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それから五年後の夏。
この日も斗賀神社の栗の大木に、スタンプ目当ての子供たちが集まってきた。早めに起きた元気な子は境内の土俵に上がり、礼儀正しく裸足で相撲を取っている。男の子も女の子も、高学年の子の行司で力くらべをしている。
田舎育ちのやけに体格のいい子が、栗色の髪の毛をマッシュルームカットにした都会風な五、六歳ぐらいの子を投げ飛ばしている。その子は、同い年ぐらいの女の子にも負けて泣きべそをかいてはいるが、負けず嫌いなのだろう、何度も土俵に上がろうとする。
航介は、その微笑ましい光景を横目にしながら、「おとぎ話の会」の準備をしていた。何年経っても、航介が子供のころに経験していたことが、この地では受け継がれていた。たとえ都会の底辺で燻っていても、旧盆に里帰りすると故郷は航介をあたたかく歓迎してくれる。航介は、愛するこの故郷への恩返しに、「おとぎ話の会」の語り部として奉仕することにした。
「今朝は、紙芝居を用意してきたよ!」
航介は、あまり得意ではない数枚の絵を描きあげ、これも手製の木枠にはめ込んで、集合の合図となる鐘を鳴らす。滴石号と戯れていた十五人ほどが、すぐに集まった。
「今日は、いまの九州にアメリカがあったというお話をします。」
「エーッ!」
「そんなのウソだ!」
航介は、子熊たちの記憶に残るように、頭のてっぺんからつま先まで星条旗のデザインがされた格好で、おおげさなジェスチャーをまじえて演じはじめた。
「むかし、むかしの日本のこと。あちこちの有力者が、勝手気ままにふるまって、自分さえ良ければいいという政治をおこなっていました。乱暴をはたらく悪い奴と手を組んで人々から富を奪い取る者や、自分と仲がいい人だけを大切にする者たちが、偉そうに威張り散らしていました。長い間、ずっと我慢していた民衆は、あまりの酷さに戦争をおこしましたが、強力な武器と軍人たちの腕力の前にすぐに降参し、反乱の首謀者は、いつも無惨に処刑されました。そんなある日、真っ黒けで皆からカラスと呼ばれていた五歳になる男の子が栗の木の下で昼寝をしていると、いかにも強そうな相撲取りが立って、『悪いヤツらをやっつけなさい。もし、この里を守ることができれば海の向こうまでカラスに授けよう』。そう言ったあと、小さな瓢箪を渡して、『困ったらこれを九回ゆらしなさい』と言い残して消えました。カラスは手にした瓢箪を腰に巻いて、そのまま家に帰ることにしましたが、あったはずのところになぜかカラスの家がありません。カラスがおろおろしているとママが泣きながら、『パパが悪いヤツに連れて行かれた』というではありませんか。普段泣くことなんかしなかったママの様子に慌てたカラスは、早速に腰の瓢箪を外して九回ゆらしました。すると、『ピュッ!』と音を出して瓢箪の口からカラス宛ての手紙が出てきました。その手紙には、五歳のカラスにはよくわからないことが書いてありましたが、どこか特別なところに宝物が埋まっていると思われる不思議な地図が描かれています。カラスは、その場所にさえ行けばパパを救えるものだと信じて、ママと冒険することにしました。長い距離を歩いて、とても疲れました。だけど、カラスは我慢しました。とてもお腹が空きましたが、カラスは我慢しました。真ん丸だったお月様が次第に欠けていき、そのうち消えてなくなり、ふたたび真ん丸になった日の夕方のことでした。真っ赤な夕日が西の空に沈み、同時に東の空から満月が昇ると、その地平線の彼方から一匹のウサギがカラスの下に駆け寄ってきました。『今夜は特別な夜だ。君のママをしばらくの間預けてくれれば、願いを何でもかなえよう』。