第057話 中にいます
> 【第七支部 覚知記録】
> 覚知 ── 五月十一日 十四時三分。
> 入電 ── 携帯電話。発信地 ── 旧市街 四丁目。
> 第一声 ──「中にいます」
> 出場 ── 第七支部 全隊。
「中にいます」
その声を、俺は地下二層で聞いた。受信席の音は、階段の縦の穴を通って下まで落ちてくる。落ちてくる間に高い方が削れて、低い方だけが残る。
だから、何を言っているかまでは分からない。分かるのは掛かってきたということだけになる。佐波悠。整備班。二十六。三年目になる。
上では、尾花さんが話している。
「はい、鳴瀬市消防指令センターです。今おられる場所を教えてください」
その先は聞こえない。聞こえないまま、俺は工具を置いた。置いた場所を、指で二度叩いて覚える。覚えておかないと、戻ってきた時に探すことになる。
三年で、この癖が付いた。前は、置いた場所を忘れて工具を落としていた。落とした数は、自分では数えていない。
落とした音は、地下二層でよく響く。天井が低くて、床が鉄になっている。一本落とすと、端から端まで届く。
届くと、誰かが顔を上げる。上げた顔を見るのが、三年目の今でもきまり悪い。
盤の上に、覚知の欄が出た。旧市街四丁目。十四時三分。第一声、中にいます。
中にいます、と最初に言う人は、三年で四人目になる。四人とも、自分のことを言っていない。
自分が閉じ込められた人は、たいてい「出られません」と言う。中にいます、と言うのは、外から見ている人になる。
外から見ている人は、中を見ていない。見ていないのに、いると言い切る。言い切れるのは、その人のことをよく知っているからになる。
俺はそれを、三年で四回聞いた。四回とも、中に人がいた。
*
十四時三分の地下二層には、俺と、梅木さんと、速水さんがいた。宮ヶ瀬さんは地下三層で、盤の前に立っている。
五機は、朝から並べ直したところだった。クレーンの四本目のアウトリガーに、先週の泥が入っている。梅木さんが二度洗って、二度とも落ちきらなかった。
遊水地の泥は、細かい。細かい泥は、水で流すと奥へ入る。入った先で乾いて、そこで固まる。
三度目に洗おうとしたところへ、速水さんが来た。
「洗うと入ります」
「知ってる。知ってて洗ってる」
「知ってて入れてるんですか」
梅木さんは答えなかった。答えないまま、三度目を洗った。四本目の足から、灰色の水が出た。
出た水を、速水さんが雑巾で受けた。受けてから、雑巾を絞って、また同じ場所へ当てる。
二人とも、口では反対のことを言っている。手は同じ方を向いていた。三年、この二人はいつもそうなる。
「落ちません」
「落ちない泥は、まだ抜けません」
宮ヶ瀬さんは逆から言う。出来ていることを先に言わない。三年、この言い方が変わらない。
上から、六人が下りてくる音がした。ポールの音は、迅さんだけが違う。二段飛ばしで踊り場を抜けて、下りきる前に走りはじめる。
アンサーは一段ずつ下りる。三年、この対比が変わらない。
六人が下りてくる音は、いつも同じ順で聞こえる。迅さん、蒼汰さん、ひかりさん、寺尾さん。澪さんは、いつも最後になる。
最後になるのは、座標を出してから動くからになる。出してから、机の縁を指で一度押さえて、それから立つ。
今日は、その音がしなかった。
澪さんが、地図を持って下りてきた。地図を持って下りてくるのは、珍しい。
「座標が出ません」
澪さんはそれだけ言った。それから、盤の前の宮ヶ瀬さんへ、地図を渡す。
「旧市街四丁目。銭湯の煙突が折れています。中に人がいる、という通報です。ただ、通報者が煙突の中を見た人ではありません」
「見ていないのに、中にいると」
「はい。中にいます、としか言っていません」
