第050話 待ってます
> 【第七支部 覚知記録】
> 覚知 ── 三月二十七日 十六時二分。
> 入電 ── 携帯電話。発信地 ── 中央駅前 一丁目。
> 第一声 ──「待ってます」
> 出場 ── 第七支部 全隊。
「待ってます」
尾花律子は用紙を引き寄せた。時刻を分まで書く。秒は書かない。何を待っているのかは、まだ書かない。
「はい、鳴瀬市消防指令センターです。今おられる場所を教えてください」
場所を先に訊く日が、この月に二度あった。二度とも、切れそうな理由が声の後ろに聞こえている。
「中央駅前の、一丁目です。改札の前の広場で」
「何が起きたか教えてください」
「柵が。並ぶための柵が、勝手に動いて。囲まれて、出られません」
「けがはありますか」
「無いです。動けないだけで。みんな、待ってます」
尾花は用紙の右の欄へ、駅前広場、柵、閉じ込め、と書いた。三つ並ぶと、持っていくものが決まる。声は三十くらいの男で、慌てていない。慌てていない人ほど、周りを先に数える。
「人数は分かりますか」
「数えます。……十人は超えてます。もっといるかも」
「わかりました。今、隊が出ます。柵を持ち上げようとしないでください。それから、電話は切らないでください」
「はい」
「もう一つだけ。囲いの中で、座らないでください。座ると、周りが見えなくなります」
声が返ってきた。返ってきた声は、後ろの人へ同じことを伝えている途中で切れた。伝えている側の声の方が、電話へ向けた声より大きい。
尾花はそこで秒を書いた。この日、初めて秒を書いた。書いてから、回線の枠を見た。八つのうち、光っているのは一つになる。
*
十六時二分の三階には、六人ともいた。年度末の当直の入れ替わりで、この日だけ全員が同じ時刻に上がっている。三月に一度、そういう日がある。
武藤とうふ店は十時に置いていく。三月は六丁になる。六丁目に挟んであった紙は、まだ読めていない。棚の上で三週間目になった。
三月の終わりの三階は、窓の高さまで日が差す。差した光が、卓の上の椀の縁で二度折れた。年度が替わる週で、外の道にも人が多い。
寺尾剛は湯を張った鍋の前にいた。張るのは早い。食べるのはいつも最後になる。
「まあ待て。今日は九つ出す。年度末は、誰が上がってくるか分からん」
二文で言って、椀を九つ並べた。並べた九つのうち、八つに人が来る。九つ目は、三年ずっと空いている。誰も片付けない。誰も理由を訊かない。年度が替わっても、数は九つのままになる。
一年の終わりの週は、街の側も片付けをする。使わなくなった物が道へ出て、風に当たる。三月の出場は、その物が動いた回が多い。
灰谷蒼汰は索を膝の上へ広げて、端から端まで指で送っていた。三年、出る前に必ず一度やる。
「四本です。三月は洗った日が十一日でした」
言いながら、四本目の端で指を止めた。塩を吸った場所は、洗っても色が戻らない。戻らないまま、それでも使う。使えなくなるのは、色ではなく芯が動く時になる。
七尾ひかりは酸素の残りを見ていた。見てから、七つ数えた。七つ数えて、七つで戻った。数え終わってから袋を閉じて、閉じた口の紐をいつもより短く結ぶ。三月の終わりは、走る現場が増える。
逢坂澪は受信席の裏で、机の左の端を見ていた。付箋の束がそこにある。誰も中を見ていない。
束は十二枚になっていた。四枚は三年で一件しか通報が来ていない場所、二枚は一度も来ていない町、三枚は点検の記録が飛んでいる建物、三枚は数字だけが残って理由の欄が空いている設備になる。三年前からの四枚と、この半年の八枚では、集まり方が違う。澪はまだ誰にも言っていない。
五枚目には、何も書いていない。貼ってから七か月経っている。貼った日に何も書かなかったのは、書く言葉が無かったからになる。
火群迅は自販機の前にいた。一番下の段を押す。理由を言ったことがない。缶を取って、指の腹で口を一度拭いてから開ける。開ける音が、廊下の端まで届いた。
届いた先で、誰も振り返らない。三年で、この音は支部の音の一つになっている。
