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「国字は、いわば和製漢字だ。それは、漢字の特徴である象形文字ではなく、偏や旁に情報をいれて元々の漢字を変化させたり、または新たに創造する形態をとっていることがほとんどだ。しかし、それぞれの国字をだれがいつ創ったのかは、よくわからない。今の時代なら文部科学省や国語審議会という権威が機能するだろうが、明治維新以後ならばまだしも、それ以前からある文字の考案者を見つけ出すのは容易なことではない。」
「むかしのインテリ群といえば、宮中ですよね。」
「ところが、そうともいえない。平安時代までなら宮中でほぼ独占していたはずのものが、時代が下っていくとインテリジェンスがインテリジェンスじゃなくなることなど、よくある話だ。とくに足利学校(栃木県)ができてからは、鎌倉の禅僧をとおして、学問への敷居が低くなったと考えられている。」
「たしか、坂東随一のアカデミーだったと聞いたことがあります。」
「全国津々浦々から、とくにいまの東日本から多くの学生が足利に集まり、数年の修行の後にまた散らばるとなると、武士や僧侶という階層からさらに、町衆や百姓の子らにもその学問が授けられることになったはずだ。」
「江戸時代の寺子屋文化なんかはそうでしょうね。」
航介は、糠部地方の神社や寺に文化財として納められている算額文化をとくにユニークな歴史遺産として評価していた。
「今回の『埖溜』と『埖淵』だが、いや『埖渡』も含めても、二文字目にはすべて『さんずい』が入っている。」
「やはり、ポイントはそこですよね。」
航介は、いつもの帆布製のリュック・サックから、対象地名が載っている三枚の地形図を取り出した。慣れた手つきで、ミウラ折りに折られた25000分の1の地形図を一枚ずつ広げる。
「まあ、水がないとは言わないんですけどね。」
「そうだな。埖溜も埖淵も水利の便はあるのだが…。どうしても埖渡だけは地形理由じゃない気がするな。高い。」
「僕は、埖溜も埖淵も行ったことがないんですが、工藤さんは?」
「いや、私もない。」
二人は、どちらも腕を組み天井を見上げ、あるいは地形図から情報を得ようと視線を下に落とし、ともに似たような動きをしている。
「これら三ヵ所は、すべて南部藩領だったと言いましたよね。」
「おう。」
「盛岡藩ですか?それとも八戸藩ですか?」
「どっちでもない。」
「どっちでもない?」
「盛岡藩とよばれるべきなのは、寛文四年(1664)に、それまで統一されていた十万石の南部藩が、徳川幕府の命により八万石の盛岡南部藩と二万石の八戸南部藩に分立されてからだ。わざわざ将軍が江戸から裁定したのは知っているよな。」
「ええ。」
「寛文四年といえば、徳川家綱による領地朱印状が出された年だから、南部領が『大南部』と『小南部』に分割されてしまったのがこの年ということなる。藩境塚もしっかり作ってある。」
「御家騒動になる五秒前の出来事ですから、場合によっては南部藩自体のお取り潰しという可能性もあったわけですか…。」
「時の将軍の裁定だぞ。えらいことだ。」
「先ほどの、『どっちでもない』というのは?」
「それは、南部藩が分割されるより前に、すでに『埖』地名があったにちがいないからだ。なぜならば、寛文四年以後ならば、『埖溜』と『埖淵』は盛岡藩領、『埖渡』は八戸藩領となってしまう。しかし、それ以前ならばこの三つは同じ藩主の領地での地名となる。だから盛岡方でも八戸方でも、どっちでもない。統一南部藩での話だ。」
航介は、工藤と対話することで近世南部氏の領地の変遷を整理することができた。「埖渡村」の地名が文書で初見されるのは、17世紀末の元禄年間なので、藩境を越えてこのユニークな地名が200kmも流通するのは、ほぼありえないことなのだ。
「元禄から寛文まで30年ほどは、遡ることができるわけですね。」
「ほぼ確定できる。」
ふたたび二人は地形図に目を落とす。思い当たるところがあると、それぞれがスマート・フォンを取り出して、なにやら検索する。しかし、すぐにその「分析」は、つたない思いつきとして否定されるようで、それまで培ってきたはずの教養と経験がことごとく却下されていく。偉大な地名の設定者「星筆麻呂」によって。
「土の花とは金…。ツチノハナサクヤヒメ、それは金気。」
航介は、いつかと同じように念仏を唱える僧侶のように唱えだした。
「金溜に金淵な。金淵さんなら苗字にもありそうだな。」
そんなことを言いながら、工藤も相槌をいれる。
