第047話 屋上にいます
> 【第七支部 覚知記録】
> 覚知 ── 三月六日 十四時十分。
> 入電 ── 携帯電話。発信地 ── 中央駅前 三丁目。
> 第一声 ──「屋上にいます」
> 出場 ── 第七支部 全隊。
「屋上にいます」
尾花律子は用紙を引き寄せた。時刻を分まで書く。秒は書かない。何階建ての屋上かは、まだ書かない。
「はい、鳴瀬市消防指令センターです。今おられる建物の名前を教えてください」
「わかりません。看板が、下にしか出てなくて」
声は若い。風の音が声に被っている。被り方が一定していないので、風は下からではなく横から来ている。横から来る風は、建物の角で切れる。切れる場所に立っている人の声は、途切れ方が規則的にならない。
「わかりました。それでは、そこから見えるものを教えてください」
「駅が見えます。改札の屋根の、緑の骨組みが」
尾花は用紙の右の欄へ、駅の屋根が見える高さ、と書いた。中央駅前で駅の屋根の骨組みが上から見える建物は、東側の三丁目にしかない。西側は駅よりも背が低い。
「もう一人、います。戸田さんです。四十くらいの」
「二名ですね。おけがはありますか」
「無いです。でも、階段が煙で。下りられません」
尾花は左手で用紙を当直の側へ半分だけ送った。送った紙の上には、屋上二名、階段室煙、と書いてある。三つ並べば足りる。四つ目は現場で埋まる。
「わかりました。今、隊が出ます。屋上の、風上の側へ寄ってください。それから、電話は切らないでください」
「はい」
「もう一つだけ。ドアは開けないでください。開けると、煙が上がってきます」
声が返るまでに、一拍あった。返ってきたのは「はい」ではなく「わかりました」だった。分かった上で返す声と、返事の形だけ返す声は、間の取り方が違う。
尾花はそこで秒を書いた。この日、初めて秒を書いた。
書いてから、隣の回線が光っているのを見た。二本目になる。三丁目の別の建物からで、こちらは煙の匂いを伝える通報だった。
二本目を取りながら、尾花は一本目を切らなかった。片方の耳で若い声を聞き、もう片方で匂いの話を聞く。八本のうち二本が、この時点で埋まっている。
*
十四時十分の三階は、豆腐が届いた後だった。
武藤とうふ店は十時に置いていく。三月は六丁になる。二月まで五丁だったのが、年度の替わりで一丁増えた。理由は誰も訊いていない。訊かないままに、皿が一枚増えた。
六丁目には、紙が一枚挟んであった。折り目の内側に、鉛筆で何か書いてある。
「読めるか」
訊いたのは久遠寺で、紙は寺尾の手から蒼汰へ渡り、蒼汰から澪へ渡った。三人とも同じ場所で目を細めた。
「一文字目が年です。二文字目から先が、繋がっています」
「年度末、だと思います。それか、年内末です」
結局、誰も読み切れなかった。武藤の字は、豆腐の数だけがはっきり書いてある。数のところは、指で押さえた跡まで残っていた。
寺尾剛は湯を張った鍋の前にいた。張るのは早い。食べるのはいつも最後になる。
「三月は六丁だ。二月の五丁で慣れたところに、一丁増える」
二文で言って、六丁目を鍋の縁へ寄せた。寄せた場所は、火から一番遠い側になる。遠い側へ置くのは、最後に食べる人の癖だった。
灰谷蒼汰は索を膝の上へ広げて、端から端まで指で送っていた。三年、出る前に必ず一度やる。
「四本です。風の日は結びを大きく取ります」
言いながら、二本目の端で指を止めた。止めた場所に、細かい傷が並んでいる。河川敷の葦で付いた分になる。硬い草は、鉄より先に索を削る。
七尾ひかりは酸素の残りを見ていた。見てから、七つ数えた。七つ数えて、七つで戻った。
残りを見た後で、袋の口を三つとも開け直す。開けてから、順を入れ替えた。上から二番目に置いたのは、煙を吸った人へ最初に当てるものになる。
「三月は上から二番目を替えます。乾いた風の日は先です」
逢坂澪は受信席の裏で、市内の風の記録を出していた。前の晩から、南寄りの風が強くなっている。時刻ごとの数字が縦に並んでいて、朝の六時から先だけ、上がり方の傾きが変わっていた。
