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私を忘れて  作者: 千変万化
四章 「喪失と決意と」
22/125

4-5

 夢を見ていた。大切な人と、別れる夢。大好きだった人が、命を落とす夢。

 朧にかすむ光景の中で、その人が死ぬ姿だけは、不思議としっかり見えた。背中を剣で斬られ、無残にも首を落とされた。落とされたその人の首は、何故かジョシュアの顔と重なって見えた。

 やめて。そう叫んだ時、アリーは目が覚めた。

 全身が、びっしょりと濡れている。額には脂汗が滲み、吐く息は心なしか荒い。

「嫌な、夢だったな」

 呟き、夢じゃない現実があったことを思い出し、アリーは静かに涙を流した。

 ジョシュアが、処刑された。反乱の嫌疑をかけられて、何日か前に磔になり、串刺しにされていた。

 なぜ、とアリーは未だに思わずにいられない。折角できた友達を失った喪失感は、未だにアリーの心を締めつけている。

 ――それにしても。

 あまりにも現実的な夢だった、とアリーは涙を流しながら思う。剣の振り下ろされる音と、誰かが殺された時に、顔に飛んできた血の生温かさは、不思議と生々しく思い出せる。まるで実際にあったかのような感覚で、アリーは少し嫌な気分になった。

 気分を変えるために、アリーは濡れた寝間着を着替え、軽い朝食を取った。

 朝食を終え、アリーは椅子に座ってベルが聞こえるのを待った。今日は、本売りの商人が来る日のはずだ。今は、この気持ちを分かち合える人と話をしたい。

 ラインハルトとヨハネスは忙しいからなのか、ここ数日は公園に寄ってくれることはなかった。そもそも、巡回に出ている様子もない。

 響くようなベルの音が、遠くで聞こえた。アリーはすぐに身支度を整え、逸る気持ちを押さえながら外に出た。

 外は、くすんで見える。鈍色が広がった空がそう思わせるのか、心が沈んでいるせいなのか。アリーには、判断がつかなかった。

 広場に着くと、ベルの音はよく聞こえた。そよと風が吹くたびに、澄んだ音が辺りに響き渡る。今日は風が良く吹くから、ベルの音はなかなかやまない。

 本売りの店は、いつものようにあった。しかし、人だかりはない。代わりに、二人の男女が荷車二台と共に本売りの前に立っていた。

 あの時の二人である。しかしそれよりも、アリーは荷車に目が釘付けになった。

 ――凄い数。

 遠目からでもわかる、荷車に山積みになった本。それが二台ともなれば、相当の数が見込まれる。

 商人が困った顔をしながら、少し大きめの袋を差し出した。男が下卑た笑みを浮かべながら、それをひったくるように受け取る。女のほうはもう興味がなくなったのか、さっさと貴族街のほうへと歩いて行った。気づいた男が喚きながら、袋を振り回しながら女を追いかけて行った。

 二人が去って、商人は項垂れて深い溜息をついている。アリーはそっと近づき、商人の顔を覗き込むようにして見た。

「大丈夫、おじさん?」

「あ、ああ、アリーちゃんか。わたしはまあ、大丈夫だよ。あの二人を相手にするのは、やっぱり疲れたがね」

「お疲れ様。それにしても、すごい数の本だね。どこから持ってきたのかな?」

「わからない。こんな数の、しかもなかなか珍しいものが多いこの本の山を、一体どこで見つけたのか。私には、とんと見当がつかないよ」

 商人の言うとおり、見たことのない本がたくさんあった。古いものが多く目立ち、中にはボロボロのものもちらほら見える。それでも、珍しいものということだけは、アリーにも何となくわかった。

