傷つけない手
荷馬車の一件から三日がたっても、院の中のざわめきはおさまらなかった。
白が荷馬車を持ち上げたらしい。大人三人分の力だってさ。
年下の子たちはオルターの姿を見つけるたびにひそひそと言い交わし、目が合うと慌てて散っていく。怖がられているのか、珍しがられているのか。
どちらにしても、居心地はよくなかった。
その日も、オルターは裏の薪割り場で斧を振っていた。
「よう、力持ち」
積み上げた丸太の上に、赤い頭がひょいと現れた。
ダグだ。後ろには、いつもの取り巻きが二人。
「聞いたぜ。荷馬車を一人で持ち上げたんだってな」
オルターは答えず、次の丸太を台に据えた。
「なあ、俺と力比べしようぜ。腕相撲でいい。白がどれだけ丈夫か、確かめてやるよ」
「……しない」
斧を振り下ろす。乾いた音とともに、丸太が二つに割れて転がった。
ダグの顔から、にやにや笑いが消えた。
「白のくせに、俺を無視すんのか」
「無視してない。薪割りの途中だから」
「同じことだろうが」
ダグは丸太から飛び降りると、オルターの耳もとに顔を寄せた。
「知ってるか。白がほかの色を殴ったら、ただじゃすまねえ。院にはいられなくなる。行き先は決まってるよな。ボルド鉱山だ」
あの荷車が、まぶたの裏をよぎった。膝を抱えて黙りこむ、白い髪の大人たち。
「お前が一発でも俺を殴れば、それで終わりだ。覚えとけよ」
ダグは割れた薪を一本蹴飛ばして、去っていった。
*
騒ぎが起きたのは、それから二日後の夕方だった。
洗い場から戻る途中、納屋の角を曲がったところで、オルターは足を止めた。
ダグが待っていた。取り巻きの二人は少し離れたところで、建物のほうを見張っている。その横には、水色の髪をした小さな男の子が、困りきった顔で立たされていた。八つになったばかりのミロだ。
「……オルター」
ミロが、今にも泣き出しそうな声で言った。
「ミロは関係ないよ、ダグ」
「関係あるさ。こいつは証人だ。白が先に手を出したって、あとで先生に言ってもらうためのな」
ダグは右手を持ち上げた。指先に、ぽっと赤い火がともる。
「院長先生との約束は――」
「言いつけるか? 白の言うことなんか、誰が信じるんだよ」
火球が飛んだ。オルターは半歩ずれて、それをかわす。背後の土に落ちた火が、
じゅっと音を立てて消えた。
二つ目。三つ目。オルターは避けるだけだった。
「殴ってこいよ」
ダグの声が上ずっていく。
「荷馬車は持ち上げられるくせに、俺は殴れねえのか。ほら、来いよ、白!」
火球が、少しずつ大きくなっていく。小指の爪ほどだったものが、親指ほどに。
そして、こぶしほどに。
「やめて!」
鋭い声が割って入った。
ネリネだった。抱えていた洗濯籠を放り出し、オルターとダグのあいだに飛びこんでくる。両腕を広げて、ダグの前に立ちふさがった。
「ダグ、もうやめて! また約束を破ってる!」
「どけ、桃色!」
ダグの手のひらで、炎が大きくふくれあがった。ちょうど放とうとしていたところだったのだろう。止めようとして止まらなかったのか、それとも止める気がなかったのか――こぶしよりも大きな火の塊が、まっすぐネリネの顔へ飛んだ。
考えるより先に、身体が動いていた。
ネリネの肩を後ろへ引き、入れ替わるように前へ出る。迫る炎を、オルターは右の手のひらで叩き落とした。
じゅっ、と皮膚の焼ける音がした。
痛い、と感じるより先に、オルターは地面を蹴っていた。ダグとの間合いが、一歩で消える。
二つ目の火をともしかけていたダグの手首を、オルターはつかんだ。
そのまま、腕ごと空へ向けて持ち上げる。
ダグの身体が、地面から浮いた。
「な――」
つま先が宙をかく。行き場をなくした火が、ダグの指先から空へ向かってはじけ、夕焼けの中に消えた。
二つ年上の少年が、自分より背の低い白い髪の少年に、片腕一本で吊り上げられていた。
オルターの手の中で、ダグの手首は細い枝のように頼りなかった。
少し力を込めれば、折れる。
その瞬間だった。
頭の奥の、ずっと深いところで、誰かが笑った。
くつくつと、喉の奥を鳴らすような笑い声。耳で聞いたのではない。回廊のいちばん奥、あの黒く沈んだ場所から、じかに響いてくるような――。
首をひとひねりすれば終わる。いつか聞いた声が、よみがえる。
ぞっとして、オルターは指の力を抜いた。
ダグのつま先が、そっと地面に戻る。
「……ネリネに、向けないで」
それだけ言って、オルターは手を離した。
ダグは手首を押さえて後ずさった。つかまれていた場所には、赤い痕ひとつ残っていない。それなのに、ダグの顔からはすっかり血の気が引いていた。
