第048話 地下です
> 【第七支部 覚知記録】
> 覚知 ── 三月十三日 十時二十三分。
> 入電 ── 携帯電話。発信地 ── 旧市街 一丁目。
> 第一声 ──「地下です」
> 出場 ── 第七支部 全隊。
「地下です」
尾花律子は用紙を引き寄せた。時刻を分まで書く。秒は書かない。何処の地下かは、まだ書かない。
「はい、鳴瀬市消防指令センターです。今おられる建物の名前を教えてください」
「わかりません。今日、初めて来たので」
声は中年の女で、落ち着いている。落ち着いている人ほど、自分が何を知らないかを先に言う。
「わかりました。それでは、そこから見えるものを、順に教えてください」
「木の樽です。大きいのが、六つ。並んでます」
尾花は用紙の右の欄へ、木樽六、と書いた。
「他には」
「天井が低いです。梁が、頭のすぐ上にあって。あと、壁が白くて、黒い筋が入ってます」
「その筋は、縦ですか。横ですか」
「横です。ずっと横に、同じ高さで」
尾花は三つ目を書いた。白壁、横の黒筋、と書いて、そこで手を止めた。止めたのは、書く欄を選ぶ分になる。
「わかりました。人数を教えてください」
「二人です。私と、案内してくれた方と。あの、上から何か落ちてきて、扉が開かなくなってて」
「けがはありますか」
「無いです。埃だけです。でも、外の音が急に無くなって」
尾花は左手で用紙を当直の側へ半分だけ送った。送った紙の上には、地下二名、出入口閉塞、と書いてある。
「わかりました。今、隊が出ます。扉には近寄らないでください。それから、電話は切らないでください」
「切れそうです。ここ、一本しか立ってなくて」
「切れたら、同じ場所からもう一度掛けてください。同じ場所です」
声が返らなかった。切れた音でもない。返事の代わりに、細かいものが落ちる音が入っている。
尾花はその秒を書いた。書いてから、回線の枠を見た。左から二つが光っている。
二つのうち、片方はまだ繋がっている。切れそうだと言った電話が、まだ切れていない。
*
十時二十三分の三階は、豆腐が届いた後だった。
武藤とうふ店は十時に置いていく。三月は六丁になる。六丁目に挟んであった紙は、まだ読めていない。棚の上で、一週間そのままになっている。
速水が食堂へ上がってきた。手に、旧市街の地図を持っている。
「先に出しておきました。今日は旧市街だと思います」
「何故ですか」
「風が西からです。西風の日は、旧市街の路地に物が飛びます。三年で七回ありました」
速水は地図を広げた。広げた下に、もう一枚敷いてある。敷いてあったのは湾岸の地図で、こちらは二年前の版になる。
二年前の版には、今は無い倉庫が三棟載っている。載ったままなのは、新しい版が届いていないからになる。市の更新は三年に一度で、今年がその年に当たる。
「その下のは」
「保険です」
誰も何も言わなかった。速水は湾岸の地図を先に畳んだ。畳む時に角が合わなくて、二度やり直す。
二度目も合わなかった。三度目で合った時には、旧市街の地図の方が机から落ちていた。
寺尾剛は湯を張った鍋の前にいた。張るのは早い。食べるのはいつも最後になる。
鍋の縁には、欠けが一つある。欠けた場所を上にして置くのが、この人の癖になる。理由を言わせたことは誰も無い。
「まあ待て。三月の風は昼で変わる。西から来て、昼に南へ回る」
二文で言って、鍋の蓋を半分だけずらした。
灰谷蒼汰は索を膝の上へ広げて、端から端まで指で送っていた。三年、出る前に必ず一度やる。
「四本です。狭い場所は短いのを二本足します」
言いながら、器具箱の掛け金を一つ、指で押した。押した掛け金が、半拍遅れて掛かる。
七つ目の箱には、規定に無い索が一巻き入っている。三年、誰も外へ出せと言っていない。
七尾ひかりは酸素の残りを見ていた。見てから、七つ数えた。七つ数えて、七つで戻った。
