救難の笛
森は、思っていたよりも静かだった。
国境沿いに広がる木々は背が高く、昼でも足もとが薄暗い。入口に並んだ一年生の前で、グレンは前日と同じことを、前日よりも短く繰り返した。
「杭を越えるな。笛は首から下げておけ。以上だ」
班ごとに、森へ散っていく。第七班が受け持つのは、いちばん東の区域だった。
半刻ほど歩いたところで、オルターは木々のあいだに白っぽい杭が並んでいるのを見つけた。腰ほどの高さの、ただの木の杭だ。その向こうにも、同じような森が続いている。
「あれが境界ね」
リラが図鑑を閉じて言った。
「越えたら、どこの国でもない土地。……どこの国も守ってくれない、ってことよ」
オルターは、杭から目をそらした。
『明日は、退屈しないといいがな』
前夜の、黒い髪の少年の声が、まだ耳の奥に残っている。三人には、言えなかった。言えば、自分の中にもう一人いることまで話さなければならない気がした。
*
最初の魔物は、昼過ぎに現れた。
大きな犬ほどの体に、針のような毛を逆立てた獣だった。リラが、図鑑の書きこみを指でたたく。
「ニードルボア。突進してくるだけよ。正面で止められれば、怖くない」
「聞いたな、オルター」
「……うん」
オルターは前に出た。
茂みを割って、獣がまっすぐに突っこんでくる。オルターは腰を落とし、その鼻面を両手で受け止めた。針が腕に刺さる。痛い。けれど、足は一歩も下がらなかった。
「リラ!」
ジークの声と同時に、獣の足もとに水が広がる。オルターは獣を押し返し、水たまりの真ん中へ追いこんだ。
「跳べ!」
オルターが地面を蹴った瞬間、青白い光が水面を走った。獣は短く鳴いて、そのまま横倒しになった。
しばらく、誰も口をきかなかった。
「……決まった」
ジークが、ぽつりと言った。それから両手を突き上げて叫んだ。
「決まったぞ! 見たか、おい!」
「見てたわよ。うるさい」
そう言うリラの口もとも、ゆるんでいた。ネリネが駆け寄ってきて、オルターの腕に刺さった針を一本ずつ抜き、桃色の光で傷をふさいでいく。
「痛かったでしょ」
「平気。……ジークが、ちゃんと撃ち落としてくれたから」
ジークが、得意げに鼻をこすった。
前に立って受け止め、後ろの誰かがそれを終わらせる。一人では、できないことだった。
*
その夜は、小さな沢のそばで火を焚いた。
四人で火を囲み、硬いパンを炙って食べた。ジークは、首から下げた笛を指先でくるくると回している。
「なあ、今日の見たろ。これ、やっぱ要らねえんじゃねえか」
「そういうことを言う人が、いちばん先に吹くのよ」
「吹かねえって」
「吹くわ。賭けてもいい」
ネリネが笑い、オルターもつられて笑った。
ぱちり、と火がはぜる。見上げると、木々の隙間に星が見えた。院の裏庭で見ていたのと、同じ星だった。
「明日は、もっと奥まで行ってみようぜ」
ジークが言った。
「三日目は帰るだけだしな。明日で、一番の班になってやる」
「はいはい、班長」
明日の話を、四人でした。
オルターは、それがずっと続くものだと思っていた。
*
二日目の昼、手負いのニードルボアを追ううちに、第七班は東の端まで来ていた。
白っぽい杭が、目の前に並んでいる。獣は杭の向こうへ逃げこみ、見えなくなった。
「……ここまでだな」
ジークが足を止めた、そのときだった。
遠く、西の方角で、細く高い音が鳴った。
笛の音だった。続いてもう一つ、別の方角からも。
「どこかの班が、吹いた……?」
ネリネがつぶやく。ジークが眉をひそめた。
「二つも? 何が――」
がさり、と杭の向こうの茂みが揺れた。
出てきたのは、獣ではなかった。
人だった。五人。灰色のフードを目深にかぶり、顔の下半分を布で覆っている。
手には革の手袋。髪の毛一本、見えなかった。そして全員が、剣か短刀を手にしていた。
