第088話 せんせいが
> 【第七支部 覚知記録】
> 覚知 ── 十二月二十三日 十時四十分。
> 入電 ── 携帯電話。発信地 ── 柏台 三丁目。
> 第一声 ──「せんせいが」
> 出場 ── 第七支部 全隊。
「せんせいが」
尾花律子は用紙を引き寄せた。分まで書いて、秒は書かない。
「はい、鳴瀬市消防指令センターです」
「あ。ちがう。きゅうきゅうです」
尾花は一行目の欄へ、救急、と書いた。
「柏台小学校です。四年二組の教室です」
二行目の欄へ、柏台小学校 北校舎 四年二組、と書いた。
「せんせいが たおれました」
尾花は三つを、上から順に書いた。書く欄が三つとも先に埋まったのは、三年で数えるほどになる。
「お名前と、おいくつかを教えてください」
「岸 陽太です。十歳です」
尾花の手が、そこで一度だけ止まった。止まってから、また動いた。
「岸さん。先生が息をしておられるか、教えてください」
「してます。胸が動いてます」
「目が開いているかどうかも、教えてください」
「開いてません。呼んだら、少し動きました」
「岸さん。先生を動かさないで、そのまま待っていてください」
「動かしてません。横を向かせただけです」
「横を向かせたのが、どなたなのか教えてください」
「僕です。吐いた時に、詰まるからって」
尾花は書いた。書いてから、その下に、児童 通報 意識 反応あり 側臥、と足した。
「誰か、大人を呼びに行っているかどうか、教えてください」
「行きました。今、走ってます」
「岸さん。ほかの子が何をしているか、教えてください」
「窓を開けました。あと、机をどけました」
「岸さん。教室が今、静かかどうかも教えてください」
「静かです。しゃべらないようにしてます」
「岸さん。よく出来ています。そのまま、そこにいてください」
「います」
「岸さん。今の言い方を、どなたに教わったか教えてください」
「今日、ならいました。一時間目に」
「先生に教わったのかどうか、教えてください」
「はい。この先生です」
尾花は用紙の余白を見た。余白には何も書かない。三年、ここへ書いたことがない。
「岸さん。救急車が向かいます。電話は切らないでいてください」
「切りません」
尾花は枠を見た。八つのうち、光っているのは一つになる。
光ったまま、消えなかった。
*
十二月二十三日の三階は、暖房を入れていた。二十三日で、明日から学校が休みになる。
武藤とうふ店は七時十分に置いていく。十二月は五丁になる。武藤は数える時、一丁ずつ声に出す。一、二、三、と来て、四だけ「四つ」と言い、そこから五へ戻る。三年、誰も直していない。
寺尾剛が鍋の火を落とした。落としてから、蓋を斜めに掛ける。
「まあ待て。今日は昼に食う。朝は二人いない」
二文で言って、寺尾は椀を四つ、盆へ戻した。戻した椀の二つが、伏せたままになっている。
伏せた二つは、灰谷蒼汰と七尾ひかりの分になる。二人は朝から柏台小学校へ行っている。
防災の教室に呼ばれたのは、三年で四度目になる。行くのはいつも、この二人になる。
持っていくのは、袋を一つと索を一本だけにしてある。装備は支部へ置いていく。子どもの前で装備を広げないと決めたのは二度目の時で、決めたのは蒼汰ではない。
三年前の一度目は、全部持っていった。持っていった先で、子どもが索を触りたがる。触らせて、その日は上手くいった。
上手くいった日のことを、蒼汰は台帳へ書いていない。書かなかった理由も、そこには残っていなかった。
行く理由を、誰も言わない。言わないまま、三年、同じ二人が行っている。
三階の食堂の窓は、下の三分の一だけ湯気で曇っている。曇った側から見ると、外の空が白い。白いのは雲で、雪にはならない空になる。
火群迅は自販機の前にいた。一番下の段を押す。理由を言ったことがない。缶を取って、指の腹で口を一度拭いてから開ける。