カラスは泣いて、ウサギを追い払おうとします。しかし、ママの一言がカラスを勇気づけてくれました。『ウサギさんに、こうお願いしなさい。九ヶ月後には、パパ、ママ、そしてカラスが仲良く暮らせるように』。カラスは、九ヶ月の間だけ我慢することにしました。たとえ寂しくても、いざとなったら、腰からぶら下げた瓢箪があります。カラスがウサギに良い返事すると、ウサギは喜んで、十五個の小さな白い団子をカラスにプレゼントしてくれました。その団子には、『USA』と一コずつ焼印でマークされています。『この印はなに?』とカラスが聞くと、ウサギは『私はここから真東、卯の方にある宇佐八幡からやってきた。その焼印には、いろんな意味が込められている。お前もよく勉強したらわかるだろう』といって、『5×3=?』と算数の問題を残して、ママと一緒に満月の方に消えました。しばらくひとりぼっちで生きていかなければならないカラスは、今まで遊んでばかりいた時間をつかって勉強することにしました。国語や算数を頑張りました。漢字もローマ字も頑張りました。月日が経って、ウサギとの約束した日の前日、ウサギが与えた『5×3』の答えが『15』であることがわかりました。お腹が空いたら一コずつ倹約して食べていた白い団子の数と一緒でした。しかも『5×3』の読み方は、『いつつみつ』とも『ごみ』とも読むわけではなく、中国での読み方で読むことに気づきました。その音は『伍参』と聞こえ、ウサギがやってきた宇佐八幡の『宇佐』とよく似ていました。ついに、カラスがウサギと約束した日になりました。約束した岬で楽しみに待っていると、水平線に昇る朝日と同時にパパとママが、嬉しそうに赤ちゃんを三人も抱きかかえてカラスの前に帰ってきました。『パパ、ママ、無事だったの!』『悪いヤツは、宇佐の八幡さまに退治してもらったのよ。カラスが、お利口にしていたから家族が三人も増えたのよ。』新しい家族は三人とも女の子でした。カラスの妹たちはカラスと違って、真珠のような色をしていました。カラスがひとりずつ挨拶していると真ん中にいた妹が、カラスの瓢箪を取り上げて勝手に九回ゆらしました。『ピュッ!』といって出てきた手紙には、九州の地図が描かれてあり、『筑紫はチ・クシなり。チ・クマと同じ。遠く奥州の糠部に千曳と櫛引を置く。その大地は、父と母である筑紫のそれに似る』。その手紙を手にしたカラスは、新たな冒険の旅に出ることにしました。たくさん勉強して、手紙に書かれてあることが理解できた時、たくましい男になることを確信しました。『いつか奥州糠部に行ってみたい』。太陽の子である真っ黒なカラスは、みんなの故郷であるここ糠部に今日も憧れています。どんとはらい。」
十分ほどの紙芝居に、子供たちはよく集中していた。航介の思いを彼らに刷り込むことができただろうか。
「櫛引の八幡さまに行ったことある人ォ!」
「遠足で行ったよ。」
「初詣で行ったよ。」
「じゃあ、七戸の千曳神社に行ったことある人ォ!」
「…。」
斗賀からは、車で一時間もかかる古びた神社には、今の時代、遠出する子はないようだった。
「今日お話しした『ちくしのUSA』は、みんなの故郷が登場してきます。九州にいるカラスが、なぜみんなの故郷に憧れるんだと思う?」
「手紙に書いていたから。」
「宝物が隠されているから。」
「平和だから。」
思いおもいの、かわいらしい推理が舞う。
「みんなの言うことは全部正解です。ただ、先生はウサギさんがカギを握っているとおもっています。」
「なんで?」
「ウサギは、カラスに九ヶ月待っていてと言いました。カラスがしっかり勉強をして、よく倹約をしていると、やがてパパとママが妹たちを連れて帰ってきました。」
「なんで?」
