黒い誘い
杭の向こうの森は、こちら側よりも深かった。
日が傾き、木々の影が長く伸びていく。兄は、その影の上を選んで歩いた。影を踏むたびに、足の裏から冷たいものが染みこんでくる。悪くない感触だった。
身につけているのは、弟の演習服だ。胸もとから裾にかけて、乾きかけた血がこびりついている。弟の血か、橙の小僧の血か。どちらでもよかった。
背中の傷が、歩くたびにうずく。闇でふさいだ穴は、まだ閉じきっていない。
(さて、どこへ行くか)
当てはなかった。帰る場所も、行きたい場所もない。十五年、回廊の奥で待ち続けて、ようやく手に入れた体だ。退屈しないところなら、どこでもいい。
ふと、兄は足を止めた。
森の奥から、気配が流れてくる。冷たく、重く、肌にまとわりつくような気配。
それは闇だった。
自分のものではない闇の気配を感じるのは、生まれて初めてだ。
*
木立を抜けた先の窪地で、三人の少年少女が魔物と戦っていた。
岩のような甲羅を背負った、熊ほどもある獣だ。ロックベア、と誰かが叫んでいる。
三人とも、髪が黒かった。
前に出ているのは、大柄な少年だった。闇をまとわせた拳で甲羅を殴りつけているが、獣はびくともしない。後ろでは、細身の少年が闇の膜を張り、獣の爪を受け流している。
そして、その真ん中に、少女が一人立っていた。
長い黒髪を高い位置で一つに結い、まっすぐに腕を伸ばしている。その指先から、黒い槍が放たれた。槍は甲羅の隙間を正確に貫き、獣が咆哮を上げる。
いい腕だと兄は思った。正確で、速く、迷いがない。三人の中では、群を抜いている。
ただ、獣を仕留めるには、もう二、三本は要るだろう。
兄は、窪地の縁から右手を持ち上げた。
獣の足もとの影が、ふくれ上がる。黒い手が獣の巨体を甲羅ごと掴み、握りこんだ。
岩の砕ける音がした。
そして獣は、それきり動かなくなった。
三人が、いっせいにこちらを振り向く。
*
「――誰」
最初に口を開いたのは、少女だった。
「誰の許しを得て、わたしの獲物に手を出したの」
「遅かったからな」
兄は、窪地へ降りていった。
「あと三本は槍が要った。日が暮れる」
少女の目が、すっと細くなった。
「てめえ、何様だ!」
大柄な少年が、先に動いた。闇をまとった拳を振りかぶり、まっすぐに突っこんでくる。
兄は、避けもしなかった。
少年の足もとの影から、黒い手が伸びた。巨大なものではない。人の手ほどの大きさの、ただの一本。それが少年の足首をつかみ、軽く引いた。
少年は、顔から地面に突っこんだ。起き上がろうとした背中を、兄の靴が踏みつける。
「ボリス!」
細身の少年が叫ぶ。兄は、足の下の少年を見下ろした。
「弱いやつほど、よく吠える」
「どきなさい」
少女の声がした。
黒い槍が、三本同時に飛んでくる。さっきよりも速い。兄は首を傾けて一本をかわし、残りの二本を、影から伸びた黒い手で握りつぶした。
四本目、五本目。少女は撃ちながら距離を詰めてくる。狙いは、すべて急所だった。手加減はしていない。本気で殺すつもりで撃っている。
悪くない、と兄はもう一度思った。
だが、それだけだった。
兄が指を鳴らすと、少女の背後の影から黒い手がせり上がり、その体を掴んだ。
少女の体が宙に浮く。黒い指が、ゆっくりと閉じていく。少女の顔から、血の気が引いた。
兄は、そこで手を止めた。
指を開くと少女が地面に落ちた。膝をつき、咳きこみながら、兄を見上げる。
その目に浮かんでいたのは、恐怖ではなかった。
また悔しさでもない。
少女の目は、獲物を見つけた獣のように、ぎらぎらと輝いていた。
*
「……待て」
細身の少年が、兄と少女のあいだに割って入った。
「その服、アルクスの演習服だな。連邦の学園の」
少年は、兄の髪と服とを、交互に見比べた。
「なぜ黒髪の者が、アルクスの服を着ている。あそこに黒色種は一人もいないはずだ」
「テオ、そんなことどうでもいい」
