第065話 潮が来る
> 【第七支部 覚知記録】
> 覚知 ── 七月十三日 十四時二分。
> 入電 ── 携帯電話。発信地 ── 湾岸 四丁目。
> 第一声 ──「潮が来る」
> 出場 ── 第七支部 全隊。
「潮が来る」
尾花律子は用紙を引き寄せた。分まで書いて、秒は書かない。
声が高い。子どもの声になる。
「はい、鳴瀬市消防指令センターです。今おられる場所を教えてください」
「湾岸の四丁目です。川の口の、干潟。沖の、砂の高いとこ」
「お名前を教えてください」
「森田です。森田拓。小学四年です」
尾花は名前の欄へ書いた。書いてから、手を止めなかった。この名前を、用紙に書くのは二度目になる。
「森田さん。足元が濡れているか、教えてください」
「濡れてません。でも、来てます。さっきまで歩けたとこが、もう海です」
「そこに何人いるか、教えてください」
「えっと……十三人。ぼくを入れて、十四です」
「二回、助かります」
「数えました。二回、数えました」
尾花はそこで秒を書いた。書いてから、右の欄へ、湾岸四丁目、河口干潟、要救助者十四名、満潮四時二十分、と書いた。四つ並べてから、通報者 同所在、と足した。
「今いる場所が、砂で一番高いか、教えてください」
「多分。ここが一番、山になってます」
「では、そこから動かないでください。岸へ向かって歩かないでください」
「走ったら、間に合いませんか」
「間に合いません。歩くより、潮の方が速くなります」
言ってから、尾花は続けた。言い方を変えなかった。
「みんなに、そこを動かないで、と伝えてもらえますか」
「言えます。大きい声、出せます」
「お願いします。それから、小さい子は真ん中に入れてください」
「はい」
「服は脱がないでください。濡れても、着ていてください」
「はい」
尾花は枠を見た。八つのうち、光っているのは一つになる。
二つ目が光ったのは、三秒後だった。三つ目は、その次の秒になる。
*
七月十三日の三階は、日が高かった。窓を開けても、風は入らない。海の側の風は、正午をまたいでから止まる。
武藤とうふ店は七時十分に置いていく。七月は五丁になる。武藤は数える時、一丁ずつ声に出す。一、二、三、と来て、四だけ「四つ」と言い、そこから五へ戻る。三年、誰も直していない。棚の上の紙は、まだ読めない。五か月目に入った。
寺尾剛は流しの前で、五つの椀を伏せていた。伏せてから、乾いた布を上へ掛ける。掛けると乾きが遅くなる。それでも掛ける。埃が入るのを、寺尾は嫌う。
「まあ待て。潮の日は、時刻表を先に見る。海は時間で動く」
二文で言って、寺尾は壁の潮の表を見た。表は市の港湾課が配っているもので、三か月分が一枚に収まっている。七月の欄に、赤い印が一つある。付けたのは寺尾ではない。
印は十三日に付いている。今日になる。付けたのは澪で、月の頭に大潮の日を全部見ておく。見ておくだけで、何も言わない。言うと、その日は誰かが構える。構えたまま何も起きない日が続くと、次の大潮で構えなくなる。
だから印だけ付けて、口では言わない。三年、そうしている。
灰谷蒼汰は索を膝の上に広げて、端から端まで指で送っていた。三年、出る前に必ず一度やる。
「索は四本、乾いています。海に出すと、三本目が塩を吸います」
言ってから、三本目だけを別の袋へ入れた。入れてから、また出して、同じ場所へ戻す。入れるか出すかを、毎回迷う。迷ってから、いつも同じにする。
三本目は、三年前に一番はじめに支給された索になる。塩を吸うのは、繊維が古いからだった。替えは棚に二本ある。替えないのは、伸び方を体が覚えているからになる。
その理由を、蒼汰は誰にも言っていない。宮ヶ瀬だけが、三本目の記録を毎月そのまま通している。
七尾ひかりは酸素の残りを見てから、七つ数えた。七つで戻る。数え終わってから、毛布の数を数え直した。四枚を六枚にする。
