第062話 溺れました
> 【第七支部 覚知記録】
> 覚知 ── 六月二十二日 十六時二十分。
> 入電 ── 携帯電話。発信地 ── 川沿い 四丁目。
> 第一声 ──「溺れました」
> 出場 ── 第七支部 全隊。
「溺れました」
尾花律子は用紙を引き寄せた。分まで書いて、秒は書かない。
「はい、鳴瀬市消防指令センターです。今おられる場所を教えてください」
「川沿い四丁目の、堰のところです。段になってる、あの」
「堰の上ですか、下ですか」
「下です。落ちるとこの、すぐ下」
「あなたは、今何処にいますか」
「上です。土手の、コンクリのとこ」
「そこから動かないでください。絶対に、水へ入らないでください」
尾花はそう言った。言ってから、続けた。
「入ると、二人になります」
「入りません」
「近くに浮くものがあるか、教えてください」
「あります。空のポリタンクが。土手に置いてあるやつ」
「紐が付いていたら、持ったまま投げてください」
「投げます」
尾花は右の欄へ、川沿い四丁目、堰の直下、要救助者一名、水中、と書いた。四つ並べてから、通報者 土手上、と足した。
「お名前を教えてもらえますか」
「荒木です。中学二年です。溺れてるのは、三宅です」
「荒木さん。三宅さんの顔が水の上に出ているか、教えてください」
「出てます。出てるけど、同じところでぐるぐる回ってて、こっちに来られないんです」
尾花はそこで秒を書いた。書いてから、次を訊く順を変えた。
「泳がないで、と。三宅さんに、大きな声で伝えてください」
「泳ぐなって、言うんですか」
「はい。あそこは、泳ぐと戻されます。仰向けで浮いてもらってください」
「わかりました」
「電話は切らないでください。隊はもう出ています。着くまで、その場所で待っていてください」
尾花は枠を見た。八つのうち、光っているのは一つになる。一つで足りている時刻だった。
二つ目が光ったのは、そのすぐあとだった。同じ堰の、反対側の土手からになる。掛けてきたのは、通りかかった車の人だった。
*
六月二十二日の三階は、雨だった。四日目になる。窓を閉めていても、湿った空気が入ってくる。
この日は、飯だった。六人が同じ机に着く日は、月に一度か二度になる。当直の組み方と出場の数で決まるので、決めて作れるものではない。
武藤とうふ店は七時十分に置いていく。六月は四丁になる。武藤は数える時、一丁ずつ声に出す。一、二、三、と来て、四だけ「四つ」と言う。三年、誰も直していない。棚の上の紙は、まだ読めない。四か月目に入った。
寺尾剛が椀を六つ並べた。並べてから、汁を注いでいく。とうふは四丁を六つに分ける。分け方は毎回同じで、迅の椀にだけ、いつも一切れ多い。
六つ並べる時、寺尾は必ず端から二つ目を空けておく。そこに座るのが誰か、決まっているわけではない。決まっていないのに、三年、空けたままにしている。
「まあ待て。豆腐は最後に入れる。先だと崩れる」
二文で言って、寺尾は自分の椀を最後に置いた。
灰谷蒼汰は箸を置いたまま、膝の索を端から端まで指で送っていた。三年、出る前に必ず一度やる。飯の日でも変えない。変えると、変えた日に見落とす。
「索は四本、乾いているのは二本です」
言ってから、乾いていない二本を分けて、下の棚へ入れた。入れてから、乾いた二本を膝の上へ戻す。
七尾ひかりは椀を持ったまま、七つ数えた。七つで戻る。数え終わってから、初めて箸を付けた。
この癖を、誰も理由を訊いたことがない。訊かないまま三年経って、今では六人とも、その七つの間だけ黙る形になっている。黙る側も、いつからそうしているか覚えていない。
逢坂澪は食堂の机に、川沿いの図を広げたままにしていた。四日分の雨量が、右の隅に書き込んである。