久遠寺修司は掲示板の前に立っていた。未着累計の欄には零と書いてある。三年、この欄の数字は動いていない。本部からは伏せろと言われていて、この支部だけが掲示している。理由を訊いた者はいない。
「今日は九つか」
訊いたのは久遠寺で、答えたのは寺尾になる。
「九つです。八人しか来なくても、九つ出します」
覚知の音が鳴った。鳴った音の下で、寺尾が火を落として蓋をする。九つの椀は、そのまま並んでいた。
九つ目の椀には、箸も置いてある。置くのは寺尾で、置いた向きは他の八つと同じになる。
三年、この椀に汁が入ったことはない。入れないまま、毎回出す。誰かが来る前提で並べるのが、この人のやり方になる。
佐波悠が地下三層から上がってきた。工具箱を提げたままになる。
「宮ヶ瀬さん。ファイヤーの胴の付け根、増し締めしました」
「締めただけです。年度末に走る回数の分を、まだ作れていません」
宮ヶ瀬佳代は逆から言う。出来ていることを先に言わない。言ってから、盤の隅に三月の出場の数を出したままにした。二十七日で、もう二月の数を越えている。
梅木あかねが盤の前で、五機の並びを見直していた。年度末に入ってから、出る順を毎朝入れ替えている。
「駅前は、車を置ける場所が三つしかありません。西のバスの乗り場だけ、外して並べます」
「外した場所に、あとで置くことになります」
宮ヶ瀬の返しは、いつも逆から入る。梅木は言い返さないで、西だけ空けた並びをそのまま置いた。
速水が受信席で、中央駅前の地図を出した。出してから、改札の前の広場を指でなぞる。なぞった指の下には、去年の版には無い印が入っている。年度末の窓口は、今年から広場に出るようになった。
「年度末の窓口が、広場の東に出ています。並ぶ人のための柵が、今週だけで二百組入りました」
澪が地図を引き寄せた。引き寄せてから、東の側に指を置く。指の下には、窓口の仮設のしるしがある。
「中央駅前一丁目。改札前広場。柵に囲まれて出られない人が十人以上。けがの報告はありません」
「二百組は、何処に置いてある」
「窓口の後ろに百二十組。広場の南に六十組。残りの二十組は、記録に無いです」
「アンサー」
> ── はい。
「その二十組が、いつ広場に入ったかを」
> ── 記録がありません。……納品の伝票は百八十組までです。残りの二十組は、伝票にも、返却の記録にも出てきません。
「置いてある場所は」
> ── わかりません。
アンサーは、分からないことを分からないと言う。三年、そこだけは変わらない。
澪はそこで一度、地図の縁を指で押さえた。押さえたのは、線を引く前の癖になる。
「座標、出た」
久遠寺が短く訊いた。
「広場の出口は」
「四つです。北が改札、東が窓口、南が階段、西がバスの乗り場になります」
「塞がっているのは」
「四つとも通れます。塞がっているのは、囲いの内側だけです」
「外の人は」
「歩けます。買い物も、電車も、いつも通りです。囲われた十四人だけが動けません」
久遠寺はそれ以上訊かなかった。訊かないで、掲示板の方を一度だけ見た。見てから、机の上の受話器を戻す。
この人は指令役で、現場にも出る。出ない日は、掲示板の前に立っている時間が長い。
誰も、順番に、とは言わなかった。言わなくても、地図の上で四つの口に同じ印が付いている。付けたのは澪で、いつ付けたかは言っていない。
*
地下二層のポールを、迅が最初に下りた。二段飛ばしで踊り場を抜けて、下りきる前に走りはじめる。アンサーは一段ずつ下りる。三年、この対比が変わらない。
「発進」
合図は整備班が出す。六人ではない。
中央駅前一丁目は、三月の夕方で人が多い。年度末の窓口が二十一時まで開いていて、封筒を持った人が広場を横切っていく。日が伸びて、十六時でもまだ明るい。
広場の東には、市の仮設の窓口が三つ並んでいた。転入と転出の届けを出す人が、この週だけそこへ来る。列は毎日、同じ時刻に一番長くなる。
その時刻が、十六時になる。
この日の列は、いつもより長かった。年度が替わる前の最後の平日で、届けを出す人が重なっている。
サイレンファイヤーが広場の西で止まった。止めた場所は、バスの乗り場を塞がない位置になる。塞ぐと、駅から出る人の流れが広場の中央へ寄る。