「今日の宿題です。おうちに帰ったら、ママに聞いてみてください。なんで九ヶ月待っていたら妹が増えるのか、なんで九州のカラスがここ青森県に憧れているのかを。」
航介は、子供たちに質問させて、創作した物語のエッセンスを子熊たちに刷り込むことにした。航介が子供のころにされたイヤな経験は繰り返すまいと、どんな質問にも丁寧に心を込めて解答することにした。子供の想像力はたくましく、航介が答えに窮することも突きつけてくる。その時は、一緒に考えるという真摯な姿勢を守りつづけた。
「みんなにクイズを出します。この辺りには、『戸』がつく地名がたくさんあります。しかし、1から9までのうち、ひとつだけない数字があります。それはなんでしょうか?」
「4!」
小さい子たちなのに、みんなで口をそろえる。地元の子なら常識となっているのだ。
「そうだね。四戸だね。じゃあ、なんでないのかな?」
「…。」
さすがに、これは難しかったか。大人でもわからない、いや、学者にすらわからなかった代物である。
「先生はね、知ってるんだ。今日は、特別にみんなにだけ教えてあげようとおもいます。誰にも言ったらダメだよ。約束を守れるかな?」
航介は、あえてこういう言い方をして、逆に、この地域に航介の説が広まっていくことを期待している。
「それはね、江戸時代のはじめのころに南部藩が分割してしまったことに理由があります。お殿様の兄弟げんかで同じ南部藩が、盛岡南部藩と八戸南部藩に分かれてしまったの。すると、仲たがいしたから国境線が必要になるよね。ちょうどそれまで四戸と呼ばれていたところをぐにゃぐにゃと線引きしたので、四戸がぐちゃぐちゃになっちゃったんだ。」
「へぇ!」
「盛岡藩のほうにも八戸藩のほうにも『四戸』があったんだ。たとえば櫛引八幡宮があるところは八幡村とよばれていたけど盛岡藩だし、その隣の櫛引村は八戸藩だし、川向いの尻内村も八戸藩、けど小さい丘を越えた七崎村は盛岡藩になるんだ。盛岡藩と八戸藩のあいだには、いくつかの飛び地があったんだよ。」
「へぇ!」
「『四戸』は現在の八戸市西部、そしてみんなが住むここ南部町になります。」
「へぇ!」
「だから、先生は、みんなが住む町を南部町じゃなくて『四戸町』にするべきだとおもうんだ。」
航介は、このひと言だけでも、子供たちのこころに残ってほしいと思っていた。
ひとり減りふたり減り、さすがに腹を空かせた子らは、次々と航介の前から消えていった。最後に残ったのは、土俵で投げ飛ばされつづけていたマッシュルームカットの男の子だ。この子は、たたみ掛けて航介を質問攻めにしてくる。「なんで?」が口癖のようだ。
「千曳神社って、チンチンのことなんだよ。」
航介はドキリとする。「なんで?」と航介が言った。
「ママが言ってたもん。」
「ボクのママはスゴいなァ。先生も、同じことを考えていたんだよ。ボクは何ていう名前なのかな?」
「マルス!」
航介が、マルスという変わった名前と顔つきをみて、彼がネイティブではないことを確信したとき、予想どおり、長身の白人男性が、帰宅が遅いマルスを迎えにきた。
「パパだよ。」
「カッコいいなァ。先生とちがって背も高いし。」
「パイロットだもん。三沢の基地で働いてるんだ。」
自慢気なマルスの様子に、航介はその父親をうらやましく思った。年齢も、航介とそれほど変わらないだろう。誇り高く、祖国と同盟国を守らんと大空を飛びまわっている彼に対して、片や都会の片隅で舌打ちをして生きている現在の自分は、まさに天と地との差があるように感じられた。
「オレも、あんなんになりたかった…」
航介は、たまに帰る故郷の寛容さに甘えていた。あちこちの暦と時計だけが、この救世主に覚醒を促していた。
