第060話 段が抜けた
> 【第七支部 覚知記録】
> 覚知 ── 六月八日 十時四分。
> 入電 ── 固定電話。発信地 ── 丘の上 三丁目。
> 第一声 ──「段が抜けた」
> 出場 ── 第七支部 全隊。
「段が抜けた」
尾花律子は用紙を引き寄せた。分まで書いて、秒は書かない。
「はい、鳴瀬市消防指令センターです。今おられる場所を教えてください」
「丘の上三丁目の、西の段です。石段の、下から三十四段目」
段の数まで出てきた。数が出てくる通報は、たいてい早い。
「怪我をされた方がいるか、教えてください」
「いません」
「落ちた方は」
「いません。まだ誰も。……でも、掛けました」
最後の一言は、訊かれていない。尾花は書く手を止めなかった。止めないまま、次を訊いた。
「段が今どうなっているか、教えてください」
「踏み石が一枚、下に落ちてます。落ちた下が、空です。土が無いんです」
「その段の上と下に、人は通っていますか」
「上は、通ります。うちの上に、まだ十軒あるので」
「隊が出ます。段の下から、上がってくる方へ声を掛けてください」
「掛けます。何と言えばいいですか」
「三十四段目が抜けている、と。それだけで伝わります」
「はい」
尾花は用紙の右の欄へ、丘の上三丁目、西の段、三十四段目 踏み石脱落、下部空洞、と書いた。四つ並べてから、要救助者なし、と足した。足してから、線を引かなかった。線を引くのは、終わった件になる。まだ誰も落ちていない件に、終わりの線は引けない。
「藤木さんですね」
「覚えていてくださったんですか」
「はい」
尾花はそれ以上言わなかった。三年で三度目になる。一度目は自分のことで、二度目は車の中の人のことで、今度は、まだ誰も落ちていない段のことになる。
枠を見た。八つのうち、光っているのは一つだった。
*
六月八日の三階は、梅雨に入る前の湿った日だった。窓を開けると空気が重い。閉めると、装備の油の匂いが残る。
武藤とうふ店は七時十分に置いていく。六月は四丁のままになる。武藤は数える時、一丁ずつ声に出す。一、二、三、と来て、四だけ「四つ」と言う。三年、誰も直していない。棚の上の紙は、まだ読めない。四か月目に入った。
寺尾剛は流しの前で、湯呑みを乾いた布に伏せていた。洗うのは早い。乾かすのは遅い。
「まあ待て。石の日は靴底を先に見る。濡れた石は滑る」
二文で言って、寺尾は自分の靴を裏返した。裏返してから、五人分を並べて置く場所を空けた。
灰谷蒼汰は索を膝の上に広げて、端から端まで指で送っていた。三年、出る前に必ず一度やる。
「索は四本、段は五十一です。上から下ろします」
言いながら、四本目の端を握り直した。石の角は、地下街の柱の角と違う。角が丸い分だけ、掛けた索が滑る。滑ると、掛け直す手間が増える。
七尾ひかりは酸素の残りを見てから、七つ数えた。七つで戻る。数え終わってから、袋の中の副木を一本増やした。
増やしたのは、石段だからになる。石段で転ぶと、折れるのはたいてい手首になる。とっさに手が出る。出た手のところで、体重が止まる。
副木は、長いのを一本と短いのを二本持つ。長い方は使う機会が少ない。少ないのに減らさないのは、減らした日に要るからだと、ひかりは三年言い続けている。誰も反論していない。
逢坂澪は受信席の裏で、丘の上の地図を出していた。等高線の入った古い図で、右の下の隅に昭和の年が入っている。
「西の段は、市の道路台帳に載っていません」
「載っていないのか」
「地権者が四人います。市の管理ではありません。舗装も市が入れていません」
