第075話 半分だけです
> 【第七支部 覚知記録】
> 覚知 ── 九月二十八日 十六時二十分。
> 入電 ── 携帯電話。発信地 ── 丘の上 一丁目。
> 第一声 ──「半分だけです」
> 出場 ── 第七支部 全隊。
「半分だけです」
尾花律子は用紙を引き寄せた。分まで書いて、秒は書かない。
「はい、鳴瀬市消防指令センターです。今おられる場所を教えてください」
「丘の上一丁目の、柏台住宅です。五号棟の三階」
「お名前を教えてください」
「澤田です。澤田 明子」
「澤田さん。何が半分なのか、教えてください」
「電気です。廊下は点いてるんです。階段だけ、真っ暗で」
尾花は右の欄へ、停電 継続 四日目、共用部 一部通電、と書いた。
「けがをされている方がいるか、教えてください」
「いません。まだ誰も」
まだ、と言った。言った本人が、その後で一度黙る。
「まだ、のところを教えてください」
「上に、江木さんがいるんです。五階の。脚が悪くて、四日、下りてません」
「江木さんが話せる状態か、教えてください」
「出来ます。今朝、声を聞きました。水も食べる物も、うちが上げてます」
尾花は書く手を止めなかった。止めないまま、右の欄へ、要救助者 無し、と書いた。書いてから、その下に、階段室 照明 消灯、と足した。
「江木さんのところへ、どう上がっているか教えてください」
「懐中電灯です。うちの人と、二人で」
「二人で上がっていてください。一人で上がらないでください」
「はい」
「それから、日が落ちてからは上がらないでください」
言ってから、尾花は続けた。言い方を変えなかった。
「電話は切っていただいて大丈夫です。また掛けてください」
「切ります」
尾花は枠を見た。八つのうち、光っているのは二つになる。
二つ目は、市の東の外れからの通報だった。取ったのは尾花ではない。取れるのは尾花だけになる。
切れたあと、その枠が消えた。三年、切ったあとに残るものは無い。
*
九月二十八日の三階は、窓を閉めていた。台風から二週間経って、風は北へ回っている。
武藤とうふ店は七時十分に置いていく。九月は五丁になる。武藤は数える時、一丁ずつ声に出す。一、二、三、と来て、四だけ「四つ」と言い、そこから五へ戻る。三年、誰も直していない。棚の上の紙は、まだ読めない。八か月目に入った。
この四日、豆腐屋は保冷の箱に氷を入れて運んでいる。丘の上の一帯へ配る分だけ、氷を二つ多く入れる。多く入れる理由を、武藤は誰にも言っていない。訊いたのは速水だけで、返ってきたのは「その分、遠い」の一言になる。
寺尾剛は椀を六つ並べていた。並べてから、六つ目の位置を確かめる。端に決まってから、二か月になる。
「まあ待て。四日目は火を使う家が増える」
二文で言って、寺尾は火の当番の札を裏返した。裏返した札は、十月まで戻さない。
札の裏には、去年の十月の日付が鉛筆で入っている。書いたのは寺尾で、消していない。同じ札を三年、裏返して使っている。表と裏で、字の濃さが違う。
灰谷蒼汰は索を膝の上に広げて、端から端まで指で送っていた。三年、出る前に必ず一度やる。
「索は四本、乾いています」
言ってから、四本目の端の輪を指で開いて、また閉じた。開いて閉じるのは、癖になる。二本目の汚れは、まだ落ちきっていない。
停電の日は索が要る、と誰も言わない。それでも蒼汰は、暗い場所へ出る日だけ、四本目を袋の一番上に入れ替える。入れ替えたことに気付いているのは佐波で、佐波はそれを袋の並びから読み取っている。読み取っただけで、口に出さない。
七尾ひかりは酸素の残りを見てから、七つ数えた。七つで戻る。数え終わってから、袋の中を上から順に並べ直した。