杭を、ためらいもなくまたいでくる。
「止まってください! わたしたち、アルクスの――」
ネリネの声に、誰も答えなかった。
先頭の一人が、まっすぐリラへ走った。
オルターの体は、考えるより先に動いていた。あいだに飛びこみ、振り下ろされる腕を、手首ごとつかむ。
重い。けれど、止められる。五年前、ダグの手首をつかんだときと同じだ。
このまま握りつぶせば、きっとこの腕は、二度と剣を握れない。
『打ったら、痛いので』
指に、力がこもらなかった。
フードの奥で、相手の目が細くなった気がした。次の瞬間、膝が腹にめりこみ、オルターは地面に転がった。
「オルター!」
ジークの雷が走る。けれど相手は、それを読んでいたように身をかわし、木の陰へ消えた。
「魔法を……使ってこない」
リラが、青い顔で言った。
「この人たち、一度も魔法を使わない。色を、見せたくないのよ」
「考えるのはあとだ! リラ、水!」
リラの水が足もとに広がり、踏みこんできた一人へジークの雷が落ちる。男が膝をついた。
決まった、とオルターが思ったのは、ほんの一瞬だった。
残りの四人は、もう水たまりを踏まなかった。濡れた地面を避けて、左右から回りこんでくる。昨日の獣とは違う。一度見たものに、二度は引っかからない。
*
「笛だ!」
ジークが叫び、首の笛をつかんだ。
「ネリネ、オルターを頼む!」
笛が鳴った。
高く、細く、森じゅうに響き渡る音だった。
その音が終わらないうちに、ジークの体が傾いた。灰色の影が、その背後を通り過ぎていく。短刀の刃が、赤く濡れていた。
「……ジーク?」
ジークは、自分の胸もとを不思議そうに見下ろした。それから、オルターのほうを見た。
「わり……全部、撃ち落とす、って……」
言い終わる前に、膝が折れた。
「いやあっ!」
ネリネの悲鳴が上がる。リラが、倒れたジークの前に立った。両手を広げ、震える指先から水の壁を張る。
「来ないで!」
剣が、水の壁ごとリラを貫いた。
水が、ただの水に戻って地面にこぼれる。リラはゆっくりと崩れ落ち、オルターと目が合った。
「……ほら。やっぱり、班長が……いちばん先に、吹いた……」
肩で切りそろえた髪が、泥の上に広がった。木漏れ日に透けて、白に近く見えた。
*
オルターは立ち上がった。
腹の痛みも、腕の痛みも、どこか遠かった。ネリネが、二人のもとへ這い寄ろうとしている。その背中に、灰色の影が剣を振り上げていた。
オルターは、ネリネに覆いかぶさった。
背中に、熱いものが入ってきた。
一度。二度。息が、喉の途中で止まる。
「オルター! やだ、オルター!」
腕の下で、ネリネが叫んでいる。桃色の光が、オルターの体を包んだ。
温かい。けれど、背中の熱さは少しも引いていかない。
鈍い音がして、ネリネの声が途切れた。
桃色の光が消える。ネリネの頭が、力なくオルターの腕にもたれた。まだ、息はある。唇が、かすかに動いている。
(守る、って……言ったのに)
ジークに。リラに。ネリネに。そして自分自身に。
視界の端が、黒く滲んでいく。
*
気がつくと、オルターは回廊に立っていた。
白い床。白い壁。けれど、いつもと違った。奥の黒が、こちらへ這い出してきている。床の白が、奥から順に塗りつぶされていく。
足音がした。
黒い髪の少年が、闇の中から歩いてくる。いつものように壁にもたれてはいなかった。まっすぐに、こちらへ向かってくる。
『だから言っただろう、弱虫』
『……みんなが』
『見ていた。全部な』
少年は、オルターの前で足を止めなかった。白い床を踏みしめ、回廊の手前へ――外へ通じるほうへと、歩いていく。
すれ違いざま、少年は笑った。
『寝てろ。ここから先は、俺の番だ』
追いかけようとした足が、動かなかった。
黒が、オルターの足もとまで届いた。