少女が、立ち上がりながら言った。結い髪がほどけかけていたが、気にする様子もない。
「あんた、名前は」
兄は、少し考えた。
名前など、持ったことがなかった。けれど、この体には名前がある。
「オルター」
「オルターね」
少女は、確かめるようにその名を繰り返した。それから、にやりと笑った。
「わたしはカミラ。オブシディア魔術学園の生徒よ。同じ学年で、わたしに勝ったやつは今まで一人もいなかった」
「そうか」
「あんた、うちに来なさい」
テオが目をむいた。
「カミラ、何を――」
「オブシディアは、強い者がいちばん上に立つ学園よ。どこから来たかも、どんな服を着てたかも、誰も気にしない。強ければ、それでいいの」
カミラは、まっすぐに兄を見た。
「あんたなら、すぐにてっぺんに立てる。わたしが保証する」
*
騒ぎを聞きつけたのか、木立の奥から一人の男が現れた。
四十がらみの、痩せた黒髪の男だった。三人の引率の教師らしい。男は、潰れたロックベアと、地面に這いつくばったボリスと、兄の顔とを順に眺めた。
「ドラン先生。こいつ、うちに入れて」
カミラが言った。ドランは答えず、兄の前に立った。
しばらく、兄の目をのぞきこんでいた。その顔から、少しずつ表情が消えていく。
「……これほど深い黒は、見たことがない」
ドランは、低くつぶやいた。
「どこの家の者だ」
「知らないな」
「親は」
「いない」
ドランは、それ以上は聞かなかった。長いこと黙っていたが、やがて短く息を吐いた。
「いいだろう。オブシディアは力を拒まない。リーメスに戻ったら、学園長に話を通そう」
「リーメス?」
「国境の自由都市だ。オブシディアは、そこにある」
兄は、肩をすくめた。
「退屈しないなら、どこでもいい」
それを聞くとカミラが、声を上げて笑った。
*
ネリネが目を覚ましたのは、森の外に張られた救護の天幕の中だった。
頭が割れるように痛い。額には、きつく布が巻かれている。
天幕の中は、うめき声でいっぱいだった。腕を吊った生徒、足に添え木をあてた生徒。見知った顔もあれば、知らない顔もある。どの班も襲われたのだと、誰かが話しているのが聞こえた。
「目が覚めたか」
寝台の脇に、グレンが座っていた。髪はいつものように撫でつけられていたが、その目は赤く、ひどく疲れて見えた。
「先生……ジークと、リラは」
グレンは、ゆっくりと首を横に振った。
ネリネは、声が出なかった。
「……オルターは」
「見つかっていない」
グレンの声は、低かった。
「お前たちが倒れていた場所の周りを、日が暮れるまで探した。だが、どこにもいない。血の跡はあったが、途中でぷつりと途切れている。――今は、行方不明として扱うしかない」
ネリネは、目を閉じた。
何かを、見た気がする。
立ち上がる背中。黒い髪。とても大きな、黒い手。それから、真っ暗な闇と、いくつもの悲鳴。誰かが、自分のすぐそばにしゃがみこんで、何かを言った。
たしかにオルターの声だった。けれど、オルターはあんなふうには話さない。
「ネリネ。何があったか、覚えているか」
ネリネは、口を開いた。
「黒い……」
その先が、出てこなかった。見たはずのものが、指のあいだから水のようにこぼれていく。どこまでが本当で、どこからが夢なのか、自分でもわからなかった。
「黒い、手が……髪が、黒くて……」
「もういい」
グレンが、ネリネの肩に手を置いた。
「頭を強く打っている。今は休め。思い出すのは、それからでいい」
グレンが去ったあと、ネリネは天幕の天井を見つめていた。
頬を、涙が伝っていく。ジークの笑い声も、リラの皮肉も、もう二度と聞けない。
けれど。
(オルターは、死んでない)
理由はなかった。それでも、ネリネにはわかった。
あの声は、オルターの声だった。
ネリネは、布団の中で自分の小指を握りしめた。
(待ってて、オルター。今度は、わたしが見つけるから)