桐島奏が、その横で同じ順に並べていた。並べる速さが、先月より速い。七尾ひかりは、その手元を見てから口を開いた。
「暗い場所は足元から照らしてもらえますか」
「七尾 ひかりさん。灯りは、どちらへ向けますか」
「下です。顔へ向けると見えなくなります」
「顔ではなく、足元へ」
「見せるためではなく、歩かせるためです」
奏は頷いた。頷いてから、自分の順番へもう一つ足した。足したものを書いていない。書くものを持っていない。
逢坂澪は受信席の裏で、市の停電の図を出していた。丘の上一丁目のところに、印が三つ入っている。
「丘の上一丁目は四日目です。三区画のうち二つが戻っています」
「戻っていないのは」
「柏台住宅の一帯です。棟が五つ。世帯は百四十二」
久遠寺修司が掲示板の前から振り向いた。未着累計の欄には、一と書いてある。三月の終わりから動いていない。
「何故、戻らん」
「引き込みの柱が一本、根本から傾いています。建て替えの日は決まっていません」
澪は言ってから、図の縁を指で押さえた。押さえたのは、線を引く前の癖になる。
久遠寺は掲示板の前へ戻らなかった。戻らずに、図の柏台のところへ回り込んで、同じ場所を上から見た。三年、この人は現場に出る。指令室の椅子に座ったままでいたことが一度も無い。
火群迅は自販機の前にいた。一番下の段を押す。理由を言ったことがない。缶を取って、指の腹で口を一度拭いてから開ける。
覚知の音が鳴った。
佐波悠が地下三層から上がってきた。手に、ワイヤーの巻き取りの部品を持っている。上がってくる速さが、去年より速い。
「宮ヶ瀬さん。巻き取りの爪、三つ目が浅いままです」
「浅いままです。三つとも同じ深さの爪は、まだ作れていません」
宮ヶ瀬佳代は逆から言う。出来ていることを先に言わない。
言ってから、宮ヶ瀬は腕の内側の時計を見た。三十一時間になる。三十一時間起きていて、それを誰にも言わない。
速水が停電の表を持って走ってきた。走ってきてから、表を裏返して、また表へ戻した。
「柏台は五号棟です。あ、いえ、棟の番号は北から振ってあるので、五号棟は一番南です」
言ってから、速水は自分の言い方に気付いて、口の中でもう一度番号を数え直した。数え直しても、答えは同じになる。
佐波が、その横で表の端を押さえた。押さえた欄には、四日分の空白がある。
空白の欄には、復旧の見込みを書くことになっている。四日、誰も書いていない。書けないから空いているのか、書く人が決まっていないのかは、表の側からは分からない。
澪が停電の図を机へ広げた。広げてから、柏台住宅の五号棟に指を置いた。
「柏台住宅 五号棟。五階建て、階段室型。昇降機はありません」
「共用部は」
「非常用の発電機が一台。回路が半分だけです。階段室は点きません」
「何故、半分だ」
「発電機の容量です。階段室の灯りは元の回路に入っています」
「人は」
「五号棟に残っているのは十一世帯。三階から上に六世帯です」
「残っていない世帯は」
「親戚か市の避難所です。二日目までに三十一世帯が出ています」
「三日目からは」
「動いていません。三日目も四日目も、出た世帯は零です」
二日で出られる人は、二日で出る。三日目に残っている人は、四日目にも残る。数はそういう形になる。
久遠寺は短い質問しかしない。三年、感想を言ったことがない。
訊く順番は決まっている。場所、構造、人。三つ訊いて、四つ目を訊かない。四つ目に当たるのは、どうしてそうなっているか、になる。それは現場で見る、と決めている人になる。
「アンサー」
> ── はい。
「柏台の階段室を」
> ── 図面では、一階から五階まで踊り場が九つ。段数は一階分で二十六段です。手すりは片側だけになります。
「暗さは」
