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私を忘れて  作者: 千変万化
四章 「喪失と決意と」
23/125

4-6

 ラインハルトは呆然としていた。

 今日はいつもどおり父と稽古をするはずだった。だが、それがなかった。なかったばかりか、朝から来客があり、ラインハルトは身を清めて正装させられていた。

 今、目の前には、正装で身を正した父と王の側近の一人が、家の庭の真ん中で恭しく頭を下げ合っている。いつもは硬い表情の父の顔も、この時ばかりは少し柔らかなものとなり、ラインハルトには見せたことがない笑顔も見られた。

 だが、そんな珍しいものも、ラインハルトにはどうでもよかった。

 今、頭の中を支配するのは、側近が放った言葉だけだ。

「ラインハルト、何を呆けている。失礼に当たるぞ」

 父が表情を強張らせ、睨むようにラインハルトを見据えながら言った。しかしそれでも、動揺は抑えきれない。

「申し訳ありません、父上。それで、その……。あの方が何と仰ったのか、もう一度教えて頂けませんか?」

 自然と震える言葉を何とか出し切り、ラインハルトは父にすがるような視線を送った。

 父は、呆れたように溜息を一度吐く。

「お前に、リチャード国王陛下の娘を娶わせると仰せられたのだ。これは、王命だ」

 お前に拒否権はない。それが口に出ることはなかったが、父が確かにそう言っているのは、鋭すぎる視線で何となく察した。

 国王の娘、つまりは王女を娶る。何故そんなことになったのか、ラインハルトにはまったく理解できなかった。いくら父が王の親衛騎士の団長とはいえ、王の縁者になれる理由にはならない。王も、一介の騎士風情の家に王女を出すなど、普通ならば考えられないことだ。

 一体何が起きているのか。ラインハルトが考えている間にも、二人は話を進めていく。

「本日は、とりあえず顔合わせだけとさせて頂きます。婚姻の儀は、いずれ機を見て」

「そうして頂けるとありがたいですな。愚息はまだ、親衛騎士にもなれぬ未熟の身。まだ、通り過ぎなければならない道があります」

「存じておりますよ。もちろん陛下もご承知ですが、こういう話は早めにされよとの仰せでして。しかし、遅いですな」

 辺りを見渡しながら、側近が怪訝な顔をした。

「王女様は、すぐに後を追うと仰って、私を先に向かわせましたのに」

「きっと、準備に手間取られているのでしょう。陛下のご息女として、恥じぬ姿をと気を遣って下さってるのかもしれません」

「そうだといいのですが」

 側近が不安げな顔で、右に左にと行ったり来たりしては、懐中時計や日の高さを頻繁に確認している。時間が限られているのか、表情にはだんだん焦りが滲み出してきた。

 父は何も言わずに、目を瞑って待つばかりだ。心が揺れ動くラインハルトのことなど、一顧だにしない。

 ラインハルトは空に目をやり、一度深く溜息を吐いた。遠く見つめる空は、ラインハルトの心とは裏腹に晴れ渡っていた。

 その視界が、突如真っ黒に覆われた。

 訪れた闇にしては、両の目には不思議と温かなものを感じた。そしてそれは、とても柔らかかった。

 自分が誰かに手で目隠しされたことに、ラインハルトはすぐに気づいた。

 後ろで、小さな笑い声が聞こえる。その声は、心なしか幼いように思えた。

「お待たせしましたわ、ラインハルト様」

 パッと手が離れ、視界が瞬く間に明るくなり、思わずラインハルトは目を瞑った。目を瞑りながら、聞こえた声はやはり幼い、とラインハルトは思った。

 ゆっくりと振り返ると、小柄な少女が立っていた。その容姿に、少しだけラインハルトは目を惹かれた。

 年の頃は、十六、七くらいだろうか。輝くような金の髪に、作ったように整った顔立ちだが、顔にも仕草にもどこか幼さが残っている。身に纏う桃色を基調としたドレスは上品だが、この少女が着るとどこか背伸びした感がするのは否めない。