工藤が夢だと語っていた大仏造立プロジェクトは、大山杢蓮こと三浦守の助力で着々と進行していた。八戸市大字尻内町字大仏に立つ鳩尾山白澤寺を拡張していくことで、工藤の大志と三浦の野心が達成されつつあった。航介は、工藤から、いの一番に誘われたものの、五年ものあいだ逃げ回るように、お茶を濁していた。
「どうだい、やる気になったかね。」
「まだまだ修行中です。もう少し時間を下さい。」
盆と正月に帰省するたびに、工藤は、航介に声をかけてくる。
「来年には、高速道路の新しいインター・チェンジも、寺の目の前に完成する。航介も乗り遅れるなよ。」
工藤は、国土交通省の役人だった人脈を使って、定年後も地域開発を推進していた。東北新幹線の開通によって在来線が第三セクターの運営となり、今後の経営が行き詰まることを見越して、八戸駅に程近い大仏地区に大仏を造立しようとしていた。
「日本の私鉄は、沿線の宅地開発か神社・仏閣と関連がある。この集落に大仏を造ることで、『青い森鉄道』の乗客数を維持拡大していきたい。」
工藤は、成田山新勝寺(千葉県成田市)へ導く京成電鉄や、川崎大師(神奈川県川崎市)へ連絡する京浜急行の歴史を参考にした。
「リピーターを期待できそうですね。高齢化社会で、信心深いお年寄りも増えていくことでしょう。」
航介も、その志の貴さには同調していた。
しかし、どうしても三浦が邪魔だった。優勝劣敗を、工藤と三浦の寿命くらべに賭けてみることすら考えた。三浦が先に死んだら大仏造りに参加しよう。工藤が死んだら取りやめようと。
あの日、工藤は適者生存の社会だと忠告していた。人見知りをしがちな航介へ、「免疫力をつけろ!」と説教していた。それならばと航介は、三浦や彼の人脈に共通して蔓るウィルスに、工藤が抗体を持っているのか確かめてみることにしたのだった。航介という抗生物質を必要としないほどの免疫力があるのか傍観させてもらうことにしたのだ。どうせ、ウィルスの方が耐性を持っているにちがいない。
「平家の血が流れる私には、奈良の大仏をつくった八幡神の加護が足りない。鉱石を焚き付ける強い火力が不足している。どうか、お前の郷土愛という灯火を炎に変えてほしい。」
再三にわたって大仏造りを請われている航介は、まるで、東大寺の盧遮那仏づくりを聖武天皇から請われた伝説の僧侶のようでもあった。在野の僧侶として、知識人を自称する貴族たちから蔑まれ、ときに、反政府運動家とレッテルを貼られながらも、生活に苦しむ人民を救うために全国行脚しながら説法を続けた行基のようだった。
しかし、三浦らへの赦しの感情が湧いてこない限り、大仏と一体となることなどありえなかった。航介の心のなかに今も横たわる暴力性を発揮したいという衝動が消えないうちは、やはり、その大プロジェクトに参加するべきではないのだ。
「今のオレには無理だ」
五年間も保留しつづけたその回答は、正式に辞退を申し出ることで決着をつけることになった。それでも工藤は、熱心に航介を説得する。
「修行というより、諸国を漫遊してきますヮ。若いうちにしかできないことをやっておきます。」
「まだ遊び足りないのかね?」
「ドラマでの水戸の黄門さまのように、お忍びで視察しに行くんですよ。悪いヤツは成敗していきます。」
航介は、行基のような聖ではなく、「大日本史」を編纂させた学問家であり、なにかと新しいモノ好きだった徳川光圀に、もうひとりの父親を見出して自分をなぞらえることにしていた。彼ならば自由度が高いように思えて、これまでの航介の感性を崩すことなく積み上げていけそうな気がしたからだ。布教のために日本各地にちらばった聖や修験者のように、生き仏になるにはまだ早すぎる。