> ── 窓は各階の踊り場に一つずつあります。日が落ちると、光の入る場所がありません。……何時から見えなくなるかは、分かりません。
「日没は」
> ── 十七時二十八分です。
「戻る見込みは」
> ── 引き込みの柱の建て替えは、明日の予定に入っています。……明日の何時かは、記録にありません。
アンサーは、分からないことを分からないと言う。三年、そこだけは変わらない。
尾花の席で、二本目が光った。
「はい、鳴瀬市消防指令センターです」
「四階の踊り場で、人が倒れてます。動けないって言ってます」
同じ住所だった。同じ棟の、同じ階段。
尾花は書いた。書いてから、右の欄へ、階段室 要救助者 一名、と足した。
「お名前と、その方のお名前を教えてください」
「私は澤田です。さっき掛けた。倒れてるのは大槻さん。五階の大槻 学さん」
「大槻さんが話せるかどうか、教えてください」
「出来ます。足を捻ったって。立てないって言ってます」
「澤田さん。大槻さんを動かさないでください。横にいてあげてください」
「はい」
「そこは階段です。上と下の段に人を立たせないでください」
尾花は用紙を綴じた。綴じてから、次の一枚を出す。
澪が図の縁から指を離した。
「座標、出た」
*
地下二層のポールを、迅が最初に下りた。二段飛ばしで踊り場を抜けて、下りきる前に走りはじめる。アンサーは一段ずつ下りる。三年、この対比が変わらない。
「発進」
合図は整備班が出す。六人ではない。
柏台住宅の五号棟の前に着いたのは、十六時三十二分になる。所要は十二分だった。
棟の前の外灯は点いていた。共用の廊下も、三階も四階も、白く光っている。
階段室の入口だけが、真っ黒だった。
棟の裏で、発電機が回っていた。回る音は、四日目でも一日目と変わらない。変わったのは燃料の残りだけで、それを見に来る人が来ていない。
四日目の匂いがした。九月の終わりで、風は乾いている。乾いているのに、階段室の口から出てくる空気だけが湿っていた。
階段室の入口の床に、白いものが点々と落ちている。近付くと、蝋だった。四日の間に誰かが蝋燭を持って上がって、途中で消えた分になる。点の間隔が、上へ行くほど狭くなっている。
澤田明子が入口に立っていた。五十二になる。手に、懐中電灯を持っている。
「上です。四階の踊り場」
言ってから、澤田は電池の蓋を指で押さえた。押さえたのは、蓋が緩んでいるからになる。四日で、二度替えている。
替えた電池は、二度とも近所の店で買っている。店の棚は三日目で空になった。空になってから、澤田は自分の家の時計から抜いて使っている。台所の時計は、三日目の朝から止まったままになる。
迅が入口へ入った。入ってから、上を見た。
踊り場の窓が九つある。窓の形が、上へ向かって九つ並んでいる。並んだ窓のうち、下の四つだけが灰色で、上の五つは黒かった。
日は、まだ落ちていない。落ちるまでに、あと一時間ある。一時間で終わるかどうかを、誰も口に出さない。
ひかりが、その後ろから入った。入ってから、灯りを足元へ向ける。顔へ向けない。見せるためではなく、歩かせるための向きになる。
「私の後ろから上がってもらえますか」
「はい」
四階の踊り場に、大槻学がいた。六十七になる。左の足首が腫れている。座ったまま、背中を壁につけている。ひかりが、その前でしゃがんだ。
「そこから動かないでもらえますか」
「五階から下りるところだった。四日、下りてなかったから」
誰にも向けていない。ひかりは灯りの向きを変えない。
「そのままで大丈夫です」
「灯りを持ってたんだ。落として、下の段まで転がって。拾おうとして」
拾おうとして、踏み外した。順番はそういう順番になる。
