22、徐月香
瑛がその話を聞いたのは、江州から戻ってから五日目のことだった。
「珀悠が仲良くしている妃嬪がいる?」
「ええ……ご存じなかったのですか?」
彩凜が意外そうに言った。後宮の安定に努めるのが優先で、珀悠関連のことは後回しにしていたのだが……(慧峻関連のことはすでに釘を刺しておいた)。
「ふうん。ついにあの子にも思い人が……」
自分でそうつぶやいたのだが、瑛は胸の中がもやっとするのを感じた。所詮、自分は皇太子の教育係としての皇后だもんね、とやや卑屈な考えが浮かぶ。
「ちなみに、高宝林じゃないよね?」
「違います」
即答された。まあ、高宝林こと琅明は男だ。珀悠はそれを知っているはずで、彼にそっちの気がない限りそう言う関係には陥らないだろう。
と言うことは、他の妃嬪の中の誰かか。
「ちなみに、参考までに名前を」
「徐美人です」
とっさに顔が思い浮かばなかった。ややあって思い出したのは、小柄な体躯に小動物のような印象の少女だった。おとなしそうな娘で、確か十七歳くらいのはず。珀悠とも年回りがいいくらいだろう。
なんだろう。またもやっとした。
それを面に出さず、瑛は首をかしげる。
「でも、そんな話、後宮内を歩いていても聞かなかったわよ」
「陛下が行動に気を付けておりますから」
「なるほど」
何となく面白くない気がするのは気のせいだろうか……。瑛はわずかに眉をひそめる。
「いい子ならいいんだけど」
そんなことをつぶやく。すぐに本に視線を落としてしまったために、彼女は自分の侍女や女官長が複雑な視線を自分に向けていたことに気付かなかった。
△
それから、瑛は徐美人について情報を集めてみた。どうやら、穏やかな気質の少女らしく、部屋の中で刺繍や本を読んでいることの方が好きらしい。目立った行動はなく、つつましく暮らしているようだ。ただ、高宝林こと琅明と仲がいいことだけが引っかかる。猫をかぶっているとはいえ、琅明と仲良くできる人物がただの穏やかな少女とは思えない。
そんなことを思っていたからだろうか。ある日、珀悠にこんなことを言われた。
「文姫。ちょっと紹介したい人がいるんだけど」
「はあ?」
思わず間抜けな声を上げながら顔を上げると、珀悠がにこにこしながら立っていた。瑛は読んでいた本を閉じ、立ち上がる。
「誰?」
「うん。ちょっと面白い子がいて。おいで」
珀悠が誰かを呼ぶ。遠慮がちに入ってきた少女を見て、瑛は目をしばたたかせた。噂の徐美人である。
伏し目がちな大きな瞳、標準的な体格の瑛より小柄な体。控えめな衣装であるが、それが彼女をよりかわいらしく見せている。徐月香というのが名なのだそうだ。
「文姫なら知ってるかもしれないけど、彼女、徐美人。最近、仲よくしてるんだ」
笑顔の珀悠がそう言った。笑顔と言うよりは、面白がっているような気もするが、瑛は自分の胸がずきりと痛むのを感じた。それを無視し、瑛は声をかける。
「あなたが徐美人ね。何度かお見かけしたけれど、かわいらしい方ね」
「あ、ありがとうございます……皇后様。皇后様も……」
何かを言いかけて、徐美人は口を閉ざした。少しその唇が震えている気がして、瑛は自分、怖いかな、と思った。小柄な少女が震える姿は小動物的でとてもかわいらしい。
「皇后様。私……」
ちらっと徐美人が珀悠を見た。珀悠がうなずく。何だろう。視線で会話している。もやっとした気持ちを抱えながら、瑛は首をかしげた。なんだか、思っていたのと違う気がする……。
次の瞬間、徐美人が瑛に向かって飛びかかって……
いや。飛びついてきた。
「大好きですっ、皇后様ぁぁっ!」
「ええっ!?」
そっち!? 瑛はおののき、抱き着かれた勢いでたたらを踏む。驚きの表情を浮かべた瑛を見て、珀悠が笑っていた。
「あはは! ね、面白いでしょ」
「どこが!?」
思いっきり突っ込みを入れてしまった。珀悠に突っ込んだのだが、徐美人ははっとして瑛から離れた。その赤くなった頬がかわいらしい。
「ご、ごめんなさい、皇后様……でも、わたくし、ずっと皇后様にあこがれていて……」
「そ、そうなの?」
先ほど飛びつかれたせいで、瑛の警戒心が強くなった。少し及び腰になりながら、徐美人の言葉に相槌をうつ。
「とりあえず、座ろうよ。彩凜、お茶を用意してくれる?」
「かしこまりました」
珀悠の指示に、彩凜が頭を下げて従う。ちなみに、彼女は一連の騒動を呆れ気味に見ていた。見ていたなら、助けてほしかったのに。
瑛が長椅子の定位置に座ると、珀悠が当たり前のようにその隣に座る。徐美人……月香は向かい側の一人がけの椅子に腰かけた。お茶と茶菓子が用意されたところで、珀悠が口を開く。
「改めて、文姫。彼女は徐美人。高宝林が紹介してくれたんだけど」
「改めまして、御目文字仕ります、徐月香と申します」
座ったまま頭を下げた月香の仕草は深窓の姫君そのものだ。まあ、先ほど飛び着かれたのを忘れたわけではないが。
「何でも文姫にあこがれているということで」
「……」
