アリーも何かを言い淀んでいるように見えた。控えめに伏せられた瞳は時折ちらちらとこちらに向けられ、それは不安に揺れているように見えた。
ラインハルトは、何故かアリーより早く言わなければならない衝動に駆られた。喉のつかえも、不思議と取れている。
「あの」
二つの声が、また重なった。二人して驚き、先を促し合った。しかし、互いに譲るばかりで、埒が明かない。ラインハルトは、自分が先に言うことを決めた。
「唐突で迷惑かもしれないけど、僕と一緒に、旅に出ないか?」
言った。言ってしまった。顔が熱くなるのをラインハルトは感じながら、それでもアリーからは視線を逸らさなかった。
アリーが、伏せていた瞳をパッと向けてきた。少し見開かれた瞳は、驚きと同時に、どこか歓喜に似たものを帯びているようだった。
「私を、誘ってくれるの? 本当に?」
「うん。君さえ、よければだけど」
もちろんだよ、とアリーが小さく頷いた。
「嬉しいな。私ね、本当はラインハルトにお別れを言おうと思って来たの。私も、旅に出なきゃいけなかったから」
でも、その必要もないね、とアリーは優しい笑みを浮かべながら言った。
頷きながら、ラインハルトは言ってみてよかった、と心の底から思った。同時に、ヨハネスに言った自分の言葉をふと思い出し、少し不安な気持ちにもなった。
「僕から言っておいてなんだけど、本当に大丈夫? 旅は、厳しいかもしれないよ」
「いいよ、大変でも。だって、一人で行くわけじゃないから」
何でもないことのように言うアリーに対して、ラインハルトはどこか照れ臭かった。
「それにしても、アリーも旅に出ようと思ってたんだね」
「うん。とても、大切な旅なんだ」
言ったアリーの表情に、ほんの少し影が差した。しかしそれは、ラインハルトが何だろう、と思う前に消えてしまった。
「ねえ、ラインハルト。どこか、行く当てはあるの?」
言われて、ラインハルトは戸惑った。正直な話、どこから見て回ろうか、まったく考えていなかった。とりあえず適当に見て回るつもりだったから、具体的な行き先が出てこない。
「あのね、ラインハルト」
腕を組み、考え込もうとしたラインハルトに、アリーはあまり間を置かずに問いかけてきた。
「私ね、行きたいところがあるの」
強い意志を感じさせる声に、ラインハルトは少し驚いた。
じっと見つめてくるアリーの顔は、これまで見たことがない真剣なものだった。