 目が合うと、少女が満面の笑みを浮かべた。笑うと幼さが目立ったが、そのあどけなさが妙にラインハルトの心に触れてきた。

「わたくし、国王陛下の次女にあたります、クリスティーナと申しますの。気やすく、クリスって呼んでほしいですわ」

 見上げてくる純真な笑顔に少しの意外さと気後れを感じながら、ラインハルトは一度直立した。

「王女様にご挨拶申し上げます。私は、ラインハルト・グランツと申します。この度は王女様自らお越し下さり、誠に恐縮の至りで」

「堅いですわ!」

 言葉の途中で、クリスティーナが大きな声で割って入った。精一杯背伸びをし、できる限り顔を近づけながら、頬を目いっぱい膨らませてラインハルトを睨んでいる。

「いずれわたくしたちは、夫婦になりますのよ! それなのにこんなに距離を置かれたのでは、気持ちの合わせようがありませんの! もっともっと、わたくしに歩み寄って下さいませ!」

「え、えーと」

 困り果て、ラインハルトは父と側近に視線を送る。側近はただあわあわしているだけで役に立ちそうもない。父は父で、目で好きなようにやれと言うだけで、何の助け舟も出してくれない。

 虚を衝かれ、動転する意識の中、ラインハルトは詰まっている言葉を何とか振り絞った。

「クリスティーナ、様……?」

「クリス、でいいですの! あと、敬語は一切禁止ですわ!」

 頬を膨らませたまま、クリスティーナはびしっとラインハルトへと勢いよく指をさした。

 その勢いに押されるまま、ラインハルトは無意識に頷いていた。

 クリスティーナがじっと見つめてくる。まだむっとしていて、それでいながら何かを待っているようにも見えた。

「……クリス、でいいんだよね。これから、よろしくね」

 ひと呼吸置いてからラインハルトがそう言うと、クリスティーナはパッと笑顔になって、ラインハルトの胸に飛びついてきた。

 胸に感じるふんわりとした柔らかい感触にどぎまぎしながら、それでいてどうしていいかわからず、ラインハルトはただされるがままでいるしかなかった。

 そんな中で、ラインハルトは彼女が何故自分の心に触れられたのかが分かった気がした。

 濁ったものがない、とでも言うのだろうか。クリスティーナの行動には、一切の打算がなかった。ただ、自分の思うがままに行動している。それは、汚れきった貴族が決して持ち合わせないものだ。

 純真無垢な子ども。そう形容するのが、クリスティーナに対しては妥当かもしれない。それは、ラインハルトとしては嫌いな部類ではなかった。寧ろ、好ましいと言っていい。

 クリスティーナが、笑顔のままラインハルトを見上げてくる。

「わたくし、一目見た時からずっとあなた様をお慕いしておりましたの。とてもお強いのに心がまっすぐで、わたくし、素敵な方だなって思っておりましたわ」

「そんなことはないよ。僕は強くないし、心は歪んでる。君が思ってるほど、僕は立派じゃないんだ」、

「いいえ、わたくしはそう思いませんの。あなた様は、いつだって国のことを考えています。巡回だって、熱心ですわ」

 国のことと言われてぎくりとしたが、クリスティーナにはやはり、濁ったものは感じられなかった。

 ジョシュアのことがあってから、ラインハルトは自分がどこか疑い深くなったような気がしていた。言葉の意味を、そのまま受け取れない。何に対しても一度疑ってしまって、そんな自分を見つめ返すたびに、ラインハルトは自身に嫌気がさした。