まあ、高宝林、つまり琅明に紹介されたと言うあたり、まともではないのは仕方がないのかもしれない。珀悠も『面白い子』と言っていたし、ただかわいらしいだけの少女なら、琅明も紹介したりしないだろう。
「で、徐美人。彼女が皇后夏侯氏」
「はい! 存じ上げております!」
月香がうるうるとした瞳で瑛を見つめた。この子、本当にかわいい。ただ、中身は残念なようだが……しかし、それは瑛にも珀悠にも言えることだ。
「わたくし、本当に皇后様にあこがれていて……皇后様が後宮に上がられた時から、お話ししてみたいと思っていたのですが、わたくしごときでは恐れ多くて話しかけることもできず……」
恥じらうように月香が身をよじる。だが、すぐに失礼な態度であると気付き、はっとした様子で居住まいを正した。
「……まあ、そう言ってもらえるのは光栄なことだけど……一応、私は夏侯瑛。よろしく、徐美人」
「はい! よろしければ、月香と呼んでいただければ……!」
「……まあ、他に人がいない時ならね」
「はい!」
嬉しそうに月香がうなずいた。瑛は眉間をぐりぐりし、花茶を一息に飲みほした。
「一つ聞きたいんだけど、私のどこにあこがれられる要素があるの?」
外見は置いておくにしても、瑛は自分の性格がほめられたものではないと自覚している。何しろ、皇帝の代わりに行軍するような女である。
尋ねたのは失敗だっただろうか。眼を輝かせて月香が勢いよく語りだしたのである。
「皇后様のお噂は後宮に入る前から耳にしていました。女性でありながら男性より強く、聡明で、何よりお優しいところに惹かれまして」
確かに、瑛の噂は流れていただろうが、彼女の噂はいいものばかりではなかっただろう。燕旺国は女性でも家督を継ぐことはできるが、基本的に男性社会だ。その中で女性でありながら軍を率い、学術院で教鞭をとっていた瑛はいろんな意味で浮いていた。
「冷静でどんな物事にも動じず、あっさり解決してしまわれる皇后様がかっこよくて」
冷静に見えるのは、表情が動かないだけであるような気がする。
「でもでも、皇帝陛下を見る眼は優しくて、それが可愛くて」
「……」
「とにかく、わたくし、皇后様のすべてが大好きで、好きな理由をうまく言葉に出来ません!」
「……そう」
少し引きながら瑛は何とか相槌を打った。
「夏至祭の剣舞もお見事でほれぼれしましたし、納涼祭に出された飲み物や食べ物もおいしかったですし、陛下のために江州にまで向かってしまう行動力もさすがですし」
でも、だからこそ自分から遠い人だ、と月香は思ったそうだ。だから、琅明から珀悠に紹介してもらい、彼から瑛に紹介してもらって今とても幸せなのだそうだ。
月香の主張を聞き終えた瑛はじろりと珀悠を睨みあげた。
「私はてっきりあんたの思い人でも紹介されるのかと思ったんだけど」
「ええっ。何で?」
「いや、今まであんたが私に紹介したいっていう人、いなかったでしょ」
「いや、だって、それは……」
珀悠が言いよどむ。可愛い女の子に手が出せない! という悲鳴は何度か聞いたが、紹介したい、と言われたのははじめてだった。だから、いろいろと覚悟したのに、拍子抜けである。
突然夫婦喧嘩が勃発したが、月香はとろりと見とれるような目で喧嘩を見ているだけだ。喧嘩と言うには、珀悠にも瑛にも覇気がないが。
「……思い人はいるけど、文姫に言ったら怒るかなーって」
「別に怒らないわよ。あと、何度も言ってるけど、私は瑛だってば」
「あ、皇后様。わたくし、皇后様を瑛お姐様とお呼びしたいです」
「それは好きにしなさい」
何となく、『あね』の字が『姉』ではなく『姐』のような気がしたが、気にしないことにした。『お姐様』呼びに許可が出た月香は「感激です!」と頬に手を当てて喜んでいる。
「本当に、本当に怒らない?」
「怒らないってば。だいたい、私が怒るような相手って誰よ。私を怒らせるような相手がいることの方が驚きなんだけど」
瑛は感情の起伏が乏しい。穏やかな気質とは少々違うが、怒ると言うことはあまりない。その彼女を怒らせるという相手なのだから、逆に気になる。
珀悠はじっと瑛を見つめた。その目がうるんでいるような気がして、瑛はたじろぐ。思わず瑛は少し彼から離れた。それを感じ取った珀悠が瑛の手首をつかむ。
「俺の思い人は、」
「うん」
ぐっと瑛の手首をつかむ珀悠の手に力がこもった瑛は思わず顔をしかめる。
「痛いんだけど」
「ご、ごめん」
珀悠がパッと手を放した。瑛は少し痕になっている手首をさすった。
「それで?」
「うん……文姫、大好きだよ」
「それはもう聞いたわ」
「そうじゃなくて!」
珀悠が瑛の両肩をつかんだ。月香が「きゃっ」と声を上げる。何故月香が声を上げるのだろうか……。
「やめんか!」
背中に綿のたっぷり入った座布団の感触がする。瑛は珀悠を無理やり押し返す。押し返されつつも、珀悠は「聞いてよ!」と叫ぶ。これは完全に痴話喧嘩である。
「俺の思い人は君なの!」
次の瞬間、時間が止まった、気がした。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
はい、お決まりのパターン!