二十歳になるころから続けてきたもうひとりの父親探しの冒険は、ようやく、大人への階段を昇っていくための通過儀礼となっていた。航介は、鎮守として祀られている神や仏に隠されている数々のインテリジェンスを解いていくことで、あらためてそれらの広い背中を認識し、あるいは柳田國男のような在野の学者を真似ることで、それらを補強することに成功した。さらに戦国武将、とりわけ故郷の領主であった南部氏を介することで、ただの自惚れにすぎなかったちっぽけな自尊心と郷土愛が統合され、三浦のようなならず者の野心家や侵略的な外国人を反面教師とすることによって、これらと祖国愛がうまく結びつけられそうな気がしていた。
自尊心と郷土愛、そして祖国愛という主観的な愛情を重ね合わせることに苦労してきた東北人の航介は、偶然と思われた数々の出会いによって人格がつくられていくことに、ようやく気づかされていた。理想と現実の乖離からくる苦しみは、否応無く、既成事実によってのみ解放される。よく似た感性をもつ光圀や工藤に見出した父親の姿は、見失いかけていた自分の有るべき姿なのだ。
この先、このまま航海を続けていけば光圀や工藤をも飲みこむような大いなる父親が華奢な航介の前に現れて、再び惑わすことになるのかもしれない。しかし、航介は、その時も航路を真東に向けたままにしておこうと思っていた。自分の人生は、その最期まで自分だけにしか関心がないのだから。
「光圀か。たしかに航介は似ているような気がするな。彼は、三代将軍の家光とおなじように、家康によく似ていたといわれているんだぞ。」
「その三人は皆、かぶいていながら神仏に帰依しているということも、僕の美意識に合います。現存している神社建築の多くが、秀でてマツリゴトを行なった家光の時代に造られているんです。」
工藤はこの言葉に、徳川家康をあまり好まなかった航介が、ようやく政治の本質を理解したこと、そしてこの日が永遠の別れとなることを悟った。ゆっくりとソファから立ちあがり、自宅の西向きの出窓から広い糠部平原を見渡して言う。
「航介は、この大地に北斗九星という地上の星を発見したんだったな。私もその説を支持するよ。」
「ありがとうございます。」
「比叡山の比叡を十回言ってみろ。」
「ひえい、ひえい、ひえい、ひえ、ひえ、ひえ、へ、へ…!」
「気づいたか?」
「こ、こんな単純なことを…。まったく気がつきませんでした。」
「千年ものあいだ誰も気がつかなかったんだ。『八の比叡・日吉・日枝』だということが…。私も含めて。」
西高東低の気圧配置のおかげで晴れわたっている真冬の糠部で、その地上の星がよく瞬いている。冬至を過ぎて、復活しはじめたこの高緯度地方の太陽が、低い角度で室内に差し込んでくる。
「周極星である北斗は北極星という神に仕えている。神に仕える者には、必ず加護があるはずだ。」
「神からの加護、ですか…。」
「頼朝を尊敬し、信長から『武』を引き継いだ家康、いや東照大権現は、北斗という遣いを必要としているだろう。航介、お前も征夷大将軍となれ。奉公してその座をつかみ取り、大権現に奉仕するのだ。お前が愛するあづまの国を照らしては闘将となって、この国を貪る者を成敗せよ。」
「東照と闘将…。」
「お前は、今日から『晃祐』と名のるがよい。この名には、『日光の天祐』という文字を隠してある。八幡神という東西を重視する出雲系の横軸に、東照大権現という南北を重視する縦軸の加護が得られたならば、お前はこの日本で無敵となるだろう。」
そう言った工藤は、外気との温度差で曇る窓ガラスに本州の地図を描き出した。なぜか東京湾から三浦半島、そして伊豆半島を丁寧に描いている。
「神の子である『晃祐』が生活するべき街は、ズバリ、この街だ。もうそろそろ、京都から降ってこい。」
工藤は日光に鳥居の地図記号を、さらに出雲にも同じく記し、経緯線に沿って十字を走らせた。
「横浜…。」