澪はその紙を、机の左の端へ寄せた。寄せた場所には、付箋の束がある。誰も中を見ていない。
火群迅は自販機の前にいた。一番下の段を押す。理由を言ったことがない。
缶を取って、指の腹で口を一度拭いた。拭ってから開ける。開ける音が、廊下の端まで届く。
廊下の端では、久遠寺が振り返らなかった。振り返らないまま、掲示板の方へ顎を向ける。缶の音は、廊下の端まで毎日届いている。
「今日は」
「出ます」
迅の返事は、いつも短い。理由を付けない癖が、三年で誰にも直されていない。
久遠寺修司は掲示板の前に立っていた。未着累計の欄を見ている。
欄には零と書いてある。三年、零のままになる。本部からは伏せろと言われていて、この支部だけが掲示している。理由を訊いた者はいない。
「今日の風は」
訊いたのは久遠寺で、答えたのは澪になる。
「南南西、平均十二メートル。最大瞬間で二十一。午後にもう一段上がります」
「屋根の上は」
「地上の一・五倍で見ます。八階なら、三十を超える時間帯があります」
久遠寺は掲示板から目を離さなかった。離さないまま、右手を上げた。上げた掌は外へ向いている。
その形を、この人は三年で百回以上やっている。誰も真似だとは言わない。指令役が現場へ出ない日でも、この形だけは同じ回数だけ出る。教わった者もいない。教えた者もいない。
梅木あかねが盤の前で、五機の並びを一度見直した。年度末に入ってから、出る順を毎朝入れ替えている。
「ウイングを先に上げます。風の強い日は、屋根の口が閉まりにくいので」
「閉まらないなら、閉めません」
宮ヶ瀬佳代の返し方は、いつも逆から入る。梅木は言い返さないで、並びの一番上をウイングにした。
覚知の音が鳴った。
鳴った音の下で、寺尾が鍋の火を落とした。落としてから、六丁目だけを湯の中へ戻す。
「まあ待て。戻ってから食う。三月の一丁は、煮すぎても崩れん」
二文で言って、蓋をした。
宮ヶ瀬が地下三層から上がってきた。手に、金具の入った箱を提げている。
「継手は合いません。合わない分の変換金具だけ、去年から作ってあります」
逆から言う人になる。出来ていることを先に言わない。
「市の口金は、うちのより二ミリ細いです。二ミリを埋める輪を、四つ持っていきます」
箱の中では、金の輪が四つ並んでいた。並べ方が揃っていて、一つだけ向きが逆になっている。逆の一つは、去年の秋に作ったものになる。作った日に一度も使わなかったので、そのまま箱へ戻した。
「三年で九回、同じ現場に居合わせています。九回とも、別々に働きました」
言ったのは久遠寺で、数字だけを言った。誰に向けたものでもない。
須永が受信席の後ろから顔を出した。手に、市の水道課から届いた紙を持っている。
「中央駅前の消火栓、確認しました。三丁目は東西で系統が別です」
「東は」
「東が細い方です。八階まで押し上げるなら、西から取った方が早いです」
「西の栓は、何処にありますか」
「駅の改札の南側です。ホースを道の下で三本、横断させないと届きません」
道を三本横断させると、車輌が入れなくなる。市の隊は、それをやらない。やらない理由を、須永は言わなかった。
澪が地図を出した。出してから、駅前の三丁目に指を置いた。
「中央駅前三丁目。八階建ての雑居ビル。四階から出火、屋上に二名。外に足場が全面に掛かっています。工事は先週から」
地図の上で、指が壁面をなぞった。なぞった線は、地上から屋上まで一続きになっている。
「アンサー」
> ── はい。
天井の高さから、白い機体が下りてきた。人の形はしていない。腕が二本ある。頭に当たる部分が、返事の前に一度、上を向いた。
「三丁目の、足場のある建物を」
> ── 三棟です。二棟は五階建て。八階建ては一棟になります。
「五階建ての二棟から、駅の屋根は見えますか」
> ── 見えません。改札の屋根の高さが、地上から十七メートルになります。
澪は候補を三つ出して、二つを消した。消し方は、指で紙の上を横に払うだけになる。
「工事の届出は」
> ── 先週の月曜に出ています。工期は五月まで。……足場の検査の記録は、届出の欄にありません。