増やしたのは、海だからになる。海から上げた人は、川から上げた人より塩を持っている。塩は乾くと熱を持っていく。ひかりは、そこを毎回、道具の数で言う。
六枚のうち二枚は、子ども用の小さい方になる。大人の毛布を子どもに掛けると、端が余って濡れた地面に付く。付いた端から冷える。小さい方を混ぜはじめたのは、去年の秋からになる。
混ぜた理由を、ひかりは誰にも言っていない。訊かれたこともない。
逢坂澪は受信席の裏で、湾岸の図を三枚並べていた。海図と、河口の測量図と、潮位の表になる。
「七月十三日は大潮です。干潮が十一時十二分、満潮が十六時二十分」
「今は」
「十四時二分。中間になります。ここからの二時間が、一番速く上がります」
「速さは」
「一時間で四十センチ。干潟は平らなので、四十センチ上がると、水際が二百メートル動きます」
澪は表を三枚とも机へ並べ直した。並べる順が毎回同じで、一番下が海図になる。海図を下に敷かないと、上の二枚が机の傷で破れる。三年、そう置いている。
久遠寺修司が掲示板の前から振り向いた。未着累計の欄には、一と書いてある。三月の終わりから動いていない。
「歩いて戻れるか」
「戻れません。今からでは、水路を二本渡ることになります」
澪は言ってから、図の縁を指で押さえた。押さえたのは、線を引く前の癖になる。
火群迅は自販機の前にいた。一番下の段を押す。理由を言ったことがない。缶を取って、指の腹で口を一度拭いてから開ける。
覚知の音が鳴った。鳴った音の下で、寺尾が布の下の椀を五つとも棚へ上げた。
尾花の席で、四つ目の枠が光った。
枠は横に八つ並んでいる。左から順に光る仕組みではない。空いているところへ入る。だから、どこが光るかは掛けた側では決まらない。
尾花の目は、左端から右端まで一度で通る。三年、そのやり方を変えていない。数えるのではなく、光っていない場所を見る。光っている数より、残っている数の方が要る。
尾花は二本目を取ったまま、三本目を保留にしていた。保留にすると、掛けた側からは何も聞こえない。切れているのと区別が付かない。
四本目も保留になった。五本目が光ったところで、光っていない枠は三つになる。
保留にすると、掛けた側では音が消える。呼び出しの音も、話し中の音も鳴らない。ただ黙る。黙ったまま繋がっている状態を、掛けた人は知らない。
知らないので、切って掛け直す人がいる。掛け直すと、また列の後ろへ回る。尾花は三年、その仕組みを一度も市民へ説明したことがない。説明する時間があれば、次の一本を取る。
梅木が地下三層から上がってきた。手に、ウイングの脚の砂除けを持っている。
「宮ヶ瀬さん。ウイングの左脚、砂が入ります。海側は毎回です」
「入ります。砂の入らない脚は、まだ作れていません」
宮ヶ瀬佳代は逆から言う。出来ていることを先に言わない。
佐波悠が、その横を通った。通りながら、受信席の枠を見る。五つ光っている。
三年で、見たことのない数だった。
佐波は工具箱を提げたまま、そこで足を止めた。止めてから、数え直した。二度数えても五つになる。
残りの三つのうち、二つはこれから隊が使う。使えば、街に残るのは一つだけになる。
佐波は、その計算を口に出さなかった。出さずに、地下三層へ下りた。下りる階段の途中で、上の枠がもう一度光ったのが分かった。音では分からない。廊下の壁の色が、一瞬だけ変わる。
澪が河口の測量図を机の中央へ寄せた。寄せてから、沖の州の輪郭に指を置いた。
「湾岸四丁目、河口の干潟。沖の州に十四名。通報者は小学四年、同じ場所です」
「州の高さは」
「基準面から一メートル二十。今の潮位が八十センチ。差が四十しかありません」
「一時間で」
「消えます。十五時前後に、州は水の下になります」
「渡る道は」
「二本の水路があります。深いところで一メートル六十。子どもの背より上になります」
久遠寺は短い質問しかしない。三年、感想を言ったことがない。
「アンサー」
> ── はい。
「河口の州の形を」
