第064話 上がれない
> 【第七支部 覚知記録】
> 覚知 ── 七月六日 十七時五十分。
> 入電 ── 携帯電話。発信地 ── 山側 笹倉。
> 第一声 ──「上がれない」
> 出場 ── 第七支部 全隊。
「上がれない」
尾花律子は用紙を引き寄せた。分まで書いて、秒は書かない。
「はい、鳴瀬市消防指令センターです。今おられる場所を教えてください」
「山側の笹倉です。ため池の、上の畑」
「お名前を教えてください」
「藤代です。藤代みどり」
「上がれないのは、どなたですか」
「池の中に、二人います。岩瀬さんと、東さん」
尾花は用紙の欄へ、二、と書いた。書いてから、丸を付けない。
「藤代さんが今、何処に立っているか教えてください」
「畑です。柵の外側。池からは、十メートルくらい」
「そこから動かないでください。池へは入らないでください」
「入れません。あの縁、掴めるところが無いんです」
「二人とも、顔が水の上に出ているか教えてください」
「出てます。岩瀬さんは縁に手を掛けてます。掛けてるだけで、上がれてません」
尾花は右の欄へ、山側笹倉、農業用ため池、要救助者二名、護岸滑走、と書いた。四つ並べてから、通報者 畑上残留、と足した。
「近くに浮くものがあるか、教えてください」
「無いです。何も無いです」
「では、投げないでください。声だけ掛けてください」
「何て言えば」
「動かないで、と。それから、名前を呼んでください」
「名前ですか」
「はい。名前を呼ばれると、人は返事をします。返事があるうちは、こちらも分かります」
尾花はそこで秒を書いた。書いてから、続けた。
「隊が出ます。着くまで、その場所で待っていてください」
「待ちます」
尾花は枠を見た。八つのうち、光っているのは一つになる。
二人が池の中にいて、光っている枠は一つだった。二本目が光るのは、それから一分二十秒後になる。
*
七月六日の三階は、梅雨が明けたばかりだった。窓を開けると、山側から風が来る。三日前まで、その風は湿っていた。
屋上の訓練塔から、縄の擦れる音が落ちてくる。夕方の当直に入る前、誰かが必ず上がる。この日は蒼汰だった。
上がるのは十五分と決まっている。決めたのは蒼汰ではない。三年前に上げてもらった時、上の人が十五分で下ろした。その長さを、そのまま使っている。
武藤とうふ店は七時十分に置いていく。七月は五丁になる。六月から一丁増えた。
「まあ待て。七月は五丁だ。八月がいくつになるかは、八月に分かる」
寺尾剛が二文で言って、棚から椀を五つ下ろした。三年、同じことを月の頭に言っている。誰も先に言わない。言うと、寺尾が言う場所が無くなる。
灰谷蒼汰が訓練塔から下りてきた。下りてから、索を膝の上へ広げて、端から端まで指で送る。三年、出る前に必ず一度やる。
「索は四本、乾いています。梅雨が明けたので、全部乾きました」
言ってから、四本目を出して、結び目を一度解いた。解いてから、また同じように結び直す。乾いていても、結び直す。
七尾ひかりは酸素の残りを見てから、七つ数えた。七つで戻る。数え終わってから、毛布を四枚に戻した。梅雨の間、五枚にしていた分を一枚下ろす。
下ろしてから、また上げた。七月でも、水から上げた人は冷える。池の水は、川より冷たい。日が当たるのは表の三十センチだけになる。
その下は、季節が来ていない。七月の池の底には、まだ五月の水がある。
逢坂澪は受信席の裏で、山側の図を出していた。市の農政課から借りた写しで、ため池が四十四か所、点で打ってある。
「笹倉のため池は、深いところで三メートル二十です」
「縁は」
「三面がコンクリートです。勾配は三十度。残る一面が土になります」
久遠寺修司が掲示板の前から振り向いた。未着累計の欄には、一と書いてある。三月の終わりから動いていない。