航介はその交点をつぶやく。三浦半島の付け根が、日光東照宮と出雲大社の交点である。鎌倉にもほどなく近い。
「私が、三浦や石橋に一目置いている理由がわかっただろう?」
「…。」
「横浜には、聖者が張り付けられる十字架が隠されているともいえる。よく覚えておけ。」
「気をつけます。」
ガラス窓に張付く水滴を利用した秘密の地図は、すぐにその形を崩して、何気に万有引力の法則を証明している。その結果、航介へ受け渡されたインテリジェンスのひとつが、他の証明者の登場を遠ざけることになりそうだ。
航介は、いつものように、メモ紙を取り出して同じ地図をさらさらと描く。小さく小さくたたんだ紙を、腰から下げたペットボトルに落としこんだ。ガラス窓の反射を通じて、その様子に工藤が気づいた。
「何だい、それは?以前から気になっていたが。」
「瞬間を記憶に残すのではなく、記録として残しているんです。」
航介は、瓢箪型のペットボトルをシャカシャカと振る。
「だいぶ貯まっているようだな。」
「満杯になったペットボトルは、あちこちに埋めてきています。プラスチックは腐りませんから。」
「そんな大切なものを、知らんヤツが掘り出したら大変じゃないか。航介の財産だろ。」
「埋めているのは一ヶ所だけじゃありません。一定の法則で埋めています。僕の宝物を掘り起こした人は何かしらの縁がそうさせるのだと思っていますから、それでいいんです。ガサ入れされて貧相な権力者に持っていかれるよりは、はるかにマシです。」
「ハハハ…。航介らしいな。」
工藤は、航介にその在りかや法則とやらを聞こうとしない。その代わりに、よく連れ歩いていた滴石号の居場所を聞いてきた。航介は、ゆっくりと夕日が沈んでいく方角を指して言う。
「斗賀にいます。霊験堂です。」
斗賀神社は、工藤宅からはちょうど地平線上にあるように見えている。航介が生まれ育った曲家が、三浦によって取り壊されてしまった年まで木出し馬だった滴石号は、しばらく行き場を失っていたものの、今ではその神社の神馬として奉納されていた。
「霊験堂か…。子供の頃を思い出すよ。」
工藤は、懐かしそうに遠くを見ている。
「遠足か何かですか?」
「死んだ親父が剣吉の出でね。夏休みには田んぼや畑を手伝わされに疎開させられたんだな。その頃は、朝の体操の後におとぎ話が聞けたものだったんだよ。お話の最後に、語り部の『どんとはらい』を聞くとね、なんとも言えない寂しさに似た気持ちになるんだな。あの感覚は、大人になった今でもうまく表現できないね。あんな集いを、また復活させてみたいもんだよ。なんなら、町で予算をつけてやったらいいんだ。」
「いえ、今でも続いていますよ。今年の夏は、僕も語り部として奉仕させてもらいました。僕にとっても、『おとぎ話の会』は子供の頃の良い想い出です。あの栗の木の下は、特別な場所です。」
「おお、そうなのかい!」
そう言った工藤は、「どうりで…。」と小さく言う。
「どうかしました?」
「いや、石橋から私と航介が似ていると指摘されたことがあるんだ。どうやら、子供の頃の体験に理由があるようだな。」
三浦が主催していた「ジオ俳句・ジオ短歌の会」での出会いよりも前に、すでに二人を結び付けていた場が斗賀神社だったのだ。
「僕たちにとって、あの大きな栗の木が本当の仲人だったんですね。」
「最後に気づけて良かったよ。」
「最後なんて言わんといてください。お盆には、また帰ってきますから。工藤さんも、来年の夏には語り部をやってくださいよ。子熊たちも、待ちかねていることだと思います。」
「子熊たちか…。」
寒々しい空のもと、二ヵ月も前から素っ裸になっているその落葉樹は、いかにも男らしく屹立している。まるで、神の子を導くトーテム・ポールのように。