> ── 長さ百八十メートル、幅四十メートル。中央が高くなっています。……去年の測量から更新されていません。台風のあとの形は、記録にありません。
「船は」
> ── 漁協の船が二隻あります。喫水が合いません。州の手前で止まります。
「手前から先は」
> ── 歩くことになります。船から水路までが四十メートル、水路の幅が十四メートルです。
「呼びますか」
> ── 漁協へは、市の防災無線から入っています。二隻とも、既に出ています。……到着の時刻は、分かりません。
「歩いて入れますか」
> ── 入れます。出る時は入れません。潮が上がる側からは戻れません。
アンサーは、分からないことを分からないと言う。三年、そこだけは変わらない。
尾花が三本目を取った。取るまでに、三分四十秒あった。
三分四十秒の間、掛けた人は何も聞いていない。切らずに待っていた。切らなかったのは、切ったら最初からになると知っていたからではない。ただ、切れなかっただけになる。
「はい、鳴瀬市消防指令センターです。同じ干潟ですね。隊が向かっています。岸から、水へ入らないでください」
置いてから、四本目を取る。四本目も同じ干潟だった。掛けているのは、州にいる十四人の家族になる。
同じ場所から五本掛かってくると、五本とも取る。同じ内容だと分かっていても取る。取らないと、その中の一本が別の用件だった時に落ちる。
三年で、その一本が実際にあったのは二度になる。二度とも、四本目より後ろだった。
一度目は火で、二度目は倒れた人になる。同じ場所から続けて掛かってくる日に、全く別の一本が混ざる。混ざったものを見分ける方法は無い。取るしかない。
「はい、鳴瀬市消防指令センターです。お子さんは、砂の高いところにおられます。岸で待っていてください」
置いてから、保留の時間を用紙へ書いた。三分四十秒。三年で、一番長い数字になる。
書いた数字に、線は引かない。
澪が図の縁から指を離した。
「座標、出た」
*
地下二層のポールを、迅が最初に下りた。二段飛ばしで踊り場を抜けて、下りきる前に走りはじめる。アンサーは一段ずつ下りる。三年、この対比が変わらない。
「発進」
合図は整備班が出す。六人ではない。
湾岸四丁目に着いたのは、十四時十六分になる。所要は十四分だった。
河口の防潮堤の上に、人が二十人近く出ていた。州にいる十四人の家族と、通り掛かった人になる。
堤の上からは、州が見える。見えるのに、行けない。
家族の何人かは、堤の階段を下りかけていた。下りた先に砂があって、その砂の上を歩けば州まで行ける。行けるように見える。
実際に歩けるのは、あと十分になる。その十分で行って戻ることは出来ない。
迅が階段の下に立った。立って、そこから動かなかった。動かないものが一つあると、その先へは行きにくくなる。誰も、下りるなとは言わなかった。
下りかけていた父親のうち一人が、途中の段で止まった。止まってから、後ろの人にも止まるよう手で合図する。合図の形は誰にも教わっていない。
三段の高さで、堤の上と下が分かれた。分かれたまま、誰も下りてこなかった。下りてこないことは、迅の側からは背中でしか分からない。
白い砂の帯が、水の中に浮いている。その帯の真ん中に、人が寄って立っていた。
十四人が、真ん中に固まっていた。小さい子が内側にいる。誰かが、そうさせた。
森田拓が、その内側の子の一人に手を掛けていた。小学四年になる。三年前は、川の中洲にいた。
携帯電話は、まだ耳に当てている。切っていない。切らないでとは言われなかった。それでも耳から離さずにいる。
十四人のうち、九人が同じ町内の三家族になる。残りが、堤の向こうの団地から来た年寄り二人と、その孫が二人。拓は、そのどちらでもない。一人で来ている。
貝を掘りに来る場所ではない。潮が引くと、州の東の縁に木片や瓶が寄る。拓は、それを拾いに来ていた。
拾ったものは、袋に入れて堤の上のごみ箱へ入れる。三年前から、月に二度か三度そうしている。誰にも言っていない。今日も言わなかった。