 唐突に、咳払いが聞こえてきた。側近が、渋い顔をして二度、三度とわざとらしく咳き込んでいる。思えばラインハルトは、ずっと抱き着かれたままだ。

 目で合図すると、クリスティーナが渋々離れた。口を尖らせ残念そうにしているその様は、まさしく拗ねた子供のそれと言っていい。

 側近がもう一度、今度はさらに大きく咳払いした。クリスティーナが、頬を膨らませる。

 嫌々そうにコホン、と小さく咳払いしてから、クリスティーナが居住まいを正した。

「今日は、軽い挨拶に参りましたの。正式な婚姻までには、まだ間があると聞いておりますわ」

 そうですわよね、と側近をじろりと睨みながら、クリスティーナが怒気を含みながら言った。

「そ、そのとおりございます。先ほども申しましたが、然るべき後に、正式に陛下からお達しがあるかと」

 一瞬たじろぎ、額に浮かんだ汗を拭うこともせず、側近が言った。

 クリスティーナが溜息をつく。側近は目を逸らし、代わりに懐中時計に目をやった。表情が、さっと変わる。

「王女様、そろそろお時間ですぞ。早くお戻りにならなければ」

「もうですの? まだお話足りませんのに」

「陛下から頂いた時間は、限られております。ささ、お早く」

 強引に促す側近に、クリスティーナはふくれっ面のまま頷いた。側近が去るのに合わせ、その背に着いていく。かと思ったら、急に振り返ってラインハルトの傍に駆け寄ってきた。

「今日はお話しできて、うれしかったですわ。次にお会いする時は、もっともっとお話ししたいですの」

「そうだね。僕も、クリスとはもっと話していたかったかもしれない。あんまり、そういう気持ちにはならないんだけど、何故か君とは話していたいと思ったよ」

 ラインハルトがそう言うと、クリスティーナは今日一番の笑顔を浮かべて、また抱き着いてきた。さっきも感じた柔らかい感触にはやっぱり慣れなくて、ラインハルトはどうしていいかわからなかった。

 助け舟のように、遠くで側近が、王女様と叫んでいる。一転して不満顔になったクリスティーナが渋々離れて、一度ラインハルトに手を振ってから側近の許へ駆け去って行く。

「私も城に行ってくる。陛下がお呼びなのでな」

 二人の背が消える前に、父が冷たい声で言った。

 ラインハルトの返事を待たずに、父は足早に二人を追っていった。何も言えず呆然としているうちに、三人の背はラインハルトの視界からあっという間に消えてしまった。

 誰もいなくなった庭の前で、ラインハルトはしばらく呆然と立ち尽くした。

 心が、どっと疲れていた。あまり長い時間の出来事ではないのに、何時間も経ったかのような錯覚を思わせる。

 心の整理は、やはりつかない。悪い子ではないとはいえ、いきなり婚姻を結べと言われても、やはり納得できなかった。

 ――何よりも、僕は。

 心に決めた人がいる。それはまだ片思いだが、揺らぎようのない事実だ。

「大変だったみたいだな、ラインハルト」

 落ち着いた低い声が聞こえて、ラインハルトは声のほうへと顔を向けた。長身の、尖った耳が目立つ壮年の男が、苦笑を浮かべながらこちらへ近づいて来ていた。

 レヴィア。それが、男の名だ。王国の親衛騎士にして副団長を務める、凄腕の騎士である。そして、ラインハルトの剣の師匠でもあった。

 ラインハルトは、思わず破顔してレヴィアに駆け寄った。

「レヴィア先生、いらしていたのですね」

「なに、君と団長の稽古を拝もうと思ってね。あわよくば私も稽古をつけてもらおうと思ったのだが、生憎でな」

 レヴィアが耳に手をやりながら、困ったように笑った。

 尖った耳が示すように、レヴィアは人間族ではない。どことなく色の黒い肌を持つこの男は、魔族の出だ。並外れた実力と不思議と人を惹きつけるその人柄によって、この男は魔族ながら親衛騎士の副団長にまで上り詰めた。

