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 一番若い航介が、一番遅く「シャトーカミヤ八戸」に着いた。奥の個室に通されると、男ばかりが四人、すでに出来上がっている。上座には、赤いちゃんちゃんこを着た工藤治三郎が機嫌よさそうにしている。工藤を挟むように、櫛引八幡宮の和田宮司と白澤寺の杢蓮住職が座り、一番の下座にこの宴会の幹事である石橋亘技官が、花束を手にした航介を歓迎した。

「来ないのかとおもったよ。工藤さん直々のご指名なのに。爺さんばかりで、しんどかったんだぜ。」

航介は、喧嘩別れをした工藤や、杢蓮こと三浦守と顔をあわせるのがイヤで、工藤の還暦を祝う席への参加を躊躇していたとはさすがに言えなかった。

「女っ気がありませんなァ。」

航介は嫌味なく言い、その場の空気を乱さない。

「ヨメさんはどうしたんだい?」

おおげさな拍手で航介を迎えた工藤は、航介から花束を受け取って、これも嫌味なく聞き返す。

「嫁じゃないッスよ。彼女とは、だいぶ前に別れました。将来ある若者のハートを傷つけんといてください。」

航介の明るい切り返しに、笑いが起きた。

「しかし、ちゃんちゃんこの似合い様は、ハンパないッス。その赤色がそれほどまでに似合うのは、プチトマトかベネズエラのチャベスぐらいですよ。」

「チャベス大統領?」

急進的な反米主義者の名に、杢蓮が反応する。

「みなさん、ここで問題です。なぜ、還暦を迎えると赤いちゃんちゃんこを着るのでしょうか?」

航介は、その四人に挙手を促した。

「魔除けの赤だろ。鳥居と同じ発想じゃないの?」

工藤は回答し、和田宮司もうなずいている。航介は「鳥居は朱色です」と言った後、

「『赤いちゃんちゃんこ』を略してください。」

一斉に、いい年をした大人たちがブツブツしだした。

「赤・ちゃん?」

「その通りです。今日、めでたく六十歳の誕生日を迎えた工藤さんは、この世に再臨したわけなんです。六十干支が根底にあります。」

そういった航介の独特な解釈を待ち望んでいたかのように、工藤は歓声の声をあげた。

「私が生まれた年と今年は、六十干支では同じ年になるのか!」

「要は、洒落です。これをダジャレとするのか、粋とするのかは、受け取る側の心持ち次第ですね。」

「『還暦』って、答えがそのまま書いてあったな。」

「『カンレキ』という音だけじゃ、わからないですもんね。漢字はホントに便利なモンです。」

航介が繰り出す軽目のジャブには、無礼な遅刻を忘れさせるだけの効き目があった。

「ほかにないのかね。君流のカルチャー分析は。」

航介は、工藤の古臭い物言いに苦笑しながら、

「工藤さんの誕生日である今日、八月十五日は、日本人として特別な日です。」

と言って、禅僧を演じている在日韓国人の回答を促した。

「敗戦…、いや終戦記念日だね。」

航介は、幼稚な罠にまんまと引っ掛かった杢蓮こと三浦守の間抜けさを確認しながら、

「そういえば、そうでしたね。」

と、とぼけてみせ、宣戦布告の狼煙を上げた。

「朝鮮半島出身の人にとっては、おめでたい特別な日なんでしょうね。解放記念日として。」

三浦は、黙って下を向いて何かをつまんでいる。航介は、「日本人として!」と繰り返し、

「赤ちゃんは、十月十日(とつきとおか)で産まれてくるといわれていますが、実際のところ、受精してからおよそ九ヶ月後に、この世の光を目にすることになります。元旦に受精したならば、予定日は九月下旬です。十ヶ月と十日後ではないのです。」

「ということは、ウチの婆さんは、十一月下旬に親父と仕込んだっていうわけか。気持ち悪いな。」

工藤の舌打ちに、三浦以外の三人が爆笑した。

「その計算を太陽太陰暦でやってみましょう。石橋くん、旧暦で八月十五日といえば?」

航介は、三歳年上の石橋を、あえて「くん」付けで呼び、「十五夜」という解答を引き出させた。

「それでは、十五夜生まれの子が受精した日は?」

航介は、石橋という男のキレ具合を試してみる。

石橋は両手を使って、仲秋の名月となる夜を含め、十回目の満月になる日のさらに十日むこうを回答してきた。

「霜月の四日?」

「その日なら、葉月の望から丸何日になる?」

「朔望月を29.53日とすると、275.77日だね。」

「ふつう、出産予定日とはママの最終生理日の四〇週(280日)後に設定するんだ。とすると…。」

「霜月の一日?」

「そう、第十一月の朔となる日が、十五夜生まれの子にとって特別な日となる。」

「…。」

航介は四人の反応が良くないことに、かえって改暦という政策の偉大さを再認識した。これまで目にしてきた太陽暦のカレンダーには、百五十年前までの人々の常識を覆す魔法が仕掛けられているのだ。

