第087話 凍ってます
> 【第七支部 覚知記録】
> 覚知 ── 十二月二十一日 六時五十分。
> 入電 ── 携帯電話。発信地 ── 商店街 二丁目。
> 第一声 ──「凍ってます」
> 出場 ── 第七支部 全隊。
「凍ってます」
尾花律子は用紙を引き寄せた。分まで書いて、秒は書かない。
「はい、鳴瀬市消防指令センターです。今おられる場所を教えてください」
「商店街二丁目です。花屋の相良です。相良 敏子」
「相良さん。何が凍っているか、教えてください」
「全部です。うちの前が。氷が、こう、床みたいに」
「氷の厚さが分かるようでしたら、それも教えてください」
「分かりません。踵が乗りません。上を歩けません」
尾花は右の欄へ、路面 結氷 歩行不能、と書いた。
「相良さん。氷の上には乗らないで、中で待っていてください」
「歩いてません。店から出られないので」
「お店の戸が開くかどうか、教えてください」
「うちは開きます。隣が開かないんです」
「隣というのが、どちらのお宅なのか教えてください」
「有明印刷さんです。シャッターが凍って、下が氷に埋まってます」
「そのお宅の中に人がおられるかどうか、教えてください」
「おられます。有明さんが、朝からずっと」
「有明さんと話が出来るかどうか、教えてください」
「出来ません。叩いても、聞こえてないみたいで」
尾花は書いた。書いてから、その下に、屋内 一名 開口部 閉塞、と足した。
「相良さん。中でストーブを使っておられるか、教えてください」
「使ってます。いつも朝から点けてます」
「シャッターの外から、大きい声で伝えていただけますか」
「何をですか」
「ストーブを消してください、と伝えてください」
「消すんですか。寒いのに」
「窓が開かないところで火を使うと、空気が悪くなります」
「そうなんですか」
「寒くても、消してください」
「言います。伝わるか分かりませんけど」
「伝わらなければ、二回ずつ間を空けて叩いてください」
「叩きます」
「ご自分でシャッターを蹴らないでください。足が入ります」
「蹴りません」
「隊が出ます。着くまで、中で待っていてください」
「待ちます」
尾花は枠を見た。八つのうち、光っているのは一つになる。
切れたあと、その枠が消えた。
*
十二月二十一日の朝は、三階の食堂の窓が内側から白くなっていた。
武藤とうふ店は六時半に置いていく。冬は朝が早い。十二月は五丁になる。武藤は数える時、一丁ずつ声に出す。一、二、三、と来て、四だけ「四つ」と言い、そこから五へ戻る。三年、誰も直していない。
寺尾剛が汁の鍋の蓋を持ち上げた。持ち上げてから、また戻す。
「まあ待て。今日は熱くしてある。表が氷点下五度だ」
二文で言って、寺尾は椀を六つ、盆へ並べた。並べ方が三年、同じになる。奥から二つ、手前へ四つ。
三階の食堂の窓は、下の三分の一だけ霜が上がっている。上の三分の二は湯気で曇っていて、指で拭くと外が見える。拭いたところは、五分でまた曇る。
当直明けの朝は、六人が同じ卓に着く。着いてから、誰も先に食べない。寺尾が座るまで待つ。待つ理由を、誰も言わない。
火群迅が椀を先に取った。取ってから、寺尾が座るまで持っていた。
灰谷蒼汰は索を膝の上で二度、結び直した。結び直してから、結び目を指で押さえる。
「氷点下五度です。索は硬くなります」
言ってから、四本目を袋の上へ入れ替えた。冬は火の季節になる。火の日は、四本目を上にする。
七尾ひかりは酸素の残りを見てから、七つ数えた。七つで戻る。数え終わってから、袋の中を上から順に並べ直した。
桐島奏が、その横で同じ順に並べていた。並べ終わってから、袋の口を三度確かめる。
「七尾 ひかりさん。氷の上では、先に何を見ますか」
「靴の底を見ます。溝が浅い靴は、先に転びます」
「自分の靴もですか」
「自分のを先に見ます。転んだ人が増えると、その分だけ遅くなります」
奏は頷いた。頷いてから、自分の順番へもう一つ足した。