落とした灯りは、二つ下の段で止まっていた。止まったまま、上を向いて点いている。四日目の階段室で、そこだけが明るい。明るいところに、誰もいない。
ひかりは、その足首を見た。見てから、上着の袖を捲らずに、まず名前を訊いた。
「大槻 学さん。痛いところを教えてもらえますか」
「足首。左」
「他には」
「無い。頭は打ってない」
名前の次は、痛いところになる。順番を変えない。
ひかりが足首に手を当てた。腫れている。皮膚は切れていない。骨がどうなっているかは、ここでは分からない。
「体重を掛けないでいてもらえますか」
「歩けるよ」
「歩けます。ただ、明日が長くなります」
ひかりは、そう言った。斬った回数と、助けた回数を数える。この日は、まだどちらも零になる。
寺尾が階段室の外から中を覗いた。覗いてから、手すりを片手で握った。
「まあ待て。手すりは片側だけだ。担架は回らん」
二文で言って、寺尾は下の踊り場の角を足で叩いた。叩いた音が、二度返ってきた。
澪が四階の踊り場からソナーを構えた。撃つ前に必ず人数を言う。
「三名。踊り場に三。上の階に二。撃てる」
撃った。低い音が壁の中を通っていく。通った音が、上の形を返してきた。
「五階の廊下に二名。部屋の前です。一人は座っています」
座っているのは、江木タツになる。八十一になる。四日、下りていない人が、この日は部屋の前まで出てきていた。
出てくるまでに、この人は玄関の三和土で一度座り込んでいる。座り込んだところから戸口までが、一メートル半になる。その一メートル半に、四日分の時間が掛かっている。
出てきたのは、下の音を聞いたからになる。
蒼汰が索を五階の手すりへ投げた。投げてから、二重に取る。
「上、任せろ。踊り場は九つです」
張った索が、階段の内側に一本通った。手を掛ける場所が出来る。掛ける場所を作ってから、蒼汰は投げた索を一度引いて、鳴らない位置まで送り直した。
階段室の上から、音がした。
段が段を押す音だった。一か所ずつではなく、五階分が同じ拍で鳴る。
「トリアージ」
迅が左手首の蓋を跳ね上げた。ブレスが色を出す。
> 判定 ── 黄。要救助者、待機可能。急がずに済ませてください。
黄が出た。待てる。
待てるというのは、放っておいていいということではない。順番を後ろにしていい、ということになる。
「急報 ── 出場!」
> サイレン ── 起動。〈火群 迅〉。応答、確認。
> サイレン ── 起動。〈逢坂 澪〉〈灰谷 蒼汰〉〈寺尾 剛〉〈七尾 ひかり〉。応答、確認。
「重装 ── 換装!」
蒼汰が肩の受けを起こした。起こした分だけ、腕が一回り太くなる。
「急報 ── 通報!」
奏がダイヤルに指を入れた。一を回して、指を戻す。もう一度、一を回す。三度目に、九を回した。
> サイレン ── 着信。〈桐島 奏〉。応答、確認。
> ── 回線、残り 零本。市内 受信可能 八。
零になった。八本のうち、空いているものが一つも無い。塞がっている間、市内で新しく取れるのは八本のままで、そこから先は待たせることになる。
迅は右手を耳の高さへ上げた。掌を外へ向ける。五人が続けた。
暗い階段室の中で、六つの掌が同じ高さに並んだ。並んだ掌に、外の廊下の灯りが半分だけ当たっている。
> 水を持ってく、火の現場 ─── サイレンレッド!
> 声を持ってく、知の現場 ─── サイレンブルー!
> 綱を持ってく、高の現場 ─── サイレンイエロー!
> 梁を持ってく、圧の現場 ─── サイレングリーン!
> 息を持ってく、生の現場 ─── サイレンピンク!
> 名を持っていく、影の現場 ─── サイレンゴールド!
>
> 特別災害対策機構、第七支部 ──
> 呼ばれたら、鳴らして、行く!
> 急報戦隊、サイレンジャー!