久遠寺修司が掲示板の前から振り向いた。未着累計の欄には、一と書いてある。三月の終わりから動いていない。
「誰が直す」
「決まっていません」
澪は言ってから、地図の縁を指で押さえた。押さえたのは、線を引く前の癖になる。
火群迅は自販機の前にいた。一番下の段を押す。理由を言ったことがない。缶を取って、指の腹で口を一度拭いてから開ける。
久遠寺は掲示板の前へ戻った。戻ってから、未着累計の一の下の余白を見る。数字を見ている時間より、余白を見ている時間の方が長い。
覚知の音が鳴った。鳴った音の下で、寺尾が並べた靴を一足ずつ、持ち主の方へ押した。押された靴は、四足が同じ向きで、一足だけ逆を向いた。逆を向いたのは迅の分になる。寺尾は直さなかった。
戸倉が地下三層から上がってきた。手に、細い鉄の棒を六本束ねて持っている。
「宮ヶ瀬さん、クレーンの爪の替えです。前の分は、まだ届きません」
「届きません。届かなくても動く形は、まだ作れていません」
宮ヶ瀬佳代は逆から言う。出来ていることを先に言わない。
須永が受信席の端で、中継の表を見ていた。丘の上は、市内で一番電波の通る場所になる。
「今日は繋がります。今日は」
言ってから、須永は自分の言い方に気付いて、口の中で言い直した。言い直した方は、誰にも聞こえなかった。
澪が丘の上の地図を机へ広げた。広げてから、西の段の線に指を置いた。
「丘の上三丁目、西の石段。五十一段。下から三十四段目の踏み石が落ちています。下は空洞です」
「上に何軒」
「十軒です。上の十軒は、この段でしか下りられません」
「回れるか」
「回れます。ただ、一番近い家からで、徒歩二十八分になります」
久遠寺は短い質問しかしない。三年、感想を言ったことがない。
「アンサー」
> ── はい。
「石段の下の空洞を」
> ── 記録がありません。西の段は市の台帳に無く、図面が出せません。……昭和の測量図には、段の下に暗渠の線が入っています。それが今も通っているかは、分かりません。
「暗渠の行き先は」
> ── 東の谷へ抜けています。谷の下は、丘の上二丁目のにれの木公園になります。
「公園に人は」
> ── 平日の午前です。児童館の側に、就学前の子どもが十四名います。……この人数は、昨年度の利用記録からの推定になります。今日の数は、分かりません。
アンサーは、分からないことを分からないと言う。三年、そこだけは変わらない。
蒼汰が地図の上へ指を伸ばした。指の先が、段の下の線をなぞる。
「一段では済みません。二十段は続きます」
「二十」
「上から順に落ちて、下へ溜まります。下も塞がります」
尾花の席で、二本目が光った。段の上の家からになる。
「はい、鳴瀬市消防指令センターです。……はい。今は下りないでください。隊が着くまで、家の中で待ってもらえますか」
置いてから、用紙の右へ、上部十軒 待機依頼、と書き足した。書き足したところで、光っている枠は、また一つに戻った。
澪が地図の縁から指を離した。
「座標、出た」
*
地下二層のポールを、迅が最初に下りた。二段飛ばしで踊り場を抜けて、下りきる前に走りはじめる。アンサーは一段ずつ下りる。三年、この対比が変わらない。
「発進」
合図は整備班が出す。六人ではない。
丘の上三丁目の坂の下に着いたのは、十時十二分になる。所要は八分だった。
石段は、下から見上げると空へ突き当たって見える。上の方は、そこから先が見えない。両側は生垣で、間に手すりが一本、途中までしか無い。石は一枚ずつ大きさが違う。同じ年に据えたものではないと、踏めば分かる。踏むと、段ごとに返ってくる硬さが違った。