缶の中身が減るまでに、迅はいつも三分掛かる。三分の間、迅は廊下の窓から外を見ている。
見ている先には、柏台の方角がある。方角だけになる。校舎は、ここからは見えない。
逢坂澪は受信席の裏で、市内の学校の図を出していた。冬休みの前の日は、下校が早い。早い日は、通学路に人が集まる。
この日の表を、澪は去年も一昨年も作っている。作った表は、前の年の分が抽斗の二段目にある。同じ日の同じ時刻の件数が、去年は十一件だった。
十一件のうち、学校からの通報は零件になる。零件の欄にも、澪は線を引かない。空けたまま置いておく。
「柏台小学校。児童は四百二十一名です。下校は十一時半になります」
「多いのは」
「東の門です。四百二十一名のうち、二百六十名が東から出ます」
「西は」
「西の門は五十名です。残りの百十一名は、南の坂を下ります」
久遠寺修司はそれ以上訊かなかった。訊かないまま、上着を取った。
桐島奏が受信席の横で、袋の中を上から順に並べていた。並べ終わってから、袋の口を三度確かめる。
「二人が学校におられます。こちらから連絡いたしますか」
「要らない」
迅がそう言った。二人が学校にいることを、迅は朝から知っている。
地下三層で、宮ヶ瀬佳代が机の上の箱を布で拭いていた。腕の内側の時計は、五十四時間になる。
拭いている箱は、掌に載る大きさになる。蓋は開かない。開かない蓋の上を、宮ヶ瀬は端から端まで布で送る。
この箱を抽斗から出したのは、去年の春になる。出しては拭いて、また入れる。渡した相手は、まだ一人もいない。
「宮ヶ瀬さん。子どもが持てるものは」
梅木がそう訊いた。宮ヶ瀬は箱の向きを揃えてから答えた。
「まだ渡せません。形が決まりません。決まらないうちは、渡せません」
この人は出来ていない側から言う。三年、そこが変わらない。
覚知の音が鳴った。
鳴った音を、迅は缶を持ったまま聞いた。缶は、まだ半分残っている。
半分残った缶を、迅は廊下の窓の桟へ置いた。置いたまま、走った。
梅木が盤の横の梯子を上がっていった。上がった先が、二層の指令室になる。
澪が柏台小学校の図を机へ広げた。広げてから、四年二組の位置に指を置いた。
「北校舎の二階になります。東の端から三つ目の教室です」
「昇降口は」
「北校舎に一つ、南校舎に一つ。二つとも一階の中央になります」
「放送は」
「職員室からになります。北校舎の一階、西の端の部屋です」
「今、鳴っているか」
「鳴っていません。十時四十二分から、校内放送が入っていません」
「止まる前は」
「十時四十分に一度、入っています。内容は分かりません。切れる前の二秒だけ残っています」
「二秒は」
「音の形だけです。言葉になっていません。呼び出しの、最初の一音だと思います」
久遠寺の質問は、三年、短いままになる。感想を挟んだことがない。
「アンサー」
> ── はい。
「柏台小学校の中を」
> ── 電気は来ています。灯りは、廊下と教室で百十二か所、点いています。
「音は」
> ── 拾えません。北校舎の一階から、音が出ていません。
「二階は」
> ── 拾えます。子どもの足音が、二階の廊下で二十三。動いています。
「一階に人はいるか」
> ── 分かりません。……音が出ないところは、こちらでは分かりません。
「昇降口は」
> ── 一階の中央になります。音が出ていないのは、そこを中心にした四十メートルです。
アンサーは、分からないことを分からないと言う。三年、そこだけは変わらない。
澪が図の縁から指を離した。
「座標、出た」
*
地下二層のポールを、迅が最初に下りた。二段飛ばしで踊り場を抜けて、下りきる前に走りはじめる。アンサーは一段ずつ下りる。
「発進」
合図は整備班が出す。六人ではない。
柏台小学校の東の門に着いたのは、十時四十九分になる。所要は九分だった。
東の門は、いつもの下校の時刻まで閉めてある。この日は、開いていた。
