3-6
ラインハルトは二人の部下を連れ、下界を後にした。
平民街に戻ったのは、丁度昼時だった。やはり、空の色が違う。下界と比べると、いくらか澄んで明るいもののように見えた。
「どうだ、二人とも。ちゃんと、心に刻めたかい?」
歩きながら、ラインハルトは二人に声をかけた。
「はい。私は私なりに、この国の闇を少し理解したつもりです」
「自分もです。騎士が本当にしなければならないことを、今一度考えてみようと思いました」
真剣な眼差しで口にする二人を見て、彼らを選んでよかった、とラインハルトは思った。将来を嘱望しているだけでなく、彼らにある心根の優しさを、ラインハルトは何よりも強く育てたいのだ。
「それにしても、隊長は強くて憧れるなぁ」
「本当にな。自分じゃ、あの大男を押し返す自信はないよ」
二人が誉めそやすのを聞いて、ラインハルトは少し恥ずかしい気持ちになった。しかし、悪い気はしない。
――そういえば、名前を聞くのを忘れたな。
うっかりしていたが、巡回に出ればまた会う機会もある。名前は、その時に改めて聞けばいい。
昼時ということもあって、ラインハルトは二人を先に休憩させた。少し長めの休憩を命じ、二人は戸惑っていたが、報告書作りに活かせと言うと、納得した。報告書の作成は、巡視隊には欠かせない仕事だ。新米である彼らには、まだその経験がない。いくらか多く時間を与えて、まずどう書けばいいのか考えてみるべきである。
ふと、自分のお腹が小さな音を立てた。ラインハルトは思わず周りを見渡し、誰もいないのを確認すると、ばつが悪そうに頭を掻いた。
自分も昼食を取ろう、とラインハルトは足を進めた。
公園の傍を通りかかった時、聞き覚えのある声が聞こえて、ラインハルトは思わず立ち止まった。
声のほうに目を向けると、四人の子どもとベンチに座っているアリーの姿が見えた。
話しているのかと思ったが、少し違った。子どもの頃に聞いた物語の一説が聞こえてくる。どうやらアリーは、童話の読み聞かせをしているらしい。
――それにしても。
優しい声である。心を蕩かすようなその声は、ずっと聞いていたいような錯覚さえ覚えさせる。
しばらくラインハルトは眼を瞑って聞いていたが、その声が不意に止んだ。どうしたのか、と思って眼を開くと、子どもたちが去って行く姿が見えた。そういえば、もう昼時をいくつか過ぎている。
その背を見送ったアリーが立ち上がった。
「アリー」
後ろから声をかけると、アリーがゆっくりと振り返った。振り返った彼女の顔には、優しい微笑みが浮かんでいた。
「こんにちは、ラインハルト。今日はお休みなの?」
「いや、任務の間の休憩中だよ。ここを偶然通りかかったら、アリーの声が聞こえてね。声をかけたんだ」
「えっ。じゃあ、私が読み聞かせをしてたのも、もしかして聞いてた?」
「う、うん」
頷くと、アリーがちょっとだけ恥ずかしそうに俯いた。上目遣いでラインハルトを見る彼女は、頬を少し赤く染めていて、妙な愛らしさがある。思わず胸が高鳴り、それでもラインハルトは平静を装った。
「ちょっと、恥ずかしいな。あの子たちに聞かせるのは、何でもないのだけれど」
「ご、ごめん」
不思議と罪悪感が湧いてきて、ラインハルトは深々と頭を下げた。
頭を上げると、きょとんとしたアリーと目が合った。少しの間見つめ合って、何となくおかしくなって、ラインハルトは声をあげて笑った。アリーも声こそ上げなかったが、小さく笑っていた。
「そういえば、あの本は読んだかな?」
ひとしきり笑ってから、ラインハルトはあの時の本のことを聞いてみた。
「うん。とてもいいお話だったよ。読んでて、ドキドキしちゃった。でもね、ちょっとだけ疑問が残っちゃったんだ」
「もしかして、タイトルがなかったこと?」
「うん。タイトルは、本の顔だもの。ちゃんとした内容なのに、なんでないんだろうね?」
それはラインハルトも思ったことである。中身は何の変哲もない小説だっただけに、タイトルを削る意味はない。それでも無題にしたからには、何かあるはずだ。
気になったことと言えば、もう一つある。
「僕は他にも、気になったことがあるんだ。あの挿絵とか」
「挿絵?」
小首を傾げながら言うアリーに違和感を感じながらも、ラインハルトは続けた。
「そう、挿絵さ。確か、少女が泣いている絵があったと思うんだけど」
「泣いてる絵? 私、知らないよ」
「えっ?」
あまりにも素っ頓狂な声が出たが、ラインハルトは気にしなかった。
確かに、ラインハルトは挿絵を見た。なかったはずの絵が唐突に現れ、妙に意識に残っているのを、はっきり覚えている。
――いや、本当に僕は見たのか?
