闇の手
目を開けると、空が見えた。
木々の隙間からこぼれる光が、まぶしい。兄は、しばらくそれを眺めていた。
オルターと同じ日に、同じ母から生まれた、双子の兄だった。弟は雪のような白い髪で、兄は夜のような黒い髪で生まれた。
そして兄だけが、産声を上げてまもなく死んだ。名前をもらうより、前のことだ。
けれど、魂は消えなかった。
誰かの手で、弟の内側のいちばん深いところへ押しこめられたのだ。弟はそのことを知らない。自分の中に、双子の兄がいることさえも。
この空も、十五年のあいだ、あの白い回廊の奥から、弟の目を通してしか見られなかった。こうして自分の目で見ると思っていたより騒がしい。葉のこすれる音、土の匂い、頬をなでる風の冷たさ。何もかもが、一度に押し寄せてくる。
指を動かしてみる。土をつかむと、爪のあいだに湿った土が入りこんだ。自分の意思で何かに触れるのは、生まれて初めてのことだった。
それから、痛みが来た。
背中に二つ、熱い穴が開いている。息を吸うたびに、胸の奥で何かが軋んだ。
「……ははっ」
笑いが、喉からこぼれた。
痛い。これが、痛いということか。弟が十五年、いちばん怖がっていたもの。
兄は、背中に意識を向けた。体の奥、回廊のいちばん深いところから、冷たいものが這い上がってくる。闇は傷口に流れこみ、穴を内側からふさいでいった。痛みは消えない。けれど、血は止まった。立つには、それで足りる。
*
腕の上に、何かが乗っていた。
桃色の髪だった。弟がいつも、いちばん長く見ていた色だ。まだ息はある。
その向こうで、灰色のフードの男が剣を持ち直していた。倒れた子どもたちに、とどめを刺すつもりらしい。手際がいい。迷いもない。
「おい」
兄は、ネリネの頭を地面に下ろして立ち上がった。
男が振り返る。覆面の上の目が、わずかに見開かれた。刺したはずの子どもが立っているのだから、当然だろう。
男は、声も上げずに踏みこんできた。
速い。弟なら、また手首をつかんで、それで終わりにしただろう。
兄は、右手を軽く持ち上げただけだった。
足もとの影が、ふくれ上がった。
影は地面から剥がれ、黒いものになってせり上がる。人の背丈の倍はある、巨大な手の形をしていた。指の一本一本が、大人の胴ほどもある。
黒い手が、男を掴んだ。
剣が落ちる。男の体が宙に浮く。兄は、持ち上げた右手を、ゆっくりと握りこんだ。
黒い指が、それに合わせて閉じていく。
鈍い音がした。何かが折れ、何かが潰れる音が、いくつも重なった。男は最後まで声を上げなかった。それだけは、褒めてやってもいい。
黒い手が開くと、灰色の布の塊が、地面に落ちた。
足もとで、かすかに息を呑む気配がした。
ネリネが、薄く目を開けていた。焦点の合わない目が、兄の頭のあたりを見上げている。その目が、驚いたように揺れた。
髪か、と兄は思った。何を見たのかは、だいたい見当がつく。
*
残りの四人は、散らなかった。
一瞬で間合いを取り直し、兄を囲むように四方へ広がる。橙の小僧の雷で膝をついていた一人も、もう平然と立っていた。よく訓練されている。仲間が潰されても、誰一人として取り乱さない。
(つまらない)
訓練された動きというのは、どれも同じに見える。次にどう動くか、全部わかってしまう。
東側の一人が、じりじりと後ろへ下がった。杭のほうへ逃げて誰かに知らせるつもりか。
兄は、そちらを見もせずに指を鳴らした。
男の足もとの影に、黒い杭が突き立った。
男の体が、そこで止まった。踏み出そうとした足が、地面に縫いつけられたように動かない。影を縫われた者は、自分の影から一歩も離れられない。
兄は、ほかの三人を見回した。
「隠れんぼは、好きか」
答えはない。けれどかまわなかった。
兄が両手を広げると、あたりが暗くなった。
日が陰ったのではない。足もとから、木々の根もとから、あらゆる影から闇が湧き出し、霧のように立ちのぼって、森の一角を丸ごと呑みこんでいく。
木漏れ日が消える。空が消える。互いの姿が消える。
闇の帳の中で、見えているのは兄一人だった。
男たちが、初めて声を上げた。短く、押し殺した声で、互いの位置を確かめ合っている。