開けたのが誰かは、あとで分からなくなった。門扉の内側の掛け金が、外されたままになっている。
東の門の前に、大人が七人立っていた。近所の人になる。呼ばれていない。
七人のうち、四人が同じ方を向いている。向いている先は北校舎の一階で、そこの窓だけが開いていない。
開いていない窓を、四人は指差さなかった。指差さないまま、そこを見ている。
立っている理由を、誰も説明しなかった。校内放送が止まったことを、外の人が先に気付いた。
北校舎の一階の廊下は、明るい。灯りが点いている。
明るいのに、音がしない。上履きの音も、戸の音も、何もしない。
迅が一歩入って、足を止めた。止めた耳が、詰まったようになる。
止めた先の壁に、掲示が貼ってあった。今日の日付と、明日から冬休み、と書いてある。
その掲示の紙が、風で鳴っていない。廊下の窓は開いている。
窓が開いているのに、紙が鳴らない。紙は風で膨らんで、また戻っている。戻る時の音だけが無い。
迅は掲示の紙へ手を伸ばして、指の先で一度弾いた。弾いた指に、紙の張りが返ってくる。
返ってきたのは手だけになる。耳には何も来なかった。
二階から、七尾ひかりが下りてきた。防災の教室の名札を、まだ胸に着けている。
「四年二組です。上を見てもらえますか」
言ってから、ひかりは自分の指を七つ数えた。数え終わってから、袋の口を確かめる。
「先生の意識は」
「呼ぶと目を開けます。担架を頼めますか」
迅は、それ以上訊かない。訊かずに、階段の方を見た。
階段の上から、灰谷蒼汰が下りてきた。索を肩に掛けている。
「二階は三十四名です。一階に、まだ二名います」
「誰だ」
「六年の児童が一人。用務員の方が一人です」
蒼汰は数を先に言う。三年、そこが変わらない。
廊下の床に、上履きが片方だけ落ちていた。落ちている向きは、昇降口の側を向いている。
拾ったのは七尾で、拾ってから、そのまま持っていた。置く場所を、この人は決めなかった。
昇降口の方から、光が届いていた。届いているのに、音が届かない。
昇降口の靴箱は、六段ある。上の三段は空いていて、下の三段に上履きが並んでいる。並んでいるのは、休んでいる子の分になる。
休んだ子の名札は、靴箱の縁に貼ってある。名札の字は、四月に本人が書いたものになる。
昇降口の靴箱の前に、白いものが立っていた。
高さは、靴箱の三段目までになる。形は、靴箱でも人でもない。
その中に、上履きが片方だけ見えた。片方だけになる。
「トリアージ」
迅が左手首の蓋を跳ね上げた。ブレスが色を出す。
> 判定 ── 赤。要救助者、二名。中にいます。開けてください。
赤が出た。教室の外で出た。
「急報 ── 出場!」
> サイレン ── 起動。〈火群 迅〉。応答、確認。
> サイレン ── 起動。〈逢坂 澪〉〈灰谷 蒼汰〉〈寺尾 剛〉〈七尾 ひかり〉。応答、確認。
「急報 ── 通報!」
奏がダイヤルに指を入れた。一を回して、指を戻す。もう一度、一を回す。三度目に、九を回した。
> サイレン ── 着信。〈桐島 奏〉。応答、確認。
> ── 回線、残り 三本。市内 受信可能 八。
三本になった。冬休みの前の日の十時五十分で、残っているのが三本になる。
迅は右手を耳の高さへ上げた。掌を外へ向ける。五人が続けた。
二階の踊り場から、子どもが二人、それを見ていた。
> 水を持ってく、火の現場 ─── サイレンレッド!
> 声を持ってく、知の現場 ─── サイレンブルー!
> 綱を持ってく、高の現場 ─── サイレンイエロー!
> 梁を持ってく、圧の現場 ─── サイレングリーン!
> 息を持ってく、生の現場 ─── サイレンピンク!
> 名を持っていく、影の現場 ─── サイレンゴールド!
>
> 特別災害対策機構、第七支部 ──
> 呼ばれたら、鳴らして、行く!
> 急報戦隊、サイレンジャー!