袋は州の上に置いたままになった。取りに戻ろうとして、拓は一度だけ振り返る。振り返って、そのまま前を向いた。
迅が堤を下りた。下りた先は、まだ砂が出ている。歩ける。歩けるのは、あと十分もない。
「水路は二本。手前が一メートル、奥が一メートル六十です」
澪が堤の上からそう言った。言ってから、ソナーを構える。撃つ前に必ず人数を言う。
「十四名。州に十四。水路に零。撃てる」
撃った。低い音が水の中を通っていく。通った音が、砂の底の形を返してきた。
「奥の水路が、去年より広いです。八メートルありました。今は十四です」
広がった分だけ、索が要る。
図の上では八メートルになっている。図は去年の測量になる。去年の秋に台風が二つ来て、その後は誰も測っていない。
六メートル増えたことを、この日まで誰も知らなかった。知らないまま、人が入っていた。
「上、任せろ。索は四本。繋いで五十六です」
蒼汰が四本を繋いだ。繋いでから、一本の端を堤の階段の手すりへ取る。取ってから、二重に回す。
「重装 ── 換装!」
肩と脚が厚くなった。厚くなった分だけ、動きが遅い。
> ── 回線、残り 三本。
蒼汰は遅くなった体で、水路の手前まで歩いた。歩いてから、そこに立った。立ったまま、索の反対の端を投げる。
投げた索が、州の縁の流木に掛かった。掛けてから、蒼汰は自分の腰へ回して締める。
人の体が、杭になった。砂に打った杭は効かず、効かない場所では重いものを置くしかない。置けるものが、この日は人しかなかった。
「重装 ── 換装!」
ひかりも厚くなった。厚くなってから、索を伝って水路へ入る。
> ── 回線、残り 一本。
残った一本は、市の側の回線になる。誰かが掛けてくれば、そこへ入る。
尾花の席では、五つ目がまだ保留のままになっている。
ひかりは水路の中で立った。胸まで水が来ている。重装の重さで、流されない。
「渡ってもらえますか。索を掴まずに、私の肩に手を置いてください」
一度返してから、頼む型で続けた。索を掴ませると、掴んだ人が水路の中で止まる。止まると、後ろが詰まる。
最初に渡ったのは、六歳くらいの子だった。ひかりの肩に手を置いて、そのまま三歩。三歩で向こうの砂に着く。
二人目、三人目と続いた。四人目のところで、水が肩まで来た。
肩まで来ると、渡る人の足が浮く。浮くと、ひかりの肩に置いた手だけが体を止める。止める力は、置いた側にはない。置かれた側にある。
だから、ひかりは動かない。動くと、置いた手が滑る。
五人目の子が、置く前に一度手を引っ込めた。怖がったのではない。ひかりの肩が、思っていたより高かった。
「低くします。もう一度、置いてもらえますか」
ひかりは膝を折った。折ると、自分の顎が水に入る。入ったまま、七つ数える間だけ止まっていた。
寺尾がハンマーを担いで、水路の岸へ回った。回ってから、足で三か所を踏む。
「まあ待て。ここは砂だ。柱が効かん。二歩戻る」
二文で言って、寺尾は二歩戻った場所に柱を三本打ち込んだ。三本を縦に並べて、頭を水路の側へ倒す。
「渡りきった者が、掴む場所を作る」
打ち込んだ柱は、抜かない。街に一つ増える。
迅は州の側にいた。歩いて渡ってきている。渡る時、一度も止まらなかった。
止まらずに渡って、州の縁に立った。立った場所が、一番低いところになる。
水は、そこから来る。
「トリアージ」
迅が左手首の蓋を跳ね上げた。ブレスが色を出す。
> 判定 ── 黒。要救助者、内部に確認できません。
「急報 ── 出場!」
> サイレン ── 起動。〈火群 迅〉。応答、確認。
> サイレン ── 起動。〈逢坂 澪〉〈灰谷 蒼汰〉〈寺尾 剛〉〈七尾 ひかり〉。応答、確認。
迅は右手を耳の高さへ上げた。掌を外へ向ける。四人が続けた。
州の上と、水路の中と、堤の上に分かれている。三か所で、同じ高さに上がった。
> 水を持ってく、火の現場 ─── サイレンレッド!