久遠寺修司が食堂の入口に立った。上着は着ていない。手には湯呑みが一つある。
「表は」
「氷点下五度です。市内の全部が下です」
逢坂澪はそう言った。それだけ言って、卓の上の湯呑みの位置を一つ直した。
久遠寺は湯呑みを持ったまま、卓には着かない。着かないまま、食堂の入口の枠に肩を預ける。三年、この人が卓に着いたのは数えるほどになる。
覚知の音が鳴った。
六人が椀を置いた。置いた椀は、六つとも半分より上まで残っている。
食べ終わった回は、三年でまだ三度しかない。この日も、三度目にはならなかった。
地下三層で、宮ヶ瀬佳代が盤の前に座っていた。腕の内側の時計は、四十七時間になる。
「宮ヶ瀬さん。氷を溶かすものは」
梅木がそう訊いた。宮ヶ瀬は盤から目を上げずに答えた。
「ありません。溶かす道具は作れていません。割るものなら、もう手元にあります」
この人は出来ていない側から言う。三年、そこが変わらない。
梅木が盤の横の梯子を上がっていった。上がった先が、二層の指令室になる。
澪が商店街二丁目の図を机へ広げた。広げてから、二丁目の北の並びに指を置いた。
「アーケードの下です。北側の七軒が繋がっています。上に受水槽が一つあります」
「水は」
「昨日の夜まで来ていました。今朝、止まっています」
「止まった先は」
「配管の継ぎ目です。継ぎ目から出た水が、アーケードの床へ落ちています」
「落ちた量は」
「分かりません。落ちた先が凍っているので、量は測れません」
「有明印刷は」
「北の並びの、四軒目です。花屋が三軒目になります。二軒は壁が接しています」
「二階は」
「有明さんは二階です。一階が作業場で、寝るのは上になります」
「梯子は」
「内側です。外からは上がれません」
久遠寺は短い質問しかしない。三年、感想を挟んだことがない。
「アンサー」
> ── はい。
「有明印刷の中を」
> ── 電気は来ています。灯りが一つ、点いています。
「音は」
> ── 拾えません。氷が厚いと、音が外へ出ません。
「叩いた音も」
> ── 拾えません。……こちらでは分かりません。
「叩けば、外の人には聞こえるか」
> ── 聞こえます。氷は音を通しませんが、金属は通します。シャッターの板を叩けば、板の端まで届きます。
アンサーは、分からないことを分からないと言う。分かることは、分かる形で言う。
澪が図の縁から指を離した。
「座標、出た」
*
地下二層のポールを、迅が最初に下りた。二段飛ばしで踊り場を抜けて、下りきる前に走りはじめる。アンサーは一段ずつ下りる。
「発進」
合図は整備班が出す。六人ではない。
商店街二丁目の東の口に着いたのは、六時五十九分になる。所要は九分だった。
アーケードの下は、暗い。屋根があるぶん、朝の光が入らない。
入った先の床が、白い。白いのは霜で、その下が氷になる。
迅が一歩入って、足を止めた。止めた足の裏が滑る。滑った幅は、靴の底の半分ほどになる。
相良敏子が花屋の戸から半分だけ顔を出していた。六十一になる。上着の上から前掛けを着けたままでいる。
「そこです。四軒目の」
言ってから、相良は自分の掌を見た。掌の側が赤い。シャッターを叩き続けた側になる。
「ストーブは」
「消してくれました。三回目で、返事がありました」
迅は、それ以上訊かない。訊かずに、四軒目のシャッターの前へ行った。
シャッターは下まで降りていた。降りきった先の三十センチが、氷に埋まっている。
氷は透いていて、その中にシャッターの板の下端が見える。氷の厚さは、寺尾の掌より厚い。
氷の中には、板の他に紙が二枚入っていた。昨日の夕方に張り出したものらしく、字がまだ読める。休みの日を書いた紙になる。
読めるまま、動かせない。
寺尾がハンマーを担ぎ直した。担ぎ直してから、アーケードの床を足で二度踏む。
「まあ待て。ここは打てん。下が全部氷だ」
二文で言って、寺尾は東の口の外まで戻った。戻った先の舗装を、踵で叩く。
「ここなら効く。二本立てる」