声は昇降口の天井に当たって、そこから先へ行かなかった。行かないまま、床へ落ちた。
落ちた先の四十メートルに、名乗りは届いていない。
「重装 ── 換装!」
> サイレン ── 重装。〈火群 迅〉。回線 ── 二本。
> ── 回線、残り 二本。市内 受信可能 八。
迅の腕が厚くなった。厚くなった分だけ、動きが遅くなる。
遅い迅が、白いものの前へ歩いた。走らなかった。走れない。
「連結 ── 換装!」
> サイレン ── 連結。〈灰谷 蒼汰〉〈七尾 ひかり〉。回線 ── 一本、返却。
> ── 回線、残り 三本。市内 受信可能 八。
蒼汰とひかりが背中を合わせた。合わせた背中の装甲が繋がる。
三本になった。一本増えた。
増えた一本へ、その場で一件が入った。柏台三丁目の、通学路の角からになる。尾花が取った。
「斧!」
ギアの柄が半回転して、噛んだ。噛む音が、昇降口の中で一度きり聞こえた。
迅は割らなかった。斧の刃を白いものの縁へ入れて、柄を下へ押した。
押した先が、指一本分だけ開いた。
「寺尾」
迅がそれだけ言った。理由は付けない。
寺尾がハンマーを持って前へ出た。出てから、開いた指一本分へ、ハンマーの柄の端を差し込む。
「まあ待て。打つと閉じる。噛ませるだけだ」
二文で言って、寺尾は柄を差し込んだまま体重を掛けた。掛けた先が、掌一つ分まで開いた。
開いた中から、音が出てきた。
出てきたのは、子どもの息の音になる。
「二名です。近い方に一名、奥に一名。距離は四メートルです」
澪がソナーを構えて言った。撃つ前に必ず人数を言う。撃たずに、そのまま構えている。
構えた背中の側から、迅が言った。
「撃つな。中にいる」
「撃ちません。中に人がいます」
澪はそれだけ言って、ソナーを下ろした。下ろしてから、開いた隙間の縁を指で押さえた。
ひかりと蒼汰が、繋がったまま隙間の両側へ回った。
「上、任せろ。索は二本、縁へ回します」
蒼汰が索を投げた。投げた先が縁に掛かる。ひかりが同じだけ動いた。片方が動くと、もう片方も同じだけ動く。
二人で引いた。引いた分だけ、隙間が縦に伸びた。
「動かないでいてもらえますか」
七尾が隙間へ声を入れた。入れた声が、途中で消えた。消えたところから先へ、声が行かない。
奏がロッドを構えた。三形態のうち、〈呼〉になる。構えたのを、ひかりが横で見ている。
「届きません」
「桐島 奏です。今から、こちらの音を大きくいたします。耳を塞いでいてください」
奏がロッドの先を隙間へ向けた。向けた先で、七尾の声が拾われて、大きくなって、中へ入っていった。
ひかりが、もう一度、同じことを言った。
「そこから動かないでいてもらえますか」
「せんせい、たおれた?」
「先生は四年二組にいます。息はしておられます」
答えた声が、〈呼〉を通って中へ入る。
中の子どもは、その後、何も言わなかった。言わないまま、隙間の方へ動く音がした。
その音が、途中で止まった。
止まった先で、隙間が閉じはじめた。
閉じてくる縁を、迅が両腕で受けた。重装の腕で、内側から押し返す。
押し返した腕の外側が、白くなった。
迅は下がらなかった。下がらずに、膝を昇降口の段へ掛けて、そこから押した。
押した膝の下の段が、割れた。割れた段の縁が、迅の脛に当たった。
当たった箇所が、すぐに赤くなった。迅は何も言わない。
「用務員の方は、奥です。動いています。倒れていません」
澪が言った。言ってから、隙間の縁の押さえを片方の手に変えた。
変えた手の側から、白いものが澪の袖へ伸びた。伸びた先が、袖の布を白くする。
澪は手を離さなかった。離さずに、そのまま押さえ続けた。
迅が、隙間の縁を内側から押し広げたまま言った。
「開けとけ。全員出るまで」
言ってから、腕をもう一度、外へ開いた。
開いた先が、人一人分になった。
ひかりと蒼汰が、繋がったまま隙間の内側へ半身を入れた。二人で一つの形になる。
入って、出てきた。出てきた腕に、六年の児童が一人いる。
次に、用務員が出てきた。自分の足で出てきた。出てから、靴箱の前に座り込んだ。