久遠寺支部長が階段の途中で止まった。止まってから、短く訊いた。
「行くのか」
「行きます。私も出ます」
澪さんが、指令席を離れると言った。
三年で、初めてになる。この人は、地図の前から動かない。動かないで、座標を出す。出るまで、誰も一歩も出ない。
俺は、この人が指令席を離れるところを見たことがなかった。飯の時も、地図の前で食べている。三階へ上がってこない日の方が多い。
三年前に来た日、俺はこの人へ挨拶をした。返ってきたのは、こちらへ向けた顔ではなく、地図の上を動く指だった。
あとで梅木さんに言われた。あの人は、地図の前にいる時は誰も見ない。見ないのは、見ると線が消えるからになる。
その人が、地図を畳んで持っている。畳んだ地図は、現場で広げるためのものになる。
「席は」
「空けます。尾花さんが残ります」
尾花さんは、電話を取る人になる。座標は出さない。出せないのではなく、それは別の人の仕事になっている。
指令席が空くというのは、座標が出ないまま出るということになる。
久遠寺支部長は、それ以上訊かなかった。訊かないで、階段を上がっていった。
俺は円筒を四本、台車へ載せた。重装の分になる。二人までしか使えないので、四本で足りる。
載せながら、梅木さんが言った。
「佐波、円筒を現場へ持っていって。予備の分」
「俺がですか」
「あなたが。使わない方がいいけど、要る時は要る」
俺は台車の柄を握った。握ってから、円筒の並びをもう一度見た。四本とも、口の側を同じ向きに揃えてある。
揃えたのは俺で、揃える理由は誰にも教わっていない。揃えておくと、暗い場所で掴んだ時に向きが分かる。
向きが分かれば、渡す時に持ち替えなくて済む。持ち替える一秒を減らすのが、整備班の仕事になる。
「佐波」
梅木さんがもう一度呼んだ。
「あなた、工具を落とさなくなったね」
「そうですか」
「一年で三本、去年で一本。今年は、まだ零」
数えているのは、この人だった。俺は数えていない。
「なんで数えてるんですか」
「数えてない。覚えてるだけ」
覚えているのと数えているのは、同じことになる。そう言おうとして、言わなかった。言うと、次から覚えるのをやめるかも知れない。
*
旧市街四丁目は、車が入る道が一本しかない。その一本の突き当たりに、銭湯がある。
銭湯の名は、松の湯という。俺は前に来たことがある。三年前、装備の受け取りで旧市街を回った時に、外から見た。
煙突は、その時真っ直ぐ立っていた。今は、上から三分の一のところで折れている。
折れた先が、地面へ落ちていない。折れた場所で止まって、斜めに傾いたままになっている。
俺は台車を、道の口へ置いた。ここから先は、機体も台車も入らない。道の幅は一間半しかない。
一間半というのは、両手を広げて少し余るくらいになる。その幅で、三十メートルの煙突が立っている。
倒れる向きが道の側だったら、両側の家が二軒ずつ潰れる。
道の両側は、二階建ての家が並んでいる。軒が出ていて、上を見ると空が細い。
突き当たりの銭湯だけが、道より背が高い。煙突があるからになる。
煙突は、この旧市街で一番高いものになる。三十メートルある。街のどこからでも、これを目印にして帰ってこられる。
通報した人は、銭湯の前にいた。六十くらいの女で、番台の人だという。
「中にいます」
その人はもう一度そう言った。同じ言い方で、同じ速さになる。電話へ言ったのと、目の前の隊へ言うのが、この人の中では同じことになっている。
「うちの人が、中に。釜の方へ回ったきり、出てきません」
「煙突の中を、見られましたか」
訊いたのはひかりさんで、女は首を横に振った。
「見てません。でも、あそこにいます。分かります」
「どうして分かりますか」
「四十年、あの人はあそこにしか行かないので」
