数に入らない
ハーベル養護院から町までは、丘を一つ越えて半刻ほどかかる。
ミレットの町は、このあたりでいちばん大きな市場町だった。石畳の大通りには露店がひしめき、色とりどりの髪が行き交っている。赤、水色、緑、黄、茶。
ときおり、橙や紫も。
「はぐれるんじゃないよ。とくにオルター、お前はね」
先頭を歩くマルタ先生が、振り返りもせずに言った。
月に一度の買い出しには、院の子どもが二人、荷物持ちとしてついていく決まりだ。今月はオルターとネリネの番だった。
「どうしてオルターだけ?」
ネリネが小声でたずねる。
「……白は、はぐれると面倒なんだよ」
答えたのはオルター自身だった。
白い髪は、人ごみの中でよく目立つ。目立って、そして、よく見られる。
すれ違う人たちの視線が髪の上でいったん止まり、それから何もなかったように逸れていく。
その一瞬が、オルターは少しだけ苦手だった。
粉屋の前で、マルタ先生が足を止めた。
戸口の脇に、古びた木の札が打ちつけてある。
――白色種の入店を断る。
「お前たちは外で待っておいで。……ネリネ、お前は入ってもいいんだよ」
「ううん。わたしも外で待つ」
ネリネはオルターの隣にぴたりと立った。マルタ先生は何か言いかけて、やめた。ため息を一つついて、一人で店の中へ入っていく。
大通りの向こうを、幌のない荷車がゆっくりと通り過ぎていった。
荷台に乗せられているのは、白い髪の大人たちだった。十人、いや、もっといる。誰もがすすけた作業着を着て、黙って膝を抱えていた。
「ボルド鉱山行きだよ」
露店の男が、誰にともなく言った。
「白は丈夫だからな。鉱山にはもってこいさ」
オルターは荷車を目で追った。いちばん後ろに座っていた若い男と、一瞬だけ目が合う。
男は、何の色も浮かべない目で、すぐに視線を落とした。
(ぼくも、ああなるのかな)
五年後か、十年後か。
ネリネが、黙ってオルターの袖をつかんだ。
*
事故が起きたのは、帰り支度をしていたときだった。
坂の上から、悲鳴が降ってきた。
麦袋を山と積んだ荷馬車が、石畳の段差に車輪を取られたのだ。馬が棹立ちになり、荷台が大きく傾く。ばらばらと袋が転げ落ち、続いて荷馬車そのものが横倒しになった。
地響きのような音。
舞い上がった粉の向こうで、子どもの泣き声がした。
「子どもが下に!」
「誰か、魔法を――」
大人たちが駆け寄るが、誰も手を出せずにいる。土の魔法で地面を持ち上げれば、荷台ごと崩れるかもしれない。風で吹き飛ばせば、下の子どもまで巻きこむ。
考えるより先に、オルターの足は動いていた。
「オルター!」
ネリネの声を背中に聞きながら、粉の煙に飛びこむ。
横倒しの荷台の下に、五つか六つくらいの男の子がいた。緑の髪。右足が、荷台の縁に挟まれている。
「動かないで。すぐ出すから」
オルターは荷台の縁に両手をかけた。
重い。麦袋がまだ半分以上残っている。大人の男が三人がかりでも、持ち上がるかどうか。
――それでも。
息を吸い、腰を落として、オルターは全身に力を込めた。
木がきしむ。指の骨が鳴る。腕の奥で、何かが熱くふくれあがっていく感じがした。
荷台が、ゆっくりと浮いた。
「ネリネ、今!」
駆けつけたネリネが、男の子の脇に手を差しこんで引きずり出す。それを見届けてから、オルターはそっと荷台を下ろした。乱暴に落とせば、石畳が割れていたかもしれない。
ネリネは既に、男の子の足に手をかざしていた。淡い桃色の光が、赤く腫れた足首を包みこむ。
「大丈夫。骨は折れてない。……ほら、もう痛くないでしょ」
しゃくりあげていた男の子が、きょとんとした顔で自分の足を見た。
人垣を割って、女が飛び出してきた。男の子と同じ、緑の髪。
「トビー!」
女は男の子を抱きしめ、そして――オルターを見た。
正確には、オルターの髪を。
次の瞬間、女は男の子を抱えたまま、一歩うしろへ下がった。まるでオルターこそが、荷馬車をひっくり返した張本人であるかのように。