三月に入ってから、袋の中身を一つ減らした。減らした分、担架の下に毛布を一枚増やしている。旧市街の地下は、外より三度低い。
逢坂澪は受信席の裏で、旧市街の古い図面を出していた。市の建築課から借りたもので、写しの写しになる。線が二重に見える。
二重に見える線のうち、内側が古い方になる。増築の前の壁が、そこに残っている。
澪は図面の束を、机の左の端へ寄せた。寄せた場所には、付箋の束がある。誰も中を見ていない。
火群迅は自販機の前にいた。一番下の段を押す。理由を言ったことがない。
火群迅の缶は、開ける音が廊下の端まで届く。届いた先で、誰も振り返らない。三年で、この音は支部の音の一つになった。
久遠寺修司は掲示板の前に立っていた。未着累計の欄には零と書いてある。
欄の下には、月ごとの出場の数が並んでいる。三月の列だけ、まだ半分しか埋まっていない。
覚知の音が鳴った。
鳴った音の下で、寺尾が火を落とした。落としてから、蓋を戻す。
佐波悠が地下三層から上がってきた。工具箱を提げたままになる。
「宮ヶ瀬さん。レスキューの器具箱、七つ目の掛け金を直しました」
「直っていません。半拍遅れる分は、まだ作れていません」
宮ヶ瀬佳代は逆から言う。出来ていることを先に言わない。
澪が図面を机へ広げた。広げてから、旧市街一丁目に指を置いた。
「旧市街一丁目。地下のある建物が、記録では十一棟あります。図面が残っているのは、そのうち四棟です」
「木の樽は」
「二棟です。醸造の蔵と、味噌の蔵になります」
「梁の高さは」
「味噌の蔵は、地下の天井が二メートル二十。醸造の蔵は、一メートル八十です」
澪は指を蔵の方へ動かした。動かした先には、四つ辻の南東の角がある。
「アンサー」
> ── はい。
「白い壁に、横の黒い筋が入る地下を」
> ── 醸造の蔵です。壁の白は漆喰で、黒い筋は仕込みの水位の跡になります。同じ高さで横に残ります。
「筋の高さは」
> ── 床から一メートル十です。……その蔵の点検の記録は、四年前で止まっています。
アンサーは、分からないことを分からないと言う。三年、そこだけは変わらない。
「味噌の蔵には」
> ── ありません。味噌の蔵の壁は、板張りです。
澪はそこで一度、図面の縁を指で押さえた。押さえたのは、線を引く前の癖になる。
「座標、出た」
久遠寺が短く訊いた。
「入口は」
「一つです。北側の外から下りる階段が、地下への唯一の口になります」
「外に何がある」
「先週から、外壁の修理の仮囲いが立っています。高さ四メートル、幅十二メートル。西風の日に、階段の側へ倒れる向きです」
誰も、倒れた、とは言わなかった。言わなくても、地図の上で線が一本、階段の上に重なっている。
「点検は」
「四年前で止まっています」
澪はそれだけ言って、指を図面から離した。離した指が、机の左の端の方へ寄る。寄ってから、途中で止まった。
「見えたか」
「まだです」
久遠寺はそれ以上訊かなかった。訊かないで、掲示板の方へ歩いていった。
*
地下二層のポールを、迅が最初に下りた。二段飛ばしで踊り場を抜けて、下りきる前に走りはじめる。
「発進」
合図は整備班が出す。六人ではない。
旧市街一丁目の道は、車一台分しかない。四つ辻の角が四つとも建物で、曲がる時に一度、後ろへ下がる。
道の両側には、家の軒がそのまま出ている。軒の下に自転車が並んでいて、並べた向きが全部同じになっている。この町内の決まりで、誰も破らない。
三月の午前で、西風が路地を吹き抜けていた。抜ける時に、軒の下の風鈴が鳴る。冬の間、外したままだった家が、先週から掛け直している。
サイレンファイヤーが四つ辻の手前で止まった。止めたのは、角を削らないためになる。
蔵の北側では、仮囲いが階段の上へ倒れていた。単管と鉄板が、扇の形に広がっている。