「今の時代、赤ちゃんは平均で266日目に産まれてくるらしい。朔望月でちょうど丸九ヶ月さ。つまり、あの夜にパパとママが目にしていた月は、生まれたての赤ちゃんが初めて目にする月と形が一緒なんだ。」

「へぇ!」

航介がわかりやすく説明すると、こちらには素早い反応が返ってきた。しかし、航介が指摘したいことは、このことではなかった。

「実は、霜月の朔が冬至になる年回りがあるんです。今の暦でいえば、十二月二十一日か二十二日が冬至ですから、その日に旧暦で十一月であり、かつ新月になるということです。」

「その日が、そんなに特別なのかい?」

工藤が興味をもった。

「霜月は、子月ともいいます。干支の『子』ですね。一年で最初の月とは、意外なことに霜月なんです。中国では、その年回りの日を朔旦冬至といいます。桓武天皇の誕生日は、この日とされています。」

「たしかに十一月には、新嘗祭(にいなめさい)という宮中にとってもっとも大切な儀式がございます。」

和田宮司がフォローする。

「十一月二十三日の勤労感謝の日ですね。この日、親父さんとおふくろさんが仕込んだので、工藤さんは八月十五日という特別な日に生まれたんです。」

「計算上な。」

「ええ、計算の上だけです。しかも、今回は太陽暦での話です。お月さまを無視しています。今日は、満月ではなかったですよね?」

航介は、話の輪に加わろうとしない三浦に振った。彼が主催してきた「ジオ俳句・ジオ短歌の会」は、旧暦で十三日に開かれている。

「ああ。今年の仲秋の名月は、九月十七日だ。」

「オレの誕生日です。」

石橋が嬉しそうに、航介にアピールした。

「石橋くんはクリスマス・ベビーかもな。」

「やめてくれよ。気持ちわりィ。」

石橋も工藤と同じ事を言っている。

「去年のクリスマスは満月だったのか…」

航介は石橋に教授しながら、アーニランと過ごしていたあの夜を振り返った。

「市野沢くんは、いつ仕込まれたんだい?」

石橋が、悪ノリしてくる。

「四月上旬のはず。誕生日がクリスマスなんだ。」

すぐに回答できたのは、普段から考えていたからだ。

「みなさんは、イースターというキリスト教の祭りをご存知ですか?」

「復活祭のことだね。」

「あれは、春分の日が過ぎた後の、初めての満月の次の日曜日がその祭日となります。」

「ずいぶん細かいね。」

「日曜日は、キリスト教の安息日です。」

「あまり意味がないかもな。」

「問題は、初めての『満月』というところです。」

「十字架に張付けにあったイエスが、復活したことを祝う祭りなのだから、春分も関係がないようにおもえるんだけどなぁ。」

石橋は、腕を組んで少し考えた後、

「いや、イースターとは【the eastern stars】のことか。これなら祭日に春分点を必要とする。」

「『東方の星』なら春分と関係がありそうですね。実は、イエスが殺されたことと復活祭は無関係で、復活したのは彼の肉体ではなく魂だと思います。」

航介は、全世界のキリスト教信者までも敵にまわしかねない仮説を披露した。

「イエスは、三日後に復活したとされます。事実だとすると、彼が殺されたのは…。」

「十三日の金曜日か!」

石橋の興奮の様に、三浦がなぜかニヤリとした。

「旧暦で如月の十三日です。それはそれで良いでしょう。ところが、同じ時期にイエスの父親であるヨセフと母親であるマリアが唇を重ね合わせると、その年の霜月の満月には、ふたたび新たな命がこの世に生まれてくるのです。」

「その赤ちゃんこそ、エリートである救世主なのか!」

「イエスは、二千年前に実在していた人間です。たとえ神の子とされていても、イエスが肉体的に蘇るわけがありません。ところが、春分が過ぎた最初の満月の日にうまいこと受精すると、イエスとおなじ誕生日に新たな命が生まれてくる可能性がグッと高まるのです。」

