白い髪の子
プロローグ 黒い髪の少年
森が、静かになった。
ついさっきまで、悲鳴が聞こえていた。短く、押し殺した、大人の男たちの悲鳴だ。
それが一つずつ途切れ、最後の一つが消えたとき、森の一角を覆っていた闇も、霧が晴れるように引いていった。
木漏れ日が戻る。
踏み荒らされた土の上に、少年が一人、立っていた。
足もとの影から、黒いものが生えていた。人の背丈の倍はある、巨大な手の形をした闇だ。その指が、ゆっくりとほどけ、影の中へ溶けて消えていく。
少し離れた木の根もとに、二人の子どもが倒れていた。橙色の髪の少年と、水色の髪の少女。
どちらも、もう動かない。
灰色のフードの男たちは、もうどこにもいない。
五人いたはずだった。
剣を持ち、迷いなく子どもたちを斬った、よく訓練された男たち。
しかしその死体も、剣も、布切れ一枚さえも、もうこの森には残っていない。
少年は、背中の傷に指を這わせた。二つ開いた穴を、冷たい闇がふさいでいる。
痛みは消えない。けれど、立つにはそれで事足りた。
「……ははっ」
笑いが、こぼれた。
痛い。これが、痛いということか。
少年は、足もとの水たまりをのぞきこんだ。
水面に、少年の顔が映っている。
まだ幼さの残る顔。そして、その頭を覆う髪は――毛先から根もとまで、夜よりも深い黒だった。
「……似合うじゃないか」
「……オルター……?」
かすれた声がした。
地面に頬をつけたまま、桃色の髪の少女が、こちらを見ていた。
額から血を流し、まぶたは半分も開いていない。
それでも、その目は少年の髪をとらえていた。
「オルター……なの……?」
少年は、少女を見下ろした。
殺すのは、簡単だった。指を一本、動かせばそれで済む。
けれど、殺す理由も、特に思いつかなかった。
「運がいいな、桃色」
少女の指が、少年の足首へ伸びる。
しかし届かずに、ぱたりと土に落ちた。
少年は、もう振り返らなかった。
森の東に、白っぽい杭が並んでいる。その向こうは、どこの国のものでもない土地だ。
少年は、杭をまたいだ。
「ようやく、退屈しないで済みそうだ」
かつて、白い髪をしていた少年の体で。
黒い髪の少年は、笑いながら森の奥へ消えていった。
*
火の粉が頬をかすめた。
熱いというより、痛かった。
オルターはとっさに目をつぶり、両腕で顔をかばう。
「ほら、よけてみろよ、白。身体だけは丈夫なんだろ?」
赤い髪の少年が指先をはじくたび、小指の爪ほどの火球が飛んでくる。
名はダグ。二つ年上で、この養護院でいちばん声の大きい少年だった。
ハーベル養護院の裏庭には、昼過ぎの日差しが白く照りつけていた。
干したばかりのシーツの向こうで、年下の子たちが遠巻きにこちらを見ている。
誰も止めには来ない。止めれば、次は自分の番になる。みんな、それを知っていた。
「……やめてよ、ダグ」
「やめてほしけりゃ、やり返せばいいだろ。ほら」
また一つ、火球が袖を焦がした。
やり返せないわけじゃない、とオルターは思う。
白色種は魔法を使えない。そのかわり、身体だけはどの色よりも強く生まれつく。そして白は、混じりけがないほど力を増す。
前に院長先生がそう教えてくれた。
オルターの髪は、降ったばかりの雪のように白い。
十歳のオルターが本気で腕を振れば、二つ年上のダグでも裏庭の端まで転がっていくだろう。
だからこそ、振れなかった。
(殴ったら、痛いに決まってる)
自分がこんなに痛いのだから。
「ダグ!」
鋭い声が裏庭を裂いた。
駆けてきたのは、桃色の髪を二つに結んだ少女だった。名はネリネ。
オルターが物心ついたときにはもう隣にいた、同い年の女の子だ。
「また火を使ってる。もう使わないって、院長先生と約束したでしょ」
「うるせえな、桃色。お前には関係ねえだろ」
「関係あるよ。オルターは、わたしの――」
ネリネは言葉を探すように一度詰まり、それから小さな胸を張った。
「わたしの家族だもん」
ダグは鼻で笑った。けれど、それ以上は火を飛ばさなかった。
院長先生に知られるのは、さすがにまずいと思ったのだろう。
舌打ちを一つ残して、仲間を連れて建物の中へ戻っていく。
足音が遠ざかると、裏庭はふいに静かになった。
「見せて」
ネリネはオルターの前にしゃがみこみ、赤くなった頬に手のひらをかざした。
淡い桃色の光が、ふわりと灯る。
ひりつく痛みが、お湯に落とした砂糖のようにほどけていった。
桃色種の魔法は、誰かを傷つけるためのものじゃない。
傷をふさぎ、疲れを和らげ、誰かの力をほんの少しだけ支える。
戦いには向かない色だと言う大人もいるけれど、オルターはこの光が好きだった。
「……ありがとう、ネリネ」
「ありがとうじゃないよ。なんでやり返さないの。オルターなら、ダグなんか片手でしょ」
「やり返したら、ダグが痛いよ」
「痛くていいの!」
ネリネは頬をふくらませた。怒っているのに、目の縁は少し赤い。
「……オルターは、優しすぎる」