手すりが切れているのは、二十八段目のところだった。そこから上は、掴むものが無い。
藤木ハルは、一番下の段に立っていた。七十四になる。左の手首に、三年前に折った跡がある。上から下りてこようとした人へ、同じことを言い続けていた。
「三十四段目が抜けています」
言ってから、その人が引き返すのを見届けている。見届けてから、また段の下へ向き直った。同じ場所に、朝から立っている。
迅が近付いた。近付いてから、何も訊かずに段の上を見上げた。
「あんたが掛けた」
「私です。上に、まだ十軒あります」
「上がる」
「その前に、水を一口飲んでもらえますか」
ひかりが藤木に水筒を渡した。渡してから、手首の跡の側を見た。見たが、何も言わなかった。
藤木は一口飲んで、返した。
「わたし、大袈裟だったでしょうか」
「掛けてもらって、助かりました」
尾花は現場に出ない。だから、この言葉は現場にいる者が言うことになる。ひかりが言った。一度返してから、頼む型で続けた。
「もう少しだけ、下で声を掛けてもらえますか」
「はい」
段の下には、三人が集まっていた。上がろうとして止められた人と、上から下りてきて途中で引き返した人が、同じ場所で待っている。
待っている間、誰も藤木に礼を言わなかった。言わない代わりに、一人が上の家へ電話を掛けはじめた。掛かった相手に、三十四段目のことを伝えている。伝わった先で、また誰かが誰かへ掛ける。
寺尾が段を上がりはじめた。上がりながら、右の靴の裏で一段ずつ蹴る。音が変わる段が、途中で二つあった。
「まあ待て。二十九と三十一が鳴る。下が無い段だ」
二文で言って、寺尾は三十四段目の手前で止まった。
抜けた段は、下から見た時より大きかった。踏み石が一枚、下へ落ちている。落ちた先は暗く、深さが目で測れない。
蒼汰が索を段の上の生垣の根元へ取った。取ってから、二重に回す。
「上、任せろ。根は太い。二本掛けます」
澪が段の脇の斜面からソナーを構えた。撃つ前に必ず人数を言う。
「零。段の下に人はいません。暗渠に三十メートル。撃てる」
撃った。低い音が段の下を通っていく。通った音は、二十段ぶん先で返ってきた。
「二十段目まで、下が空です。上の十軒は、今この段を下りられません」
迅は返事をしなかった。しないまま、抜けた段の縁へ足を掛けた。掛けた先に、乗る場所が無い。
乗る場所が無いまま、迅は跨いだ。跨いで、上の段へ立った。立った先の、三十五段目が鳴った。
「トリアージ」
迅が左手首の蓋を跳ね上げた。ブレスが色を出す。
> 判定 ── 黒。要救助者、内部に確認できません。
「急報 ── 出場!」
> サイレン ── 起動。〈火群 迅〉。応答、確認。
> サイレン ── 起動。〈逢坂 澪〉〈灰谷 蒼汰〉〈寺尾 剛〉〈七尾 ひかり〉。応答、確認。
五人が段の上と下に分かれて立った。段の上に二人、下に三人になる。
迅は右手を耳の高さへ上げた。掌を外へ向ける。四人が続けた。
石段の上でやると、上げた手の高さが人によって三段ぶん違う。違ったまま、同じ形になった。
> 水を持ってく、火の現場 ─── サイレンレッド!
> 声を持ってく、知の現場 ─── サイレンブルー!
> 綱を持ってく、高の現場 ─── サイレンイエロー!
> 梁を持ってく、圧の現場 ─── サイレングリーン!
> 息を持ってく、生の現場 ─── サイレンピンク!
>
> 特別災害対策機構、第七支部 ──
> 呼ばれたら、鳴らして、行く!
> 急報戦隊、サイレンジャー!
