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私を忘れて  作者: 千変万化
四章 「喪失と決意と」
18/125

4-1

 明るい日差しが、窓から差し込んでくる。

 眠い目を擦りながら外を見て、アリーは困ったように笑った。いつもより、いくらも遅い。もう朝日は昇りきっていて、朝食の時間もいつもより大分遅れてしまっている。

「せっかく晴れてるのに、もったいないな」

 ため息交じりに呟き、少し急いで朝食を用意した。ロールパン一つと、野菜のスープだ。少食だから、アリーはこれでも問題はない。

 食事を終えたアリーは、お気に入りの本を何冊か持って、外に出た。

 最近は、毎日のように外の光を浴びている。公園へ行って、子どもたちに童話を読み聞かせたりすることは変わらないが、アリーには他にも外へと出る楽しみができていた。

 ジョシュアとヨハネス、そしてラインハルトが、声をかけてくれるようになったのだ。

 彼らは、町の巡回の時に立ち寄ってくれる。友達になってくれたあの日から、毎日とはいかないが、二、三日に一回は話をしに来てくれた。

 歳が近い人と話せるのは、アリーにとっては少し新鮮な気分になった。

 これまでアリーは、まともに話せる人がほとんどいなかった。商人や子どもたちがいたが、彼らだけではどうしても足りないものが出てくる。

 三人とも、話題には事欠かなく、アリーが知らないことをたくさん話してくれた。

 王都の外のことや別の町、これまで見てきたものなど、それぞれが違った見方で教えてくれた。ジョシュアは誇張を入れて面白おかしく話し、ヨハネスはただただありのままを伝え、ラインハルトは伝えたい事柄について自分の心を投影して語った。

 特にジョシュアとヨハネスは、不思議とラインハルトについて、しっかりと教えてくれた。

 どうして二人がそうしたのかは、アリーにはよくわからない。それでもアリーが知らない一面を聞くのは楽しかったし、どことなく嬉しい気分になったのは違いなかった。

 遠くでベルの音を聞き、今日は商人が来る日であることをアリーは思い出した。

 公園に向けていた足を広場へ向け、アリーはゆっくりと目的のところに向かった。

 広場の本売りの許には、相変わらず人だかりができていた。皆、思い思いに本を選んでいる。お客がいなくなるまで、アリーはやや遠くで待った。

 お客がいなくなったのは、それから少ししてからだった。

「アリーちゃん、お待たせだね」

 遠くでアリーが見ていたのを気付いていたのだろう。商人はアリーが近づいた途端に、顔を綻ばせながら言った。

「ううん、大丈夫だよ。だって、おじさんは逃げないもの」

「本じゃなくて、私かい? そりゃそうだねぇ」

 言って、商人が大笑いした。あまりにも大きく笑うものだから、アリーもつられて小さく笑った、

 笑っていた商人がぴたりと笑うのをやめ、少し意外そうな顔でアリーを見つめてきた。そしてすぐに、優しい笑みを浮かべる。

「何だか嬉しそうだね、アリーちゃん。いいことでもあったのかな?」

「いいこと。うん、そうだね。おじさん、私にね、ラインハルト以外のお友達ができたんだ」

 商人に、アリーはジョシュアとヨハネスのことを話した。

 二人の名が出た時、商人は嬉しそうに頬を緩めた。ラインハルトだけでなく、商人はこの二人とも親しいらしい。

 アリーは、本を見るのも忘れて、夢中で話を続けた。人とこんなに話したいと思うのは、もしかしたら初めてかもしれない。

「私ね、みんなには感謝してるんだ。この前までは、私の世界にはあんまり色がなかったの。くすんだ灰色の世界に、ぽつりぽつりと小さな色が添えられていただけ。その中で、私はただ立ち尽くしてたの。何にもしないで、ずっと」

 でもね、とアリーは空を見上げながら続けた。

「みんなが友達になってくれて、こんな私を見てくれて、やっと彩りが生まれたんだ。ちゃんと生きてるんだって、思えるようになったんだよ」

 見上げる空は、青く澄んでいる。白い雲は今日はどこにもなく、どこまでも青が続いている。

 こんな色も、少し前までは見えなかった。自分の異質な色以外は、ほとんどくすんで見えていた。晴れた日も曇った日も、これまでのアリーにはそれほど変わらなかった。読書の時や子どもたちと会う時には微かな色が付いたが、過ぎてしまえばすぐにくすんで元に戻った。