優しいのだろうか。オルターにはよくわからなかった。ただ、誰かが痛そうな顔をするのを見るのが嫌なだけだ。それが自分のせいなら、なおさらだった。
*
夕方、オルターは薪割りを言いつけられた。
この院では、力仕事はいつも白色種の子に回ってくる。院の中だけではない。
この国――イリスティア連邦では、どこでもそうだった。黒以外のあらゆる色が肩を寄せ合って暮らすこの国でも、魔法を持たない白だけは、ひとつ下の段に置かれている。
大人になれば鉱山か港で、誰かの荷を担いで生きていくのだろう。
斧を振り下ろすたび、乾いた音を立てて丸太が割れる。
大人でも半日かかる量を、オルターは日が沈む前に片づけてしまった。
「相変わらず、たいした腕だねえ」
勝手口から声をかけてきたのは、院長のマルタ先生だった。
くすんだ茶色の髪をひっつめた、小柄なおばあさんだ。
「その腕っぷしは、母親譲りかね」
オルターは斧を下ろした。
「……先生、ぼくのお母さんのこと、知ってるの?」
マルタ先生は、しまった、という顔をした。それから、ゆっくりと首を振る。
「知りやしないよ。ただね――お前をここへ連れてきたのも、白い髪の女だったから」
十年前の、冬の夜だったという。
雪の中で門を叩く音がして、出てみると、白い髪の若い女が立っていた。
腕には、布にくるまれた赤ん坊。
女は「オルター」という名前だけを告げて赤ん坊をマルタ先生に預け、何も言わずに雪の向こうへ消えた。
「母親だったのか、そうじゃなかったのかも、あたしにはわからない。ひどく急いでいたよ。何かから逃げるみたいにね」
「……そっか」
オルターはうなずいて、また斧を持ち上げた。
寂しくないと言えば、嘘になる。けれど、顔も知らない誰かを恋しがるのは、
オルターにとってどこか難しかった。
夕食の席は、色ごとになんとなく分かれている。
長テーブルの上座には赤や水色、緑の子たちが座り、白色種の子は戸口に近い端の席と決まっていた。
鍋が回ってくるのもいちばん最後で、スープの底にはたいてい、野菜の切れ端しか残っていない。
オルターが冷めかけた椀をすすっていると、隣の椅子が小さくきしんだ。
「はい、これ」
ネリネだった。差し出された手には、丸いパンが半分。
「ネリネの分でしょ」
「わたし、今日はお腹いっぱいなの」
嘘だとオルターにはわかった。
ネリネのお腹が、さっきから小さく鳴っている。
オルターはパンを受け取り、それをもう一度半分に割って、片方をネリネに返した。
「じゃあ、半分こしよ」
ネリネは一瞬むっとした顔をして、それから吹き出した。
「……オルターって、ほんとそういうとこ、ずるいよね」
四分の一のパンは小さかったけれど、その日食べたものの中で、いちばんおいしかった。
*
その夜、オルターは夢を見た。
いや――夢ではないことを、オルターは知っている。
気がつくと、長い回廊に立っていた。足もとの床も、左右の壁も、高い天井も、
どこまでも白い。けれど奥へ行くほど、その白は少しずつ灰色に濁り、いちばん奥では夜よりも黒く沈んでいた。
魂の回廊。いつからか、オルターはこの場所をそう呼んでいる。
ここへ来られるのは、一年に一度あるかないかだ。そして来るたびに、回廊の奥にはあの少年がいた。
自分と同じ顔。同じ背丈。
ただ、髪だけが、闇を溶かしたように黒い。
『――また来たのか、弱虫』
黒い髪の少年は、壁にもたれたまま言った。
『……きみは、誰なの』
『何度目だ、その質問は。お前が知る必要はない』
少年は退屈そうにあくびをした。
『今日も見ていたぞ。赤毛の小僧に火を投げられて、べそをかいていたな』
『べそなんか、かいてないよ』
『かいていた。くだらない。あの程度、首をひとひねりすれば終わる』
まるで、羽虫を払う話でもするような口ぶりだった。
オルターの背中が、すっと冷たくなる。
『……そんなこと、しちゃだめだ』
『なぜだ』
『痛いからだよ。ダグが』
『それが何だ?』
少年は首をかしげた。からかっているのではない。本当にわからない、という顔だった。
他人が痛がることに、何の意味があるのか。その黒い瞳は、まっすぐにそう問いかけていた。
『お前の身体は、いい身体だ。白のくせに――いや、白だからか。それを腐らせておくのは、見ていて腹が立つ』
『ぼくの身体は、ぼくのものだよ』
言い返すと、少年は初めて笑った。口の端だけを吊り上げる、冷たい笑い方だった。
『今はな』
ぐらり、と回廊が揺れた。
奥の黒が、じわじわとこちらへにじんでくる。白い床が、壁が、端から順に墨を吸うように染まっていく。
逃げなければ、と思うのに、足が動かない。
そして黒が、オルターのつま先に触れた――
*
目を覚ますと、まだ夜明け前だった。
寝息の満ちる大部屋で、オルターは自分の胸に手を当てる。心臓が、早鐘のように鳴っていた。
窓の硝子に、薄く自分の顔が映っている。
白い髪。いつもの自分だ。
――なのに、ほんの一瞬だけ。
その毛先が、墨を落としたように黒く見えた気がした。