二名が出た。出た瞬間に、隙間が閉じた。
閉じた縁に、蒼汰の索が一本、噛んだまま残った。噛んだ索を、蒼汰は引かなかった。引くと、外れずに切れる。
切れた索は回収出来ない。蒼汰は結び目の側を握ったまま、切れる前に手を開いた。開いた手から索が抜けて、縁の内側へ入っていった。
入った索は、あとで出てくる。出てくるまで、蒼汰はそこを見ている。
閉じた白いものが、その場で膨らみはじめた。
膨らんだ先が、昇降口の天井を破って、上へ出ていく。
迅は、それを追わなかった。追わずに、割れた段の上へ座り込んだ子どもの横へ膝を突いた。
突いた膝の下で、脛の血が上履きの床へ落ちた。落ちた分は、あとで拭かれる。
「歩けるか」
「歩けます」
子どもがそう答えた。答えてから、迅の脛を見た。見てから、何も言わなかった。
*
四年二組の教室に、森みなみが横になっていた。三十三になる。
横向きのまま、机を三つどけた床に寝かせてある。頭の下に、誰かの上着が入れてある。
入れたのは岸陽太になる。十歳になる。
岸陽太は、電話を持ったまま、まだ切っていない。
ひかりが教室へ入った。入ってから、森の手を取って、指の色を見た。
「森さん。目を開けていただけますか」
森が目を開けた。開けて、すぐ閉じた。閉じてから、また開けた。
二度目の時、森は教室の中を見た。見た先に、三十四人がいる。
「……座ってて」
誰にも向けていない。言ってから、森は続けた。
「机、どけた?」
「どけました」
岸陽太がそう答えた。答えてから、電話を耳から離さずに続けた。
「窓も開けました。三つです」
森は、そこで何も言わなかった。言わないまま、天井を見た。
教室の黒板に、三つの行が書いてある。この日の一時間目に、この人が書いたものになる。
>
> 1 かじ か きゅうきゅう
> 2 ばしょ
> 3 どうなっているか
>
字は大きい。一番下の行だけ、少し右へ下がっている。書いている途中で、この人は一度、黒板に手をついている。
その手の跡が、二の字の横に残っていた。
三十四人のうち、誰も黒板を消していない。日直の当番は、一時間目のあとに消すことになっている。
消さなかった理由を、この日、誰も訊かなかった。
ひかりは、黒板を見なかった。見ずに、森の脈を数えた。数えてから、袋の口を確かめる。
「森さん。横になったままでいてもらえますか」
「……授業、途中で」
「森さん。授業は終わっています」
ひかりが森の肩の下へ手を入れた。入れてから、担架の縁を片手で押さえる。
「三つとも、この子が言いました。あとは任せてもらえますか」
森が、そこで岸陽太の方を見た。見た先の子どもは、まだ電話を切っていない。
切らないでください、と言われてから、この子は三十分それを守っている。守っている間に、担架が来て、机が三つどけられて、窓が三つ開いた。
その全部を、この子は電話を持ったまま見ていた。
「一番、まちがえました」
岸陽太がそう言った。言ってから、続けた。
「せんせいが、って先に言っちゃって。それから、きゅうきゅうです、って言い直しました」
森は、それに答えなかった。答えずに、天井をもう一度見た。
この子が言い直したのを、教室の三十四人が聞いている。聞いていて、誰も笑わなかった。
笑わなかったのは、一時間目に、間違えてもいいと聞いたからになる。誰が言ったかは、黒板には書いていない。
森は、そこで一度、目を閉じた。閉じてから、また開けた。
見た天井の蛍光灯が、一本だけ切れかけで鳴っている。
鳴っている音が、この教室では聞こえる。一階では聞こえない。
廊下から、大人の足音が近付いてきた。近所の人になる。呼ばれていない。
東の門の前に立っていた七人が、そのうち三人になって、二階まで上がってきた。
上がってきた三人が、担架の脚の側を持った。持ってから、誰も何も言わなかった。
階段を下りる間、三十四人は座ったままでいた。座ったままで、誰も窓を閉めなかった。