何分、あの時は異常な睡魔が襲い掛かってきていた。本を読み返そうにも文字は追えず、ただページをパラパラめくっていただけに過ぎなかったような気もする。今の今まで、不思議と挿絵のことを忘れていたことも、違和感を覚えさせた。それでも、絵のようなものは見たという意識は、はっきりと残っている。
しかし、アリーが嘘をついているようには思えない。そもそも、嘘をつく理由などない。読書好きの彼女が、たとえ一つのページさえ読み落とすことなど、あまり考えられなかった。
「……そっか、僕は勘違いをしているのかも。あの時、すごく眠たかったし、別の本も広げてた気がする」
「そうなの?」
アリーが訝しんでいるが、ラインハルトは納得したような顔で首を縦に振った。自分でも無理があるのはわかっている。それでも、アリーに変な気を使わせたくなかった。
これ以上、この話は続けてはならない。直感的にそう判断し、ラインハルトは別の話を切り出した。
「そういえば、ここではよく読み聞かせをしているの?」
「そうだよ。最初は、私だけで読んでたのだけどね、いつの間にか子どもが集まるようになったの」
その時の話を、アリーはゆっくりと話してくれた。
うまく話の誘導ができたのか、それからは他愛のない話を続けられた。アリーはこれまでの日々を話し、ラインハルトは自身の生まれについて話した。
アリーは、ラインハルトが名家の生まれと聞いても、大して驚きもしなかった。そのことにちょっとだけ疑問に思って、ラインハルトは聞いてみた。
「ねえ、アリー。僕が名家の貴族でも、驚かないの?」
「どうして? あなたが貴族の生まれでも、あなた自身はラインハルトに変わりないもの」
その言葉が思いがけないものでありすぎて、ラインハルトはしばらく何も言えなかった。
いつも、先に見られるのは自身ではなく、名家の貴族の一人息子という肩書だった。どんな場所に行こうが、先立つのは肩書ばかりだ。自身に目をくれる者は、ジョシュアやヨハネス以外、誰もいない。自分の部下でさえ、グランツ家の子息と第一に見ている節がある。
けれど、アリーは親友たちと同じように見てくれる。ラインハルトという、自分そのものを見てくれている。それが嬉しくてならなかった。
「大丈夫、ラインハルト?」
きょとんとして見上げてくる双眸に気づき、ラインハルトは首を振った。頬に、冷たいものが流れている。自分が涙を流していることに、ラインハルトは初めて気づいた。
みっともないところを見せたね、とばつが悪そうにラインハルトは涙を指で拭い、照れ笑いを浮かべた。気を遣ってくれたのか、アリーもつられたように小さく笑ってくれた。
もう少し、楽しい話がしたい。そう思ってラインハルトが別の話題を探そうとした時、遠くに見覚えのある顔が近づいてくるのに気付いた。ジョシュアとヨハネスだ。しかし二人は、今日は任務で外に出ているはずだ。
ラインハルトの視線に気づいたのか、アリーが二人に顔を向けた。知らない人が近づいてきたからか、アリーはフードを深く被り、ラインハルトの後ろに隠れてしまった。
「探したぞ、ラインハルト。こんなところにいたんだな」
間近まで来たジョシュアが、額の汗を拭いながら言った。
「探したって、君たちは任務で外に出てたはずだろ? 一体どうしたんだ」
「救援要請だ。討伐目標の獣が手強く、思いの外てこずりそうでな。お前の隊にも、出動命令が出されたのだ」
「君たちがいてもなのか? それは厄介そうだな……」
一度唸り、ラインハルトは険しい顔をした。
若年なれど、ジョシュアもヨハネスも、決して弱くはない。部隊の指揮だって、卓抜したものを持っている。これまで数多の賊や猛獣を打倒し、多くの勲章を手にしているのだ。
その彼らを擁してなお、手が足りないというならば、相当の規模の討伐となる。もしかしたら、ラインハルト以外にも救援を依頼されている者は多いかもしれない。
「わかった、すぐに行こう。部下も、できるだけ早く集めないと」
「そんなわけだ。ごめんな、お嬢さん。せっかく、楽しそうに話してたのに」
