第049話 いま切れます
> 【第七支部 覚知記録】
> 覚知 ── 三月二十日 十五時五十分。
> 入電 ── 携帯電話。発信地 ── 湾岸 二丁目。
> 第一声 ──「いま切れます」
> 出場 ── 第七支部 全隊。
「いま切れます」
尾花律子は用紙を引き寄せた。時刻を分まで書く。秒は書かない。何が切れるのかは、聞かなくても分かる。
この第一声で掛けてくる人は、三年で十一人いた。十一人とも、電池のことを言っている。
残りの時間が読めない通報は、順番が変わる。普段は名前から訊く。今日は訊かない。
「はい、鳴瀬市消防指令センターです。場所を先に教えてください」
「湾岸の、二丁目の防波堤です。テトラの、外側」
「わかりました。何が起きたか教えてください」
「連れが落ちました。ブロックとブロックの間に。足が挟まってて、上がれません」
「人数を教えてください」
「二人です。落ちたのが一人、私が一人」
尾花は用紙の右の欄へ、湾岸二丁目、消波ブロック外側、転落一名、と書いた。三つ並ぶと、持っていくものが決まる。
「わかりました。画面を暗くしてください。それから、この電話は切らないで、耳から離してください」
「暗くって」
「一番暗くです。明るいままだと、早く切れます」
向こうで、指が擦れる音がした。それから、声が少し遠くなる。
「切れたら、同じ場所からもう一度掛けてください。同じ場所です。動かないでください」
「潮が上がってきてます」
「わかりました。上がってくる側から、あなたは離れてください。落ちた方には触らないで、声だけ掛け続けてください」
声が返らなかった。切れた音でもない。波が一度、受話器の傍で大きくなって、それで終わった。
尾花はそこで秒を書いた。書いてから、回線の枠を見た。左から二つが光っている。
二つのうち、一つは消えている。消えた枠を、尾花は消さずに残した。
*
十五時五十分の三階は、片付けの途中だった。
武藤とうふ店は十時に置いていく。三月は六丁になる。六丁目に挟んであった紙は、まだ読めていない。棚の上で二週間になる。
三月の午後は、二月より三十分長く明るい。窓の高さが変わらないので、食堂の床の光の位置だけが動く。
寺尾剛は鍋を洗っていた。洗うのは早い。乾かすのは遅い。
「まあ待て。今日は洗ってから出る。塩の日は、帰ると手が回らん」
二文で言って、鍋を伏せた。伏せた向きは、欠けた縁が上になっている。
灰谷蒼汰は索を膝の上へ広げて、端から端まで指で送っていた。三年、出る前に必ず一度やる。
「四本です。海の日は洗う日が二日増えます」
言いながら、三本目の中ほどで指を止めた。塩を吸った索は、そこだけ硬くなる。
七尾ひかりは酸素の残りを見ていた。見てから、七つ数えた。七つ数えて、七つで戻った。
見終わってから、毛布の枚数を数え直した。三月の海は、二月とほとんど変わらない。水に入った人へ掛けるものは、冬と同じ数だけ積んである。
積んだ上に、乾いた靴下を二足置いた。二足置くのは、足から冷える人が二人いるかも知れないからになる。
逢坂澪は受信席の裏で、潮の表を出していた。二十日の湾岸は、十六時四十分が満潮になる。
表の紙は、市の港湾課が毎年配るものになる。今年の分は、去年より一枚薄い。減ったのは、測る場所が一つ減ったからで、減った理由は書いていない。
澪はその紙を、机の左の端へ寄せた。寄せた場所には、付箋の束がある。
火群迅は自販機の前にいた。一番下の段を押す。理由を言ったことがない。
久遠寺修司は掲示板の前に立っていた。未着累計の欄には零と書いてある。三年、この欄の数字が変わったところを、誰も見ていない。
覚知の音が鳴った。
鳴った音の下で、寺尾が伏せた鍋の向きをもう一度直した。直してから走り出す。
戸倉が地下二層から上がってきた。手に、塩を落とす刷毛を提げている。