アンサーは、分からないことを分からないと言う。三年、そこだけは変わらない。
澪は続けなかった。続けないで、指を壁面の下から三分の一のところへ動かした。
動かした指の先には、二階の高さがある。足場を建てる時、最初に壁へ留める段になる。
「検査の記録が無い足場が、三月の風の中に立っています。工期は五月までです」
久遠寺は返事をしなかった。しないで、机の左の端を見た。付箋の束がそこにある。
「見えたか」
「まだです」
澪は束に触れなかった。触れないで、地図へ戻った。
「足場は単管です。壁つなぎが二階と五階と八階。風は南南西で、足場は建物の南面に一番厚く付いています」
久遠寺が短く訊いた。
「はしごは」
「市の梯子車は先に着いています。ただ、南面には伸ばせません。足場が邪魔をします」
「北は」
「北は隣の建物と一・二メートルしか空いていません。車が入りません」
澪はそこで一度、地図の縁を指で押さえた。押さえたのは、線を引く前の癖になる。
「座標、出た」
*
地下二層のポールを、迅が最初に下りた。二段飛ばしで踊り場を抜けて、下りきる前に走りはじめる。
アンサーは一段ずつ下りる。三年、この対比が変わらない。
戸倉がスロープの脇で工具箱の蓋を閉めていた。閉めながら、クレーンの四本目のアウトリガーを指で二度叩く。
「四本目、半拍遅いままです」
「直しません。直すと、寺尾さんが待たなくなります」
言ったのは宮ヶ瀬で、戸倉は返事をしなかった。宮ヶ瀬は盤の前へ戻って、風速の記録を隅に出したままにした。
「発進」
合図は整備班が出す。六人ではない。
ウイングが先に屋根の口から出た。口は風で軋んだが、閉めなかった。続いてファイヤー、レスキュー、クレーン、メディックがスロープを上がる。
中央駅前三丁目の前の道は、市の車輌で埋まっていた。赤い車体が四台。ホースが道を横切って、三本、東の消火栓へ伸びている。
三月の午後で、駅前には人が多い。年度末の窓口が開いていて、封筒を持った人が改札の方から出てくる。
出てきた人は、まず上を見る。見てから足を止める。止まった人の後ろで、また誰かが止まる。人垣は、そうやって五分で二重になった。
四階の窓からは、白い煙が横に出ていた。上へは行かない。風が押さえている。押さえられた煙は、隣の建物の壁を舐めて、駅の方へ流れていく。
屋上の縁には、頭が二つ出ていた。距離があるので、顔は見えない。片方が動いていて、もう片方が動いていない。
迅がファイヤーを道の西側へ着けた。着けたのは、市の車輌の列を塞がない位置になる。塞げば、次に来る車が入れない。
着けてから、水槽の吐出口の蓋を自分で開ける。開けた蓋は、留め金を掛けずに垂らしたままにした。
指揮隊の腕章を付けた男が、車の間から出てきた。五十くらいで、背が低い。顔の下半分が煤で黒い。
「相田です。四階の火は、うちで消します」
「火群です。屋上の二名は」
「まだ上がれません。南面に梯子が伸びません」
相田は上を見た。見上げた先で、足場のシートが風を孕んで膨らんでいる。膨らんだ布が、八階分、一斉に同じ方向へ動いた。
布の下では、単管が縦横に組まれている。組んだ人間は先週まで毎日ここにいて、今日はいない。工事は土曜で止まっていた。
布が戻る時、単管が鳴った。鳴り方が、一本ずつではない。
「あんたらが水を出すと、うちの水が押される。壁の火は、押されると横へ走る」
「なら、押さない位置から出します」
迅はそれだけ言って、上を見ていた。理由は付けなかった。
相田は迅の顔を見て、それから水槽の吐出口を見た。見てから、目を戻した。
「その水槽、何トン入ってる」
「六です」
「うちのは二だ」
「使ってください」
相田は答えなかった。答えないで、部下の方へ歩いていった。
歩いていく背中に、寺尾が並んだ。並んでから、はしご車の側へ寄る。
「まあ待て。伸ばす前に、風を測る。ここは、あと二分で一段上がる」
相田は足を止めなかった。止めなかったが、機関員に手で合図を出した。合図は、待て、の形をしている。
高城が人垣の外にいた。緑の腕章を付けている。二月に山側で毛布を運んだ人になる。