無駄なことだ。声のする場所が、そのまま居場所を教えている。
闇の中で、男たちの動きは手に取るようにわかった。剣を握る指のこわばりも、浅くなっていく呼吸も、足もとの小枝を踏む音も。見えないものに囲まれて、訓練された者たちが少しずつ、ただの人間に戻っていく。兄には、それがいちばん面白かった。
一人目は、背後から。二人目は、木の幹に背をつけていたところを、幹ごと。三人目は、帳の外へ出ようと手探りで走っていた。
黒い手が、一人ずつ掴み、一人ずつ握り潰していく。悲鳴が上がり、途切れ、また上がる。闇の外には、その声だけが届いているはずだった。
最後に、影を縫われた男の前に立った。
男は、動かない足のまま剣を構えていた。その目に浮かんでいるものを、兄は珍しそうに眺めた。
「怖いか」
男は答えなかった。
兄は、男が何者なのかを聞かなかった。誰に命じられたのかも、なぜ子どもを狙ったのかも。覆面を剥いで、顔を確かめることもしなかった。 ただ興味がなかった。
そして黒い手が閉じた。
*
静かになった。
兄は、闇の中に転がる五つの塊を見下ろす。それから、もう一度両手を広げた。
闇が、塊の上に覆いかぶさる。一つ、また一つ。闇は布も、剣も、その下にあったものも区別なく包みこみ、ゆっくりと沈んでいく。水が砂に吸いこまれるように、跡形もなく。
帳が晴れたとき、そこには何も残っていなかった。
血の跡も、剣のかけらも、灰色の布切れ一枚も。昼の光が戻った森には、踏み荒らされた土と、えぐれた木の幹があるだけだった。
それと、二つの亡骸。
兄は、ジークを見下ろした。胸もとを赤く染め、目を開けたまま倒れている。
「全部撃ち落とす、だったか」
返事はない。
「口だけだったな」
隣で、リラが泥の上に横たわっていた。肩で切りそろえた髪が、乱れて顔にかかっている。
「薄い水色。……ああ、たしかに薄い」
兄は、それ以上は何も言わなかった。弟があれほど大事にしていたものも、兄の目には、ただの色にしか見えなかった。
リラの手のそばに、水たまりが残っていた。最後に張った水の壁の名残だ。
兄は、その上にかがみこんだ。
水面に、少年の顔が映っている。弟と同じ顔。弟と同じ背丈。
ただ、髪の色だけが違った。
毛先から根もとまで、夜よりも深い黒だった。
「……似合うじゃないか」
兄は、水面の自分に笑いかけた。
*
「……オルター……?」
かすれた声がした。
振り返ると、ネリネが地面に頬をつけたまま、こちらを見ていた。額から血が流れ、まぶたは半分も開いていない。それでも、その目は兄をとらえていた。
黒い髪を。
「オルター……なの……?」
兄は、ネリネのそばまで歩いていき、しゃがみこんだ。
弟が守りたがっていたもの。自分を「家族」と呼ぶこの娘のために、弟が何度も痛い思いをしてきたことを、兄は回廊の奥から全部見ていた。
殺すのは簡単だった。手を伸ばして、指を一本動かせばいい。
けれど、殺す理由も、特に思いつかなかった。
「運がいいな、桃色」
兄は立ち上がった。
「お前を殺す理由はない。生かしておく理由も、ないがな」
「まって……どこ、に……」
ネリネの指が、兄の足首のほうへ伸びる。届かなかった。その指がぱたりと土に落ち、ネリネのまぶたが閉じた。
兄は、振り返らなかった。
*
西のほうから、人の声が近づいてくる。
笛を聞きつけた教官たちだろう。名前を呼び合う声、枝を払う音。ずいぶんと、のんびりした救助だ。
あの連中が見つけるのは、二つの亡骸と、気を失った桃色の娘だけだ。白い髪の少年は、どこにもいない。
兄は、東を向いた。
白っぽい杭が、腰ほどの高さで並んでいる。杭の向こうにも、同じような森が続いていた。
越えたら、どこの国でもない土地。どこの国も守ってくれない、と水色の小娘は言っていた。
兄にとっては、ちょうどいい。誰かに守られたいと思ったことなど、一度もなかった。
兄は、杭をまたいだ。
背中の傷が、闇の下で鈍くうずく。
杭の向こうの森は、奥へ行くほど暗かった。
「ようやく、退屈しないで済みそうだ」
黒い髪の少年は、笑いながら森の奥へ消えていった。