声が階段室の中で九回返った。九つの踊り場が、一つずつ返した。
九つの踊り場のうち、上の五つは黒いままになる。名乗りの声は、その黒いところまで届いた。届いたことは、返ってきた回数で分かる。
禍体は、階段の途中から立った。
人の形をしていない。段の形が同じ場所を上がり続けて、上がったまま形になっている。動くと、段が増えて、上と下の距離が伸びる。
迅がギアの柄を回した。噛む音が、段の音の下から出てくる。
「斧!」
斧が、増えた段の付け根を横から割った。割った先で、段が一つ減った。
減った分だけ、上と下が近くなる。
寺尾がハンマーを持ち上げた。持ち上げてから、下ろす場所を探して、下ろさなかった。
「まあ待て。ここで打つと下が抜ける」
二文で言って、寺尾は柱を打たずに、代わりに肩で踊り場の角を押さえた。押さえている間だけ、増える段が止まる。
打たない回になる。街に一本も増えない。増えないことを、寺尾は誰にも言わない。言わずに、肩で押さえたままでいる。
澪が二度目のソナーを構えた。
「三名。踊り場に三。段の中は零。撃てる」
撃った。音が段の中を通って、上の踊り場で返ってきた。
「段は七つ増えています。増えた分は四階と五階の間です」
七つ増えた。増えた分を減らすまで、大槻は下りられない。減らすのに掛かる時間は、増える速さより速くないと意味が無い。今のところ、速い。
ひかりが大槻の前に立った。立ってから、しゃがまなかった。
「段が減る度に、数えていてもらえますか」
「数えるのか」
「減るのが分かる方が、待ちやすくなります」
待てる、というのは、待つ人が待てるということになる。待たせる側が決めることではない。
ブレスが黄を出した後で、ひかりは大槻の脈を二度取り直した。判定は機械が出す。取り直すのは人がやる。二度とも、同じ数だった。
大槻が数えはじめた。一つ、二つ、と口に出す。数える声が、階段室の中で九回返った。
奏が棒を出した。先を広げて、上へ向ける。
「盾」
一語だけ言って、五階の踊り場の口へ立った。江木タツの部屋の前と、階段の間に立つ。
誰かの前に立った回を数える。この日で、十七回目になる。
迅が二度目の斧を入れた。増えた段の付け根が、また一つ割れた。
二つ、と大槻が数えた。
三つ目を割ったところで、段の音が変わった。押す音から、擦る音になる。
「サイレンアックス ── 急救斬ッ!」
刃が、上がり続ける向きを横から断った。断たれた先で、段が同じ場所を上がれなくなる。
増えた七つが、順に落ちた。落ちた先は、元の段の高さになる。
七つ、と大槻が数えた。数え終わってから、口を閉じた。
階段は、元の九つの踊り場に戻った。戻っただけで、灯りは点かない。
迅が変身を解かずに、大槻の前へしゃがんだ。
「背に乗ってくれ」
「重いぞ」
「知ってる」
大槻が背へ乗った。乗ってから、両手を迅の肩へ回す。回した手が、途中で止まった。
「悪いね」
「言わなくていい」
迅が立った。立ってから、下りはじめる。
四階の踊り場から三階まで、二十六段ある。三階から二階まで、また二十六段ある。
一段ずつ下りた。二段飛ばしで下りる人が、この日は一段ずつ下りている。
ひかりが横に付いた。灯りを足元へ向ける。顔へ向けない。
「手は組んだままでいてもらえますか」
「うん」
十段下りたところで、迅の耳の内側で音がした。
> ── 保留 三件。最長 二分十八秒。
三件になった。八本が全部塞がっている。空きが無い。
迅は下り続けた。十五段目で、また音がした。
> ── 保留 五件。最長 三分四秒。
五件になった。三分四秒は、この夏で二番目に長い。
迅が段の途中で足を止めた。止めてから、上を見ない。下も見ない。
「一本、返す」
言ってから、迅は左手首の蓋へ手を掛けた。掛けてから、蓋を閉じた。
> ── 解除。〈火群 迅〉。回線、開放。
> ── 回線、残り 一本。市内 受信可能 九。
塞がっていた一本が空いた。空いた一本へ、待っていた一件が入る。
入った先で、尾花が受話器を取った。取ったのは、三分四秒待たせた人になる。
三分四秒の間、その人は掛け直していない。掛け直さずに、繋がるまで持っていた。持っていたことは、用紙のどの欄にも出ない。出るのは、待たせた秒数だけになる。