「梯子は」
「ありません。四十四か所のうち、付いているのは十か所です」
澪は言ってから、図の縁を指で押さえた。押さえたのは、線を引く前の癖になる。
火群迅は自販機の前にいた。一番下の段を押す。理由を言ったことがない。缶を取って、指の腹で口を一度拭いてから開ける。
覚知の音が鳴った。鳴った音の下で、寺尾が下ろした椀を五つとも棚へ戻した。戻す速さが、下ろす速さより速い。
戸倉が地下三層から上がってきた。手に、ファイヤーの脚の底の板を一枚持っている。
「宮ヶ瀬さん。ファイヤーの左前、底板が薄くなってます。三日、水に浸けた分です」
「薄くなりました。水に浸けても減らない板は、まだ作れていません」
宮ヶ瀬佳代は逆から言う。出来ていることを先に言わない。
「替えは二枚あります。二枚とも、今日は使いません。山は土です」
言ってから、宮ヶ瀬は板を受け取って、縁を指で撫でた。撫でた指に、赤い粉が付く。錆ではない。三日目の川の泥になる。
泥は落とせば落ちる。落とさずに置いてあるのは、何処まで浸かったかが縁の色で分かるからになる。宮ヶ瀬はその高さを、指の腹で測ってから板を置いた。
須永が中継の表を見ていた。山側は、市内で一番電波の弱い場所になる。
「笹倉は届きます。峰谷は、まだ仮設です」
言ってから、須永は表の端を指で押さえた。押さえた場所には、雷の日の書き込みが残っている。消していない。
澪が山側の図を机へ広げた。広げてから、笹倉の池の点に指を置いた。
「山側笹倉、農業用ため池。要救助者二名。護岸に手を掛けたまま上がれていません」
「距離は」
「支部から九・四キロ。林道へ入る手前で一車線になります」
「時間は」
「十三分です。それより短くはなりません」
「水の温度は」
「表が二十四度。一メートル下は十八度になります」
久遠寺は短い質問しかしない。三年、感想を言ったことがない。
「アンサー」
> ── はい。
「笹倉の池の護岸を」
> ── 三面がコンクリート、一面が土です。コンクリート面は昭和五十年代の施工で、表面が藻で覆われています。……摩擦の記録はありません。
「掴めますか」
> ── 掴める形がありません。縁は丸く落としてあります。手が滑る形状になります。
「土の一面は」
> ── 北側です。斜面の上に竹が入っています。足場としての記録は、ありません。
「柵は」
> ── 三面にあります。北の土の面だけ、途切れています。……途切れている理由は、記録にありません。
アンサーは、分からないことを分からないと言う。三年、そこだけは変わらない。
尾花の席で、二本目が光った。同じ笹倉の、別の番号になる。取るまでに、一分二十秒あった。
「はい、鳴瀬市消防指令センターです。……はい、同じ池ですね。隊が向かっています。池の縁には近付かないでください。斜面が滑ります」
置いてから、保留の時間を用紙へ書いた。書いた数字に、線は引かない。
澪が図の縁から指を離した。
「座標、出た」
*
地下二層のポールを、迅が最初に下りた。二段飛ばしで踊り場を抜けて、下りきる前に走りはじめる。アンサーは一段ずつ下りる。三年、この対比が変わらない。
「発進」
合図は整備班が出す。六人ではない。
山側笹倉に着いたのは、十八時三分になる。所要は十三分だった。
七月の日は長い。まだ明るい。池の面が、西の空を映して白くなっている。
白い面の一角だけ、色が違った。二人がいる場所になる。
池は思ったより広くない。端から端まで、五十メートルもない。それでも、縁に手が掛からなければ、五十センチ先の岸へ上がれなかった。
藤代みどりは畑の縁に立っていた。四十五になる。柵の外側から、十メートル下がったところで動いていない。携帯電話は右手に持ったままで、耳から離してある。離してあるのは、両手を使って呼んでいたからになる。