「堰の下は、四日で四十センチ上がっています」
「泳げるか」
「泳げます。ただ、堰の直下は、水が下向きに巻きます」
久遠寺修司が箸を止めた。未着累計の欄の一は、この部屋からは見えない。
「巻くと」
「泳ぐほど、戻されます」
澪はそこで、図の縁を指で押さえた。押さえたのは、線を引く前の癖になる。
火群迅は先に食べていた。一番に座って、一番に食べる。理由を言ったことがない。多い一切れも、何も言わずに食べる。
久遠寺が、その椀を一度見た。見ただけで、何も言わなかった。寺尾も気付いていて、三年、分け方を変えない。
覚知の音が鳴ったのは、寺尾が自分の椀に箸を付けた直後だった。
六人が同時に立った。立った時、椀は六つとも、まだ半分残っていた。
速水が受信席から声を上げた。
「川沿い四丁目です。堰です。あの、いつもの、あの段の」
「落差工だ」
「それです。それの、下です」
言ってから、速水は自分の言い方を直そうとして、上手く直せなかった。直せないまま、図をひろげて澪へ渡した。
戸倉が地下三層から上がってきた。手にウイングの尾の部品を持っている。
「宮ヶ瀬さん。ウイングの尾、雨で継ぎ目が滲みてます」
「滲みてます。滲みない継ぎ目は、まだ作れていません」
宮ヶ瀬佳代は逆から言う。出来ていることを先に言わない。
澪が食堂の図をそのまま抱えて、受信席の机へ移した。移してから、堰の線に指を置いた。
「川沿い四丁目、落差工の直下。要救助者一名、中学二年。通報者は土手の上に一名」
「距離は」
「支部から一・二キロ。信号は二つです。堤防の管理道路を使えます」
「入れるか」
「入れます。管理道路の鍵は、市から預かっている分があります」
久遠寺は短い質問しかしない。三年、感想を言ったことがない。
「アンサー」
> ── はい。
「堰の直下の形を」
> ── 段の高さ一メートル六十。下に消力工があります。……水面の下がどうなっているかは、記録にありません。図面は昭和のもので、その後の補修が反映されていません。
「巻く場所は」
> ── 落ち口から下流へ、二メートルの範囲です。その外へ出れば、流れは下流へ向きます。
「出す方向は」
> ── 下流です。上流へは戻れません。
「上から引けますか」
> ── 引けます。ただ、真上から引くと、巻きの中を通ります。……通る間の時間は、記録がありません。
アンサーは、分からないことを分からないと言う。三年、そこだけは変わらない。
尾花の席で、二本目が光ったままになっていた。取るまでに、五十二秒あった。
「はい、鳴瀬市消防指令センターです。……はい、同じ堰ですね。既に隊が向かっています。そちらの土手からは、水へ近付かないでください」
置いてから、保留の時間を用紙へ書いた。書いた数字に、線は引かない。
澪が図の縁から指を離した。
「座標、出た」
*
地下二層のポールを、迅が最初に下りた。二段飛ばしで踊り場を抜けて、下りきる前に走りはじめる。アンサーは一段ずつ下りる。三年、この対比が変わらない。
「発進」
合図は整備班が出す。六人ではない。
川沿い四丁目に着いたのは、十六時二十六分になる。所要は六分だった。
三年で、二番目に短い。短いのは、支部から一・二キロだったことと、探す時間が要らなかったことの二つになる。
探す時間が要らなかった理由は、着いてから分かった。
雨は細い。降っているというより、空気が濡れている。堤防の草は倒れていて、倒れた向きで、四日分の風の向きが分かる。
堰の音は、下から来る。落ちる音ではなく、落ちたあとの音になる。水が水を打って、そこで留まっている音だった。
音は途切れない。途切れないので、近付いても大きくならない。何処まで行けば近いのか、耳では分からなかった。