「埖渡が諏訪信仰からだとした場合、どのくらい遡れそうですか?」
「北条氏の得宗領としての文化なら、13世紀初頭からといえよう。」
「ありえると思いますか?」
「ないかな…。あまりにも古すぎる。」
「分析」が行き詰ったからなのか、工藤は卓上にある「南部蔵富貴」のラベルを真似して、航介の地形図に描き出した。
「南部杜氏っていつからなんですかね。」
「江戸時代のはじめからだ。」
「その時の殿様は?」
「南部利直だ。」
工藤は、空になった四合瓶を元に戻して、自分の「作品」に満足している。
「利直は名君だぞ。南部の殿様は、なかなか教科書に出てくるような者がいないが、それは戦が強い戦国武将ばかりに光をあてている歴史学者が悪い。利直の産業政策には目を見張るものがある。」
「なにがあるのですか?」
「造酒の奨励と徴税、北三陸からは塩の道をつくり、鹿角郡では鉱山開発だ。」
「利直は鉱山開発もしていたんですか?」
「ああ。」
「たしか、南部利直は前田利家の前で元服したんですよね。」
「利家が烏帽子親だ。はじめは利正を拝名した。」
「どこで元服したんですか?」
「三戸城だ。」
「あの前田利家が、三戸まで来たんですか!なんかワクワクしますね。」
「ハハハ…。あの利家のことだ。太閤秀吉ばりにキンキラキンで入城してきたんだろうな。」
「…。」
しばらくの沈黙のあと、航介は前髪をかきあげる。
「『埖渡』は『金沢』由来ってのはどうでしょう?」
「ん?」
「金沢という地名は、前田利家が加賀国に入部するより前からあった地名です。砂金がとれる『金城霊澤』から金沢となったらしい。そこは、もともと一向宗の根拠地です。」
「しかし、たしか確定してはいない地名だったな。それこそ、その地名由来の文献もなかったはずだ。」
「ただね、工藤さん。『澤』地名というのは、東日本で圧倒的に存在する地形由来の地名らしいんです。同じ地形を西日本では『谷』といいます。これは僕の独創ではありません。地理学の論文で読んだことがあります。」
「同じ地形の表現が、東と西ではちがうのか?」
「いまや、標準語教育で差異が認められにくくなってきてますが、古い地名ほど東は『澤』、西は『谷』らしいです。」
「わたしには、まだピンとこない。」
「『澤』地名が、諏訪由来だとするのです。地形はどちらも凹部、音は『sawa』と『suwa』。これが産金の地質の鉱脈上にのっていれば、金沢となりうる。古い歴史がある諏訪信仰に、冶金インテリジェンスが隠されているとするならば、諏訪から近く、一向宗門徒によって自治されていた金沢だからこそ、権力者によって改廃されやすい古くからの地名が残されていたのではないでしょうか。金沢の前地名を『埖澤』とし、そこには砂金を恵む『御神諏訪』を入れ込んでいるとか…。」
「とすると、その金沢とこの糠部を結んだのが前田利家であり、その義理の子である南部利直となるのか…。」
工藤は、ふたたび腕を組んで天井を見上げる。
「利直の烏帽子親を利家としたのは父の信直だ。南部藩中興の祖といわれる。しかし、信直はどちらかというと権力闘争に明け暮れた戦国武将だ。いや、豊臣政権の末期の時代背景がそうさせたのだが。信直がおなじ雪深い北国に領地をもつ利家に教えを請う姿は、容易に想像できる。」
「鹿角の鉱山群を発掘していくのは、まさに信直の最晩年からです。信直・利直で冶金インテリジェンスを独占していたのでしょうね。そこには、キンキラキンの格好をしている優雅な前田利家に憧れ、あるいはその向こうには太閤秀吉の姿が重なります。鹿角郡の積極的な鉱山開発には、豊臣政権の錬金術が受け継がれているように感じます。」
航介にとって、現在の糠部におけるほぼすべての文化の発祥は、16世紀の末期から17世紀の半ばにかけての一瞬に凝縮されているように感じられた。南部領だった津軽地方が秀吉によって分割されたことは信直の時代、最も由緒がある八戸根城南部氏が遠野へ移封されたのは利直の時代、利直により統一された南部藩が盛岡藩と八戸藩に分割されてしまったのは、利直の子の時代というように。
「金沢由来なあ…。」
工藤はそうつぶやく。まだ腑におちないようだ。
しばらくすると、左手で顎に手をやりながら右の手のひらをを大きく開いて、小指を地形図の右端に合わせた。ある場所への距離を右手で測り終えた後、別の地形図を航介から受け取って、同じしぐさを繰り返した。
「おい、航介ェ!えらいことに気付いたぞ!」
工藤は興奮している。
「『埖渡』と『埖淵』が全くおなじ経度に位置している!」