取り巻きの二人は、いつの間にか姿を消していた。ミロだけがその場にへたりこみ、目をまんまるにしてオルターを見上げていた。
*
「――で、オルターに締め上げられた、と」
院長室の机の向こうで、マルタ先生が腕を組んだ。
ダグは何度も同じことを訴えた。オルターがいきなりつかみかかってきた。吊り上げられて、殺されるかと思った。白は危ない。院に置いておくべきじゃない。
オルターは黙っていた。言い返す言葉が見つからなかった。殺されるかと思った――ダグがそう感じたのは、たぶん本当のことだったから。
「ミロ。お前は見ていたんだろう。言ってごらん」
部屋の隅で縮こまっていたミロが、びくりと肩を震わせた。ダグのほうをうかがい、オルターを見て、それから小さな声で言った。
「……ダグが、火を、いっぱい。ネリネにも。オルターは、ネリネを、かばって……」
マルタ先生は、ふう、と長い息を吐いた。
「ダグ。手首を見せてごらん」
ダグはしぶしぶ袖をまくった。その手首には、傷も、痣も、何ひとつない。
「オルター。お前は右手だ」
オルターはためらってから、握りしめていた右手を開いた。治すのはあとにおし、と先生に止められたせいで、手のひらはまだ赤くただれたままだった。
廊下では、ネリネが待たされている。
マルタ先生は、二つの手を見比べた。
「怪我をしたのは、誰だい」
誰も、答えなかった。
「ダグ。ひと月のあいだ、薪割りと水汲みはお前の仕事だよ。それから、次に火を人に向けたら、あたしはお前をこの院に置いておけない。わかったね」
ダグは唇をかんで、うつむいた。
部屋を出るとき、ダグはオルターのそばをすり抜けざまに、低くつぶやいた。
「……化け物」
オルターは、何も言い返せなかった。
*
その夜、オルターは眠れずに裏庭へ出た。
月が出ていた。シーツはもう取りこまれて、物干しの綱だけが細く光っている。
「やっぱり、ここにいた」
振り向くと、ネリネが毛布を肩にかけて立っていた。
「手、見せて。今度こそ治すから」
井戸の縁に並んで腰かけると、ネリネはオルターの右手を両手で包みこんだ。
淡い桃色の光が灯る。ただれた皮膚が、ゆっくりと元の色を取り戻していく。
いつかの裏庭と同じだ、とオルターは思った。ダグに火を投げられて、ネリネに治してもらった日。何も変わっていないようで、何かが決定的に違ってしまった気がした。
「……怖かった」
ぽつりと、オルターは言った。
「ダグが?」
「ダグじゃない。自分の手が」
桃色の光の中で、オルターは自分の指を見つめた。
「ダグの手首、細い枝みたいだった。もうちょっと力を入れたら、折れてた。折ろうと思えば、折れたんだ」
頭の奥で響いた、あの笑い声のことは言えなかった。言葉にしたら、本当になってしまいそうで。
「化け物って言われても、言い返せなかった」
「でも、折らなかったでしょ」
ネリネは、きっぱりと言った。
「オルターは、誰も傷つけなかった。ダグのことも。ダグの火から、わたしのことも守ってくれた。……怪我をしたのは、オルターだけだよ」
やがて光が消えた。オルターの手のひらは、すっかり元どおりになっていた。
ネリネはその手を離さずに、ぎゅっと握った。
「化け物は、誰かのために自分の手を焼いたりしないよ」
オルターは何か言おうとして、うまく言えなかった。代わりに、握られた手を、
壊れものに触れるようにそっと握り返した。
「……ねえ、ネリネ」
「なに」
「誰かを守る人って、白でも、なれるかな」
ネリネは、すぐには答えなかった。
ただ、小指をこっそりとからめてきて、月明かりの下でいたずらっぽく笑った。
それが答えなのかどうか、オルターにはわからなかった。
*
その日から、ダグはオルターに火を向けなくなった。
廊下ですれ違っても目を合わせず、オルターの手が視界に入ると、わずかに身を引く。それが恐れなのか、それとも別の何かなのか。ダグは、何も言わなかった。
年下の子たちのひそひそ話も、いつの間にか止んでいた。代わりにミロが、ときどき薪割り場へやってきて、オルターの割った薪を黙って積むようになった。
その夜、大部屋の窓から空を見上げる。
あの笑い声は、あれきり聞こえない。回廊へも、まだ呼ばれていない。
けれど、オルターは知っていた。あの黒い場所は、今も自分の内側のいちばん奥で、じっと息をひそめている。
(ぼくの身体は、ぼくのものだ)
オルターは右手を握りしめた。ネリネが治してくれた手のひらは、もう少しも痛まなかった。
今は、まだ。