「だから復活祭なのか!」

「復活祭には、カラーリングしたゆで卵を贈りあい、多産の象徴とされるウサギが大切に扱われます。信者たちにとって『愛し合うべき日』なのでしょう。」

航介は、復活祭とは救世主の循環をさせるための祭日だと断言した。その永遠の循環には、母親の子宮が必要となる。

「ところで、日本では、月のクレーターにある陰影を『ウサギの餅つき』と見立てます。僕は、この表現に、重要なインテリジェンスを見出しました。」

「その秘密とは?」

「十五夜には、たくさんの白い団子をお供えします。子供のころ、初めてこの風習を見たとき、月に棲むウサギが卵を産んだのだと連想しました。」

「ウサギは哺乳類だろ。卵は産まないじゃないか。」

「僕も、学年があがるにつれて、その直感は自分で否定してきました。しかし、よく考えてみると哺乳類でも卵を産みますよね。お腹の中だけ。」

「ああ、そうだった。盲点だな。」

「どうも、月見の風習は、イースターに似ている気がするんです。ゆで卵と白い団子。イースター・バニーと子だくさんの『餅つきウサギ』。」

航介は、イースターと十五夜を重ねた。共に、聖者の命脈や、女性の神秘を祝っているのではないか。

「とすると、日本のエリートは、五月十五日生まれになるんだね。」

「わたくし…。」

石橋の計算結果に、老宮司が遠慮がちに手を挙げた。どうやら、その日生まれらしい。航介だけでなく、他の三人も妙に納得している。

航介は、「まず、新暦で説明します」と断って、

「太陽運行の特異点を、四ヶ所設定します。春分、夏至、秋分、そして冬至です。順に、三月二十日、六月二十一日、九月二十三日、十二月二十一日としてみましょう。ひとつの括りとして、この日に生まれた人は特別な人です。この日生まれにするためには、それぞれの266日前が、愛し合うべき日です。順に、七月三日、九月二十九日、一月一日、三月三十一日となります。」

「元旦に仕込むと、秋分生まれになるのか。」

「五月十五日が出てこないね。」

航介は、場が暖まってきたことを確認しながら、

「その五月十五日は、旧暦で計算しなければなりません。求められるのは、新暦で約一ヶ月後です。」

「六月十五日?」

「僕は、日本で求められてきた聖者の誕生日とは、太陽が最も強い光を放つ日だと思います。すなわち、夏至です。六月二十一日です。」

「なるほど。その年の夏至が、旧暦で五月十五日なら、エリートである条件が整えられるというのか。」

「もうひとつ、前年の旧暦八月十五日までちょうど266日、丸九ヶ月であることが必要です。」

 航介は、河口にある御前神社と、総鎮守である櫛引八幡宮の例大祭の関連について、神功皇太后の母体を介することで論理的になることを発見していた。すなわち、櫛引八幡において十五夜にはらんだ神功皇太后が、翌年の夏至に応神天皇を御前(みさき)社で産んだという物語である。この物語が、記紀に遺されている「正解」と相似ならば、川沿いの内陸で孕んだ神功が、新羅国への遠征途中に筑紫で出産したというエピソードの核心が、京や筑紫から遠く離れたここ糠部で解明されることができそうだ。

「太陽の位置と月の満ち欠け、そして母胎期間。これらが組み合わされて、エリートが生まれます。」

「君は、自分を救世主だとでも言いたいのかい?」

めずらしく、三浦が低い声で尋ねる。

「ハハハ…。我が家は、キリスト教徒じゃありません。たまたま、僕がイエス・キリストと同じ誕生日なだけです。さっきも言ったでしょ。日本人にとって特別なのは、五月十五日や八月十五日生まれの人なんですよ。新暦ならば宮司さんと工藤さん。旧暦なら、石橋くん。あなたの周りはエリートだらけです。」

