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いまだ暮れなずんでいる。釣瓶落としに擬えられるのは、たしか秋の日のことだった。
厩に匿われていた滴石号が、かつての主を見つけて嬉しそうに首を上げ下げさせている。クリスマスを前にして、あの頃のように、モミの木を山から降ろさせてくれと言っているようだ。航介は、その神馬を連れ出して栗の木へ括りつけ、冬毛にブラシをかけてやった。
「ずいぶん気持ちよさそうだな。」
滴石号は鼻を鳴らして返事をする。
「よっしゃ、その長いたてがみを編み込んでやろう。」
航介は、器用な手つきで、三つ編みにしてやった。留めゴムの代わりに、赤、白、緑のクリスマス・カラーのリボンを使う。
「これから益々寒くなるからな。お前の火の気で、凍てつく大地を焚きつけてくれよ。火生土の相生だ。」
滴石号は、ふたたび鼻を鳴らした。神の息がかかるこの「ふたり」は、ともに白い息を吐き出している。
そんな時だった。
お宮の方から人の気配がする。今日は冬至だというのに、正装をした坊やの手には千歳飴が握られている。
「冬至におこなう一ヶ月遅れの七五三か…」
航介は、自分の仮説を証明してくれるかのような家族が偶然いたことに喜びを覚えた。
「スイマセェン!カメラ、オネガイシマス。」
その一家の主であろう長身の若い男は、どうやら外国人のようだ。日本文化を誤解している彼は、不格好なお辞儀を繰り返している。
「あいよ!」
快く返事をした航介は、その男からデジカメを受け取り、飼い犬へリードを付けることに手をやいている坊やと母親の合流を待ってやった。
しかし、その小犬はなかなか言うことを聞かずに、自由に逃げ回る。坊やと同じようなコスチュームを召かした「正装」で、のびのびと境内を駆けまわる。そのうち、航介の足もとへやってきて得意の嗅覚で確認したあと、なぜか尻尾を振りながら吠えだした。
「オイオイ…」
航介は、たとえ小犬といえども、猟犬の血を引いているとされるこのミニチュア・ダックスフントから、急に吠えられたことに困惑した。せいぜい、七五三のコスチュームと耳の後ろで結わえたリボンのかわいらしい色が場を和ませている。そのリボンは、滴石号とおなじく、赤・白・緑のクリスマス・カラーである。
「お前も、もう少し髪の毛が長かったなら、滴石号のように編み込んでやるんだがな。」
航介は、すでにカットされている小犬の毛をつまんで軽く撫でてやった。小犬は、航介にキスをせがむ。
「先生!」
リードの端を手にした坊やが駆け寄って、航介を呼ぶ。よく見ると、夏休みにこの霊現堂で出会ったマルスではないか。
「お利口にしてなきゃダメじゃないか。」
まるで弟に対するような口ぶりで、マルスは小犬を叱っている。なんとも微笑ましい。
「ワンちゃんだって、自由でいたいんだよ。」
嫌がる小犬の様子を見て取って、航介がかばう。
「プロキオンは、僕が躾ることになってるんだ。」
マルスのひとことは、航介を五、六歳若返らせた。
「プロキオンか…。いい名前だね。」
「こいぬ座の一等星がプロキオンっていうんだよ。ねぇ、ママ!」
マルスは、少し離れたところでこちらを見ている母親にむけて声を掛けた。
その美しいマルスの母親を見て、航介は凍りついた。彼女は、何か言いたそうなそぶりを見せる。航介は見覚えのある、いや、確実に想い出を共有している彼女を目で抑え込んだ。
「先生とも今日でサヨナラになる。パパがカリフォルニアへ転勤なんだ。」
マルスは、寂しそうに栗毛のプロキオンを撫でている。
「そうか、太平洋の向こうへ帰るのか。」
航介は、そんなマルスの頭を撫で、何事もなかったかのように振る舞う。
「マルスは、いつか必ずこの町に戻ってくるだろう。その時、君はヒーローだ。腕力をひけらかし、威張ってきた侵略者をなぎ倒すんだ。」
マルスは、あのころのアーニランのように、航介の目を見てうんうんとうなずいた。航介はマルスを抱え、滴石号の背中に乗せる。ずんぐりしたアラビア馬との混血馬の背中に、凛々しい顔をしたクォーターのマルスが乗った。山のむこうで雷が鳴っている。
「大きくなったら、食べることすらままならなかったこの町を導いてほしい。悪いやつらに乗っ取られてしまったこの国を取り戻してほしい。故郷を愛し、国を憂える者こそ王将にふさわしい。」
航介は神馬の手綱をマルスに持たせ、つむじ風のせいで乱れてしまったマルスの栗色の髪を整えてやった。
「パパとママから受けた愛情を貧しい人に与え、困っている人を救うんだ。決して、弱い者イジメをしちゃダメだぞ。」
航介は、マルスの母親が自分の視界に入らないように背中を向けている。一方、好奇心旺盛なマルスは、神馬の背中で無邪気に声をあげている。
「ママを大切にするんだぞ。」
涙を流すことなど、久しぶりである。悔し涙ではないその涙は、父親としての感情からなのか。
二人と一頭だけの有意義な時が流れた。
しかし、その間を壊したのは自由を愛するあの犬だ。まるで妬いているかのように、航介の足もとで、再び吠えはじめた。彼の口もとには、二つ折りにされた手紙が落ちている。どこからか咥えてきたのか。
「どやしたっきゃ。」
航介は彼をなだめて、その手紙をゆっくりと開く。
『優美に舞う鶴の懐には
太陽に見たてられた丸い鏡がたずさえられ
光があたりにくい部分への助けとなる
東方三博士によってベツレヘムの星を手にした私達は
侵略者から祖国を取り戻すために
水平線の向こうから明日も顔を出すであろう
冒険者のコンパスとして
金沢市水溜町 アーニラン・F・パウエル 』
それを読んだ航介は、いつものようにメモ紙を出し、短い詩をしたためて、彼に咥えさせた。
『平和が軍事力で保たれるように
愛は善き既成事実の積み重ねによって保たれる
困難とは克服させるために神仏が与えた障害で
人格者になるための修練にすぎない
岩手郡滝沢村大字埖溜 市野沢航介 』
航介は、プロキオンの行先を確認して満足する。彼はとても優秀だった。
栗の木に括っていた縄紐をほどいて跨った航介は、滴石号の腹を軽く蹴って、見晴らしが良いあの場所へ向かうように指示した。そこは、彼女と雪玉を並べた特別な場所である。
「マルス、その川は馬淵川っていうんだ。」
「知ってるよ。天の川なんだよね。」
「川向こうの集落が下名久井、そして上名久井。」
「知ってるよ。そこが『四戸』なんでしょ。ママが言ってたもん。僕にとって、とても大切な場所なんだって。」
マルスは、航介の懐のなかに収まりながら振り返る。
「あの峰の頂から順に、樺木、杉沢、埖渡、福田。」
「ああ、あれかぁ。」
マルスも、ぽつぽつと点きだした明かりにあわせて、あの星たちが輝き出すことを待ち望んでいる。航介は、ミンタカから昇りだした三つ星の無事に安心した。ついに、冒険者の道標がおでましだ。
「困ったら、これを九回ゆらすんだぞ。」
航介は、マルスの腰に「瓢箪」を受け渡した。