「岩瀬さん、岩瀬さん、って呼んでました。返事は、さっきまでありました」
言ってから、藤代は指を差した。差した先に、二人がいる。
岩瀬タツは七十二になる。縁に手を掛けていた。掛けているだけで、体は上がっていない。掴む場所が無いので、掌を面に押し付けている。
東保は五十八になる。岩瀬より一メートル沖にいた。畑から下りて、岩瀬の腕を掴もうとして、そこで滑っている。
二人になっている。誰も、そのことを口に出さなかった。口に出しても、増えた一人は減らない。
東は畑から下りる時、長靴を脱いでいた。脱いだ長靴が、柵の内側に揃えて置いてある。揃えてから下りている。
迅が斜面へ足を掛けた。掛けた靴の底が、そこで五センチ滑る。
滑ってから、迅は膝を突いた。突いた膝が止まる。止まった場所から、動かなかった。
滑る面の上に、動かないものが一つ出来る。
止まったのは、膝の下に一か所だけ、藻の切れている場所があったからになる。切れているのは、去年の秋に誰かが草を刈った跡だった。刈ったのは岩瀬タツになる。誰もそれを知らない。
藤代が、その方を見た。下から見上げる形になる。迅は池の方を向いたまま、一度も振り返らなかった。
蒼汰が索を北側の竹へ取った。取ってから、二重に回す。
「上、任せろ。竹は六本です。三本ずつ束ねます」
束ねた根元へ索を回して、斜面の上から下へ垂らした。垂らした索は、水面まで届いた。届いた先で、水に浮いている。浮くのは、乾いているからになる。湿った索なら沈んでいた。梅雨が明けて三日目の索だった。
「掴めなくていいです。腕を通してもらえますか」
ひかりが索の途中に輪を作って、それを先に落とした。輪は、掴まなくても腕が通る。
東保が輪へ腕を通した。通してから、岩瀬の方へ手を伸ばす。
「伸ばさないでください。先に、上がってもらえますか」
ひかりは一度返してから、頼む型で続けた。東は手を戻した。
寺尾がハンマーを担いで、斜面の横へ回った。回ってから、足で三か所を踏む。
「まあ待て。ここは滑る。上から二本、段を作る」
二文で言って、寺尾は斜面に柱を二本打ち込んだ。二本の頭を横に揃えて、面から二十センチ出す。出た二十センチが、足の掛かる段になる。
打ち込んだ柱は、抜かない。街に一つ増える。池の側からは見えない。上がってくる者の足にだけ当たる高さになる。
澪が堤の上からソナーを構えた。撃つ前に必ず人数を言う。
「二名。水中に二。底に零。撃てる」
撃った。低い音が水の中を通っていく。通った音が、底の形を返してきた。
「底は三メートル二十。中央だけ、四メートル五十あります。掘ってあります」
掘ってある場所は、図に無い。誰かが去年か一昨年に掘っている。記録は残っていない。
掘った理由は分かる。水を溜めるためになる。溜めた分だけ、落ちた人の足が底に届かなくなった。
岩瀬タツの掌が、そこで面から離れた。
「トリアージ」
迅が左手首の蓋を跳ね上げた。ブレスが色を出す。
> 判定 ── 黒。要救助者、内部に確認できません。
「急報 ── 出場!」
> サイレン ── 起動。〈火群 迅〉。応答、確認。
> サイレン ── 起動。〈逢坂 澪〉〈灰谷 蒼汰〉〈寺尾 剛〉〈七尾 ひかり〉。応答、確認。
迅は右手を耳の高さへ上げた。掌を外へ向ける。四人が続けた。
膝を突いたまま上げたので、上げた手だけが斜面より高い。
> 水を持ってく、火の現場 ─── サイレンレッド!
> 声を持ってく、知の現場 ─── サイレンブルー!
> 綱を持ってく、高の現場 ─── サイレンイエロー!
> 梁を持ってく、圧の現場 ─── サイレングリーン!
> 息を持ってく、生の現場 ─── サイレンピンク!
>
> 特別災害対策機構、第七支部 ──
> 呼ばれたら、鳴らして、行く!
> 急報戦隊、サイレンジャー!