迅の肩から、鎧が落ちた。落ちたところに、上着の袖がある。九月の終わりの、乾いた布になる。
大槻の重さが、直接、背中に来た。
「おい」
「そのままでいい」
迅は歩き出した。生身で、二十二段残っている。
一段目で、膝が鳴った。二段目で、右の靴が段の縁を擦る。三段目では、擦れた分だけ体が壁の側へ寄っていく。
寄った先に、手すりがある。手すりは片側にしかない。片側にしかない手すりを、迅は掴まなかった。
掴まなかったのは、掴むと片手になるからになる。
ひかりが、その横で灯りを足元へ向け続けた。向けたまま、何も言わない。
言わないのは、言うと止まるからになる。
背中の重さは、下りるほど増える。上から下りる時、重さは前へ掛かる。前へ掛かる分を、膝で受けることになる。受けるのは片方ずつになる。右が受けている間、左は宙にある。
迅は、その宙にある方の足を、毎回、同じ場所へ置いた。段の真ん中ではない。手すりの無い側の、壁に近いところになる。
五段下りて、大槻が口を開いた。
「下ろしてくれ。這って下りる」
「下ろさない」
二文字と四文字だった。理由は付けなかった。
大槻は、それ以上言わない。言わずに、両手をもう一度組み直す。
十段下りたところで、階段室の窓の外が、灰色から黒に変わった。
日が落ちた。十七時二十八分になる。
窓の九つが、下から順に消えていった。上の五つは、もともと黒かった。
残ったのは、ひかりの灯りが照らしている足元の、四十センチだけになる。
迅は歩き続けた。段の縁は見えない。見えないまま、足の裏で縁の位置を測って、そこから指一本ぶん内側へ置く。四十センチの明るさの中で出来ることは、それだけになる。
二階の踊り場で、上から音がした。段が段を押す音ではない。人の足の音だった。
江木タツが、五階の廊下から階段室の口まで出てきていた。八十一になる。四日、下りていない。
「そこ、危ないよ」
誰にも向けていない。言ってから、江木は続けた。
「電気が半分になってから、みんな、そこで転ぶんだ」
みんな、と言った。数は言わなかった。数は、この人の頭の中にしかない。
奏が五階の口の前に立ったまま、返事をした。
「江木 タツさん。桐島と申します。今から、そちらへ一人上がります。部屋の中でお待ちいただけますか」
「上がってこなくていいよ」
「上がります。灯りを置いていきます」
置いていく、と言う。渡すとは言わない。
最後の二十六段を、迅が下りきる。
一階の床に大槻の足が着いた時、大槻は自分では立たなかった。立たないまま、迅の背から手を離した。
離した手が、震えていた。震えていたのは、掴んでいた側になる。
「ありがとう」
「聞いた」
二文字だった。
外へ出ると、外灯が点いていた。廊下も点いている。階段室だけが、黒いままになる。
半分だけ点いている。四日、そうなっている。
澤田明子が、棟の入口で懐中電灯を消した。消してから、電池の蓋をもう一度押さえる。外は、まだ点いている。点いているうちは、使わない。
*
棟の外の駐車場に、人が立っていた。
九月の夕方で、風が北へ吹いている。その人の手元に、紙を挟んだ板があった。
立っているのは〈統計〉になる。板の紙を一枚めくった。迅が、その方へ体を向けた。
「そこだ」
「停電の四日目に階段で転ぶ件は、市内で年に三十一件です。三十一件のうち、二十九件は日が落ちたあとになります」
「三十一件と言った」
「三十一件のうち、二十六件は自分で下りられています。五件が、こちらから運んだ件になります」
声はそう言った。めくった紙の下を、指で押さえる。迅は数を繰り返しただけで、何も言い返さなかった。
「五件だ」
「五件とも、日が落ちる前に運べています。日が落ちてから運んだ件は、記録にありません」
言ってから、〈統計〉は板を閉じた。閉じてから、階段室の口の方を見なかった。
記録に無いのは、無かったからになる。無かったのか、これから書くのかは、板の紙には出ない。
この日の一件が、その記録に入るのかどうかを、誰も訊かなかった。
棟の裏で、引き込みの柱が音を立てた。
根本から傾いていた柱が、そこで一度沈んだ。沈んだ分だけ、線が張った。
張った線の先で、外灯が消えた。廊下の灯りも消えた。
五号棟が、全部黒くなった。