「宮ヶ瀬さん。ウイングの翼の付け根、洗いました」
「洗っただけです。塩を吸わない部品は、まだ作れていません」
宮ヶ瀬佳代は逆から言う。出来ていることを先に言わない。
須永が受信席の後ろから顔を出した。
「湾岸二丁目、潮位の通報が市の港湾課に出ています。今日は大潮です」
「差は」
「満潮と干潮で、一メートル六十あります」
「今日の日没は」
「十七時五十八分です。日が伸びました」
須永は言ってから、紙をもう一枚出した。二枚目には、去年の同じ日の潮位が並んでいる。並べる癖は、この人が一人でやっていることになる。
澪が地図を出した。出してから、湾岸二丁目の防波堤の外側に指を置いた。
「湾岸二丁目。防波堤の外に、消波ブロックが三列。転落一名、足が挟まって自力で出られません。通報者は同じ列の上」
地図の上で、指が海の側へ動いた。動いた先には、線が引いてない。
「アンサー」
> ── はい。
「この列の、ブロックの上の面の高さを」
> ── 満潮の水面から、五十センチです。……列の外側の三段目から先は、記録がありません。
「今日の満潮は」
> ── 十六時四十分になります。現在との差は、四十七分です。
澪はそこで一度、地図の縁を指で押さえた。押さえたのは、線を引く前の癖になる。
「座標、出た」
久遠寺が短く訊いた。
「上がるのは」
「一時間で、四十センチです。挟まっている足の位置が、水面から三十センチしかありません」
誰も、間に合うか、とは訊かなかった。訊かないまま、全員が下へ走った。
*
地下二層のポールを、迅が最初に下りた。二段飛ばしで踊り場を抜けて、下りきる前に走りはじめる。
「発進」
合図は整備班が出す。六人ではない。
ウイングが先に上がった。海の上を回って、防波堤の外側で高度を落とす。
湾岸二丁目の防波堤は、車が天端まで入れる。入れるが、外側へは下りられない。下りる梯子は北の端に一箇所あって、今日はそこから百二十メートル離れている。
三月の海は、色が二月と違う。濁りが上へ上がってきて、水の下が見えない。見えないので、足の位置は手で探ることになる。
サイレンファイヤーが天端の中ほどで止まった。止めた場所から、外側の列までは十二メートルある。
消波ブロックは、四つ足の形をしている。四つ足が互いの隙間へ入り込んで、列になっている。
一つの重さは、人が動かせる重さではない。動くのは、波が動かす時だけになる。三十年前に置かれてから、一列ずつ、少しずつ海の側へ寄っている。
寄った分の記録は、市の港湾課の紙に載っていない。載っていないので、誰も直していない。
その隙間の一つに、人が落ちていた。落ちた場所は、上から二段目と三段目の間になる。
隙間は、上から見ると人一人分の幅がある。下へ行くほど狭い。狭くなる先に足が入っている。
上から見えるのは肩から上だけになる。若い男で、上着が海の色で濡れている。
もう一人が、二つ隣のブロックの上にいた。膝をついて、下を覗いている。手に電話を握ったままでいる。
「聞こえてます。まだ、こっち聞こえてます」
ひかりが先に下りた。ブロックの上を三つ渡って、隙間の縁で膝を突く。
「立石さん。七尾といいます。足の周りを見ます」
「足首から下が、動かないんです。挟まってて」
「動かさないでください。私が触ります」
水面は、男の腰のところまで来ていた。来ている位置が、十分前より二センチ上がっている。
二センチは、目で見て分かる高さではない。分かるのは、ブロックの表面の乾いた色と濡れた色の境が動くからになる。境の上には、貝の跡が白く点いている。
境は、止まっていない。
蒼汰が索を投げた。投げた索が、隣のブロックの足の付け根へ巻いた。巻いてから、防波堤の天端の係船柱へ二重に取る。
「上、任せろ。支点は柱です。索は二本」