「……行くよ、トビー。白に近づいちゃだめって、いつも言ってるでしょう」
「でも、母ちゃん、あのお兄ちゃんが――」
「いいから!」
女は振り返らずに去っていった。男の子だけが、母親の肩越しに、ずっとこちらを見ていた。
まわりの人垣から、くすくすと笑い声が漏れる。
「たいしたもんだ。白は力仕事にだけは使えるからな」
「荷馬車を一人で持ち上げるとはね。鉱山に送れば三人分は働くぞ」
誰も、ありがとうとは言わなかった。
それでいい、とオルターは思った。あの子の足が無事だったなら、それでいい。
けれど、ネリネは違った。
「――ちょっと!」
顔を真っ赤にして人垣に向き直ろうとするネリネの手を、オルターはつかんだ。
「いいよ、ネリネ」
「よくない!」
「いいんだ。……行こう」
ちょうどマルタ先生が、粉袋を抱えて店から出てくるところだった。
*
帰り道、夕日が丘の斜面を染めていた。
ネリネは、ずっと黙って歩いていた。怒っているのだとオルターにはわかった。
自分のためにではなく、オルターのために。
「……ネリネ」
「なに」
「さっきは、ありがとう。あの子の足、治してくれて」
「オルターが持ち上げなかったら、治せなかったよ」
ネリネは小石を一つ蹴った。
「わたしね、治癒師になりたいの」
ぽつりと、ネリネが言った。
「町の診療所で、けがをした人を治す人。今日みたいに。……色なんか関係なく、誰でも治す治癒師」
「ネリネなら、なれるよ」
「オルターは?」
「え?」
「オルターは、大きくなったら何になりたいの」
オルターは答えに詰まった。
荷車の上の、白い髪の大人たちを思い出す。何の色も浮かべない、あの目。
「……わかんない。白は、選べないから」
言ってから、言わなければよかったと思った。ネリネの足が止まったからだ。
ネリネは振り返って、オルターの顔をまっすぐに見つめた。
「じゃあ、わたしが一緒に探す」
「探すって、何を」
「オルターがなりたいもの。白でも選べるもの。見つかるまで、ずっと一緒に探す。……約束」
ネリネは小指を突き出した。
オルターは少し迷ってから、自分の小指をからめた。荷台を持ち上げた手は、まだかすかに震えていた。
夕日のせいか、ネリネの耳は赤かった。
*
院の門をくぐると、玄関脇の掲示板の前に人だかりができていた。
年長の子たちに混じって、ダグの赤い頭も見える。
「何かあったのかい」
マルタ先生が声をかけると、子どもたちが道を開けた。
掲示板には、真新しい紙が一枚、貼り出されていた。町の役所が配った写しらしい。
――ノクスガルド帝国皇帝ヴァルディス、新たな勅令を発す。
――帝国は黒色種のみを正しき民とし、黒以外のすべての色種を劣等種と定める。
帝国領内に残る劣等種は、ことごとく国外へ追放する。
「勝手なことを」
マルタ先生が低くつぶやいた。いつもの口の悪さとは違う、冷えた声だった。
オルターは、その帝国のことをほとんど知らない。国境の向こうにある、黒い髪の人々だけの国。闇の魔法を使う、恐ろしい人たちの国。
院の子どもたちは、悪さをすると「ノクスガルドに連れていかれるよ」と脅される。
知っているのは、それくらいだ。
紙の最後には、皇帝についての短い一文が添えられていた。
――皇帝は、帝国でもっとも黒き闇色を持つ。
その一文を読んだとたん、オルターの背中を冷たいものが走った。
理由はわからない。ただ、まぶたの裏に、あの回廊のいちばん奥が浮かんだ。
どこまでも黒く沈んだ、光の届かない場所。
「オルター? 顔、真っ青だよ」
ネリネが袖を引いた。
「……ううん。なんでもない」
オルターは掲示板から目をそらした。
そのとき、人だかりの端からダグがこちらを見ていることに気づいた。勅令の写しを届けに来た町の使いが、荷馬車の一件も話していったのかもしれない。
ダグの目は、オルターの顔ではなく、その両手にじっと注がれていた。
小指には、まだ約束のぬくもりが残っている。それなのに、胸の奥のどこかが、ひどく寒かった。