声は生垣に吸われて、返ってこなかった。返ってこない代わりに、段の上の十軒の窓が、順に開いた。
> ── 回線、残り 二本。
段が、下から順に抜けはじめた。
抜けるのは踏み石だけになる。石は落ちて、暗渠の底へ溜まっていく。溜まった石が、次の石を受ける。
禍体は、その溜まった石の中から立った。石の形をしていない。石が寄って、寄ったまま形になっている。
音は、石が石を擦る音だった。一枚ずつではなく、五十一枚が同じ拍で鳴る。
迅がギアの柄を回した。噛む音が、石の音の下から出てくる。
「斧!」
振り下ろした先は、禍体ではなく、抜けかけている三十五段目の縁になる。縁を割って、割った石を段の外へ落とす。落ちる石は、下に人がいない側へ行った。
寺尾がハンマーを立てた。抜けた三十四段目の穴へ、柱を三本打ち込む。
「まあ待て。俺が段をつくる。三本立てる」
二文で言って、寺尾は柱の頭を平らに揃えた。揃えた三本の上に、板を渡す場所が出来る。
打ち込んだ柱は、抜かない。街に一つ増える。三年で、この街に立った柱の数を、寺尾は数えていない。数えているのは澪の盤の側になる。
蒼汰が索を投げた。投げた索が、段の上の生垣を越えて、向こうの門柱に掛かった。掛けてから、手前の柱へ二重に取る。
「上、任せろ。門柱は石です。二重に取ります」
留めた索が張った。張った先を、段の上の人が掴めるようになる。手すりの切れている二十八段目から上に、綱が一本通った。
ひかりがナイフで生垣の枝を落とした。落とした枝は、綱に掛かる高さの分だけになる。
「そこの綱に、右手だけ掛けて下りてもらえますか」
段の上から、一人ずつ下りてきた。十軒のうち、下りたのは四人だった。あとの六軒は、家の中で待っている。
斬った回数と、助けた回数を数える。ひかりはこの日、枝を三本斬って、四人を下ろした。
澪が斜面から二度目のソナーを構えた。
「四名。段に四。暗渠に一。撃てる」
撃った。音が暗渠を通って、禍体の下の石を一枚外した。外れた石の分だけ、形が傾く。
傾いた側から、迅が上がった。上がる足場は、寺尾の打った柱三本になる。
「サイレンアックス ── 急救斬ッ!」
刃が、寄った石の間を横から断った。断たれた先で、石が石を掴めなくなる。
石は、ただの石になって落ちた。落ちた先で、暗渠の底に平らに積む。積んだ上を、水が細く流れていった。
蒼汰は門柱の索を解いて、手繰った。二本とも巻き取りへ収める。収めてから、端を指で一度送る。
*
段の途中に、踊り場が一つある。二十段目のところで、そこから脇道が一本、下へ下りている。
脇道の先は、坂の中ほどになる。門が一つ、閉まっている。門の前の土は、今朝も薄く掃いてあって、掃いた目は内側から外へ向いていた。箒は何処にも無い。
迅は踊り場で一度、そちらを見た。見ただけで、下りなかった。下りる用が無く、用の無い門の前に隊が立つことはない。
門は閉まったままで、誰も出てこなかった。
石段の下では、藤木ハルがまだ立っていた。下りてきた四人が、その横を通っていく。
寺尾が柱の頭を確かめながら、その横を通った。
「もう抜けてませんよ」
「三十四段目、抜けてますからね」
通る四人にも、藤木は同じことを言い続けている。もう抜けていない。柱が三本立って、その上に板が渡してある。それでも、言い方が変わらない。
朝から変わっていない。変わらないまま、四回続いた。
四人目が通ったあと、藤木は自分の左手首を右手で一度握った。握って、離した。折れた側の手首になる。三年前は、この段の二十九段目で転んだ。今日、寺尾が鳴ると言った段の一つになる。
誰もそれを結び付けなかった。藤木も言わなかった。
段の下の角に、人が立っていた。
六月の午前で、雨は降っていない。降っていないのに、その人は傘を差していなかった。
差していないのは、〈自力〉になる。
抜けた段の穴の縁へ、片方の足を出した。出して、体重を掛けずに引いた。
「自分で建てろ」
声はそう言った。段の上を見上げてから、続けた。
「上がる者が、自分で直す。直せない者は、上がらなければいい」
誰も言い返さなかった。言い返す代わりに、寺尾が四本目の柱を打った。
四本目は、無くてもいい柱になる。無くてもいいものを一本増やしておくと、その段は次に誰かが直すまで持つ。三本では、次の雨で分からない。