ひかりさんは、それ以上訊かなかった。訊かないで、名前だけを訊いた。
「お名前を教えてもらえますか」
「牧村です。うちの人は、牧村甚一といいます。六十三です」
迅さんが煙突の下へ回った。回った先で、上を見ている。
下から見ると、折れた場所は空を背負っている。背負った空の側が明るいので、煉瓦の縁がはっきり見えた。
縁は、揃っていない。折れたのではなく、抜けたように見える。
折れた煙突は、煉瓦で出来ていた。古い煙突は、たいてい一枚ずつ積んで作る。積んだ列が、折れた場所でずれたまま止まっていた。
「トリアージ」
迅さんが左手首の蓋を跳ね上げた。ブレスが色を出した。
俺は、道の口からそれを見ていた。三年、色が出るところを何度も見ている。
今日の色を、俺は初めて見た。
> 判定 ── 赤。要救助者、内部に一名。危険。
赤だった。赤の日は必殺を撃てない。撃つ代わりに開けることになる。
六人は誰も、そのことを口に出さなかった。
「急報 ── 出場!」
> サイレン ── 起動。〈火群 迅〉。応答、確認。
> サイレン ── 起動。〈逢坂 澪〉〈灰谷 蒼汰〉〈寺尾 剛〉〈七尾 ひかり〉。応答、確認。
五人が同時に上がった。上がった先は、銭湯の前の道になる。
迅さんが右手を耳の高さへ上げた。掌を外へ向ける。四人が続けた。
俺は台車の傍で、同じ形をしなかった。整備班は、そこにいる側になる。
その形をするのは、呼ばれた側と、呼んだ側になる。俺はどちらでもない。道具を渡す側で、三年、そこから動いていない。
動かないのが、この仕事の形になる。
> 水を持ってく、火の現場 ─── サイレンレッド!
> 声を持ってく、知の現場 ─── サイレンブルー!
> 綱を持ってく、高の現場 ─── サイレンイエロー!
> 梁を持ってく、圧の現場 ─── サイレングリーン!
> 息を持ってく、生の現場 ─── サイレンピンク!
>
> 特別災害対策機構、第七支部 ──
> 呼ばれたら、鳴らして、行く!
> 急報戦隊、サイレンジャー!
声は道の突き当たりで止まった。逃げる先が無い場所では、声が長く残る。
> ── 回線、残り 三本。
残り三本、と盤が言った。俺の耳へは、台車の上の受信機から届く。
受信機には、八つの枠が並んでいる。地下二層の盤と同じ並びになる。整備班は、この八つを毎日見ている。
毎日見ているが、八つ全部が光るところを、俺は三年で一度も見ていない。
六つまでは、何度もある。七つも、去年から何度か出た。八つ目が光る時が、どういう時なのかは、盤の説明書に書いていない。
煙突が動いた。折れた上の三分の一が、下の三分の二から離れて、そこで立ち上がる。
立ち上がった煉瓦が、道の側へ倒れずに横へ広がった。広がった先が、銭湯の屋根になる。
屋根は瓦で、四十年前に葺いたものになる。広がった煉瓦が、その瓦の上へ乗った。乗っただけで、まだ割れてはいなかった。
割れるまでに、どれくらい持つかは読めない。読めないので、下に人を置けない。
音は、煉瓦が煉瓦を擦る音だった。一枚ずつではなく、何百枚が同じ拍で鳴る。
「中に一名」
澪さんがソナーを構えた。撃つ前に必ず人数を言う。
「九名。道に六、銭湯の中に二、煙突の中に一。撃てない」
撃てる、と言わなかった。撃てない、と言った。三年で、初めてになる。
俺は、その一言を受信機で聞いた。聞いてから、台車の柄を握り直した。
撃てないと言われた時に、隊が何をするのかを、俺は地下でしか知らない。地下では、時刻と傷の段しか届かない。
撃てないというのは、時間が掛かるということになる。掛かる時間の分だけ、回線が塞がる。
「重装 ── 換装!」
迅さんの背に、円筒が二本立った。寺尾さんも続いた。
> ── 回線、残り 一本。