宮司はうつむき、工藤と石橋は顔を見合わせた。

「大山杢蓮こと三浦守さん、そういえばあなたは、六月二十一日生まれらしいですね。その夜の月は、満月じゃなかったですか。覚えていませんか?」

「なぜ、私の誕生日を知っているんだ。」

「ハハハ…。あなたのことをわざわざ教えてくれる人がいるんですよ。気を悪くなさらないで下さい。世の中、狭いもんですねぇ。」

航介は、確信的に挑発した。他者に攻撃的なヤツほど、肉食獣のように身を隠そうとする。ならず者に圧力をかけるには、厚くまとった着ぐるみを丁寧に剥いでいく必要がある。

「宮司!」

大きな声を出して一連の流れを遮断した航介は、総鎮守の老宮司に向かって切り出した。

「先日、お話をいただいた件について、僕の気持ちを正式にお答えさせていただきます。」

「後を受けていただけますか!」

「市野沢航介は、南部総鎮守櫛引八幡宮の次世宮司に、元国土交通省技官である工藤治三郎氏を推挙いたします。氏は、永年にわたって治水担当として国土の保全につとめられました。八幡さまの神意のひとつを実践されてきた方です。また、氏が特別な日の生まれであることもその理由です。」

航介の言葉に老宮司は軽くうなずいたが、肝心の工藤は、なんのことかわかっていない。そこに、三浦が発言した。

「わたしは、石橋亘君を推薦する。彼も治水担当であるし、市野沢君が言った特別な日の生まれだ。そう、八幡宮の本来の例大祭である旧暦八月十五日生まれといえる。そして何よりも、彼は神奈川県の出身だ。彼に、鶴岡八幡宮と源頼朝をみる。」

航介は予想しなかった展開に驚き、石橋の表情を窺った。石橋は、自身ありげに前を見据えている。

 どうやら三浦にしてやられたようだ。宮司への試験となるあの算額の解答も、三浦によって、すでに用意されているのか。航介は焦った。

「石橋くんには、南部領や糠部地方を慕う郷土愛があるの?」

「君がいう郷土愛も大切だけど、僕は君よりも強い祖国愛がある。所詮、君は左翼なんだろ。この辺の人をたぶらかして革命でも起こす気かい?」

「ハァ?」

石橋の耳にも、謂れなき中傷が行き届いていた。

「そんなん言うたの誰や!」

ついさっきまでの和やかな雰囲気と、航介の雄弁ぶりからきていた優越的な存在感は、一瞬のうちに逆転した。石橋と三浦は目を合わせ、苦笑している。

「まあまあ。」

険悪な雰囲気をたしなめようとする工藤ですら、航介の予想に反して、石橋を推薦した。

「私は八幡宮の宮司にはならない。いや、なれない。」

「なぜですか!」

「私は、曾我物語に出てくる工藤祐経の子孫だ。その系譜は、桓武天皇に連なる。源氏と対立してきた平家の末裔なのだ。源氏が奉ってきた八幡神を平氏の血の者が祭祀することに、その神々が喜ぶはずがない。」

「…。」

「どうやら石橋は、すこぶるやる気だ。私もコイツを推薦するよ。」

工藤の一言で流れが決まった。むこう五十年間、航介の愛する郷土の総鎮守に、半ば侵略の意図をもった石橋亘という野郎が、八幡神の遣いとして、遠く神奈川県から赴任してくることになりそうだ。航介は、どうにもこうにも我慢がならない。むこう半世紀も侵略者から押さえつけられるというのか。石橋亘という男は、南部弁をまるで理解できない。守られてきた慣習が、身に滲んでいない。いや、記憶にすら残されていない。そんな奴が、神意を汲み取ることなどできるわけがない。領内の平和と豊作を、今も気にかける藩主たちの霊が降りるわけがない。

 しかし、航介は自分が手を挙げるわけにはいかなかった。以前、和田宮司に誓ったとおり、明治政府によって政治的に失われた神仏混交の八幡信仰を取り戻し、中興の祖として人民をまとめあげる使命があった。その天命は、とくに糠部だけではなく、広く全国へ公布する必要があった。新興宗教やマルクス主義、そして科学万能という幻想から、生活する人々の知恵の蓄積を重視している地に足をつけた連続に回帰する必要性を説いて歩かなければならない。

「コイツらはアホや…」

正確に理解されないことからくる孤独感は、短気な航介を、ふたたび厚い殻に閉じ込めようとする。半ばふて腐れた航介はその後寡黙になり、一番の若輩者らしく下座で小さくしていることになった。

 手酌でひっかけながら、込み上げてくる暴力性を意識化することに腐心して理性を保とうとする。しかし、雄弁な三浦が癪に障る。航介の郷土愛を、横浜出身である石橋の祖国愛の下に位置づけられたことがやるせない。さらに、彼らの悪意に気づかない和田と工藤。東北人は、どこまでお人好しなのか。