澪が東の口からソナーを構えた。撃つ前に必ず人数を言う。
「一名。四軒目の中に一。花屋に一。表に一。撃てる」
撃った。低い音が、氷の上を滑って壁へ入っていく。
「一名です。奥の作業場です。動いています。倒れていません」
蒼汰が索を一本、アーケードの柱へ回した。回してから、結び目を三度確かめる。
「柱まで四メートルです」
余った分を輪にして、蒼汰は肩へ掛けた。投げたものは必ず回収する。
ひかりがシャッターの板に掌を当てた。当ててから、二回ずつ、間を空けて叩いた。
中から、同じ間隔で二回返ってきた。
「有明さん。返事をありがとうございます。もう二回、叩いてもらえますか」
二回、返ってきた。返ってくるまでに、少し掛かった。
掛かった分を、ひかりは自分の指で数えた。数えてから、袋の口を確かめる。
返るまでの間が、一度目より延びている。延びた理由は二つ考えられて、どちらかは中を開けるまで分からない。
ひかりは、その二つを口に出さなかった。出さずに、袋の口をもう一度確かめた。
アーケードの奥で、水の落ちる音がした。
落ちた先が、落ちた形のまま白くなった。
「トリアージ」
迅が左手首の蓋を跳ね上げた。ブレスが色を出す。
> 判定 ── 黒。要救助者、無し。倒してください。
落ちた水の白いところが、盛り上がった。
盛り上がった先から、腕でも脚でもないものが伸びた。伸びた先が、隣の店の戸の隙間へ入る。
入った隙間が、その場で白くなった。
「急報 ── 出場!」
> サイレン ── 起動。〈火群 迅〉。応答、確認。
> サイレン ── 起動。〈逢坂 澪〉〈灰谷 蒼汰〉〈寺尾 剛〉〈七尾 ひかり〉。応答、確認。
「急報 ── 通報!」
奏がダイヤルに指を入れた。一を回して、指を戻す。もう一度、一を回す。三度目に、九を回した。
> サイレン ── 着信。〈桐島 奏〉。応答、確認。
> ── 回線、残り 二本。市内 受信可能 八。
二本になった。氷点下五度の朝の七時で、残っているのが二本になる。
迅は右手を耳の高さへ上げた。掌を外へ向ける。五人が続けた。
相良は花屋の戸の内側から、それを見ていた。
> 水を持ってく、火の現場 ─── サイレンレッド!
> 声を持ってく、知の現場 ─── サイレンブルー!
> 綱を持ってく、高の現場 ─── サイレンイエロー!
> 梁を持ってく、圧の現場 ─── サイレングリーン!
> 息を持ってく、生の現場 ─── サイレンピンク!
> 名を持っていく、影の現場 ─── サイレンゴールド!
>
> 特別災害対策機構、第七支部 ──
> 呼ばれたら、鳴らして、行く!
> 急報戦隊、サイレンジャー!
声は屋根に当たって、七軒の端まで往復した。往復して、戻ってくるまでに二拍あった。
禍体が動いた。動いた先の床が、白くなっていく。
白くなった床の上を、迅が走った。走って、滑って、滑ったまま前へ出た。
「斧!」
ギアの柄が半回転して、噛んだ。噛む音が、氷の上で二度に聞こえる。
迅の斧が、伸びた先の一本を上から割った。割った先が、粉になって落ちた。
落ちた粉が、床に着く前にまた白く固まる。
「割っても増えます。四本目です」
蒼汰が数えた。数えながら、索を柱の二本目へ回す。
禍体は倒しに来ない。伸ばした先を、店の戸へ、窓へ、樋の口へ差し込んでいく。
差し込まれた先が、順に閉じていく。
三軒目の花屋の戸に、白いものが伸びた。
伸びた先へ、迅が体を入れた。入れて、戸を背中で押さえた。
押さえた背中の外側が、白くなった。
迅は下がらなかった。下がらずに、斧を左手へ持ち替えて、右手で戸の枠を掴んだ。
「開けとけ」
三文字ではない。四文字になる。それだけ言って、迅は戸を内側へ押した。
相良が、内側から戸を引いた。引いた戸の隙間から、暖かい空気が外へ出た。
出た空気が、白いものに当たった。当たった箇所だけ、白いものが薄くなった。
「そこです。熱に弱いです」
澪が言った。言ってから、ソナーの向きを樋の口へ変える。