「う、ううん。ラインハルトの、大変なお仕事だもの。私が引き留めるわけにはいかないよ」
ラインハルトの影からそっと顔を覗かせたアリーが、少し怯えながら言った。
「怯えなくていい。俺は、ヨハネス・フランドルと言う。ラインハルトとは、長い付き合いだ」
アリーの怯えをすぐに見抜いたヨハネスが、間髪入れずに名乗った。
ヨハネスが、横目で目くばせする。ジョシュアが何かを察したように、表情をいくらか緩め、そして口を開く。
「そして俺は、ジョシュア・アルベールだ。ヨハネスと同じで、こいつの親友さ。楽しいことも辛いことも、遠い理想も、俺たちは共有して胸に抱いている」
「ラインハルトの、お友達なの?」
おずおずと聞くアリーに、二人は大きく頷いた。
それでもまだ警戒しているのか、アリーはラインハルトの影に隠れたままだ。
「君が怯えるのも、無理はない。いきなり、俺たちを信用してくれとも言わない。ええと」
「アリー、だよ。私の名前は」
「そうか。アリー、これだけは信じてほしい。俺もヨハネスも、君を騎士団に突き出すことはしない。素性が、どうあってもだ」
「どうして?」
「決まってる。ラインハルトの友達だからさ」
ジョシュアがニッと笑い、ヨハネスが今一度頷き返した。
「それにさ、ラインハルトの友達なら、俺たちにとっても友達さ。いきなりこう言っても、戸惑うだろうけど」
「ええとね」
アリーが心配そうに、ラインハルトを見上げてくる。彼らは信じられる人だよ、とラインハルトは優しく言った。
不安に揺れていたアリーの瞳に、いつもの優しい光が戻ってきた。アリーはラインハルトの影からゆっくりと出てきたかと思えば、いきなりフードを外した。
眩い銀の長い髪が、ふわりと一瞬宙になびいた。伏し目がちだった深紅の瞳が、しっかりと二人を見据える。
ジョシュアもヨハネスも、少し驚いたような顔をしていた。
「私、こんな変な子なんだ。それでも、心は変わらない?」
「……ふん、愚問だな」
少し間をおいてから、ヨハネスが口を開いた。
「容姿など、どうでもよいのだよ。大事なのは、お前が俺の友が選んだ友、ということだけだ」
「そう、なんだ」
アリーがフードをゆっくり被り直し、それから深々と頭を下げた。
「お友達に、なってほしいな。いい、かな?」
「顔を上げてくれ、アリー。そんなことは、友達にすることじゃないだろ?」
なあ、とジョシュアが言い、ヨハネスが当たり前だ、とぶっきらぼうに言い捨てた。
顔を上げたアリーは、どこか嬉しそうだった。と言っても、表情を動かすのが苦手なのだろう。端から見ればあまり変わっていないように見える。しかしラインハルトには、アリーが心の底から喜んでいるのが何となくわかった。
「さてと、本当なら、俺たちももっと話していたいが、さっきも言った通り生憎の事情だ。行くぞ、二人とも」
ヨハネスが頷き、先を歩き始めたジョシュアに着いていく。ラインハルトもそれに倣う。最中、一度振り返った。
アリーが、変わらない優しい瞳で、見送ってくれている。
「またね、アリー」
「うん。気を付けてね、ラインハルト」
ふんわりとした優しい笑みを浮かべて、アリーが小さく手を振っていた。思わずどぎまぎし、ラインハルトは一度手を振ってから、すぐに前を向いた。
見えるものが二人の背中に変わっても、ラインハルトはまだ胸の高鳴りを抑えきれずにいた。顔も、心なしか熱い。
「……さてと、アリーはもう見えないな」
ジョシュアがいきなり振り返ったのは、貴族街に入ろうというところであった。
「お前ってやつは、一体いつあんな子と知り合ったんだ?」
振り返ったかと思えば、いきなり腕で首を締め上げてきた。それほど力は入っていないものの、なかなかの苦しさがこみあげてくる。
「見合いを断ってるって聞いてたから女に興味がないと思ってたら、お前、ちゃんとそんな顔もできるんじゃないか」
「まったくだ。部下には見せられんぞ、そんなだらしない顔は」
ヨハネスが指で、ラインハルトの額を思い切り弾いた。痛みが走るが、絞められている今は、それさえも気にする余裕がない。