荒木は土手のコンクリートの上に立っていた。携帯電話を耳に当てたまま、動いていない。動くなと言われた場所に、そのまま足を置いている。靴は片方脱げていて、それも拾いに行かなかった。
ポリタンクは、堰の下に浮いていた。同じ場所を回っている。届いていない。投げた場所からは三メートル足りない。荒木は、それでも二度目を投げなかった。投げるものが、もう無い。
無いまま、その場所に立っている。動くなと言われたのは、水へ入るなという意味だった。荒木はそれを、一歩も動くなという意味で受け取っている。受け取り方が違っていて、結果は同じになった。
三宅は水の上に顔を出していた。仰向けになっている。泳いでいない。
迅が土手の縁で足を止めた。
「浮いてる」
「泳ぐな、って言われたから」
荒木がそう答えた。誰にも向けていない。
その横に、もう一人いた。
傘を持っていない。雨の中で、髪も肩も濡れている。濡れたまま、堰の下だけを見ていた。
十歳になる。日野くるみといった。傘を差していない。片方の手で、堰の下の一点を差している。
差した先に、三宅がいた。
迅が土手を下りた。下りながら、くるみの横を通る。通る時、指の先の向きを見た。見て、そのまま速度を落とさずに下りていった。
差された方向に、探すものが無かったことは、三年で一度も無い。
「そこだ」
「そこ」
くるみは指を下ろさなかった。下ろさないまま、頷いた。
蒼汰が索を二本、堤防の欄干へ取った。取ってから、二重に回す。
「上、任せろ。乾いた方を使います」
ひかりが土手の縁へしゃがんだ。しゃがんでから、荒木の方を見た。
「その電話、まだ繋がっていますか」
「繋がってます」
「切らないで、持っていてもらえますか」
一度返してから、頼む型で続けた。荒木は頷いて、耳へ戻した。
寺尾がハンマーを担いだまま、堤防の斜面を横へ歩いた。歩きながら、足で三か所を踏む。
「まあ待て。ここは崩れる。二つ隣まで行く」
二文で言って、寺尾は下流側の二つ隣で止まった。止まった場所に、柱を一本立てる。
立てた柱に、蒼汰が索を掛けた。掛けた索が、堰の下の巻いている場所の、外側へ落ちた。落ちた先で、水が索を下流へ持っていく。持っていかれる向きが、出したい向きになる。
外側になった。中へは投げない。中へ投げると、投げた側が引かれる。引かれた側は、もう自分では戻れない。
澪がソナーを構えた。撃つ前に必ず人数を言う。
「一名。水中に一。上流は零。撃てる」
撃った。低い音が水の中を通っていく。通った音が、堰の下の底の形を返してきた。
「深さ二メートル四十。落ち口から二メートルの外に、浅い場所があります」
「そこへ出す」
迅の返事は短い。理由は付けなかった。
「トリアージ」
迅が左手首の蓋を跳ね上げた。ブレスが色を出す。
> 判定 ── 黒。要救助者、内部に確認できません。
「急報 ── 出場!」
> サイレン ── 起動。〈火群 迅〉。応答、確認。
> サイレン ── 起動。〈逢坂 澪〉〈灰谷 蒼汰〉〈寺尾 剛〉〈七尾 ひかり〉。応答、確認。
迅は右手を耳の高さへ上げた。掌を外へ向ける。四人が続けた。
雨で、掌に水が溜まった。溜まった水が、上げた手の縁から落ちていく。
> 水を持ってく、火の現場 ─── サイレンレッド!
> 声を持ってく、知の現場 ─── サイレンブルー!
> 綱を持ってく、高の現場 ─── サイレンイエロー!
> 梁を持ってく、圧の現場 ─── サイレングリーン!
> 息を持ってく、生の現場 ─── サイレンピンク!
>
> 特別災害対策機構、第七支部 ──
> 呼ばれたら、鳴らして、行く!
> 急報戦隊、サイレンジャー!