寺尾がハンマーを天端の縁へ立てた。柱を三本、ブロックの隙間の外側へ打ち込む。
「まあ待て。俺が支える。ブロックは動かさん。動かすと下が締まる」
二文で言って、三本の頭を隙間の口へ向けた。向けた分だけ、隙間の幅が広がらずに固定される。
迅が隙間の縁へ足を掛けた。掛けてから、体を下へ落とす。
落ちた先は、水の中になる。三月の海は、指先から感覚が消える速さで冷たい。
「足の先は」
「わかりません。冷たいのだけ、分かります」
「なら、まだいい」
水の中では、上着の重さが変わる。濡れた分だけ肩が下がって、腕の上げ方が浅くなる。浅くなった分は、腰で作る。
迅は水に浸かったまま、男の靴の上へ手を入れた。挟んでいるのは、ブロックの足ではなく、その下に入り込んだ古いロープの束だった。
束は、長い年月をかけて海の底で固まったものになる。触ると、綱ではなく木の根に近い硬さがある。
波が来る度に、束が動く。動くと締まる。締まった分だけ、靴の上の隙間が消えていく。
「上、任せろ。切らずに抜きます。十二ミリが四本」
蒼汰が二本目の索を下ろした。下ろした先で、束の一端へ鉤を掛ける。
掛けてから、蒼汰は引かなかった。引く代わりに、天端の柱の側から、少しずつ角度を変えていく。
束が、横へずれた。ずれた分だけ、靴の上に隙間が出来る。
ひかりが隙間へ手を入れた。入れてから、靴の踵を先に押さえる。
「立石さん。今から抜きます。痛かったら言ってください」
「大丈夫です」
「大丈夫でも言ってください」
抜けた。抜けた足首は、赤くなっているだけになる。骨は動いている。
動くことを、ひかりは指で三箇所、順に確かめた。確かめてから、袋の中の添え木は使わなかった。使わない方が、上げる時に早い。
男を天端まで上げるのに、二分掛かった。上げ終わった時、水面はブロックの上の面まで来ていた。
上げる途中で、ひかりは足首の下へ手を添え続けた。添えた手を、天端に着くまで離さない。離すと、体の重さが足首の一点へ乗る。
毛布は、上着を脱がせる前に掛けた。濡れた服を先に取ると、そこで一度、体温が落ちる。
通報者の方は、その間ずっと、二つ隣で膝をついていた。
立ち上がった時に、電話の画面を見た。画面は消えている。押しても、何も出ない。
この人は、切れる前に場所を言った。何が起きたかを言って、人数を言った。順に言えたのは、訊かれた順がそうだったからになる。
「切れてました。いつからか、わかりません」
「切れる前に、場所を言えていました」
通報者は、その言葉に返事をしなかった。返事の代わりに、画面の消えた電話を上着の袋へ入れる。
入れてから、天端の方を見た。天端では、立石という男が毛布を掛けられて座っている。
迅がそう言った。それ以上は言わなかった。
*
海の側の音が変わった。
変わったのは、波の音ではない。ブロックの下で、何かが擦れる音になる。
三列並んでいた消波ブロックのうち、一番外の列が動いた。四つ足が互いの隙間から抜けて、上へ乗り上がる。
乗り上がった足が、次の足の上へ乗る。乗ったところへ、また次が乗った。
音は、石が石を打つ音だった。一つずつではなく、列の全部が同じ拍で鳴る。
「トリアージ」
迅が左手首の蓋を跳ね上げた。ブレスが色を出す。
> 判定 ── 黒。要救助者、内部に確認できません。
「急報 ── 出場!」
> サイレン ── 起動。〈火群 迅〉。応答、確認。
> サイレン ── 起動。〈逢坂 澪〉〈灰谷 蒼汰〉〈寺尾 剛〉〈七尾 ひかり〉。応答、確認。
五人が同時に上がった。上がった先は、防波堤の天端になる。
迅は右手を耳の高さへ上げた。掌を外へ向ける。四人が続けた。
背中の側が海で、正面が街になる。名乗る向きは、街の方へ取った。
> 水を持ってく、火の現場 ─── サイレンレッド!
> 声を持ってく、知の現場 ─── サイレンブルー!