寄せてはいけない場所へ人を寄せないのが、着ける時の最初の仕事になる。三年で身に付いた順番で、六人とも同じ判断をする。
広場の真ん中に、柵の輪があった。柵は、並ぶための柵だった。金属の柱に帯が張ってあって、柱と柱が帯で繋がっている。それが二十組、輪になって立っている。
輪の中に、人がいた。数えると十四人になる。封筒を持った人、荷物を提げた人、制服の学生が三人。年度末の窓口へ並んでいた列が、そのまま囲われた形になっている。
列に並ぶというのは、動かないでいることになる。動かないでいる人を囲うのに、力は要らない。
輪の高さは、腰より少し上しかない。跨げば出られる高さになる。跨いだ人が一人いて、その足が帯に触れた瞬間、隣の柱が横へ滑ってその人の前へ回った。回った柱は、跨ごうとした足の先に立つ。立ってから、動かない。
跨いだ人は、足を戻した。戻した後で、周りを見た。周りの十三人も、同じ方を見ている。
誰も声を上げていない。上げないまま、並んでいた時と同じ形で立っている。
「越えないでください」
ひかりが先に着いた。輪の外から、中の人へ声を掛ける。
「越えると、そこへ立ちます。座らないでいてください」
言ってから、ひかりは輪の高さで膝を折った。折った姿勢のまま、中の人と目の高さを合わせる。合わせると、指示が届く速さが変わる。
ひかりは輪の外を歩きながら、中の十四人を順に見た。座っている人が一人、浅い息の人が一人、あとの十二人は立っている。
立っている十二人のうち、四人が同じ方を向いていた。向いている先には、抜けられそうな帯の切れ目がある。切れ目は、見えているだけで開いていない。
見えている出口の方へ、人は自分から寄る。寄った先で止まると、輪はそちら側だけ厚くなる。ひかりは四人へ、順に別の方を向いてもらった。
輪の中で、電話を持った男が手を上げた。三十くらいで、封筒を脇に挟んでいる。
「田上です。俺が掛けました。まだ繋がってます」
電話は、耳から離して胸の前に持っていた。指令の側から、そうしてくださいと言われた通りにしている。
言われた通りにする人は、後で何を言われたかを覚えていた。覚えている人が、次の現場で誰かに同じことを言う。
「切らないでいてください。座っている人はいますか」
「一人います。学生の子が」
「その子に立ってもらってください。ゆっくりで」
田上が振り返って、後ろの人へ同じことを言った。言い方が、ひかりの言い方と同じ順序になっている。誰も教えていない。
学生が立った。立ってから、両手を体の横へ下ろす。下ろした手が、帯に触れない位置で止まった。
迅は輪の外側を一周した。一周しながら、柱の足元を見ている。電源は無い。線も来ていない。動かしているものが、何処にも無い。
止める場所があるなら、そこを止めてから隙を作る。三年、それで通してきた現場が何度もある。今日は、止める場所が見つからない。
止める元が無いものは、止められない。迅は一周してから、同じ場所へ戻った。戻ってから、輪の高さをもう一度見る。
跨げる高さになる。跨げる高さのものが、跨げない形で立っている。
「トリアージ」
迅が左手首の蓋を跳ね上げた。ブレスは、色を出さなかった。
> ── 判定、出ません。
アンサーの声が、それだけ返した。迅は蓋を閉めなかった。閉めないまま、輪の方を見ている。
「赤で動く」
四文字だった。理由は付けなかった。赤で動けば、必殺は撃てない。撃たずに開けることになる。二十組の柵を、一組ずつ開けることになる。
寺尾が迅の横へ来た。来てから、輪の高さを見た。
「まあ待て。二十組だな。一組ずつなら、俺が押さえる方が速い」
二文で言って、ハンマーを肩から下ろした。
*
「急報 ── 出場!」
> サイレン ── 起動。〈火群 迅〉。応答、確認。
> サイレン ── 起動。〈逢坂 澪〉〈灰谷 蒼汰〉〈寺尾 剛〉〈七尾 ひかり〉。応答、確認。
五人が同時に上がった。上がった先は、広場の西の縁になる。迅は右手を耳の高さへ上げた。掌を外へ向ける。四人が続けた。
輪の中から、十四人がその形を見ていた。
> 水を持ってく、火の現場 ─── サイレンレッド!