声は水の音の上に乗って、下流へ行った。堰の音の方が大きい。それでも、土手の上の三人には届いた。
> ── 回線、残り 二本。
禍体は、堰の下の巻きの中から立った。
水の形をしていない。水が同じ場所を回り続けて、回ったまま形になっている。
音は、水が水を打つ音だった。一度ずつではなく、落ち口の幅ぜんぶが同じ拍で鳴る。
迅がギアの柄を回した。噛む音が、水の音の下から出てくる。
「鉤!」
引く形にした。引く先は禍体ではなく、三宅の浮いている位置になる。
鉤が、水の上を滑って、三宅の胴の下へ入った。入れてから、下流へ引く。真上からは引かない。真上から引けば、巻きの中を通る。通る間の時間が、記録に無い。
無い時間を、人の体で通さない。
巻きの外へ出た。出た先で、流れが下流を向く。向いた分だけ、体が進む。
ひかりが浅い場所で待っていた。待って、脇の下へ手を入れて、上げる。上げる時、頭の側を先に水から出した。順番を間違えない。
上げてから、横向きに寝かせた。仰向けにはしない。
「息、してください。吐く方から」
三宅は咳をした。咳をしてから、吐いた。吐いてから、また咳をする。唇の色が戻るまでに、少し掛かった。指の先はまだ白い。震えは、上がってから強くなった。
ひかりは七つ数えた。数え終わってから、もう一度数えさせた。
斬った回数と、助けた回数を数える。ひかりはこの日、一度も斬らずに一人を上げた。
寺尾がハンマーで柱をもう一本立てた。立てた場所は、堰の落ち口の横になる。
「まあ待て。次に落ちた者が掴む場所を作る」
二文で言って、寺尾は柱の頭を下流側へ倒した。倒した分だけ、掴んだ手が流れの向きへ行く。
打ち込んだ柱は、抜かない。街に一つ増える。
蒼汰が索を投げた。投げた索が、堰の対岸の欄干へ掛かった。掛けてから、手前の柱へ二重に取る。
「上、任せろ。対岸まで十四、索は十八です」
留めた索が、堰の上を一本渡った。渡った下で、水が巻いている。索は、水面から一メートル二十のところを通っている。手を伸ばせば届く高さになる。届く高さに置いたのは、落ちた時に掴めるようにするためになる。
迅が索を伝って、巻きの真上へ出た。出てから、下を向いた。
「サイレンアックス ── 急救斬ッ!」
刃が、巻きの中心を上から断った。断たれた先で、水が同じ場所を回れなくなる。
水は、ただの水になって下流へ行った。行った先で、堰の音が一度だけ小さくなる。
蒼汰は対岸の索を解いて、手繰った。二本とも巻き取りへ収める。収めてから、端を指で一度送る。
*
三宅は土手のコンクリートの上に座っていた。毛布の下で、まだ震えている。
荒木は、そのすぐ横に立っていた。電話は切っていない。ひかりが毛布の端を直してから、荒木を見た。
「切っていいですよ」
「切ったら、終わっちゃう感じがして」
荒木は、それでも切らなかった。
言ってから、荒木は電話を耳から離した。離してから、掌を外へ向けたまま、耳の高さで一度止めた。
誰も教えていない。荒木は、この十五分、その形のまま立っていただけになる。
電話を持っていた手を、下ろすところが分からなかった。分からないまま、耳の高さで止めた。それだけになる。
日野くるみは、まだ指を差していた。
差した先には、もう誰もいない。三宅は上がっている。それでも、下ろさない。腕は肩の高さで止まっていて、肘が伸びきっている。伸びきったまま、震えていなかった。
土手の上の道に、傘を差した人が立っていた。
六月の雨で、降っている。降っているのに、その人だけ濡れた跡が無い。
差しているのは〈遠慮〉になる。
〈遠慮〉は、くるみの上へ傘を寄せた。
「濡れますので」
声はそう言った。くるみは受け取らなかった。受け取る手が、塞がっている。
差したままの手を、下ろさない。
〈遠慮〉は、暫くそこにいた。それから傘を畳んで、くるみの足元へ置いた。置いてから、土手の道を下流へ歩いていった。
置かれた傘の下の草だけ、乾いていた。周りは、四日分の雨で濡れている。
くるみは、傘を見なかった。
三宅が毛布の中から、その方を見た。見てから、荒木に何か言った。荒木は首を振った。二人とも、あの子が誰なのか知らない。