「それよりアリーちゃん、大丈夫かい?」

 商人がそう言った理由を察し、アリーは俯いた。まったく大丈夫ではないのは、それだけで伝わったかもしれない。

 そうか、と商人はため息交じりに呟いた。

「ジョシュア殿が反乱なんて、未だに信じられんよ。どれだけ熱い心の持ち主でも、拳の振り上げ時はわかっている人だった」

「そうだね。私も、そう思うよ。でも、死んじゃった。私、今でも信じられないよ。ううん、信じたくないよ」

 涙が、また溢れてきた。拭っても拭っても、それはとめどなく流れていく。アリーは拭うのをやめ、もう流れるのに任せた。

 商人も目頭を押さえ、鼻をすすっている。

 もっと、気持ちを共有したかったが、言葉が出てこなかった。ただただ辛くなって、言葉は涙に押しとどめられてしまっている。

 それはきっと、商人も同じなのだろう。口が何度か動いたが言葉にならず、結局は何も言わなかった。

 ――受け入れるしか、ないんだね。

 ジョシュアの話は、もうやめにするしかない。思い返せば返すほど寂しい気持ちになって、涙が言葉を奪ってしまうばかりだ。

 そう思うと、ほんの少しだけ勇気が出てきた。アリーはまだ流れる涙を拭い、山積みになった本に目をやった。

「いくつか、見てもいいかな?」

「あ、ああ。もちろんさ」

 頷き、アリーはいくつか本を手に取って眺めた。やっぱり、古いものが多い。中も、難しい言い回しのものが目立つ。それでも、目を通したのが小説や歴史書だから、読めないこともない。

 いくつめかの本を手に取った時、指にちくりと痛みが走った。少し慌てて手を引っ込めるが、何もなっていない。変だなと思いつつ、アリーはまたその本に手を伸ばした。今度は、何も起こらない。

 小首を傾げながら、アリーは手に取った本に目をやった。そして、驚いて目をぱちくりさせた。燃えるような、真っ赤な本だ。古めかしくボロボロだが、その真ん中に、引っかかりを覚える二文字が掠れながらも確かに綴られている。

「おじさん、これって」

「どうしたんだい、アリーちゃん?」

 顔を向けた商人の表情が、本を見た途端すぐに一変した。絶句し、口をあんぐり開けている。

 魔女。真っ赤な本には、確かにそう書かれていた。

「ちょ、ちょっと見せておくれ!」

 アリーが差し出す本を半ばひったくるように取ると、商人は夢中になって本に目を通し始めた。

 顔を真っ赤にし、鼻息荒くする商人は、大分興奮しているようだった。ページをめくる手は震え、めくり損なうこともしばしばだ。

 しかしその興奮も、すぐに治まった。

 商人が、諦め顔で本を閉じた。

「……ダメだ、読めない。見たことのない文字ばかりだよ。挿絵もあるみたいだが、見ても何が何だか。これじゃあ、本物かどうかもわからないよ」

「そうなの? そんなに、難しい文字なんだ」

「そうなんだよ。見ておくれ、これを」

 商人が本を開いて見せる。確かに、見たことがない文字が羅列されていた。珍しくて、アリーはそっと本の文字を撫でるように触った。

 刹那、頭の中で誰かが囁いた。

 ――読んだら、もう引き返せない。

 その声が聞こえた時、何故だか今なら文字が読める気がした。呪われた女の生涯。ところどころ掠れているが、このページの先頭には、そう書かれているように思えた。

 アリーは、内心で驚いた。大体は読めない文字ばかりだが、確かにほんの少しだけ読める。しかし、何故この文字が読めるのか、まったく見当がつかない。

 それでも、書かれた文字はアリーの心の何かに触れてきた。

 ――きっと私は、この本を読まなきゃいけないんだ。

 唐突にだが、アリーはそう直感した。文字を読めるということは、その権利を与えられたに等しい。同時に、読んでしまえばもう引き返せないという言葉が引っ掛かったが、それでもアリーは読みたい気持ちを抑えられなかった。