> 声を持ってく、知の現場 ─── サイレンブルー!
> 綱を持ってく、高の現場 ─── サイレンイエロー!
> 梁を持ってく、圧の現場 ─── サイレングリーン!
> 息を持ってく、生の現場 ─── サイレンピンク!
>
> 特別災害対策機構、第七支部 ──
> 呼ばれたら、鳴らして、行く!
> 急報戦隊、サイレンジャー!
声は広場の四方へ抜けた。抜けた先の改札で、封筒を持った人が振り返る。
> ── 回線、残り 二本。
迅がギアの柄を半回転させた。噛む音が、支柱の擦れる音の下から出てくる。
「筒先!」
水は出さなかった。出さずに、筒先の先で帯を掬い上げる。掬った帯が支柱から外れて、外れた一本の下を人が一人抜けた。
一組で、一人になる。
「まあ待て。俺が押さえる。倒すと隣が寄る」
寺尾がハンマーの柄を横にして、支柱の足元へ当てた。当てた場所を、体重で押さえる。押さえている間だけ、その支柱は動かない。押さえる場所は、一度に一つしかない。
「上、任せろ。帯を四本、外へ」
蒼汰が索を投げた。投げた索が、輪の外側の支柱の頭へ巻いた。巻いてから、バスの乗り場の柱へ二重に取る。留めた索が張って、張った先で外側の一列が広場の縁へ寄った。
澪が広場の北でソナーを構えた。撃つ前に必ず人数を言う。
「十九名。輪の中に十四、外に五。柵の中は零。撃てる」
撃たなかった。構えたまま、指を引き金から外す。
「撃てる、と言っただけになります。赤で動くなら、当てません」
言ってから、澪は構えを下ろした。下ろしてから、支柱の並びを数え直す。
「二十組です。一組ずつだと、二十回になります」
一組で、一人。二人目が抜けた。三人目が抜けた。四人目のところで、輪が縮んだ。縮んだ分だけ中の人が寄って、寄った人の肩と肩が付いた。
抜けた人は、広場の外へは行かない。西の縁で足を止めて、中を見ている。四人とも同じ場所に立った。誰も、そこに立てとは言っていない。
三月の風が、広場の東から西へ抜けていた。抜ける風の中で、四人は上着の前を合わせない。
「息、返すよ」
ひかりが輪の内側へ手を入れた。学生の一人が、浅い息になっている。七つ数えた。七つ数えて、九つで戻った。九つは、三年で一番遅い。遅くても、戻れば数え直さない。数え直すのは、戻らなかった時だけになる。
迅が筒先を持ち替えた。持ち替えた先で、帯ではなく柱の根元を掬う。掬った柱が浮いて、浮いた下から五人目が抜けた。
浮かせている間、迅は動かない。動くと下がる。下がると、抜けようとしている人の背が挟まる。
持っている腕の内側が、装甲の中で熱くなっていた。
十六時十九分になっていた。
*
支部の受信席で、二本目の回線が光った。
尾花は一本目を切らなかった。切れば、広場の田上と繋がらなくなる。繋がらなくなれば、囲いの中の様子が誰にも入らない。
左手で二本目を取って、いつもの一行を言った。
「はい、鳴瀬市消防指令センターです」
向こうで、声がした。
「もう少しだけ、そのままでお待ちください」
いつもの言い方だった。速さも、切り方も、他の日と変わらない。
尾花はそう言って、保留のボタンを押した。押した指を、離さないでいた。
同じ言葉を、この人は年に何十回も言う。言った相手のほとんどは、待ってから繋がる。繋がってから、隊が出る。
右の耳では、広場の音が続いている。田上の声と、その後ろの人の声と、外の隊の声が重なっていた。重なった音の中から、尾花は必要なものだけを拾って書いている。