> 綱を持ってく、高の現場 ─── サイレンイエロー!
> 梁を持ってく、圧の現場 ─── サイレングリーン!
> 息を持ってく、生の現場 ─── サイレンピンク!
>
> 特別災害対策機構、第七支部 ──
> 呼ばれたら、鳴らして、行く!
> 急報戦隊、サイレンジャー!
声は街の側へ行った。行った先の倉庫の壁に当たって、半分だけ戻ってくる。
> ── 回線、残り 三本。
迅がギアの柄を半回転させた。噛む音が、波の引く音の下に入る。
「筒先!」
水が出た。出た水は、乗り上がったブロックの一番上の足へ当たった。当たった水は、そこで白く割れて、下の段へ落ちていく。
当たった場所で、足が横を向いた。向いた先に、次の足が来る。
寺尾が柱を二本、天端の縁へ足した。頭を海の側へ向ける。
「まあ待て。俺が受ける。天端は残す。ここが無いと、誰も外へ出られん」
蒼汰が索を二本、乗り上がった列の腹へ回した。回してから、係船柱へ取る。
「上、任せろ。二本で締めます。三十度です」
留めた索が張った。張った先で、列の上がる速さが半分になった。
澪が天端の東でソナーを構えた。撃つ前に必ず人数を言う。
「四名。天端に三、車の陰に一。列の中は零。撃てる」
撃った。低い音がブロックの列を通った。通った音が、三段目で止まる。
「三段目から下が水です。水の中の音は返ってきません」
返ってこない場所を狙うと、外れる。返ってくる場所は、水面から上の二段しかない。
澪はソナーを構え直した。構えた角度が、下向きから横向きに変わる。
「水面と同じ高さで撃ちます。水の上を滑らせます」
迅が筒先の水を切った。切ったのは、水面を乱さないためになる。
寺尾が柱の頭を下げた。蒼汰が索の張りを一度だけ緩める。
水面が平らになった。平らになった二秒の間に、澪は撃った。
「サイレンソナー ── 急救斬ッ!」
低い音が、水の上を滑って列の腹へ入った。入った先で、三段目の足が割れる。
割れた足の上で、乗り上がっていた列が支えを失った。
崩れたブロックが、海の側へ落ちた。落ちた先は、元の三列の並びに近い。
蒼汰は係船柱の二重を解いて、索を手繰った。二本とも巻き取りへ収める。収めてから、端を指で一度送る。
防波堤の上に、傘を差した人が立っていた。
雨は降っていない。三月の夕方の空は、西の端だけ赤い。
差した傘の下に、通報者が入っていた。膝をついていた方の男で、まだ電話を握っている。
「ご迷惑ですから」
声はそう言った。男が振り向いた時には、傘だけがその場に立っていた。
傘の下の天端だけ、乾いている。周りは、波を被って濡れていた。
差した人は、防波堤の先の方へ歩いていった。潮が上がった天端の上を歩いて、足跡が付いていない。
先の方には灯台がある。三十年前からそこにあって、今は自動で点く。点く時刻は、日没の十分前になる。今日の日没は、十七時五十八分になる。三月に入ってから、毎日一分ずつ遅くなっている。
メディックの後扉が開いていた。立石という男が、そこに座っている。
「息、返すよ」
ひかりが七つ数えた。七つ数えて、七つで戻った。
通報者の男は、扉の外に立ったままでいた。
「切れたのが、俺の電話で」
「切れるまで、繋がっていました」
迅がそう言った。男は電話を持ち直した。持ち直してから、右手を耳の高さへ上げる。掌を外へ向けた。
誰も教えていない。防波堤の上で、ひかりが同じ形で天端の隊へ合図するのを見ていた。
崩れたブロックの列が、もう一度動いた。
動いたのは、水の下からになる。上の二段ではなく、水面より下の段が持ち上がる。
持ち上がった塊は、海の中から立った。立った高さが、防波堤の三倍を越えて、そこで止まらない。
*
地下三層で宮ヶ瀬が盤を叩いた。