 航介は、どうにも我慢できなくなって、小さなグラスを手にしてトイレに立った。そのまま打ちっぱなしのコンクリートの壁に投げつける。いい音をして砕けたガラス片が、予想以上の反発力から航介の右手を傷つけ、一筋の鮮血を流させた。

「オレはエリートだ!」

航介は、糠部と出羽国庄内の混血児であることに、ふたたび思いを強くした。

 狡猾に根回しをする三浦に、野心に満ちた石橋。彼らには場所愛という愛情がない。せいぜいあるのは、自尊心という自己愛だけではないか。

「ああいうヤツらが日本を劣化させてきたんだ!」

航介にとって保守政治とは、土地の記憶に由来しているものである。それは、湿地で米をつくり、水はけのよい安全な場所に家を建てることだ。ところが、保守を名のる連中に限って国土をいじくりまわし、湿地に住宅を建てようとする。保守とは、先人の知恵を受け継ぎ、それをそのまま後輩や子孫に引き継いでいく哲学である。これこそ統治の基本ではないのか。それなのに、自称保守主義者にかぎって長幼の序や年功序列を否定し、少子化問題への無策をつづけている。いや、むしろ核家族や単身世帯を是とするライフスタイルを推奨して、大量消費社会をいまだ煽りつづけている。

 航介は、手洗場の隅に品良く生けてあった花瓶を手にし、挿されてあった桔梗を投げ捨て、ふたたび壁に投げつけた。適度な重さの花瓶は、よく回転しながら、航介の狙った所で美しく砕け散る。

 その様を見て、ようやく溜飲が下がった航介は、小便器で用を足していた。すると、二つしかないもう片方の便器に、大柄な男が立った。

「おまえ、ちっちぇいのう。」

上から航介のイチモツを覗き込んだ三浦が、酔ったフリをして侮辱した。先に済んだ航介は、ブサイクに上半分の尻を出している三浦を後ろから蹴り上げ、今度は襟首を持って引きずり倒した。三浦の背中には、殺されたキジからの報告どおり「マンガ」が描かれている。幼なじみの浜田の無念を晴らす時がきた。いや、お調子者のサルも、コイツの手にかかったはずだ。

「ええ加減にせぇや。エセ右翼めが!」

三浦は、小便を急に止められず撒き散らしている。航介は構わず馬乗りになり、両膝で三浦の上腕を固定し、顔面にむかって拳を繰り返し打ち下ろした。三浦の酒量もあって、航介が暴力団組員を圧倒している。多くの修羅場を経験してきたはずの三浦も、不意討ちと航介の若さには対抗できず、祝い酒によって奪われた運動能力の低下は顕著なものだった。

「中学生の女の子を殺させたのはおまえけぇ?」

「知らんよ。」

「巧いこと言って、実家(うち)奪ったのもおまえけぇ?」

「知らんよ…。」

「禅僧のくせに息子がいる?在日やのに民族派?おまえみたいなインチキは成敗せなあかんな。」

航介は、近くに転がっていた花瓶の大き目の破片を手に取り、三浦の左首筋に据える。三浦は航介の表情を確認し、みるみると憤怒と恐怖が混じった複雑な表情に変わっていった。

「女の子を殺した実行犯は、横浜の若い衆やろ!」

「…。」

「ヒロシを殺したのも、どうせソイツやろ!巧いことやりよるな。コラァ!」

「もうヤメろ!」

それまで、遠目から傍観していた工藤が、航介を怒鳴りつけた。三浦は、口からかなり出血している。工藤によって、馬乗りになった航介が引き剥がされると、三浦は、チンピラのような捨てゼリフを吐いて、その場から消えていった。威嚇のために刻んでいたはずの般若の入れ墨が、小さくかすんで見えた。

「なんで止めるんですか!」

航介は、今度は工藤に掴みかかろうとした。工藤は、すかさず航介の顎に右手で鉄拳を見舞う。

「お前は、自分の役割がわかっていない。」

「役割?あいつの命令で仲間が殺され、家がバラバラになったんだ。やられたらやり返す。敵の味方は、敵とみなすぞ!」

航介は泣きながら、またも工藤に掴みかかろうとする。工藤は、今度は左手を使って殴りつけた。

「バカ野郎!なぜ気づかない。お前は、あんな底辺の連中と力比べをするために生まれてきたわけではないだろう。ケンカは、仕掛けた方が常に卑しいのだ。その時点で勝負ありだ。」