市の指令センターの本席へ回せば、別の人が取れる。回すには、空いている回線が要る。空いているのは、この一本だけになる。この一本を回すと、田上との通話が落ちる。
尾花は保留のまま、右の耳の方を続けた。
受信席の盤には、八つの枠がある。枠は左から順に埋まる。この時、左から七つが光っていた。
六つは、広場の五人と、組み上がる前の機体が使っている。七つ目が田上で、八つ目が保留の側に落ちた。
八つのうち、尾花が動かせるのは八つ目だけになる。
広場では、六人目が抜けていた。輪は、抜けた分だけ縮んでいる。縮んだ輪は、外側の帯が一枚ずつ重なって、厚くなっていく。
「厚くなってます。二十組が、十八組の厚さに」
澪の声が、盤へ届いた。届いた盤の前で、宮ヶ瀬は何も返さなかった。
「一組ずつでは、追いつきません」
「追いつかせる」
輪の外側に立って、内側へ腕を入れる。入れた腕の位置は、抜ける人の背より低い。低い位置に置けば、抜ける人が屈まなくて済む。
迅の返事は短い。理由は付けなかった。
寺尾が押さえている柱を、迅が両手で掴んだ。掴んだまま、上へ持ち上げる。持ち上げた高さは、腰から胸まで。その下を、二人が同時に抜けた。
二人が抜ける間、寺尾は足元から手を離さない。離せば柱が戻る。戻る速さは、人が抜ける速さより早い。
一組で、二人になった。
蒼汰が索の掛け先を変えた。外側から内側へ移して、帯を四本まとめて外へ引く。
「四本、抜けます。六十度」
引く前に、蒼汰は索の腹を一度だけ握り直した。握り直した場所が、外れる帯の位置を決める。
引いた四本の下を、三人が抜けた。抜けた三人は、広場の西の縁で足を止めた。止めてから、まだ中にいる人の方を見ている。
十六時二十三分。輪の中に残っているのは、三人になる。
支部の受信席では、保留のランプが消えた。尾花は左手を伸ばした。伸ばした先のボタンを押しても、何も戻らない。
落ちた回線の記録が、盤の隅に出た。四分十二秒、と出ている。
尾花は右の耳の方を続けた。広場の音は、まだ切れていない。田上の声も、その後ろの声も、続いている。
用紙の上には、二つ目の欄がある。保留の欄になる。数字を入れる場所で、比べる場所ではない。
尾花はそこへ、四分十二秒、と書いた。書いてから、次の欄へ移った。
*
広場の三人が抜けたのは、十六時二十六分になる。
最後の一人は、封筒を落とした。落とした封筒を、拾ってから出た。拾うのに、四秒掛かっている。
抜けきるまでに、二十六分掛かっている。壊さずに開けると、そうなる。
撃てば、もっと早い。撃たないと決めたのは迅で、決めた時に理由を言っていない。理由を言わないまま、五人がその決めに乗った。
輪は、人が全部抜けたところで形を変えた。二十組の柵が互いに噛み合って、一つの塊になる。塊は広場の真ん中で立ち上がって、改札の天蓋の高さで止まらない。
音は、金属が金属を噛む音だった。一本ずつではなく、二十組が同じ拍で鳴る。
「トリアージ」
迅がもう一度、蓋を跳ね上げた。跳ね上げた蓋の下で、今度は色が出る。
> 判定 ── 黒。要救助者、内部に確認できません。
今度は出た。
「遅い」
迅がそう言った。誰にも向けていない。
地下三層で宮ヶ瀬が盤を叩いた。
「駅前です。広場の人が、まだ抜けきっていません。天蓋の下は空けてください」
「発進」
合図は整備班が出す。
サイレンファイヤーが広場の西で立った。レスキューが右へ、クレーンが左へ、メディックが右の脚へ、ウイングが背へ回る。