二人ぶんで、四本使ったことになる。八本のうち七本が塞がった。
残りは一本になる。迅さんが折れ口へ手を掛けた。掛けてから、煉瓦を一枚ずつ外していく。
外すのは、上からになる。下から抜くと、上が落ちる。落ちる先に、中の人がいる。
煉瓦は一枚が四キロある。四百二十枚で、千七百キロ近くになる。その全部が、折れ口の一箇所へ寄っていた。
寄っている場所から、一枚ずつ抜くことになる。抜いた分だけ、残りが動く。
「まあ待て。俺が受ける。落とすなら、外へ落とす」
寺尾さんがハンマーを道の敷石へ立てた。柱を三本、折れ口の下へ打ち込む。
二文で言って、寺尾さんは三本の頭を道の側へ向けた。
「上、任せろ。煉瓦は四百二十枚です。上から順に、六十枚まで数えます」
蒼汰さんが索を投げた。投げた索が、銭湯の屋根の棟へ巻いた。巻いてから、道の電柱へ二重に取る。
ひかりさんが折れ口の下で膝を突いた。突いてから、隙間へ声を入れる。
「中の方。聞こえますか。壁を一度だけ叩いてもらえますか」
返事は、来なかった。
来ない代わりに、煉瓦の内側で何かが崩れた。崩れた分だけ、隙間が狭くなる。
狭くなった隙間へ、迅さんが腕を入れた。入れた腕の先で、煉瓦を横へ押す。
押した先で、また崩れた。
この日、四回それを繰り返した。四回とも、隙間は元の幅に戻らなかった。
一回目で三センチ広げて、二回目でその三分の二。三回目は指一本ぶんで、四回目は動かなかった。
外す速さより、崩れる速さの方が早い。早いままだと、いつまでも開かない。
迅さんは、それでも五回目に手を掛けた。掛けた腕が、震えていた。
震えているのは、力を入れているからになる。重装の装甲は厚い。厚い分だけ、細かい動きに力が要る。
ひかりさんが、その腕を見た。見てから、何も言わなかった。
*
俺は、その間ずっと台車の傍にいた。予備の円筒を四本、いつでも渡せる位置に置いてある。
置きながら、受信機の欄を見ていた。八つのうち、七つが光っている。
残っている一本の枠が、そこで光った。
旧市街四丁目からの二件目になる。近所の人が、煙突を見て掛けてきた。
八つ全部が、光った。八つ全部が光るところを、俺はこの日に初めて見た。
その瞬間、受信機の音が止まった。
止まったのは一秒ではない。半分くらいだった。半分の間、何も鳴らなかった。
それから、音声が流れた。
> サイレン ── 起動。〈──〉。応答、確認。
名前の欄が、空いていた。俺は受信機を持ち上げて、耳へ近付けた。近付けても、同じだった。〈──〉としか出ない。
整備班は、音声の記録を毎日見る。名前の欄が空いた記録を、俺は見たことがない。
欄が空くというのは、応答が返ってきたのに、返した相手が登録に無いということになる。
登録に無い相手からの応答は、この盤には入らない。入らないはずのものが、今、そこに出た。
俺は、盤の型式を知っている。三年、毎日拭いている。入る欄と、入らない欄が決まっていて、その決まりは変えられない。
支給された時のまま使う決まりになっている。中を開けるのは、機構の側の人間だけになる。宮ヶ瀬さんでも、開けられない。
変えられないものが、変わっていた。俺は、その欄をもう一度見た。〈──〉のままだった。消えもしないし、名前も入らない。
入らないまま、記録の中に残っている。
誰の応答なのか、書いていない。
道の突き当たりで、迅さんの装甲の色が変わった。
変わった、というより、濃くなった。反射帯の光が、足元から頭まで一度に走って、そこで止まらない。
迅さんが、煉瓦の壁を掴んだ。掴んだ場所から、四百二十枚のうちの三十枚が一度に外れた。
速い。今までの四回とは速さが違う。外れた煉瓦が、道の側へ落ちた。落ちた先には、寺尾さんの柱がある。