何かを言おうとしたが、思いの外決まっているらしく、ラインハルトはうまく声が出せなかった。
「なかなか苦労している感じなのに、お前に大分心を開いている感じじゃないか。おい、何をやったんだ?」
「べ、別に、何も……」
「隠しても無駄だ。どうやら、あの時沈んでいたのは、アリーと何かあったからだな。大方お前がマヌケをやらかして、あとでうまく取り繕ったのだろう。まったく、愚かとしか言いようがないな」
平気で毒を吐くヨハネスに言い返したかったが、何にも言えなかった。うまく声が出せないのと同時に、図星であることは言わずもがなだ。ラインハルトは、ごまかすようにジョシュアに抵抗することしかできなかった。
そのジョシュアの力が、ふっと抜けた。
むせ返り、ラインハルトは前かがみで何度も咳をする。恨めしげにジョシュアを見上げたが、その気持ちも見下ろすジョシュアの真面目な瞳が掻き消した。
「あんなにいい子なんだ。お前は、何としてもあの子を守れよ。絶対に、俺みたいになるな」
あまりにも唐突すぎて、ラインハルトは頷くことしかできなかった。
頷き返すと、ジョシュアの表情が一変した。真面目なものはどこに行ったのか、瞳の奥にからかいの色が現れる。
「それにしても、堅物のラインハルトがなぁ。おい、ヨハネス。どうなると思う?」
「さあな。ただ、こいつは顔に出やすいからな。あからさまな反応をして、早々に愛想を尽かされないか心配だな」
「だな。しっかりやれよ、ラインハルト」
ジョシュアに背中を思いっきり叩かれ、ヨハネスからは思い切り蹴られた。痛みが走るが、何故かラインハルトは不快ではなかった。
不快ではなかったが、二人のからかいはしばらく続いた。それが止んだのは、部下が集まりきってからだった。
家に帰ると、アリーはその場にぺたりと座り込んだ。
「不思議な人たちだったな」
ジョシュアとヨハネスのことを思い返して、アリーはちょっとだけ心が温かくなるのを感じた。
アリーはフードを脱ぎ、自分の銀の髪をそっと撫でる。
ジョシュアもヨハネスも、この容姿に驚きはしたが、それ以上気にした風はなかった。一切の蔑みも感じなかったし、嫌悪もなかった。ただただ、アリーという人と接しただけ、という感じだった。
商人とラインハルト以外には、そんな人はもういないと思っていただけに、アリーは嬉しくてしょうがなかった。
「それにしても」
遠い理想と言っていたのが、アリーには気になった。
何故だかわからない。ただ、理想という言葉は、不思議と胸の奥を突き刺すように入ってくる。
「ラインハルトも、同じものを抱いているって、言ってたっけ」
まだ、ラインハルトからそういう話は聞いていない。けれど、遠いというくらいだから、きっと大変なものに違いないだろう。場合によっては、その過程でラインハルトがいなくなってしまうかもしれない。
それを思うと、胸の奥に違う痛みが走った。妙な悲しさも、ふとよぎった。しかし、すぐに溶けて消えてしまった。
「どうしてだろ。よく、わからないや」
自分でも理解できない感覚に戸惑うも、それらを振り払うようにアリーは頭を振った。
今日は疲れたが、悪い疲れ方ではなかった。これほど気分が重くならない疲れは初めてだ、とアリーは思った。
「お友達、か」
ぽつりと呟いて嬉しくなり、また同じことを呟いた。心の中には、ふんわりとした温かさが広がり続けている。けれど同時に、冷たい悲しさも紛れ込んでくる。
「嬉しいな。父様にも、母様にも、会わせてあげたかったな」
嬉しいのに、涙が零れる。とめどなく零れる。けれど、涙は流れるに任せた。
歪んだ視界には、見慣れた自分の部屋が映るだけだ。それでも、父と母が傍で見てくれている。アリーには、そんな気がしてならなかった。
「私、一人じゃないんだね。わかってくれる人だって、いるんだよね」
白い天井を見上げながら、アリーは声を震わせながら呟いた。
答えてくれる人は、誰もいない。それでもその声に返すように、風が一度強く吹いては、窓のガラスを何度か鳴らした。