窓を閉めるな、とは誰も言っていない。開けろ、と言ったのは一時間目の授業になる。閉めていいとは、まだ誰も言っていない。
三十四人は、言われていないことをやらない。やらないまま、十二月の教室で上着を着て座っている。
その様子を、廊下から上がってきた三人のうちの一人が見た。見てから、その人は自分の上着を脱いで、一番窓際の子どもの膝へ掛けた。
掛けてから、何も言わずに担架の脚を持った。
北校舎の玄関を出たところに、人が立っていた。
十二月の昼前で、風が北へ吹いている。その人の手には、紙の束が一つある。
立っているのは〈統計〉になる。迅が、そちらへ体を向けた。
「そこだ」
「市内の小学校は二十六校です。防災の教室をやった学校は、三年で九校になります」
声はそう言った。誰も言い返さなかった。
「残りの十七校の児童からの通報は、三年で四十一件。うち、場所を最初に言えた件は九件です」
「今日は言えた」
「一件です。四十二件目が、今日でした。残りの三十二件は、これからも同じように掛かってきます」
言ってから、〈統計〉は紙の束を持ち直した。持ち直してから、東の門の方へ歩いていった。
歩いていった先の通学路に、人が並びはじめている。
並んでいるのは、下校の時刻を知っている人になる。学校からは、まだ何も言っていない。
並んだ人のうち、四人が携帯を持っている。持ったまま、掛けていない。掛けるかどうかを、四人とも決めていない。
一人が、通学路の角まで歩いていった。歩いた先で、そこから見える範囲を見て、戻ってきた。
戻ってきてから、その人は隣の人に、見えたものだけを言った。言われた人が、次の人へ同じことを言った。
通学路の端まで、それが五回で届いた。五回目の人が、そこで携帯を出した。
放送が止まったことを、街の側が先に数えた。
*
地下三層で宮ヶ瀬が盤を叩いた。
「校庭には立てません。地面の下に水槽があります。東の門の外の道路だけ使えます」
「発進」
合図は整備班が出す。
サイレンファイヤーが東の門の外の道路で立った。レスキューが右へ、クレーンが左へ、メディックが右の脚へ、ウイングが背へ回る。
立つ時、四本の脚が通学路の白線の外に置かれた。外した分だけ、置ける場所が狭くなる。
> ── 回線、残り 二本。市内 受信可能 八。
通学路の両側から、人が見上げていた。昼前の十一時で、上着を着ていない人が多い。近所の七人と、下校を待つ人が二十人ほどいる。
見上げているのは、通学路と、北校舎の二階の窓からになる。
二階の窓には、三十四人がいる。窓は開いたままになっている。
窓から出ているのは、頭だけになる。身を乗り出している子が一人もいない。乗り出すな、と言った人は、この場にいなかった。
言われていないことを、この学年はやらない。この日は、それで揃っていた。
サイレンオーの左手は、握ったままだった。開かない。
開かない左腕を、迅は北校舎の屋上の縁へ添えた。添えた腕が、屋上の縁を押さえる。
押さえた内側で、白いものの行き場が校庭の側だけになる。
白いものは、押さえられた腕の外側から、校舎の窓の側へ寄ろうとした。寄った先には、三十四人がいる。
右腕が動いた。開く方の掌が、白いものの腹を横から受けた。受けた場所で、白いものが薄くなる。
薄くなった中に、校内放送の線が一本、見えた。職員室から昇降口までの、一本きりの線になる。
その線を、右手の指が二本で挟んだ。
挟んで、引いた。引いた先で、白いものの中から線が抜けた。
抜けた線の端から、音が出た。
出た音は、チャイムの一音になる。切れかけの、低い一音になる。
その一音が、通学路まで届いた。届いた先で、並んでいた人が上を見た。
届いた音を、通学路の端の五回目の人が聞いた。携帯を出したまま、その人は上を見た。
見た先の音が、二音目にならなかった。線は一本きりで、抜けた端はもう鳴らない。
白いものは、音の出た側から崩れた。崩れて、昇降口の屋根の上へ落ちた。
落ちたものは、消えない。消えないまま、校庭の隅へ寄って、そこで止まった。
止まったものを、六人は倒さなかった。倒せない。まだ、中に人がいるかどうかを、誰も確かめていない。
