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7/9

救難の笛

森は、思っていたよりも静かだった。

 国境沿いに広がる木々は背が高く、昼でも足もとが薄暗い。入口に並んだ一年生の前で、グレンは前日と同じことを、前日よりも短く繰り返した。

「杭を越えるな。笛は首から下げておけ。以上だ」


 班ごとに、森へ散っていく。第七班が受け持つのは、いちばん東の区域だった。

 半刻ほど歩いたところで、オルターは木々のあいだに白っぽい杭が並んでいるのを見つけた。腰ほどの高さの、ただの木の杭だ。その向こうにも、同じような森が続いている。

「あれが境界ね」

 リラが図鑑を閉じて言った。

「越えたら、どこの国でもない土地。……どこの国も守ってくれない、ってことよ」

 オルターは、杭から目をそらした。


 『明日は、退屈しないといいがな』


 前夜の、黒い髪の少年の声が、まだ耳の奥に残っている。三人には、言えなかった。言えば、自分の中にもう一人いることまで話さなければならない気がした。

*

 最初の魔物は、昼過ぎに現れた。

 大きな犬ほどの体に、針のような毛を逆立てた獣だった。リラが、図鑑の書きこみを指でたたく。

「ニードルボア。突進してくるだけよ。正面で止められれば、怖くない」

「聞いたな、オルター」

「……うん」

 オルターは前に出た。

 茂みを割って、獣がまっすぐに突っこんでくる。オルターは腰を落とし、その鼻面を両手で受け止めた。針が腕に刺さる。痛い。けれど、足は一歩も下がらなかった。

「リラ!」

 ジークの声と同時に、獣の足もとに水が広がる。オルターは獣を押し返し、水たまりの真ん中へ追いこんだ。

「跳べ!」

 オルターが地面を蹴った瞬間、青白い光が水面を走った。獣は短く鳴いて、そのまま横倒しになった。

 しばらく、誰も口をきかなかった。

「……決まった」

 ジークが、ぽつりと言った。それから両手を突き上げて叫んだ。

「決まったぞ! 見たか、おい!」

「見てたわよ。うるさい」

 そう言うリラの口もとも、ゆるんでいた。ネリネが駆け寄ってきて、オルターの腕に刺さった針を一本ずつ抜き、桃色の光で傷をふさいでいく。

「痛かったでしょ」

「平気。……ジークが、ちゃんと撃ち落としてくれたから」

 ジークが、得意げに鼻をこすった。

 前に立って受け止め、後ろの誰かがそれを終わらせる。一人では、できないことだった。

*

 その夜は、小さな沢のそばで火を焚いた。

 四人で火を囲み、硬いパンを炙って食べた。ジークは、首から下げた笛を指先でくるくると回している。

「なあ、今日の見たろ。これ、やっぱ要らねえんじゃねえか」

「そういうことを言う人が、いちばん先に吹くのよ」

「吹かねえって」

「吹くわ。賭けてもいい」

 ネリネが笑い、オルターもつられて笑った。

 ぱちり、と火がはぜる。見上げると、木々の隙間に星が見えた。院の裏庭で見ていたのと、同じ星だった。

「明日は、もっと奥まで行ってみようぜ」

 ジークが言った。

「三日目は帰るだけだしな。明日で、一番の班になってやる」

「はいはい、班長」

 明日の話を、四人でした。

 オルターは、それがずっと続くものだと思っていた。

*

 二日目の昼、手負いのニードルボアを追ううちに、第七班は東の端まで来ていた。

 白っぽい杭が、目の前に並んでいる。獣は杭の向こうへ逃げこみ、見えなくなった。

「……ここまでだな」

 

ジークが足を止めた、そのときだった。

 遠く、西の方角で、細く高い音が鳴った。

 笛の音だった。続いてもう一つ、別の方角からも。

「どこかの班が、吹いた……?」

 ネリネがつぶやく。ジークが眉をひそめた。

「二つも? 何が――」

 