 国に虐げられがちな魔族が、何故この国の王に仕える気になったのかはわからない。レヴィアの過去を知る者は誰もなく、ラインハルトも今まで答えてもらったことがなかった。

 ただ、この魔族出身の男が副団長であることで、この王都にいる魔族は、他よりかは少しだけ優遇されていた。

「しかしラインハルト、お前も大変だな。ジョシュアが死んで間もないというのに、今度は婚姻とはな。まだ、旅も済んでいないだろう?」

「旅、ですか?」

 首を傾げるラインハルトに、レヴィアは意外な顔をした。そして、一人で納得したように頷く。

「そうか、お前は聞いていないのか。ラインハルト、お前は近々、親衛騎士に推挙される」

「えっ!?」

 唐突に言われて、ラインハルトは裏返った変な声が出た。

 それでも構わず、レヴィアは言葉を続ける。

「推挙されたら、その者はまず、この国を余さず回る旅に出ねばならない。最低でも半年。王の盾となるには、実力だけでなく、見識も深くなくてはならないからだ」

「ちょ、ちょっと待ってください! 僕が、本当に推挙されるのですか? まだ、一小隊長でしかないのに」

「お前の実力は、もう小隊長という小枠ではないのだ。それは稽古をつける私がわかっているし、おそらく団長が一番理解しているだろう。何より、推挙を言い始めたのは、団長なのだ」

「父さんが」

 正直信じられなくて、ラインハルトはどう反応していいのかわからなかった。今日は、ただでさえ混乱している。何を考えても、余計にわからなくなりそうだった。

 それを察したのか、ラインハルトの肩にレヴィアが優しく手を置いた。ごつごつした大きな手で、不思議と落ち着いてくる。

「いずれ、正式に下命されるだろう。その時は、しっかり各地を見てくるのだ。この国が抱えるものを、良いものも悪いものも、全てな」

「はい、先生」

 頷き、レヴィアが肩から手を離した。

「ところでだ」

 レヴィアの表情が、少し硬いものになった。空気がちょっとだけ張り詰める。ラインハルトには、不思議とそう感じられた。

「ジョシュアは君に、何かを遺さなかったかな?」

「何か、と言いますと?」

「そうだな、例えば本とか、形のあるものを受け取らなかったか?」

「いえ、何も。僕は、ジョシュアとは会話しかできませんでしたから」

 ラインハルトがそう言うと、レヴィアはそうか、と呟いたきりあらぬ方向を向いて黙ってしまった。何かを考えるような素振りを見せる彼の顔は、稽古の時よりも険しい顔をしているように見えた。

 怪訝な視線を向けていると、それに気づいたレヴィアが、表情を緩めてラインハルトに目を向けてきた。

「すまない、変なことを聞いたな。忘れてくれ」

「い、いえ」

 歯切れ悪くラインハルトが答えたのを見て、レヴィアが苦笑した。

 ――本当は、このことを聞きに来たのではないか。

 ラインハルトは、確信に似た思いでそう感じた。稽古など建前で、気になることがあったからラインハルトを訪ねてきたのではないのか。

 何のために。考えても、ラインハルトにはわからなかった。ただ、何となく不穏な気配だけは感じ取れた。

 それを察したのかどうか。困ったような笑みを浮かべたレヴィアが、さて、とひと声上げた。

「今日はこれで、失礼するよ。ラインハルト、しっかりと構えておくのだぞ」

「あっ、はい。ありがとうございます」

 レヴィアが頷き、そしてゆっくりと去って行った。

 一人になって、ラインハルトは改めて今日のことを考え直した。

 婚姻のこと、クリスティーナのこと、そしてレヴィアの真意。

 頭の中で、色々なことがぐるぐる回る。整理しようにも、考え直すだけでまた混乱してくる。頭が、ずんと重いような感じがした。

「非番だったな、今日は。よかったよ」

 考える時間は、いくらでもある。せめて、納得できる答えへの道筋をつけておきたい。

 しかし、深い疲労感がそれを邪魔してくる。頭の中は、やはり同じところを回ったままだ。

 今日が非番でよかった、とラインハルトはもう一度思った。

 少し眠ってしまおう。けだるくなった体を引きずるように動かし、ラインハルトは家の中に戻った。

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