柱が三本とも、下から二十センチのところで曲がった。曲がった三本は、外れなかった。外れずに、曲がったまま受けている。
寺尾さんが打った柱は、そういう曲がり方をする。
「迅」
寺尾さんが名を呼んだ。返事は無かった。呼んだのは一度だけで、二度目は呼ばない。
ひかりさんが折れ口の下から離れた。離れてから、迅さんの腕の方を見ている。
俺は、受信機の欄を見た。八つとも光っている。
光っている、ということは、市民が誰も繋がらないということになる。
その時、二件目の通報が切れた。
切れたのではない。尾花さんが、取ったことになる。
「はい、鳴瀬市消防指令センターです」
受信機から、その一行が届いた。届いた瞬間、光っていた枠が一つ減った。
同時に、寺尾さんが自分の背の円筒を外した。
「重装、解除」
二文にならなかった。四文字だった。
外した分だけ、回線が二本空いた。
> ── 回線、残り 二本。
迅さんの装甲の色が、元へ戻った。
戻る時、音がしない。
迅さんは、その間ずっと止まらないでいる。止まらずに、煉瓦へ手を掛け続けていた。
外している速さだけが、元へ戻った。
俺は、それを道の口から見ていた。見ていたことを、あとで誰にも言っていない。
言う言葉が、無かったからになる。あとで盤の記録を見た時、俺はそこに時刻が二つ増えているのを見つけた。二つの間は、半分くらいしか離れていない。
書いてあるのは時刻だけになる。何があったかの欄は、この盤に無い。
時刻の二つは、印字の濃さも同じだった。同じ濃さで並んでいると、何も起きなかったように見える。
無い欄のことは、整備班は書かない。書かないのが、この班の仕事の一部になっている。
*
迅さんは、そのまま煉瓦へ手を戻した。
戻してから、上から一枚ずつ外しはじめた。速さは、さっきまでの四回と同じになる。
「中の方。もう一度だけ。壁を叩いてください」
ひかりさんが、また隙間へ声を入れた。
今度は、返事があった。二回叩く音がした。
叩いた場所は、隙間の下の方だった。下の方ということは、座り込んでいることになる。
迅さんが外す場所を、上から下へ変えた。変えてから、両手を差し込む。
下から外すと、上が落ちる。落ちる分は、寺尾さんの柱が受けることになる。曲がった三本が、そこでもう一度受けた。
受けている間に、開ける側が進む。二人で一つの動きになっている。
合わせる相談を、二人はしていない。三年、同じ現場に出ていると、そうなるらしい。
俺は、その「らしい」を、まだ自分の手では知らない。
開けるのは、赤の日の言葉になる。撃つ代わりに置く動作で、三年で十度も出ていない。
「開ける」
迅さんの声は短い。理由は付けなかった。
開いた幅は、人一人分になる。ひかりさんが先に入った。
先に入るのは、いつもこの人になる。中で最初にやることが、息を見ることだからになる。
入ってから、二十秒で出てきた。二十秒というのは、中で膝を突いて、掴んで、向きを変えるだけで終わる長さになる。
出てきた腕の下に、六十くらいの男がいる。
松の湯の主で、名は牧村甚一という。煙突の点検で、内側の梯子を上っていた。
内側の梯子は、四十年前に付けたものになる。点検は、年に二度やる。二度とも、この人が一人で上る。
上っている途中で、煙突が折れた。折れた場所は、この人がいた高さの、すぐ上だった。
「息、返すよ」
ひかりさんが七つ数えた。七つ数えて、九つで戻った。
九つは遅い。三年で二度目になる。数えているのはひかりさんだけで、数え直さなかった。数え直すのは、戻らなかった時だけになる。
煙突の残りが、そこで動いた。
四百二十枚のうち、まだ折れていない下の三分の二が、地面から抜けた。
抜けた煉瓦が、道の上で立ち上がった。立った高さが、銭湯の屋根を越えて、そこで止まらない。