> 声を持ってく、知の現場 ─── サイレンブルー!
> 綱を持ってく、高の現場 ─── サイレンイエロー!
> 梁を持ってく、圧の現場 ─── サイレングリーン!
> 息を持ってく、生の現場 ─── サイレンピンク!
>
> 特別災害対策機構、第七支部 ──
> 呼ばれたら、鳴らして、行く!
> 急報戦隊、サイレンジャー!
声は水の上を渡って、防潮堤に当たって返ってきた。返った声を、州の十四人が聞いた。
> ── 回線、残り 零。
禍体は、沖の側から立った。
水の形をしていない。潮が同じ向きへ寄せ続けて、寄せたまま形になっている。速さを持たない。ただ、退かない。
音は、水が砂を舐める音だった。一度ずつではなく、州の周りぜんぶが同じ拍で鳴る。
迅がギアの柄を回した。噛む音が、水の音の下から出てくる。
「筒先!」
水を出した。出した水は、潮へは当てない。州の低い縁へ当てて、砂を寄せる。
寄せた砂が、縁を五センチ高くした。五センチで、二分稼げる。二分は、二人分になる。
二分の間に、五人目から九人目までが渡った。
禍体が、州の縁へ寄った。寄った先に、迅が立っている。
殴られた。二度、三度と続けて、同じ肩に来る。当たる音が、水の音の下で鈍く鳴る。
迅は引かなかった。位置を変えなかった。変えないまま、後ろで十人目が渡っている。
蒼汰は水路の手前で、腰に索を回したまま動かない。重装の脚が、砂へ十センチ沈んでいる。沈んだ分だけ、抜けなくなっている。
「上、任せろ。索は張っています。まだ持ちます」
言ったのは、誰に向けたのでもない。堤の上まで届いた。
十一人目、十二人目。十三人目は、七十を越えた人だった。ひかりの肩に手を置いて、三歩のところで一度止まる。
「止まって大丈夫です。息を、七つ分だけ吐いてもらえますか」
ひかりは数えた。七つで戻る。七つの間、ひかりは動かなかった。
十三人目が渡りきった。
最後が、森田拓になる。十四人目を最後にしたのは、誰の指示でもない。
拓は渡る前に、州の上を一度見た。誰も残っていないことを、自分の目で確かめている。確かめるのに、六秒掛かった。
確かめてから、ひかりの肩に手を置いた。
斬った回数と、助けた回数を数える。ひかりはこの日、一度も斬らずに十四人を渡した。
迅が禍体の腹へ入った。四度目を受けてから、初めて足を出した。出した足の下で、砂が二十センチ沈む。沈んだまま、抜かずに踏み込んだ。
「サイレンアックス ── 急救斬ッ!」
刃が、寄せる潮の向きを横から断った。断たれた先で、水が同じ向きへ寄せられなくなる。
潮は、ただの潮になって州の周りを回った。回った先で、州がまた見える高さになる。
蒼汰が索を解いた。解いてから、四本分を手繰る。手繰る途中で、重装が落ちた。
> ── 回線、残り 二本。
四本とも巻き取りへ収める。収めてから、端を指で一度送る。塩が付いている。三本目だけ、指の腹に残った。
*
十四人は、防潮堤の内側の平らな場所に集められていた。
家族が下りてきて、それぞれの子を抱えている。抱えられていない子が二人いた。年寄りと一緒に来ていた子で、その年寄りはまだ堤の上にいる。
森田拓は、抱えられなかった。母親が来ていない。仕事の日になる。
拓は、携帯電話をまだ持っていた。切れている。掛けてから、二十分近く経っている。
「切ってもいいですか」
誰にも向けていない。それでも、ひかりが返した。
「切っていただいて大丈夫です。もう、こちらから掛けられますので」
拓は切った。切ってから、携帯電話を下ろすところで、一度止まった。
止まった高さが、耳の高さになる。掌が、外を向いていた。持っていた携帯電話は、その形の内側にある。持ったままなので、掌は完全には開いていない。