鉄板の下から、階段の手すりの先だけが出ていた。
仮囲いは、単管を組んで鉄板を張ったものになる。張った鉄板の一枚に、工事の会社の名が白く抜いてある。抜いた文字が、倒れた向きで裏返って見えた。
倒れた先が階段の口で、口の幅は一メートル二十しかない。塞がると、他に出る場所が無い。
蔵の主が道の端に立っていた。七十くらいで、前掛けをしている。
「中に、二人います。うちの若いのと、見学の方と」
「若い方の名前は」
「梶井です。三十二の」
迅は名前を聞いてから、鉄板の縁へ手を掛けた。掛けた指が、朝の冷えで白い鉄に張り付く。
張り付いた指を、剥がさずにそのまま滑らせた。剥がすと皮が残る。滑らせれば残らない。
鉄板の下では、単管が互いに噛んでいる。噛んだ場所を外さずに引くと、下の一本が跳ねる。
「上、任せろ。単管九本、鉄板六枚」
蒼汰が索を投げた。投げた索が、扇の一番上の単管へ巻いた。巻いてから、四つ辻の角の電柱へ二重に取る。
「まあ待て。俺が支える。下から抜くと崩れる」
寺尾がハンマーを道の縁へ立てた。柱を三本、階段の両脇へ打ち込む。
打ち込んだ柱の頭は、鉄板の下へ入れた。入れた分だけ、鉄板と階段の間に隙間が出来る。
隙間から、声が返った。
「聞こえます。聞こえてます」
ひかりが隙間の前で膝を突いた。
「梶井さん。一枚ずつ外します。埃が落ちますので、袖で口を押さえてください」
中から、押さえた声で返事があった。
鉄板は六枚とも、上から順に外れた。外し終わるまでに四分掛かっている。
その四分、ひかりは隙間の前から動かない。中の二人へ順に声を掛け続ける。
「長沢さん。あと二枚です。そのまま押さえていてください」
中から返事が来た。返事の間隔は、四分の間で一度も空いていない。
階段の下の扉は、内側へ開く形だった。埃で白くなった扉が、押すと動いた。
開けたのは中の二人になる。開けてから、二人とも一度、上を見た。
外の音が戻ってくるのに、三秒掛かった。三秒のあと、道の音と、風鈴と、蔵の主の声が順に入ってくる。
中の二人は、そこで初めて埃を払った。払う前に、上を見る方が先だった。
*
道の反対側から、埃が上がった。
上がったのは、倒れた仮囲いの残りからになる。単管が、地面に落ちたまま束になった。
束の立ち上がり方は、河川敷の葦とも、雪の塊とも違っている。今度は、一本ずつが硬いままで組み合う。
束は下から順に立ち上がって、蔵の妻壁の高さで止まらない。二階の屋根を越えて、そこで横に太くなる。
太くなった腹の中では、単管が入れ替わり続けている。外から見て動いていない場所が一つも無い。
路地の家から、人が出てきて、また入った。出た人は戸を閉めてから、内側の鍵を掛けた。掛ける音が、道の反対側まで届く。
音は、鉄が鉄を叩く音だった。一本ずつではなく、束の内側で同時に鳴る。
「トリアージ」
迅が左手首の蓋を跳ね上げた。ブレスが色を出す。
> 判定 ── 黒。要救助者、内部に確認できません。
「急報 ── 出場!」
> サイレン ── 起動。〈火群 迅〉。応答、確認。
> サイレン ── 起動。〈逢坂 澪〉〈灰谷 蒼汰〉〈寺尾 剛〉〈七尾 ひかり〉。応答、確認。
五人が同時に上がった。上がった先は、四つ辻の真ん中になる。
迅は右手を耳の高さへ上げた。掌を外へ向ける。四人が続けた。
道が狭いので、名乗る場所は横一列にならない。前に三人、後ろに二人になる。
> 水を持ってく、火の現場 ─── サイレンレッド!
> 声を持ってく、知の現場 ─── サイレンブルー!
> 綱を持ってく、高の現場 ─── サイレンイエロー!
> 梁を持ってく、圧の現場 ─── サイレングリーン!
> 息を持ってく、生の現場 ─── サイレンピンク!
>
> 特別災害対策機構、第七支部 ──
> 呼ばれたら、鳴らして、行く!