地下三層で、宮ヶ瀬さんが盤を叩いた。
「旧市街です。道が一本しかありません。突き当たりから外へは、抜けられません」
「発進」
合図は整備班が出す。六人ではない。
俺は台車の脇へ寄って、機体の通る幅を空けた。空ける前に、円筒の口の向きをもう一度見た。
サイレンファイヤーが道の口で立った。レスキューが右へ、クレーンが左へ、メディックが右の脚へ、ウイングが背へ回る。
クレーンの四本目のアウトリガーが、一拍遅れた。泥が落ちていない分だけ、先週より遅い。
その一拍の間に、残りの四機が入った。
> ── 回線、残り 一本。
道の両側の家から、人が出てきた。旧市街の路地は狭い。狭い場所で見上げると、機体の胴から上しか見えない。
軒の下から見上げている人が、十二人いた。数えたのは俺になる。整備班は、数える癖が付く。
工具の数を数える。部品の数も、締めた本数も同じになる。数えたものを紙に書いて、紙を綴じる。
人を数えるのは、この仕事ではない。それでも、数えてしまう。
十二人とも、道の真ん中へは出てこない。出てこないのは、そこが機体の通る幅になるからだった。誰も、そう言っていない。
俺は、下から見上げていた。三年、地下でしか見ていなかったものになる。
地下二層から見ると、五機は横から見える。並んだ車が五台あるだけで、それ以上ではない。
道から見上げると、五台が一つになったものが見える。同じ機体の、別のものに見えた。
サイレンオーの左手は、握ったままだった。開かない。
その左手を、迅さんは煙突の折れ口へ差し込んだ。差し込んだ腕が、落ちる分を受ける。
受けた分だけ、下の三分の二が道へ倒れない。
赤の日は、撃たない。右腕が動いた。開く方の掌が、煙突の腹へ回った。回した掌が、そこで開く。
開いた掌が、煉瓦の列の一枚ずつを、内側から外へ押した。
押された煉瓦が、外から順に剥がれていく。剥がれた分だけ、煙突が細くなる。
細くなった煙突は、最後に自分の重さで立てなくなった。
立てなくなった煙突が、道の側ではなく、銭湯の裏の空き地へ倒れた。
空き地は、去年まで駐車場だった。今は何も置いていない。置いていない場所へ倒すために、右腕は外から順に剥がしていた。
倒れた音が、旧市街の路地を四つ抜けていった。抜けた先で、犬が一匹鳴いた。
三十メートルの煙突が、今日から無くなる。街のどこからでも見えたものが、無くなることになる。
撃たずに終わった。三年で、二度目になる。
道の口の、俺の立っている場所から三歩のところに、傘を差した人が立っていた。
五月の空は晴れている。降ってはいない。
差した傘の下に、番台の女が入っていた。夫の乗った担架の後を追いかけて、そこで止まっている。
「ご迷惑ですから」
声はそう言った。女が振り向いた時には、傘だけがその場に立っていた。
傘の下の敷石だけ、乾いていた。周りは、放水の水で濡れている。
差した人は、道の突き当たりの方へ歩いていった。濡れた敷石の上を歩いて、足跡が付いていない。
俺は、その足跡の無い場所を見た。見てから、台車の柄をもう一度握った。
三年で、この人を見たのは五度になる。五度とも、雨の日ではない日が混ざっている。混ざり方に決まりがあるのかは、分からない。
整備班は、こういうものを紙に書かない。書く欄が無いからになる。
道の両側から、声が出た。出たのは、拍手ではない。声だった。
軒の下の十二人が、同じ高さで一度だけ上げた。上げてから、そのうち三人が右手を耳の高さへ上げた。掌を外へ向ける。
誰も教えていない。俺は台車の傍で、今度もその形をしなかった。
蒼汰さんは電柱の二重を解いて、索を手繰った。二本とも巻き取りへ収める。収めてから、端を指で一度送る。
*