「なあ、難しいだろう? とりあえず読み解くしかないが、果たしてどれくらいかかるやら」

「ねえ、おじさん」

 意を決して、アリーは逆に問いかけるように言った。

 いつになく真剣な顔をしていたのだろうか、商人が珍しいものでも見るような顔をしている。

「ん、どうしたんだい?」

「私ね」

 一度口籠り、胸に手を当てる。心臓が早鐘を打ち、高々と鳴っている。それでも意を決して、アリーは再び口を開いた。

「この本を、買いたいな」

 アリーが言うと、商人が驚き、唸り声をあげた。そして、渋い顔をする。

 商人がこういう反応をするだろうと、アリーにはもちろんわかっていた。長年探していたものかもしれないのだ。そう簡単に、手放す気になるはずがない。

 ――でも、私にも多分、必要なんだ。

 アリーはもう一度、開かれたページの文字を手で撫でた。いくつかの文字が、何となく読める。呪われた女の生涯、語られない過去、魔女の末路。目にした文字を、アリーはゆっくりと呟くように言った。

 商人が驚きで目を見開き、アリーをじっと見つめてくる。

「まさか、読めるのかい、アリーちゃん……?」

「いくつかの文字を、読めるだけだよ。どうしてかは、わからないけれど」

「適当に言ったわけじゃ、ないのだね……?」

 頷き、アリーは商人を見つめ返した。動揺しているのか、商人の瞬きの回数は多い。

 商人があごに手をやり、何かを考えるような素振りを見せる。しかしそれは、長くは続かなかった。

「……何日か、時間をくれないかね? 少しの間ここに留まり、わたしはもう一度この本を読み解いてみる。それでダメだったら、アリーちゃんに譲ろう」

「本当に?」

「商人は信用が第一。嘘はつかないよ。ただし、わたしが解読できたら、その時は諦めておくれ」

 アリーは頷いた。そうなった場合は惜しい気持ちになるだろうが、商人の気持ちだって何となくわかる。わがままばかりを、言うわけにはいかない。

「それでなのだが、アリーちゃん。他に、読める文字はないかい?」

 商人に問われて本に目を通すが、読めそうで読めない。頭の中に靄がかかっているような感じで、何となく頭に浮かんだものを言葉にすることができなくて、アリーは首を横に振った。

 そうかい、と商人は残念そうに小さく言った。

 ざわざわと声が聞こえ、アリーは振り返った。いつの間にか、広場には人が増えてきている。荷車いっぱいの本を見た人が、興味本位で何人か近づいてきていた。

 日はもう、お昼をいくらも過ぎている。それを意識したら、アリーのお腹が小さく鳴った。アリーはお腹を押さえ、恥ずかしくて俯いた。上目遣いに商人を見ると、商人は困ったように笑っていた。

「そろそろお帰りかな、アリーちゃん」

「そうしようかな。ごめんね、今日は何も買えないや」

「いいんだよ。また次の時に、買ってくれればいいさ」

 頷き、アリーは商人に背を向けた。もう、人だかりができそうなくらい、街の人たちはたくさん集まってきている。すぐに離れようとしたが、商人がアリーの隣まで歩いてきて、ぼそりとアリーにだけ聞こえるように言った。

「アリーちゃん、いずれこの本を読み解けたら、お互いに情報を共有しよう。本の持ち主がどちらだろうと、それくらいは容易いだろう?」

「もちろんだよ」

 小さく返し、アリーは足早に商人から離れた。少し離れてから振り返ると、商人はいつものように忙しくお客と応対していた。

 ――それにしても。

 不思議な感じだった、とアリーは今でも思う。特にあの本を、文字を読んだ時は、誰かが一緒に読んでくれている、そんな感じだった気が今になってしている。その感覚も、商人に問われた時には消えてしまっていた。

 全て、魔女と書かれたあの本に触れた時からだ。自分はまた、あの本に目を通さなくてはならない、とアリーは確信に似た思いを抱いていた。多分、商人にはあの文字を解読することはできない。

 あの本を読み解けたら、自分に起きた不思議なことの正体が何なのかもわかるのだろうか。いや、きっとわかってしまう。アリーは何故か、そんな気がしていた。

 ――読んだら、もう引き返せない。

 聞こえたあの言葉を、もう一度口の中で反芻する。進む先に何があるのか。ほんの少しだけ不安に思いながら、アリーは帰路についた。

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