〈自力〉は、そこで石段から離れた。離れる時、二十八段目の切れた手すりの端を、指で一度だけ押さえていった。
押さえた場所だけ、埃が落ちていた。指の幅で、三本分。手すりの塗りが、そこだけ見えている。塗りは緑で、手すりが緑であることを、この段を使う十軒の誰も言わない。
石段の下の地面が、そこで盛り上がった。
盛り上がったのは、暗渠の分になる。積んだ石が全部、そこへ集まっている。
集まった石が、坂の下の三叉路の上まで来て、そこで立った。
*
地下三層で宮ヶ瀬が盤を叩いた。
「坂の上には立てません。地面が持ちません。三叉路の平らな所しか使えません」
「発進」
合図は整備班が出す。
サイレンファイヤーが三叉路の中央で立った。レスキューが右へ、クレーンが左へ、メディックが右の脚へ、ウイングが背へ回る。
立つ時、四本の脚が三叉路の三方向へ向いた。向けた分だけ、坂の側へ荷重が行かない。
> ── 回線、残り 一本。
坂の下から、藤木ハルが見上げていた。他に三人いる。三人とも、下りてきた四人のうちの誰かになる。
サイレンオーの左手は、握ったままだった。開かない。その握った左腕を、迅は石段の縁へ寝かせた。
寝かせた腕が、下から上まで一本、段の脇に通った。手すりが、五十一段分そこに出来た。
段の上の窓から、六軒の人が見ている。下からは四人が見上げている。誰も何も言わない。
石の柱は、寝かせた腕の外側から回り込もうとした。回り込む先は、坂の下の民家になる。
右腕が動いた。開く方の掌が、柱の腹を横から押し返す。押した場所で、石が一列ずれた。
ずれた列の下から、古い管が出てきた。昭和の測量図にだけ線の入っている、暗渠の口になる。
「サイレンオー ── 全消斬ッ!」
押し出した掌が、管を横から抜いた。抜けた先で、柱が形を保てなくなる。
石が、坂の下の空き地へ落ちた。落ちた石は、そこで動かなくなる。落ちた数は、五十一枚には足りない。足りない分は、まだ段に残っている。
落ちる音が終わったあと、寝かせたままの左腕が、まだそこにあった。
*
地下三層で、戸倉がクレーンの左の爪を外していた。石を押した時に、内側が一枚めくれている。
「爪、替えます。替えの分は今日届きました」
「届きました。届かない前提の形は、まだ作れていません」
宮ヶ瀬は工具を置いて、それ以上は足さなかった。
須永が中継の表を畳んだ。畳んでから、丘の上の欄を指で叩く。
「丘の上は、今日も全部繋がっていました」
「言い方が変だぞ」
戸倉が言った。須永は、また口の中で言い直した。
三階の食堂で、寺尾が湯を沸かした。六月の椀は、四丁分になる。沸かす前に、寺尾は靴を裏返して置き直した。石の粉が乾いて、白く残っている。落とすのは明日でいい。今日のうちに落とすと、明日また同じ場所が汚れる。
迅は椀を先に空けた。空けてから、二杯目をよそいに立った。立った先で、久遠寺が同じ鍋の前にいた。
「柱は何本だ」
「四本」
三文字で返して、迅は自分の分をよそう。四本目が要らない柱であることは言わない。久遠寺も訊かなかった。
朝に伏せた湯呑みは、五つとも乾いていた。乾くのは遅い。それでも、出る前に伏せておけば、戻る頃には乾いている。
澪は付箋の束を机の左の端へ寄せた。十三枚のままになっている。寄せてから、丘の上の地図を畳んだ。畳んだ図には、道路台帳に載っていない段の場所を、鉛筆で三十九か所書き込んである。書き込んだのは今日ではない。
尾花律子は受信席に残った。用紙を綴じて、次の一枚を出す。この日の保留は、一分二秒になる。件数は一件だった。
第一声の欄には、段が抜けた、と書いてある。漢字のままにした。この人は、何が抜けたかを名指し出来ている。
三度目になる。一度目は、自分の手首だった。
六人は、この人に礼を言わない。
> 【第七支部 出場記録】
> 臨場 ── 十時十二分。所要 ── 八分。
> 保留 ── 一件。最長 ── 一分二秒。
> 未着 累計 ── 一。
> 損壊 ── 丘の上三丁目 西の石段 踏み石 二十枚 脱落。暗渠 一系統 崩落。
> 生垣 一部 損傷。坂下 空き地 陥没 一箇所。
> 救助 ── なし。搬送 ── なし。避難 ── 四名。
> 仮設 ── 支柱 四本 設置。撤去 ── 未定。
> 市内 道路台帳に載っていない石段 三十九か所 ── 管理者 記録なし。
> 本件、処理 ── 完了。
> ── 入電。