 そんなアリーに、ラインハルトたちは色を分けてくれた。今では、灰色の世界はどこか遠いものになっている。

「よかったね、アリーちゃん。いや、本当に、よかった……」

 目頭を押さえ、商人が声を上げて泣いた。

 どうしていいかわからず、アリーはただただ商人を見守るしかなかった。

 ――私のことなのに、こんなに泣いてくれてる。

 申し訳ない気持ちもあったが、それよりも嬉しい気持ちが勝った。商人の存在だって、アリーにとっては救いの一つだ。彼の心の底からの気持ちは、ちゃんとアリーの胸に響いている。

「そういえばね、私、おじさんに聞きたいことがあったんだ」

 商人が泣き止んでから、アリーは一冊の本を取り出しながら聞いた。

「この本って、どうしてタイトルがないのかな?」

「どれどれ?」

 受け取った商人が、まじまじと本を眺める。中身を開いてパラパラとページをめくる商人は、何故か怪訝な顔をしていた。

 商人が、一度首を傾げて唸り声をあげた。表情は、さっきと変わらない。

「……わからない。いや、この本を一体いつ仕入れたのだ……?」

「えっ?」

「アリーちゃん、私は自分が仕入れた本は一冊一冊、入念に点検するんだ。お客さんに、変なものを売るわけにはいかないからね。けれど、このタイトルのない本を確認した覚えがないんだよ」

 ラインハルト殿に売ったことさえ今の今まで忘れていたんだ、と商人は頭を掻きながら付け加えた。

 アリーにも、何が何だかわからなかった。商人がばつが悪そうに返してくる本を受け取り、小首を傾げてまじまじとそれを眺めた。

 相変わらず、タイトルだけが削られた、何の変哲もない本だ。中身をいくらかめくってみても、最初に読んだ時となんら変わらない。

 商人がぶつぶつと何かを言って考えているが、小さくて聞き取れなかった。アリーも、もう一度ぱらぱらと中身をめくって考えてみるが、やっぱり何もわからなかった。

「二人して何をやってるんだ? 端から見ると、ちょっと異様だぞ」

 ジョシュアが声をかけてきたのは、そんな時だった。

 任務の帰りなのか、ジョシュアの鎧は少し汚れ、傷ついていた。当の本人は何ともないのか平然としているが、目の奥の光が、いやに獰猛なものを孕んでいるように見える。アリーにはどんな任務だったのかはわからないが、ジョシュアからいくらか感じる鉄のにおいが、凄惨と呼べる厳しいものだったのは何となく察せた。

 少し、ほんの少しだけ、アリーは今のジョシュアが怖かった。

「ジョシュア殿か。いやなに、ちょっと不思議な本に出会ってね。記憶と激しい戦いを繰り広げているところさ」

「不思議な本? どれだい」

「これだよ、ジョシュア」

 微かに震える手で、アリーは本を差し出した。

 震えに気づいたのか、ジョシュアが困ったように笑いながら受け取った。眼の奥には、もうさっきの獰猛さはない。

「へえ、タイトルがないのか。中身は、別に変ったところはないな」

「そうだろう? まったく、不思議なものだよ。本当に、いつ仕入れたんだか」

「おいおい、そんな感じなのかよ? そりゃあ、しかめっ面にもなるな」

 苦笑いをしながら、ジョシュアは尚もページをめくっている。

 その手が、不意に止まった。

「どうしたの、ジョシュア?」

 呼びかけても、ジョシュアは返事をしない。難しい顔をしながら、あるページに目を注いでいる。

 不思議に思って、アリーはジョシュアの後ろから背伸びをし、覗き込むようにしてそのページを見た。少年と少女が、旅に出る少し前の話だろうか。確かそのあたりで、少年の親友が不慮の死を遂げてしまっている。

 アリーに気づいたジョシュアが、勢いよく本を閉じた。少し驚いて、アリーは半ば呆然としながら、ジョシュアを見上げた。目が合ったジョシュアは、すまないと弱弱しく呟いた。

「悪い、二人とも。ちょっと野暮用ができた。俺はもう、家に帰るよ」

 アリーに本を渡し、ジョシュアが駆け去って行く。アリーも商人もただ呆気に取られ、声をかけるのも忘れてその背を見送った。

 ジョシュアの背が遠くに消えてから、アリーは商人と顔を見合わせた。何が何だかわからない。お互いの瞳は、それしか物語っていなかった。

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