声は谷の側へ抜けて、竹の林で止まる。止まった分だけ、池の面の上には残った。
> ── 回線、残り 二本。
禍体は、池の中央の掘ってある場所から立った。
水の形をしていない。藻が寄って、寄ったまま形になっている。触れたところから滑る。滑る面を、そのまま増やしていく。
音は、水が面を舐める音だった。一度ずつではなく、池の周りぜんぶが同じ拍で鳴る。
迅がギアの柄を回した。噛む音が、水の音の下から出てくる。
「鉤!」
引く形にした。引く先は禍体ではなく、岩瀬の胴の下になる。
鉤が面を滑って、岩瀬の下へ入った。入れてから、寺尾の作った段の方へ引く。引く速さは、歩く速さより遅い。速いと、掴んでいる方の手が離れる。
段まで来たところで、ひかりが手を入れた。脇の下へ手を入れて、頭の側を先に出す。
「上げますね。少しだけ、力を抜いてもらえますか」
上げてから、横向きに寝かせた。仰向けにはしない。
岩瀬は咳をした。咳をしてから、水を吐く。唇の色が戻るまでに、時間が掛かった。指の先はまだ白い。震えは、上がってから強くなった。
東保も上がった。上がってから、自分で立とうとして、一度膝を突いた。突いた膝が、そこで震える。水の中にいた時間は、岩瀬より短い。短くても、震えは同じように来た。
「岩瀬さん」
東がそう言った。返事はあった。
斬った回数と、助けた回数を数える。ひかりはこの日、竹を二本斬って、二人を上げた。
澪が二度目のソナーを構えた。
「零。水中に零。底に零。撃てる」
撃った。音が池の底を通って、掘ってある窪みの縁で返ってきた。返った音の形が、行きと違う。行きは一つで、帰りは二つに割れている。
「窪みの縁が、変わっています。さっきより広いです」
蒼汰が索を手繰りはじめた。手繰りながら、竹の束の結びを解く。
「上、任せろ。六本とも折れていません」
解いた索を巻き取りへ収める。収めてから、端を指で一度送る。
迅は膝を突いたまま、斜面を下へ滑った。滑る先が、禍体の腹になる。
「サイレンアックス ── 急救斬ッ!」
刃が、寄った藻の間を横から断った。断たれた先で、藻が藻を掴めなくなる。
藻は、ただの藻になって水に散った。散った先で、池の面がまた白くなる。白い面の下で、藻はまた寄る。次に来る時までに、また滑る面になる。
*
岩瀬タツと東保は、堤の上の平らな場所に寝かせてあった。毛布が四枚のうちの四枚とも出ている。
藤代みどりが、その横にしゃがんでいた。畑から下りてきている。下りてくるまで、十メートルの場所から動かなかった。
「呼んでたら、返事があったんです」
誰にも向けていない。言ってから、続けた。
「返事があったから、まだいるって分かって」
「分かっていたので、こちらも探さずに済みました」
ひかりがそう言った。一度返してから、頼む型で続ける。
「もう少しだけ、名前を呼んでもらえますか」
藤代は頷いた。頷いてから、岩瀬の名を呼んだ。呼び方が、電話の途中と同じになっている。
堤の東の端に、傘を差した人が立っていた。
七月の夕方で、雨は降っていない。降っていないのに、その人は傘を開いている。
差しているのは〈遠慮〉になる。
東保が、そこへ歩いていった。歩いたのは、堤の道がそこしか無かったからになる。
傘の下へ入った。入ってから、東は頭を下げた。
「すみません」
声は返らなかった。〈遠慮〉は傘の柄を、東の側へ二センチ寄せただけになる。
寄せた分だけ、自分の肩が外へ出た。出た肩は、濡れない。降っていない。
東は傘の下から出て、また岩瀬の横へ戻った。戻る途中で、一度だけ振り返る。振り返った先には、傘の内側しか見えなかった。差している人の背は、傘に隠れている。
傘は、まだそこに開いていた。
傘の下の地面だけ、色が違った。周りは夕方の露で湿っていて、そこだけ乾いている。
藤代が、その乾いた場所を見た。見てから、岩瀬の毛布の端を直して、また名前を呼んだ。呼ぶ声は、さっきより低い。低くても、返事はあった。
池の水が、そこで盛り上がった。