> 急報戦隊、サイレンジャー!
声は四つ辻の四方へ抜けた。抜けた先の路地で、一度だけ返って戻ってくる。
> ── 回線、残り 三本。
迅がギアの柄を半回転させた。噛んだ音が、鉄の束の音の合間に落ちる。
「斧!」
振った刃が、束の一番下の一本へ入った。入った先で、鉄が横へ逃げる。
澪が路地の入口でソナーを構えた。撃つ前に必ず人数を言う。
「五名。道に三、蔵の前に二。束の中は零。撃てる」
撃った。低い音が束の腹を通った。通った音が、上の方で薄くなる。
「上が空です。重さは下の三分の一に集まっています」
「下から抜けん」
迅の返事は短い。下から抜けば、蔵の妻壁の方へ倒れる。
寺尾が柱を二本、蔵の妻壁の前へ打ち込んだ。頭を壁へ向けずに、道の側へ向ける。
「まあ待て。壁は俺が背負う。倒すなら、こっちへ倒せ」
蒼汰が索を二本、束の下から三分の一の高さへ回した。回してから、四つ辻の反対の角の電柱へ取る。
「上、任せろ。二本で引きます。四十五度です」
索が張った。張った先で、束が道の側へ半歩ぶん傾いた。
「サイレンワイヤー ── 急救斬ッ!」
蒼汰は引かなかった。引く代わりに、張った索の腹を靴の踵で下へ叩いた。
叩かれた索が、鞭のように束の一点へ走る。走った先は、下から三分の一の、重さの集まっている場所になる。
束が、そこで割れた。
割れ目は縦に入った。縦の割れ目から、埃でも煙でもないものが抜けていく。抜けた後には何も残らない。
禍体の中には、初めから何も入っていない。三年、六人はそれを毎回確かめて、毎回、確かめただけで終わる。
割れた鉄が道の側へ落ちた。落ちた先には、寺尾の柱が二本立っている。柱に当たった単管は、蔵の壁へは届かなかった。
蒼汰は電柱の二重を解いて、索を手繰った。二本とも巻き取りへ収める。収めてから、端を指で一度送る。
蔵の主が、若い方の袖を払っていた。埃は白くて、払うと粉になる。
払われている方は、袖を出したまま黙っている。三十二になる男で、この蔵に十年いる。十年いても、外の仮囲いが倒れる向きまでは知らない。
知っていたのは、市の建築課の紙の上だけになる。紙は四年前で止まっていた。
見学に来ていた女は、道の端で膝に手をついていた。名は長沢という。
「地下です、としか言えなくて」
「それで足ります」
迅がそう言った。それ以上は言わない。
長沢は、蔵の名も、町名も、番地も言えていない。言えたのは、樽が六つあることと、梁が低いことと、白い壁に横の筋が入っていることになる。
その三つで、場所は決まった。決めたのは受信席と地図の側で、長沢はそれを知らない。
長沢は顔を上げた。上げてから、右手を耳の高さへ上げる。掌を外へ向けた。
誰も教えていない。この人は、階段を上がる時に、ひかりがその形で外の隊へ合図するのを見ていた。
四つ辻の南の角に、紙を挟んだ板を持った人が立っていた。
背は低い。倒れた仮囲いの単管の数を数えている。
「九本。鉄板六枚。留め具は二十四」
誰も訊いていない。
「この街の地下は、記録では四百十二か所です。図面が残っているのは、そのうち百八になります」
数字は合っている。この人は嘘を言わない。
「残りの三百四は、下りる口が何処にあるかも分かりません。分からない場所は、無いのと同じになります」
板の紙が、一枚めくれた。めくれた下にも、数字が並んでいる。
澪はそちらを見た。見て、それから蔵の階段の口を見た。
口はそこにある。今日、二人が下りて、二人とも上がってきた。
誰も、そこまでは言わない。
紙を挟んだ人は、板を下ろして、路地の奥へ入っていった。歩く速さが、道の人と同じになる。追う理由が、六人の側に一つも無い。
入っていく背中の向こうで、割れた鉄がもう一度動いた。
動いた鉄は、四つ辻の四方から集まった。集まった数は、九本ではない。