この土手に来たのが、今日が初めてかどうかも分からない。誰も訊かなかった。
堰の下で、水がまた回りはじめた。
回りはじめたのは、落ち口の分だけではない。四日分に降った水が、上流の全部から集まってくる。
集まった水が、堤防の高さを越えて、そこで立った。
*
地下三層で宮ヶ瀬が盤を叩いた。
「川床には立てません。足が沈みます。堤防の天端しか使えません」
「発進」
合図は整備班が出す。
サイレンファイヤーが堤防の上で立った。レスキューが右へ、クレーンが左へ、メディックが右の脚へ、ウイングが背へ回る。
立つ時、四本の脚が堤防の幅の内側へ収まった。収まった分だけ、法面へ荷重が行かない。
> ── 回線、残り 一本。
土手の下から、荒木が見上げていた。三宅は毛布の中から見ている。くるみは、まだ堰の方を向いていた。
対岸の土手にも人が出ていた。傘が七つ、並んで止まっている。七つとも、同じ方を向いていた。
サイレンオーの左手は、握ったままだった。開かない。その左手を、迅は堰の落ち口へ寝かせた。
寝かせた腕が、落ち口の幅ぜんぶを塞いだ。
塞がれた分だけ、下で水が回れなくなる。回れなくなった水は、下流へ出るしかない。
右腕が動いた。開く方の掌が、立った水の腹を横から押した。押した場所で、水が薄くなる。
薄くなった中から、堰の底の古い階段が出てきた。昭和の図面にだけ線の入っている、点検用の段になる。
「サイレンオー ── 全消斬ッ!」
押し出した掌が、段を横から抜いた。抜けた先で、水が形を保てなくなる。
水は、川へ落ちた。落ちた水は、下流へ行く。下流には、この街の三つの橋がある。三つとも、水はその下を通っていった。
落ちる音のあと、堰の音が戻ってきた。四日前と同じ音になる。
*
地下三層で、戸倉がウイングの尾の継ぎ目を拭いていた。拭いても、乾くのに時間が掛かる。
「今日中には乾きません」
「乾きません。雨の日に乾く継ぎ目は、まだ作れていません」
宮ヶ瀬は工具を置いて、それ以上は足さなかった。
速水が受信席で、川沿いの図に書き込んでいた。書き込んでから、書いた字を消して、書き直している。消しゴムの屑が、図の上に溜まっていく。溜まった分を手で払って、また書く。
「落差工。落差工、と」
三度書いて、三度目でやっと形になった。書けた字を、速水は誰にも見せなかった。
三階の食堂で、椀は六つとも机の上に残っていた。半分残ったまま、まだ温かい。
六分だった。六分なら、汁は冷めない。冷めるのは十五分から先になる。それより短い出場は、三年で数えるほどしかない。
六人が座り直した。座って、続きを食べる。
食べ終わった。三年で、二度目になる。
誰もそのことに触れない。寺尾が椀を六つ重ねて、流しへ運ぶ。運びながら、六つ目の底を一度見た。豆腐が一切れ、沈んだまま残っている。迅の椀ではない。誰の椀かは、重ねた後では分からなくなっていた。
尾花律子は受信席に残った。用紙を綴じて、次の一枚を出す。この日の保留は、五十二秒になる。件数は一件だった。
第一声の欄には、溺れました、と書いてある。漢字のままにした。この人は、何が起きたかを名指し出来ている。
中学二年の子どもが、水へ入らずに掛けた。入らなかったから、二人にならなかった。
澪は付箋の束を机の左の端へ寄せた。十三枚のままになっている。寄せてから、川沿いの図を畳んだ。畳んだ図の四丁目に、鉛筆の丸が一つ増えている。柱を立てた場所になる。
六人は、この人に礼を言わない。
> 【第七支部 出場記録】
> 臨場 ── 十六時二十六分。所要 ── 六分。
> 保留 ── 一件。最長 ── 五十二秒。
> 未着 累計 ── 一。
> 損壊 ── 川沿い四丁目 落差工 消力工 一部 破損。点検段 一基 脱落。
> 堤防 天端 舗装 一部 沈下。対岸 欄干 一箇所 変形。
> 救助 ── 一名。搬送 ── 一名。避難 ── なし。
> 仮設 ── 支柱 二本 設置。撤去 ── 未定。
> 市内 落差工のうち 転落防止柵が無いもの 二十二か所 ── 設置予定 記録なし。
> 本件、処理 ── 完了。
> ── 入電。