地下二層で、俺はファイヤーの胴の付け根を見ていた。四月に直した場所の、隣が擦れている。
「軽いです。明日には直します」
「明日に直るものは、今日の分には入りません」
宮ヶ瀬さんは工具を置いた。置いてから、それ以上は足さなかった。
梅木さんが、クレーンの四本目の足から泥を掻き出していた。掻き出しながら、俺に言った。
「佐波、円筒は使わなかったね」
「使いませんでした」
「持っていったのは、無駄じゃない」
俺は返事をしなかった。返事の代わりに、台車の車輪を拭いた。旧市街の道の砂は、細かくて白い。拭くと、雑巾がすぐ灰色になる。
拭きながら、円筒を四本、元の棚へ戻した。戻す時も、口の側を同じ向きに揃えた。
揃えたことに、誰も気付かない。気付かないのが、正しく揃っているということになる。
三年、俺の仕事はそういうものだった。気付かれないうちは、上手くいっている。
盤の記録には、時刻が一つ増えていた。十四時二十一分、回線 零。十四時二十一分、回線 二。
二つの時刻の間が、半分くらいになっている。
誰も、そこに理由を書かなかった。宮ヶ瀬さんも書かなかった。
書く欄が、この盤には無い。整備班が書けるのは、時刻と、機体の名と、傷の段だけになる。それ以外の欄は、初めから刷られていない。
刷られていない欄のことを、俺は今日まで考えたことがなかった。
三階の食堂で、寺尾さんが湯豆腐を出した。五月の椀は、四丁分になる。
整備班は、上へは上がらない。上がるのは、呼ばれた日だけになる。今日は呼ばれていない。
だから、俺は湯豆腐の匂いだけを階段の下で嗅いだ。三年、それで足りている。
澪さんは、指令席へ戻っていた。戻ってから、地図の上の付箋を数え直している。
十三枚あった。数え終わってから、この人は一枚も足さない。
久遠寺支部長が後ろに立った。立ってから、短く訊いた。
「見えたか」
「まだです」
それだけで、二人とも動かなかった。
尾花さんは受信席に残った。用紙を綴じて、次の一枚を出す。この日の保留は、三分四十秒になる。件数は六件だった。
六件の欄を、この人は一度も声に出さない。書いて、綴じて、次の一枚を出す。それだけになる。
六件は、三年で一番多い。六件のうち、五件は待ってから繋がった。残りの一件は、待っている間に切れて、その後で掛け直してきた。
掛け直した人の名は、用紙に入っている。掛け直さなかった人がいたかどうかは、この用紙では分からない。
六人は、この人に礼を言わない。
その夜、俺は地下二層に一人で残った。残って、五機の下を順に見て回った。
クレーンの四本目の足には、まだ泥が入っている。明日、梅木さんがまた洗うことになる。洗えばまた奥へ入る。入るのを承知で、あの人は洗う。
ファイヤーの胴の付け根には、四月の直しの跡がある。その隣が、今日で擦れた。
擦れた場所を、俺は指の腹で撫でた。撫でても、何も分からない。分かるのは、擦れているということだけになる。
俺は、地下二層で工具を置いた場所を、指で二度叩いて確かめた。
今日は、一本も落としていない。
落とさなくなったことを、俺は今日まで自分の手柄だと思っていた。数えていたのが梅木さんだと知って、少しだけ違って見えている。
誰かが数えているうちは、まだ途中になる。
> 【第七支部 出場記録】
> 臨場 ── 十四時十六分。所要 ── 十三分。
> 保留 ── 六件。最長 ── 三分四十秒。
> 未着 累計 ── 一。
> 損壊 ── 旧市街四丁目 松の湯 煙突 全壊。裏の空き地 一部 陥没。
> 道 敷石 三箇所 割れ。仮支柱 三本 変形。
> 救助 ── 一名。搬送 ── 一名(打撲・煙)。
> 応答 ── 十四時二十一分、記録に欠落あり。
> 本件、処理 ── 完了。
> ── 入電。