*
地下三層で、佐波が校内の図に東の門の欄を書き足していた。書き足してから、梅木に言った。
「あの人、割れた段の上に膝をつきました。血が出てたのに、座ってる子の横に」
「本人に言え」
「言いません」
それで終わった。佐波は図を畳んで、棚の二段目へ入れた。
梅木はウイングの尾の座金を外していた。外した座金の縁が、内側へ潰れている。
「屋上の縁に当てました。一度で潰れました」
「潰れない形は、まだ作れていません。屋上の縁の形が、市内で二十六通りあります」
宮ヶ瀬は工具を置いた。置いてから、腕の内側の時計を見た。五十七時間になる。
佐波は棚の二段目を閉めてから、地下二層のポールの下へ回った。回った先で、上履きの床の色の跡を、雑巾で拭いた。
拭いた跡は、二度で消えた。二度目の水を、佐波は流しへ捨てずに、外の側溝へ持っていった。持っていった理由を、この人は誰にも言っていない。
三階の食堂で、寺尾が昼の汁に火を入れた。伏せてあった二つの椀を、寺尾は起こして並べた。
起こしてから、寺尾は自分の掌を一度開いて閉じた。開いた掌の内側に、ハンマーの柄の跡が無い。
この日、寺尾は一度も打っていない。噛ませただけになる。
迅は食堂の入口に立っていた。脛に巻いた布が、上履きの床の色をしている。
ひかりが、その入口の前で足を止めた。止めてから、袋の口を開けた。
「迅さん。巻き直しますから、座っていてもらえますか」
「立ってていい」
「立ったままだと、ずれます。座っていてもらえますか」
迅は座った。座ってから、何も言わなかった。
廊下の窓の桟には、朝の缶がまだ置いてある。半分残ったまま、冷めている。
迅はそれを取って、流しへ空けた。空けてから、缶を潰して、屑籠へ入れた。飲み直さない。三年、そこが変わらない。
巻き直すのに、七つ数える間が二度いった。二度目の途中で、迅は膝の向きを変えた。変えた向きの側が、机の脚に当たっている。
当たっているのを、ひかりは直させなかった。直させないまま、巻き終えた。
尾花律子は受信席で用紙を綴じた。この日、保留は四件だった。最長は三分二十秒だった。
三分二十秒待ったのは、柏台三丁目の通学路の角から掛かってきた通報になる。連結で一本増えた時に入ったのは、それとは別の一本になる。
二枚目の用紙の第一声の欄に、場所が先に書いてある。掛けてきたのは、下校を待っていた人になる。
三枚目の用紙の第一声の欄には、状況が書いてある。三年、この欄はほとんど状況で埋まる。
尾花は三枚を綴じて、抽斗へ入れた。入れてから、次の一枚を出した。
出した一枚の上の欄は、まだ空いている。空いている欄を、この人は毎回、下から埋めていく。埋まる順は、掛けてきた人が決める。
三年で、上から順に埋まった用紙は、数えるほどしか無い。この日の一枚目が、その一枚になる。
その一枚を、尾花は別の場所へは移さなかった。同じ束の、同じ順に綴じた。
六人は、この人に礼を言わない。言わせない。
> 【第七支部 出場記録】
> 臨場 ── 十時四十九分。所要 ── 九分。
> 保留 ── 四件。最長 三分二十秒。
> 未着 累計 ── 一。
> 判定 ── 赤。要救助者 二名 ── 全員 救出。破壊 ── なし。
> 損壊 ── 柏台小学校 北校舎 昇降口 天井 四平米 破損。段 一 破損。
> 校内放送 配線 一 断線。屋上 縁 二メートル 変形。通学路 白線 一本 剥離。
> 救助 ── 二名。搬送 ── 一名(教諭・意識あり)。避難 ── なし。
> 受信 ── 連結による 回線 返却 一。返却中の受信 一件。
> 十時四十分から十一時三十分の入電 十四件。うち 柏台三丁目からの通報 六件。
> 音 ── 柏台小学校 北校舎 一階 四十メートル 音声 消失 五十分。
> 市内 児童からの通報 三年で 四十二件 ── うち 場所を先に言えた件 十件。
> 本件、処理 ── 未完了。校庭 隅 一件 ── 継続。
> ── 入電。