航介は、工藤の言葉を励ましと受け取った。

「お前の勝ちだ。おまえが正しい。」

勝ち負けと正義の不一致に孤独を感じていた航介にとって、その言葉はなによりも救われるものだった。

「お前は、あの時、八幡神と一体となっていた。」

工藤は、やめていたはずのタバコに火を点けた。航介と同じラッキー・ストライクだ。

「国を憂い、故郷を愛する堂々としたその姿。腕力でこの国を征服しようとするならず者の野心家に、圧力を怖れず攻撃を加える頑強な体躯と勇敢な精神。赤い炎のようなオーラを発しているお前は、まるで源義家のようだ。そう、八幡太郎だ。」

工藤は、この強めのタバコを、美味そうに肺に入れた。

「今のお前の背後には、源氏のあの棟梁がついている。糠部産の駿馬に跨り、乳白色のかぶいた毛皮をよく着こなしているぞ。」

あたりを見回す航介の振る舞いがユーモラスだったのだろう、赤いちゃんちゃんこを着ている工藤は大きな声をあげて笑い出した。

「航介ェ!まぁんず、ネまれじゃ。」

工藤は、初めてファーストネームで航介を呼んだ。しかも、南部弁で。

「ここはクールダウンだな。」

個室に戻った工藤は、石橋に和田宮司を送らせ、同時に航介へ冷酒を注ぎ、一気飲みを勧めた。

「いい男っぷりだ。」

工藤は、グラスに入った酒を飲み干した航介を褒め、なみなみと注ぎ足す。

「オラもあいつが嫌いだった。偉そうにしやがって。」

「三浦のオッサンとは、古いんですか?」

「あいつが議員秘書としてウロウロしていた頃からだ。三十年ほど前からの付き合いだ。まあ、『虎の威を借る狐』そのまんまだ。」

「キツネですか…。」

「こっちとしては、随意契約狙いだということはわかってはいるが、さすがに軍団を持っている連中は、役人を手玉に取るだけのノウハウを持っている。奴等の術中に嵌ってしまう先輩たちをたくさん見てきた。」

工藤は、いくつかの具体的な例をだして、政治の生々しい現場を航介に示した。

「政治は、おもろないんですね。」

「それが社会の現実だ。」

「やはり、政治とはマツリゴトではなかったのですね。国土を荒らしてきた連中を、オレが懲らしめなければとおもいますよ。月に代わってお仕置きですよ。」

「反動的な運動だけはやめとけよ。迷彩服を着て、サングラスにパンチパーマじゃ、国民に対して説得力がない。」

「僕はエセ右翼が大嫌いです。連中のせいで、穏健な日本の伝統文化が歪曲化されてきたんだ。あいつらは大日本帝国への幻想が強すぎる。明治、大正、そして昭和初期は、日本の歴史上、異常なほど急進的な政治が行われてきたんです。あの時代こそ、純粋なニュアンスで左翼勢力が天下を獲っていたと言えませんか?」

「たしかに、ラジカルだったわな…。」

「じゃあ、なぜそうなったか。その原因は外圧ですよ。ペリー来航の前後から、外国人による侵略の危機が現実味を帯び、翻訳家や帰国子女による見分を通して、開国と国際標準化への対応が必須であることがわかった。ここがすべての出発点です。」

「幕府による内政の行き詰まりではない?」

「鎌倉幕府が元寇をきっかけとして弱体化したのとよく比較されますが、徳川の統治とは、民が将軍や藩主を敬い、役人に政治を任せていたわけです。今では否定的に捉えられる『お上に委ねる』感覚は、支配、被支配の理想的な関係じゃァないですか。孔子の徳治主義を持ち出すまでもありません。」