路地に落ちていた足場の残りが、全部そこへ行った。
*
地下三層で宮ヶ瀬が盤を叩いた。
「旧市街です。道が狭いです。四つ辻の角を、四つとも壊さない位置は一つしかありません」
「発進」
合図は整備班が出す。
サイレンファイヤーが四つ辻の東で立った。レスキューが右へ、クレーンが左へ、メディックが右の脚へ、ウイングが背へ回る。
> ── 回線、残り 二本。
合体の音は、路地の中では反響して二重になる。二重になった音を、家の中の人は戸を閉めたまま聞いている。
蔵の主は、道の端から動かなかった。動かないで、上を見ている。
七十年、この四つ辻に立っている人になる。角が四つとも残っているのを、今日も見た。
サイレンオーの左手は、握ったままだった。開かない。
その左手を、迅は蔵の妻壁へ添えた。添えた腕が、壁の代わりになる。
壁の代わりになった腕の外側で、鉄の束が横へ回った。回った先には、味噌の蔵がある。
右腕が動いた。開く方の掌が、束の腹を上から押さえる。押さえた場所で、鉄が沈んだ。
沈んだ先に、四つ辻の路面がある。石畳で、五十年前に敷いたものになる。
「サイレンオー ── 全消斬ッ!」
押し出した掌が、束を路面へ擦り付けずに横へ抜いた。
抜けた束は、路地の入口ではなく、道の真ん中で潰れた。潰れた先で、体が保てなくなる。
鉄が一本ずつになって、石畳の上に落ちた。落ちた音が、四つ辻の四方へ抜けていく。
抜けた先の路地で、風鈴が一つ鳴った。西風は、まだ止んでいない。
蔵の主が、前掛けの端で口を押さえた。押さえたまま、頭を一度下げた。
*
地下二層で、佐波がレスキューの器具箱を見ていた。
狭い道で擦った掛け金が、七つ目だけ外へ曲がっている。曲がった金具を、指で戻した。
「戻りました。半拍は、まだ遅れます」
「遅れたままにします」
宮ヶ瀬は工具を置いた。置いてから、それ以上は足さなかった。
梅木が盤の前で、五機の並びを一度見直した。狭い道へ入った日は、車体の幅の記録を書き足す。
「四つ辻の東の角、あと十センチでした」
「十センチは、余裕とは言いません」
速水が受信席で、旧市街の地図を畳んでいた。畳みながら、佐波に言った。
「西風、昼で南へ回りました。寺尾さんの言った通りです」
「本人に言えばいいのに」
「言いません。当たった日だけ言うのは、ずるいので」
三階の食堂で、寺尾が湯豆腐を出した。三月の椀は、六つ並んだ。
六つのうち、寺尾の分が一番小さい。三年、誰も入れ替えていない。入れ替えようとした者が一度だけいて、その日から小さいままになった。
棚の上の紙は、まだ読めない。長沢という人が礼に置いていった蔵の甘酒が、その隣に増えた。瓶の首に、蔵の名の書かれた札が下がっている。札の字は、武藤の字より読みやすい。
尾花律子は受信席に残った。用紙を綴じて、次の一枚を出す。
この日の保留は、一分三十一秒になる。一週間前より、十九秒長い。長くなる理由は、現場が長引いた分だけになる。長引いた分は、待つ側の時間として欄に残る。
長くなった十九秒を、尾花は欄の中へ書いた。欄は数字を入れる場所で、比べる場所ではない。
比べているのは、この人の手だけになる。前の週の束が、机の下の段に積んである。
六人は、この人に礼を言わない。
> 【第七支部 出場記録】
> 臨場 ── 十時三十六分。所要 ── 十三分。
> 保留 ── 一件。最長 ── 一分三十一秒。
> 未着 累計 ── 零。
> 損壊 ── 旧市街一丁目 蔵 外部仮囲い 全面 崩落。北側 外階段 手すり 変形。
> 四つ辻 石畳 一部 割れ。
> 救助 ── 二名。搬送 ── なし。
> 市内 下りる口の分からない地下 三百四か所 ── 記録なし。
> 本件、処理 ── 完了。
> ── 入電。