> ── 回線、残り 一本。
改札の中から、人が見上げていた。年度末の窓口の列が途切れて、封筒を持った人が全員、同じ方を向いている。十六時の駅前で、これだけの人が同時に上を向くことは、年に何度も無い。
見上げている人の中に、囲われていた十四人がいる。十四人とも、広場の西の縁に立っていた。誰も家へ帰らずに、そこで見ている。
サイレンオーの左手は、握ったままだった。開かない。その左手を、迅は改札の天蓋の下へ差し込んだ。差し込んだ腕が、柱の代わりになる。
天蓋は三十年前のもので、支柱が四本しかない。二本が塊の側に寄っている。腕が入った分だけ、天蓋が落ちなくなった。
塊が、腕の外側から回り込もうとした。回り込む先には、改札の列がある。
右腕が動いた。開く方の掌が、塊の腹を横から掴む。掴んだ場所で、金属が鳴った。鳴った下から、帯の束が出てくる。二十組を繋いでいた帯が、束になって芯を作っている。
「サイレンオー ── 全消斬ッ!」
押し出した掌が、芯を横から抜いた。抜けた芯の上で、塊が形を保てなくなる。
三年、六人はこれを毎回やっている。芯を抜けば、禍体は形を失う。中には何も入っていない。確かめる度に、確かめただけで終わる。
柵が一組ずつになって、広場の舗装へ落ちた。落ちた音が、改札の中まで届いた。
落ちきったところで、ファイヤーの胴の付け根が鳴った。天蓋の支柱に噛んだまま、腕を抜いたためになる。
抜かなければ、天蓋が落ちる。天蓋の下には、まだ人が残っていた。
十六時三十七分。広場から声が上がった。上がったのは、改札の中からになる。拍手ではない。声だった。
田上が、広場の西の縁に立っていた。立ったまま、右手を耳の高さへ上げる。掌を外へ向けた。
誰も教えていない。囲いの中から、五人が同じ形をするのを見ていた。隣にいた学生の一人が、同じ形を返す。
*
地下二層で、佐波がファイヤーの胴の付け根を見ていた。噛んだ場所が、内側へ入り込んでいる。増し締めした場所の、すぐ隣になる。
「中です。当分、合体できません」
「合体しない前提で、次を組みます」
言ってから、宮ヶ瀬は五人分のブレスの記録を出した。出した紙は、盤の上に置いたままになる。
宮ヶ瀬は工具を置いた。置いてから、それ以上は足さなかった。
梅木が並びを元へ戻した。西だけ空けた並びを崩して、明日の朝の順に直す。直しながら、ファイヤーの欄に札を掛けた。札には、日付と、噛んだ場所の名だけが書いてある。
速水が受信席で、駅前の地図を畳んでいた。畳みながら、佐波に言った。
「記録に無かった二十組が、輪になった分でした」
「数えたのは澪さんだ」
「本人に言います。今日は、言います」
三階の食堂で、寺尾が湯豆腐を出し直した。三月の椀は、九つ並んだままになっている。八つに人が来て、九つ目は空いている。
汁を張るのは、八つだけになる。三年、この数は変わっていない。
この日、椀は九つのまま卓に残った。片付けたのは翌朝で、片付けたのが誰かは分からない。
「今日も間に合ったな」
寺尾がそう言った。
「間に合った」
迅が答えた。三年、この二つはいつも同じ順で出る。順が変わったことは一度も無い。
階段を上がってくる音がした。尾花律子が、綴じる前の用紙を一枚持って立っていた。この人が三階へ上がってくるのは、三年で四度目になる。
用紙を、卓の端へ置いた。置いてから、下りていった。何も言わない。読み上げもしない。