誰も教えていない。この子は、三年前に一度、毛布の下から同じ形を見ている。
見たことを、覚えているかどうかは分からない。訊けば答えるかも知れない。誰も訊かなかった。
拓の周りに、渡り終えた子が三人集まっていた。三人とも、拓の手の形を見ている。見て、そのうちの一人が同じ形をつくった。高さが合っていない。耳より下で止まっている。もう一人が、それを見てつくった。二人目の方が高い。三人目はつくらずに、二人を見ていた。
拓は直さなかった。直す言葉を持っていない。持っていないまま、自分の手を少し下げた。
堤の東の端に、人が立っていた。
七月の午後で、日が強い。日陰は堤の内側にしかない。その人は、日の当たる側に立っている。
立っているのは〈自力〉になる。
〈自力〉は、水路の方を見ていた。見てから、州の方を見る。
「歩いて渡れる」
声はそう言った。誰にも向けていない。
「今からでも、渡れる。潮は、まだ膝までしか来ていない」
誰も言い返さなかった。膝までしか来ていないのは、〈自力〉の立っている場所の話になる。
十三人目だった年寄りが、堤の上から下りてきた。下りてきて、〈自力〉の横を通る。
通る時、手を差し出した。段を下りる時に、誰かが自然にやる形になる。
〈自力〉は、その手を取らない。取らずに、自分で段を下りた。
下りてから、日の当たる側へ歩いていく。
年寄りは差し出した手をそのまま下ろして、内側の平らな場所へ入った。誰にも何も言わない。
沖の潮が、そこで盛り上がった。
盛り上がったのは、河口の分だけではない。川から出てくる水と、海から入ってくる水が、同じ場所で押し合っている。
押し合った水が、防潮堤の高さを越えて、そこで立った。
立った高さから、州は見えなくなった。十四人が三十分前まで立っていた砂が、そこにあることを示すものは何も無い。
*
地下三層で宮ヶ瀬が盤を叩いた。
「干潟には立てません。底が抜けます。防潮堤の、コンクリートの打ってある側だけ使えます」
「発進」
合図は整備班が出す。
サイレンファイヤーが防潮堤の上で立った。レスキューが右へ、クレーンが左へ、メディックが右の脚へ、ウイングが背へ回る。
立つ時、四本の脚が堤の幅の内側へ収まった。収まった分だけ、干潟の側へ荷重が行かない。
> ── 回線、残り 一本。
堤の内側から、十四人が見上げていた。家族が二十人。通り掛かりの人が、その後ろにいる。
見上げているのは、堤の内側の平らな場所と、堤の階段の途中からになる。
サイレンオーの左手は、握ったままだった。開かない。その握った左腕を、迅は潮の上へ寝かせた。
寝かせた腕が、水面から二メートルの高さで、州から堤まで一本渡った。
渡った腕の下を、潮が通っていく。通っても、腕は動かない。
もう誰も、そこにはいない。十四人は全員、内側にいる。
水の柱は、寝かせた腕の外側から回り込もうとした。回り込む先には、防潮堤の切れ目がある。
右腕が動いた。開く方の掌が、柱の腹を横から押した。押した場所で、水が薄くなる。
薄くなった中から、州の芯が出てきた。去年の台風で運ばれた砂が、そのまま固まっている。図には線が入っていない。
「サイレンオー ── 全消斬ッ!」
押し出した掌が、芯を横から抜いた。抜けた先で、柱が形を保てなくなる。
水は、河口へ落ちた。落ちた水が、また潮になる。
落ちる音のあと、堤の内側から声が上がった。上げたのは、抱えられている子と、抱えている側の両方になる。声は堤に当たって、海の方へは行かなかった。行かなかった分だけ、内側で大きくなった。
*
地下三層で、梅木がウイングの左脚の砂除けを外していた。砂は乾いていない。塩が混じっている。
「今日は海です。乾かしてから落とします」