がさり、と杭の向こうの茂みが揺れた。

 出てきたのは、獣ではなかった。

 人だった。五人。灰色のフードを目深にかぶり、顔の下半分を布で覆っている。

手には革の手袋。髪の毛一本、見えなかった。そして全員が、剣か短刀を手にしていた。

 杭を、ためらいもなくまたいでくる。

「止まってください! わたしたち、アルクスの――」

 ネリネの声に、誰も答えなかった。

 先頭の一人が、まっすぐリラへ走った。

 オルターの体は、考えるより先に動いていた。あいだに飛びこみ、振り下ろされる腕を、手首ごとつかむ。

 重い。けれど、止められる。五年前、ダグの手首をつかんだときと同じだ。

このまま握りつぶせば、きっとこの腕は、二度と剣を握れない。

 

『打ったら、痛いので』


 指に、力がこもらなかった。

 フードの奥で、相手の目が細くなった気がした。次の瞬間、膝が腹にめりこみ、オルターは地面に転がった。

「オルター!」

 ジークの雷が走る。けれど相手は、それを読んでいたように身をかわし、木の陰へ消えた。

「魔法を……使ってこない」

 リラが、青い顔で言った。

「この人たち、一度も魔法を使わない。色を、見せたくないのよ」

「考えるのはあとだ! リラ、水!」

 リラの水が足もとに広がり、踏みこんできた一人へジークの雷が落ちる。男が膝をついた。

決まった、とオルターが思ったのは、ほんの一瞬だった。

 残りの四人は、もう水たまりを踏まなかった。濡れた地面を避けて、左右から回りこんでくる。昨日の獣とは違う。一度見たものに、二度は引っかからない。

*

「笛だ!」

 ジークが叫び、首の笛をつかんだ。

「ネリネ、オルターを頼む!」

 笛が鳴った。

 高く、細く、森じゅうに響き渡る音だった。

 その音が終わらないうちに、ジークの体が傾いた。灰色の影が、その背後を通り過ぎていく。短刀の刃が、赤く濡れていた。

「……ジーク?」

 ジークは、自分の胸もとを不思議そうに見下ろした。それから、オルターのほうを見た。

「わり……全部、撃ち落とす、って……」

 言い終わる前に、膝が折れた。

「いやあっ!」

 ネリネの悲鳴が上がる。リラが、倒れたジークの前に立った。両手を広げ、震える指先から水の壁を張る。

「来ないで!」

 剣が、水の壁ごとリラを貫いた。

 水が、ただの水に戻って地面にこぼれる。リラはゆっくりと崩れ落ち、オルターと目が合った。

「……ほら。やっぱり、班長が……いちばん先に、吹いた……」

 肩で切りそろえた髪が、泥の上に広がった。木漏れ日に透けて、白に近く見えた。

*

 オルターは立ち上がった。

 腹の痛みも、腕の痛みも、どこか遠かった。ネリネが、二人のもとへ這い寄ろうとしている。その背中に、灰色の影が剣を振り上げていた。

 オルターは、ネリネに覆いかぶさった。

 背中に、熱いものが入ってきた。

 一度。二度。息が、喉の途中で止まる。

「オルター! やだ、オルター!」

 腕の下で、ネリネが叫んでいる。桃色の光が、オルターの体を包んだ。

温かい。けれど、背中の熱さは少しも引いていかない。

 

鈍い音がして、ネリネの声が途切れた。

 桃色の光が消える。ネリネの頭が、力なくオルターの腕にもたれた。まだ、息はある。唇が、かすかに動いている。


(守る、って……言ったのに)


 ジークに。リラに。ネリネに。そして自分自身に。

 視界の端が、黒く滲んでいく。

*

 気がつくと、オルターは回廊に立っていた。

 白い床。白い壁。けれど、いつもと違った。奥の黒が、こちらへ這い出してきている。床の白が、奥から順に塗りつぶされていく。

 

足音がした。

 黒い髪の少年が、闇の中から歩いてくる。いつものように壁にもたれてはいなかった。まっすぐに、こちらへ向かってくる。

『だから言っただろう、弱虫』

『……みんなが』

『見ていた。全部な』

 少年は、オルターの前で足を止めなかった。白い床を踏みしめ、回廊の手前へ――外へ通じるほうへと、歩いていく。

 

すれ違いざま、少年は笑った。

『寝てろ。ここから先は、俺の番だ』

 追いかけようとした足が、動かなかった。

 黒が、オルターの足もとまで届いた。


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