半分も、無くなった。
*
地下三層で宮ヶ瀬が盤を叩いた。
「棟の上には立てません。舗装の側だけ使えます」
「発進」
合図は整備班が出す。
サイレンファイヤーが駐車場の舗装の上で立った。レスキューが右へ、クレーンが左へ、メディックが右の脚へ、ウイングが背へ回る。
立つ時、四本の脚が駐車の白線を避けなかった。避ける余裕が、この日は無い。
迅は、もう一度変身していた。二度目の起動音は、一度目より低かった。
> ── 回線、残り 零本。市内 受信可能 八。
棟の前から、十一世帯が見上げていた。灯りは一つも無い。見上げている顔が見えるのは、ロボの胸の目盛が光っているからになる。
見上げているのは、駐車場の側と、隣の四号棟の廊下からになる。
サイレンオーの左手は、握ったままだった。開かない。その握った左腕を、迅は棟の壁へ添えた。
添えた腕が、階段室の外壁を上から下まで塞いだ。塞いだ内側が、風の入らない筒になる。
段の柱は、その筒の外側から伸びようとした。伸びた先には、四号棟がある。
右腕が動いた。開く方の掌が、柱の腹を横から押した。押した場所で、段が薄くなる。
薄くなった中から、引き込みの柱が出てきた。根本から傾いたまま、まだ立っている。
「サイレンオー ── 全消斬ッ!」
押し出した掌が、傾いた柱の側を避けて、段の芯だけを横から断った。
断たれた先で、柱が形を保てなくなる。段は、ただの段になって駐車場の上に落ちた。
落ちた音のあと、引き込みの柱はまだ傾いたまま立っていた。
直っていない。倒れてもいない。四日目のまま、五日目に入る。
四号棟の外廊下から、それを見ていた人が三人いる。三人とも、自分の棟の灯りが点いているかどうかを、先に振り返って確かめた。点いていた。
*
地下三層で、佐波がワイヤーの巻き取りの爪を見ていた。三つ目は、まだ浅い。
「明日には届くと思います」
「明日です。三つとも同じ深さの爪は、まだ作れていません」
宮ヶ瀬は工具を置いた。置いてから、腕の内側の時計を見た。三十四時間になる。
速水が停電の表へ、柏台の欄を書き足した。書き足してから、佐波に言った。
「あの人、変身、自分で解きました」
「本人に言え」
「言いません」
それで終わった。速水は表を畳んで、棚の二段目へ入れた。
三階の食堂で、寺尾が湯を沸かした。九月の椀は、五丁分になる。
沸かす前に、寺尾は火の当番の札をもう一度見た。見てから、裏のままにしておく。停電の五日目は、四日目より火を使う家が増える。増える理由を、この人は口に出さない。
久遠寺が食堂の入口に立った。立ってから、迅の方を見る。
「どうだった」
「下りた」
三文字だった。久遠寺はそれ以上訊かなかった。訊かないまま、椀を一つ受け取って、立ったまま食べた。
迅の上着の右の袖が、肘のところで擦り切れていた。段の縁で擦った分になる。
擦り切れたことに、本人は気付いていない。
尾花律子は受信席に残った。用紙を綴じて、次の一枚を出す。この日、保留は五件だった。
五件のうちの一件は、三分四秒待たせている。待たせた先で取った電話は、丘の上二丁目の、別の家からになる。
その一件の用紙は、五件目の下に綴じてある。
尾花は、柏台住宅の五号棟へ掛け直した。呼び出しの音が鳴って、十二回で切れた。
停電の四日目の夜に、固定電話は鳴らない。
六人は、この人に礼を言わない。
> 【第七支部 出場記録】
> 臨場 ── 十六時三十二分。所要 ── 十二分。
> 保留 ── 五件。最長 三分四秒。
> 未着 累計 ── 一。
> 判定 ── 黄。破壊 ── 中。
> 損壊 ── 丘の上一丁目 柏台住宅 五号棟 階段室 内壁 十二メートル 剥落。駐車場 舗装 二十二平米 陥没。
> 白線 六台分 消失。四号棟 外廊下 手すり 四メートル 変形。
> 救助 ── 一名。搬送 ── 一名。避難 ── なし。
> 受信 ── 回線 一時 開放 一。開放中の受信 一件。
> 電力 ── 丘の上一丁目 柏台住宅 一帯 全戸 停電。共用部 通電 停止。
> 市内 非常用電源が共用部の半分にしか繋がっていない集合住宅 三十四棟 ── 改修予定 記録なし。
> 本件、処理 ── 完了。
> ── 入電。