「バカ北条とは大違いか!」

北条嫌いの工藤は、すいぶんと愉快そうだ。

「徳川幕府が、十五代慶喜でピリオドが打たれることになったのは、外圧だけじゃないかもしれません。」

少しトーンを落として言った航介は、様子を窺いに来たウエイターに飲み物の追加を頼んだ。テーブルの上には、空になったグラスと皿ばかりだ。

「日本の権力は、常に十五代で終焉する運命にあるのかもしれません。」

「?」

「足利幕府も、十五代で信長に取って代わられました。一九九三年には、保守政権も第十五代総裁で政権交代がおこりました。」

「あいかわらず、航介殿はユニークですなァ。」

「『十五』は、完成を意味するのではないでしょうか。満月は、旧暦で十五日に形を整えます。その月は、翌日から欠けていきます。」

「権力も人の命も、月の満ち欠けと同じか。」

「無常です。実に、はかないものです。」

工藤は、三度、大きな声で笑い出した。

「航介ェ!老け込むのは早すぎるぞォ。老子など、戒めのために、たまに読むのがちょうど良い。」

工藤の忠告は、巡礼と称して、滴石号と現実逃避していた航介を目覚めさせる一言だった。

「工藤さん、僕は故郷のために何かをやりたい。」

「おお、いいことだ。奉公しろ。公共の福祉だ。」

「ただ、ひとつだけ迷いがあるんです。」

航介は、自分の心のなかに引っかかっていたあることを打ち明けた。別に、石橋から急所を突かれたからではなかった。

「今の僕には、郷土愛と祖国愛が対立してしまう悲しい瞬間があるんです。」

「と、いうと?」

「東北地方、そのなかでも青森県域は、中央政府から有史以来ずっと搾取されつづけている。鉱山は掘り尽くされ、土着の人々は八百年前から北条の権威に抑え込まれて、ただただ平伏してきた。」

「徳川の時代でもだな。」

「あのころ、全国でもっとも一揆が多かった事実は、領民の不心得や領主の無能さが原因ではないはず。稲作ができない気候が、先人を苦しめてきたんだ。しかし、民が委ねた殿様の政策には柔軟性がなく租税を課し、参勤交代を強いられ、結果的に稲作が難しい寒冷地の民の生活は苦しかった。徳川家は、北辺に住む人間を思いやられた政治をしなかった。南部領内には、東照宮が全く分祀されていないことをみても、なにをかいわんやです。」

「その一方で、世渡り上手の津軽藩領内には、いくつかの東照宮があるわな。」

「僕は、これまでの歴史を振り返れば振り返るほど、東北人として、南部人として中央政府の言うことを盲目的に聴くことができないんです。なぜなら、彼らにはこの大地への場所愛が全くないからです。」

「場所愛…。」

「大都会で排出された産業廃棄物を、高速道路を使って、わざわざ青森県まで棄てに来る。東京の観光地の無駄なライトアップに下北半島産の電力が活躍する。しかも、その原発から産み出される危険な核廃棄物は、全国から六ヶ所村に集まってくる。」

「たしかに、貧乏クジを引かされている。」

「無責任な土建政治家の浪費と小役人の無策で貧乏になったのに、彼らは全く反省していない。彼らの現世利益的な性向には、卑しさすら感じます。」

「国からの莫大な交付金目当てか…。」

「沖縄の米軍基地問題と同じですよ。貧乏だから基地が必要。しかし、役人が繕う近視眼的な政策には工夫がなく、いつまで経っても貧乏のまま。沖縄県民が騒音被害に苦しんでいることなど、JR中央線沿線のボロアパートに住んでいる貧乏学生と同じというレベルで考えている。」

「慣れると思っている。」

「しかし、沖縄県民が感じていることは、騒音計の値じゃないんだ。貧乏クジをむりやり引かされていることに対する怒りであり、全国民の無関心ぶりだと思うんです。国のために、東京のために、積極的に協力してもそのうち見捨てられるんじゃないのか。腹の中では、どこかに差別意識があるんじゃないのか。たぶん沖縄の人たちは、そう思っているんだろうと。」

「あの沖縄戦の記憶がよみがえる、か…。」

「僕は、京都に住んでみて気づいたんです。京都人がとてもうらやましい。」

「米軍基地はないし、原発は深い山の向こうの福井県に閉じ込められているわな。」

「いや、そういうことではないんです。根っからの京都人は、祖国愛と郷土愛、そして自尊心が一体となっている。少なくとも、この優先順位が並列にあって、決して上下にはない。つまり、僕のように祖国愛と郷土愛が対立する瞬間がない。なぜなら、歴史的にみて、京都こそ日本の都だからです。京都の人は、この点で自信に漲り、いつも精神的に余裕がある。だから、どこに行っても自分が生まれ育った言葉、すなわち京都弁でコミュニケートをとっている。とてもうらやましい。」