置いた紙は、綴じる前の一枚になる。綴じてしまえば、月の束の中へ入る。
置かれた紙の、未着の欄に、一と書いてある。
誰も何も言わなかった。寺尾が九つ目の椀を見て、それから鍋の火を落とす。豆腐は、六丁とも残っている。
この日、六人は食べ終わらなかった。三年で、食べ終わった回は三度しかない。今日は、その三度に入らない。
尾花は受信席へ戻った。落ちた回線の録音を、一度だけ聞き直した。聞いてから、用紙の第一声の欄を見た。
ペンを取って、線を引いた。一本目を引いて、二本目を引いて、五本目まで引いた。字は書かなかった。
引いた線は、欄の幅の半分で止まっている。止めた場所より右は、白いままになる。
四分十二秒。
用紙は、その夜のうちに綴じられた。三月の束の、二十七日の位置に入る。
束の背には、月の数字が入る。三月の束は、二月の束より二センチ厚い。厚くなった理由は、この人が毎年、誰にも説明しない。
翌朝の五時、受信席の裏の灯りが点いていた。点けるのは澪ではない。三年、誰が点けたかを訊いていない。
澪は机の左の端に立っていた。付箋の束が、十三枚になっている。十三枚目には、丘の上三丁目、と書いてあった。
その隣に、五枚目がある。七か月、何も書いていない付箋になる。貼った場所は、丘の上三丁目の坂の中ほどになる。三年で一度も通報の来ていない二枚のうちの、片方に当たる。
澪はペンを取って、五枚目に日付を書いた。書いたのは日付だけになる。名前は書かない。書く名前が、この付箋には無い。
貼った十三枚を、澪は並べ替えなかった。貼った順のまま、机の左の端に留めてある。並べ替えると、順が分からなくなる。
順が分かるうちは、まだ何も分かっていない。分かるのは、順が変わった時になる。
久遠寺が後ろに立っていた。
「見えたか」
「順番があります」
久遠寺は、それが何の順番かを訊かなかった。
それだけ言って、澪は束を元へ戻した。久遠寺は続きを訊かなかった。訊かないで、掲示板の方へ歩いていく。
同じ朝、丘の上三丁目の新聞受けに、朝刊が二つ入っていた。前の日の夕刊が、抜かれないまま残っている。
配達の人は、二日分が重なっているのに気付いて、町内会の当番へ言った。当番の人は、その家の前で回覧板を止めた。止めた回覧板は、隣の家へ回らない。
三丁目の回覧板は、その週だけ一軒ぶん遅れて回る。遅れた理由を、隣の家の人は訊いていない。
三丁目の坂の中ほどの家では、その日も門から誰も出てこなかった。石段の上の枝が、少し伸びている。伸びた分は、去年の秋に切った場所から出ている。
掲示板の未着累計の欄が、書き換えられていた。書き換えたのは久遠寺で、誰も見ていない。零の上に、一が書いてある。
本部からは、この欄を伏せろと言われている。三年、この支部だけが掲示してきた。伏せろと言われていた数字が、この日から零ではなくなった。
それでも、外して仕舞うことはしなかった。
> 【第七支部 出場記録】
> 臨場 ── 十六時十一分。所要 ── 九分。
> 保留 ── 一件。最長 ── 四分十二秒。
> 未着 累計 ── 一。
> 未着 一件 ── 丘の上三丁目。覚知 十六時十九分。
> 第一声 ──「─────」
> 損壊 ── 中央駅前一丁目 駅前広場 舗装 一部 剥離。改札前 天蓋 支柱 二本 変形。
> 整理用柵 二十組 使用不能。
> 救助 ── 十四名。搬送 ── 二名(過呼吸)。
> ── 入電。