「あと一名です。四軒目、動いています」
ひかりがシャッターの前へ戻った。戻ってから、板の端に掌を当てる。
「有明さん。三つ数えたら、大きい音がします。耳を塞いでいてもらえますか」
板の内側から、二回返ってきた。
寺尾が東の口の外から戻ってきた。戻った手には、ハンマーが一丁ある。
「まあ待て。氷は割るな。板を鳴らす」
二文で言って、寺尾はシャッターの板の端へハンマーの腹を当てた。当てたまま、押した。
押した先で、板が撓んだ。撓んだ板が、氷から離れた。
離れた隙間へ、蒼汰が索の先を入れた。入れてから、両手で引いた。
「上、任せろ。三十センチ上げます」
シャッターが三十センチ上がった。上がった下から、暖かい空気が外へ出た。
出た空気は、アーケードの床の白いものへ当たっていく。
当たった先が薄くなる。薄くなった中心が、盛り上がって寄った。
寄った中心へ、寺尾がハンマーを担いだ。
「サイレンハンマー ── 急救斬ッ!」
打った。打った音が、七軒の端まで一度で届いた。
届いた先で、白いものが割れた。割れて、水に戻って、床へ落ちた。
落ちた水は、凍らなかった。
*
有明三郎が、三十センチの隙間から這って出てきた。七十九になる。作業着の上に半纏を着ている。
出てきてから、有明は一度、上を向いた。
「明るいな」
誰にも向けていない。言ってから、有明は続けた。
「消しましたよ、ストーブ。言われたので」
「有明さん。消してくださって、ありがとうございます」
ひかりがそう言った。言ってから、有明の手を取って、指の色を見た。
「寒かったです。二時間、寒かった」
「有明さん。寒いままでいてくださって、助かりました。中で暖かくしておられたら、こちらが間に合いませんでした」
有明は、それに答えなかった。答えずに、相良の方を見た。
相良は花屋の戸の前に立っていた。掌の赤いところを、前掛けで隠している。
「あんた、ずっと叩いてたな」
「叩いてました」
「聞こえてたよ。三回目から」
相良は、そこで何も言わなかった。言わないまま、右手を耳の高さまで上げて、掌を外へ向けた。
上げてから、下ろした。
誰も教えていない。この人は、アーケードの下で三十分、それを見ていた。
有明が、その手を見た。見てから、自分も同じ形をした。半纏の袖が肘まで落ちた。
二人とも、何のためにやっているかを言わない。
有明は半纏の袖を戻してから、シャッターの中を覗いた。覗いた先の作業場は、電気だけが点いている。ストーブの上の薬缶が、蓋の隙間まで凍っていた。
その薬缶を、有明は持ち上げなかった。持ち上げずに、そのまま置いておくと言った。
アーケードの東の口に、人が立っていた。
氷点下五度の朝で、その人の手には傘が一本ある。雪は降っていない。
傘は開いていた。開いた先が、アーケードの外の歩道の方へ傾いている。
傾いた下を、新聞配達の自転車が一台、通っていった。通った先の舗装だけ、白くない。
立っているのは〈遠慮〉になる。迅が、そちらへ体を向けた。
「そこだ」
「開けてしまわれましたね」
声はそう言った。誰も言い返さなかった。
「開けたところから、熱が出ていきます。中の方は、あと二時間はもったでしょう。二時間ぶん、この街は寒くなりました」
「もたせるつもりはない」
「存じています。ですから、こちらは急ぎません」
言ってから、〈遠慮〉は傘を閉じた。閉じてから、東の口を出ていった。
出ていった先の歩道が、通った幅だけ乾いている。
アーケードの北の並びで、四軒目の受水槽が鳴った。
鳴った先で、槽の腹が縦に裂けた。
*
地下三層で宮ヶ瀬が盤を叩いた。
「アーケードの下には立てません。屋根が持ちません。東の口の外の交差点だけ使えます」
「発進」
合図は整備班が出す。
サイレンファイヤーが交差点の中央で立った。レスキューが右へ、クレーンが左へ、メディックが右の脚へ、ウイングが背へ回る。
立つ時、四本の脚が横断歩道の白線を外して置かれた。外した分だけ、置ける場所が狭くなる。