「たしかに、東北の人間は都会に出ると、お国言葉を直そうとする。努力しても訛っているが。」

工藤は、自分の過去を振り返って苦笑いをした。全国を転勤してきた工藤は、新しい赴任先での名刺交換の際に、しばしば、その訛りから出身地を当てられたものだ。自分では直しているようでも、訛りはなかなか消えないようである。

「堂々としていればいいんです。この訛りは、もともと京ことばなんですから。」

航介は、すっかり柳田國男の説を支持していた。

「言葉は、その人のパーソナリティそのものです。訛りをネガティブに扱う人は、礼に失している。郷土愛と自尊心が融合したものが訛り、いや方言なんです。『訛り』の漢字をよく見てください。『ごんべん』が『化けて』、『訛』。この化け方は、退化の方ですけど。」

航介は、「埖」の国字由来と似た解釈で、「訛」の字をユニークに解釈した。

「ところで、工藤さん。埖渡という変わった地名をご存知ですか?」

「もちろん。国字のな。」

「あれは、御神渡(おみわた)りからくるとおもっているんです。諏訪湖の。」

「ほう。」

「あの地名について、なんか知ってることはないですか?」

「うーん…。」

工藤は腕を組み、高い天井を見上げる。

「諏訪信仰は北条氏の得宗領によくみられるんだな。諏訪明神は出雲系なんだが、結構古い歴史があったはずだ。」

「それは、知っています。出雲の神さまが日本海経由で逃げて、最終的に落ち着いた所があそこだったと…。」

「神話での表現だから、それをまともに受け取る必要はないんだが、航介は諏訪にいったことはあるか?」

「いえ、ありません。ただ、上高地(かみこうち)(長野県)に遊びに行くときに、中央道の諏訪湖SAで休憩したことがあって、そこから見たことはあります。真ん丸なんですよね。」

「諏訪はあんな山奥なのに、日本のスイスと呼ばれるほど精密機械業が発達している。ちょっと前なら腕時計の生産、今ならスマート・フォンの部品とかな。付加価値度が高い。」

「なぜなんですかね。」

「もちろん、そういう工場が進出しているからなんだが、わたしは土地の記憶がそうさせているのではないかと思っている。」

「諏訪の地理的特徴といえば…。」

「Spaだよ。」

「え?」

「温泉だよ。諏訪湖の湖底では湧いているらしい。ということは、その噴出口付近には、貴金属が溜まっている可能性がある。」

工藤は、酒の量も手伝って半分冗談で言っている。しかし、航介にはその類の冗談は通用しない。むしろ、工藤の冗談を超えるユニークな発想を生みだすヒントになったりする。

「諏訪明神にも、冶金(やきん)インテリジェンスが隠されているのかしれませんね。」

「?」

「僕は、この『埖』の国字は、陰陽五行の『土生金』の法則を利用したともおもっています。この説は、最近まであまり自信がなかったんですが、『土の花』が『金』を示唆する暗号だと確信したことがあるんです。ヒントは、意外にも富士山に隠されていました。」

「国字解読のヒントが富士山に?」

「富士山を御神体とする浅間神社の大神は、コノハナノサクヤビメノミコトですが、『木花之佐久夜毘売命』と書きます。『木の花』なら『木生火』の法則から『火』を指示します。富士山は定期的に噴火する活火山なんですから、『火』の神というのは適切でしょう?」

航介は、先人は神の本性を庶民にわかりづらくするために暗号化しているとした。パスワードは「花」、解読するカギには、陰陽五行説の理解が必要になる。

「なるほど、たしかに…。じゃあ、埖溜(ごみたまり)や埖淵(ごみぶち)はどうなるんだい?」

「?」

「滝沢村の埖溜と、宮守村の埖淵だよ。」

「エッ!『埖』の国字を使った地名がほかにもあるんですか!」

「滝沢村と、宮守村にな。」

「えらい遠いじゃないですか!滝沢まで埖渡から100km、宮守なら200kmぐらい離れていませんか?まさか…。」

航介は、強いショックを覚えた。南部総鎮守の門前に、特別に拵えたと思っていたその地名に使われている国字が、200kmも南方にも使われているというのか。

「えらい遠いが、全て南部藩の内だぞ。『三日月も丸くなるまで南部領』だ。」

「しかし…。」

「まあ、落ち着いて一緒に考えてみよう。」

 他の三人がいなくなって、かえって二人の話は盛り上がった。同じ酒を飲み同じタバコを吸いながら、同じ港へ向かって同じ船に乗っているのである。


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