「乾かします。海の砂が付かない脚は、まだ作れていません」
宮ヶ瀬は工具を置いた。置いてから、それ以上は足さなかった。
佐波悠が、受信席の壁の前に立っていた。
壁には紙が一枚貼ってある。名乗りの紙になる。七行分の枠が引いてあって、五行に字が入っていた。
佐波は三年、その紙の前を通っている。通る度に見ている。
紙は上から貼り替えられていない。三年前に貼ったものが、そのまま日に焼けている。焼けているので、字の入っている五行のところだけ色が濃い。
二行の余白は、白いまま薄くなっていた。何も書いていない紙は、書いてある紙より速く焼ける。
「あの紙、あと二行あります」
誰にも向けていない。言ってから、佐波は自分で少し驚いた顔をした。三年、言わなかったことになる。
言ってはいけないことではない。誰も禁じていない。ただ、誰も言わなかった。
久遠寺修司が、その後ろにいた。掲示板を見ていて、振り向かなかった。
「見えるか」
「見えます」
それ以上は訊かなかった。
宮ヶ瀬が地下から上がってきて、紙の前で止まった。止まってから、二行の余白を見た。
「埋める紙は、まだ作れていません」
言い方が、いつもと同じになっている。作れなかったものを一つ言う。それだけになる。
誰も、その先を訊かなかった。
訊けば、宮ヶ瀬は答えたかも知れない。答えるとしても、作れていないものの話になる。作れていないものの話は、いつ作れるかの話にならない。
佐波は工具箱を持ち直して、地下三層へ下りた。下りる途中で、一度だけ上を見た。紙は、廊下の角を曲がると見えなくなる。
三階の食堂で、寺尾が湯を沸かした。七月の椀は、五丁分になる。
棚に上げた五つを、また下ろす。下ろしてから、六つ目の椀の場所を、指で一度撫でた。撫でただけで、下ろさなかった。
棚には、椀が七つある。使うのは五つになる。残りの二つは、割れた時の替えとして置いてある。三年、割れていない。
替えのつもりで買ったものが、三年使われずに棚にある。それを捨てる理由は無い。置いておく理由も、そろそろ薄くなっている。
尾花律子は受信席に残った。用紙を綴じて、次の一枚を出す。この日の保留は、三分四十秒になる。件数は五件だった。
用紙は五枚とも同じ干潟で、要救助者の欄にはどれも十四と書いてある。重ねて綴じると、同じ数字が五つ縦に並ぶ。並んだ形は、五人が別々に見たものが同じだったという記録になる。
尾花は五枚を重ねてから、一番上の一枚だけを裏返した。裏には何も書いていない。書く欄が、この用紙には無い。
三年で、一番多い。三年で、一番長い。
その二つを並べて書く欄は、用紙の下にある。下にあるので、綴じると次の一枚の裏になる。読み返す者はいない。それでも書く。
第一声の欄には、潮が来る、と書いてある。漢字のままにした。この子は、何が来るかを名指し出来ている。
名前の欄には、森田拓、と書いてある。二度目になる。一度目は、掛けたのがこの子ではなかった。
六人は、この子に礼を言わない。
> 【第七支部 出場記録】
> 臨場 ── 十四時十六分。所要 ── 十四分。
> 保留 ── 五件。最長 ── 三分四十秒。
> 未着 累計 ── 一。
> 損壊 ── 湾岸四丁目 河口 州 中央部 崩落。防潮堤 天端 一部 破損。
> 階段 手すり 一箇所 変形。漁協 係留索 二本 切断。
> 救助 ── 十四名。搬送 ── なし。避難 ── なし。
> 仮設 ── 支柱 三本 設置。撤去 ── 未定。
> 市内 潮位で立入不能となる干潟のうち 標識の無いもの 七か所 ── 設置予定 記録なし。
> 受信 ── 同時保留 五件。回線 八本 全塞 二分十二秒。
> 本件、処理 ── 完了。
> ── 入電。