盛り上がったのは、掘ってある窪みの分になる。図に無い深さに溜まっていたものが、全部そこへ集まっている。
集まった水が、堤の高さを越えて、そこで立った。
*
地下三層で宮ヶ瀬が盤を叩いた。
「池には立てません。底が抜けます。堤の上の、土の締まった側だけ使えます」
「発進」
合図は整備班が出す。
サイレンファイヤーが堤の上で立った。レスキューが右へ、クレーンが左へ、メディックが右の脚へ、ウイングが背へ回る。
立つ時、四本の脚が堤の幅の内側へ収まった。収まった分だけ、池の側へ荷重が行かない。
> ── 回線、残り 一本。
堤の下から、藤代が見上げていた。岩瀬と東は、毛布の中から見ている。三人とも、その場所から動かない。
見上げているのは、畑の縁と、堤の上の平らな場所からになる。
サイレンオーの左手は、握ったままだった。開かない。その握った左腕を、迅は池の縁へ回した。
回した腕が、コンクリートの三面に沿って、水を岸の側へ寄せる。
寄った水が、寺尾の柱の二本の高さまで上がった。上がった分だけ、縁が掴める高さになる。掴める高さは、水が高い時にしか来ない。落ちるのは、たいてい水の低い時になる。
誰も、そこにはもういない。二人とも上がっている。
水の柱は、寄せた腕の外側から回り込もうとした。回り込む先には、藤代の畑がある。
右腕が動いた。開く方の掌が、柱の腹を横から押した。押した場所で、水が薄くなる。
薄くなった中から、底の窪みが出てきた。四メートル五十まで掘ってある穴で、図には線が入っていない。
「サイレンオー ── 全消斬ッ!」
押し出した掌が、窪みの縁を横から抜いた。抜けた先で、柱が形を保てなくなる。
水は、池へ落ちた。落ちた水が、また面になる。
落ちる音のあと、竹の林の中で、鳥が一度だけ鳴いた。鳴いてから、林は元の音に戻る。七月の夕方の、風で葉が擦れる音になる。
*
地下三層で、戸倉がファイヤーの左前の底板を外していた。替えの二枚は、まだ棚にある。
「今日は使いませんでした。山は土でした」
「土でした。土でも減らない板は、まだ作れていません」
宮ヶ瀬は工具を置いて、それ以上は足さなかった。
須永が中継の表へ、笹倉の欄を書き足していた。今日は届いた、と書く。届かなかった日と同じ欄に、同じ字の大きさで並べてある。書き足してから、戸倉に言った。
「あの人、滑ってから、膝を突いて止まりました」
「本人に言え」
「言いません」
それで終わった。須永は表を畳んで、雷の日の書き込みの上へ重ねた。
三階の食堂で、寺尾が湯を沸かした。七月の椀は、五丁分になる。
棚から下ろして、また戻した椀を、もう一度下ろした。下ろす速さは、戻す速さより遅い。急ぐ用が無くなっている。
五つのうち一つに、寺尾は豆腐を余分に入れた。入れた先が誰の椀かは、置いてしまえば分からなくなる。それでも、毎回入れている。
尾花律子は受信席に残った。用紙を綴じて、次の一枚を出す。この日の保留は、一分二十秒になる。件数は一件だった。
第一声の欄には、上がれない、と書いてある。漢字のままにした。この人は、何が起きているかを名指し出来ている。
要救助者の欄には、二、と書いてある。丸は付けていない。一人だったものが二人になった理由を、書く欄が無い。欄が無いので、そこは空いたままになる。
六人は、この人に礼を言わない。
> 【第七支部 出場記録】
> 臨場 ── 十八時三分。所要 ── 十三分。
> 保留 ── 一件。最長 ── 一分二十秒。
> 未着 累計 ── 一。
> 損壊 ── 山側笹倉 ため池 護岸 コンクリート 一部 剥離。底面 窪み 一箇所 崩落。
> 北側斜面 竹 二本 伐採。堤天端 一部 沈下。
> 救助 ── 二名。搬送 ── 二名。避難 ── なし。
> 仮設 ── 支柱 二本 設置。撤去 ── 未定。
> 市内 農業用ため池のうち 昇降用の梯子が無いもの 三十四か所 ── 設置予定 記録なし。
> 本件、処理 ── 完了。
> ── 入電。