「湾岸です。潮が上がっています。足を置ける場所は、天端だけになります」
「発進」
合図は整備班が出す。
サイレンファイヤーが天端の東で立った。レスキューが右へ、クレーンが左へ、メディックが右の脚へ、ウイングが背へ回る。
> ── 回線、残り 二本。
倉庫の間から、荷役の人が三人出てきた。三人とも、上を見ている。手にした帳面を、脇へ挟んだままでいる。
湾岸の倉庫は、この時刻に扉を閉める。閉める前に外へ出た三人が、そのまま並んで立った。
仕事の終わる時刻で、この人たちは毎日ここにいる。海から何かが立つのを見るのは、三年で四度目になる。四度とも、同じ場所から見ている。
サイレンオーの左手は、握ったままだった。開かない。
その左手を、迅は消波ブロックの列へ寝かせた。寝かせた腕が、波返しの代わりになる。
腕の内側で、天端に当たる波が低くなった。低くなった分だけ、街の側が濡れない。
塊が、腕の外側から回り込もうとした。回り込む先には、倉庫の列がある。列の三棟目までは、荷が入っている。四棟目から先は空で、扉も開いている。
右腕が動いた。開く方の掌が、塊の腹を横から掬った。掬った先で、水が落ちる。
落ちた水の下から、固まった古いロープの束が出てきた。海の底で三十年、そこにあったものになる。
「サイレンオー ── 全消斬ッ!」
押し出した掌が、束の芯を横から抜いた。
抜けた芯の上で、塊が形を保てなくなる。
崩れた石が、海へ落ちた。落ちた音は、街の側までは届かない。届いたのは、波が一度高くなって天端を越える音だけになる。
越えた水は、寺尾の柱に当たって、そこで止まった。天端の舗装は、一部が剥がれただけで残っている。
荷役の三人が、そこで手を叩いた。叩いた音は、波の音に混ざって消えた。消えても、三人は叩き続けている。
一人が帳面を落とした。落とした帳面を拾わずに、そのまま叩いていた。
*
地下二層で、戸倉がウイングの翼の付け根を見ていた。
塩を吸った可動が、乾いてから重くなっている。刷毛で落として、油を差した。
「重いままです」
「重いままにします」
宮ヶ瀬は工具を置いた。置いてから、それ以上は足さなかった。
三月の海に入った装備は、真水で洗ってから乾かす。乾かす場所は地下二層の東の壁で、そこだけ風が通る。
須永が受信席の後ろで、潮の表を畳んでいた。畳みながら、戸倉に言った。
「次の大潮は、来週です。同じ場所は、また上がります」
「柱は残してあります」
三階の食堂で、寺尾が湯豆腐を出した。三月の椀は、六つ並んだ。
棚の上の紙は、まだ読めない。甘酒の瓶は、半分になっている。減らしたのが誰かは、六人とも黙っている。
「今日も間に合ったな」
寺尾がそう言った。
「間に合った」
迅が答えた。三年、この二つはいつも同じ順で出る。順が変わったことは一度も無い。
言い終わってから、迅は椀を持った。三月の湯豆腐は、二月より一丁多い。多い分は、まだ鍋にある。
尾花律子は受信席に残った。用紙を綴じて、次の一枚を出す。三月の束は、もう二月の束を越えている。
この日の保留は、二分五秒になる。一週間前より、三十四秒長い。三週続けて伸びている。
伸びた分を、尾花は欄へ書いた。書いた欄の下に、線は引かない。線を引く欄が、この用紙には無い。
六人は、この人に礼を言わない。
> 【第七支部 出場記録】
> 臨場 ── 十六時。所要 ── 十分。
> 保留 ── 一件。最長 ── 二分五秒。
> 未着 累計 ── 零。
> 損壊 ── 湾岸二丁目 防波堤 外側 消波ブロック 一列 崩落。天端 舗装 一部 剥離。
> 係船柱 一基 変形。
> 救助 ── 一名。搬送 ── 一名(足関節)。
> 市内 記録の無い水面下の構造 ── 記録なし。
> 本件、処理 ── 完了。
> ── 入電。