> ── 回線、残り 一本。市内 受信可能 八。
交差点の四隅から、人が見上げていた。朝の七時半で、通勤の途中の人が多い。相良と有明と、新聞配達が一人いる。
見上げているのは、四隅と、アーケードの東の口の内側からになる。
サイレンオーの左手は、握ったままだった。開かない。その握った左腕を、迅はアーケードの屋根の縁へ掛けた。
掛けた腕が、屋根の骨を下から支えた。支えた内側で、槽から出た水の行き場が無くなる。
水は、支えられた腕の外側から、交差点の側へ落ちようとした。落ちた先には、人がいる。
右腕が動いた。開く方の掌が、落ちてくる水の柱を横から受けた。受けた場所で、水が薄く広がる。
広がった中から、受水槽の底の口が出てきた。北の並びの七軒へ水を送る、一本きりの口になる。
「サイレンオー ── 全消斬ッ!」
受けた掌が、底の口を避けて、水の柱の芯だけを横から断った。
断たれた先で、柱が形を保てなくなる。水は、ただの水になってアーケードの屋根の上へ落ちた。
落ちた音のあと、屋根の樋から水が流れはじめた。
流れた水は、東の口の外の側溝まで行って、そこで止まった。側溝の中が、まだ凍っている。
*
地下三層で、戸倉がクレーンの左の吊り具を外していた。外した金具の縁が、内側へ潰れている。
「屋根の骨に当てました。一度で潰れました」
「明日には出せます。潰れない形は、まだ作れていません」
宮ヶ瀬は工具を置いた。置いてから、腕の内側の時計を見た。五十時間になる。
須永が商店街の建物の表へ、二丁目の受水槽の欄を書き足した。書き足してから、戸倉に言った。
「あの人、戸を背中で押さえたまま、片手で斧を持ち替えました」
「本人に言え」
「言いません」
それで終わった。須永は表を畳んで、棚の二段目へ入れた。
戸倉は潰れた金具を、机の上に立てて置いた。潰れた側を手前へ向けて置く。三年、この向きが変わらない。次に作る側が、先に潰れた面を見ることになる。
速水が交差点の白線の剥がれたところに、粉を撒いていた。撒いた粉は融雪の粉で、白線の上だけは避けている。避けた理由を訊かれて、答えられなかった。答えられないまま、避け続けている。
三階の食堂で、寺尾が朝の汁を温め直した。六つの椀は、六つとも半分より上まで残っている。
温め直してから、寺尾は自分の掌を一度開いて閉じた。開いた掌の内側が、ハンマーの柄の形に赤い。
迅は、その掌を見ていた。見ていて、何も言わなかった。
尾花律子は受信席で用紙を綴じた。この日、保留は三件だった。最長は二分十秒になる。
二分十秒待ったのは、商店街二丁目の別の一件になる。同じアーケードの南の並びから掛かってきて、内容は同じだった。氷で戸が開かない、という一件になる。
南の並びには、隊が行っていない。行かないまま、戸は昼過ぎに自分で開いた。開いた理由は、日が回って屋根の縁の氷が落ちたからになる。
迅の報告は、用紙の三行目までで終わっている。氷を割った、戸を押さえた、開いた。それだけになる。
尾花は四行目の欄を空けたまま、綴じた。空けたままの欄が、三年、埋まった例は無かった。
六人は、この人に礼を言わない。言わせない。
> 【第七支部 出場記録】
> 臨場 ── 六時五十九分。所要 ── 九分。
> 保留 ── 三件。最長 二分十秒。
> 未着 累計 ── 一。
> 判定 ── 黒。破壊 ── 中。
> 損壊 ── 商店街二丁目 アーケード 受水槽 一 破損。北の並び七軒 給水 停止。
> 屋根の骨 四メートル 変形。横断歩道 白線 二本 剥離。
> 救助 ── 一名。搬送 ── なし。避難 ── なし。
> 受信 ── 七時から七時三十分の入電 十一件。うち 商店街二丁目からの通報 四件。
> 気温 ── 商店街二丁目 アーケード下 氷点下 五度。開口部の閉塞 十四か所。
> 市内 給水が止まったまま復旧していない区画 三か所 ── 復旧の見込み 記録なし。
> 本件、処理 ── 完了。
> ── 入電。