腕章は市の防災協力員のもので、今年の春から配られた。配られてすぐ付ける人は多くない。この人は、渡された日から付けている。
「下がってください。この線から後ろへ」
言い方が、六人のものと同じ順序になっていた。誰も教えていない。
その隣に、小学生が一人いた。ランドセルは背負っていない。三月の午後で、学校は早く終わっている。
「火と、けがと、病気は、一一九です」
森田拓は、隣にいた大人へそう言った。言ってから、自分の右手を耳の高さへ上げた。掌を外へ向ける。
大人は、その手の形を見て、同じようにやった。
支部の受信席では、尾花が三本目を取っていた。三本目は、駅の南口からの通報になる。煙が改札の方へ流れているという内容だった。
受信席の盤には、八つの枠がある。枠は左から順に埋まる。この時、左から三つが光っていた。
残りの五つのうち、五つとも空いている。空いているうちは、待たせる相手がいない。
尾花は三本目に、一分十二秒待ってもらった。二本目を切ってから繋いだ。切る前に「もう少しだけ、そのままでお待ちください」と言った。
待ってもらった一分十二秒を、尾花は用紙に書いた。書いてから、次の欄へ移った。
*
足場が動いた。
動いたのは、二階の壁つなぎからになる。ボルトが抜けて、単管の縦の列が、壁から一斉に離れた。
離れた列が、そのまま上へ這った。八階分の鉄が、建物の南面を舐めるように上がっていく。上がった先には屋上がある。
音は、鉄と鉄が擦れる音だった。一本ずつではなく、百本が同じ拍で鳴る。
「トリアージ」
迅が左手首の蓋を跳ね上げた。ブレスが色を出す。
> 判定 ── 黒。要救助者、内部に確認できません。
「急報 ── 出場!」
> サイレン ── 起動。〈火群 迅〉。応答、確認。
> サイレン ── 起動。〈逢坂 澪〉〈灰谷 蒼汰〉〈寺尾 剛〉〈七尾 ひかり〉。応答、確認。
五人が同時に上がった。上がった先は、道の真ん中になる。
迅は右手を耳の高さへ上げた。掌を外へ向ける。四人が続けた。
風が正面から来ている。名乗るには一番悪い向きになる。
> 水を持ってく、火の現場 ─── サイレンレッド!
> 声を持ってく、知の現場 ─── サイレンブルー!
> 綱を持ってく、高の現場 ─── サイレンイエロー!
> 梁を持ってく、圧の現場 ─── サイレングリーン!
> 息を持ってく、生の現場 ─── サイレンピンク!
>
> 特別災害対策機構、第七支部 ──
> 呼ばれたら、鳴らして、行く!
> 急報戦隊、サイレンジャー!
風は正面から来ていたので、声は後ろへ流れた。流れた先の人垣が、一度、静まった。
> ── 回線、残り 三本。
迅がギアの柄を半回転させた。噛む音が、鉄の擦れる音の下から出てくる。
「筒先!」
水が出た。出た水は、足場の下から三段目へ当たった。
当たった場所で、単管が外側へ折れた。折れた鉄の下に、別の鉄が入る。
「上、任せろ。壁つなぎは三箇所」
蒼汰が索を投げた。投げた索が、五階の壁つなぎの根元へ巻いた。巻いてから、向かいの街灯へ二重に取る。
留めた索が張った。張った先で、足場の上がる速さが落ちた。
寺尾がハンマーを歩道の縁へ立てた。柱を三本、はしご車の脚の外側へ打ち込む。
「まあ待て。俺が支える。ここは車が浮く。脚の外を固める」
二文で言って、三本の頭を車体の側へ向けた。打ち込んだ場所は、歩道のタイルの目地になる。目地を選んだのは、タイルを割らないためだった。
澪が道の東でソナーを構えた。撃つ前に必ず人数を言う。
「六名。屋上に二、四階に二、道に二。足場の中は零。撃てる」
撃った。低い音が単管の束を通った。通った音が、二階の高さで一度、止まった。
「二階の壁つなぎが一本、まだ生きています。そこが軸です」
軸は、地上から四メートルの位置にある。
迅が壁へ走った。走った足が、はしご車の前輪の縁を踏んだ。踏んで上がって、シートの垂れた端を掴む。
掴んだまま、体を振った。振った先で、斧が届く。
「サイレンアックス ── 急救斬ッ!」
刃が、軸を根元から断った。
断たれた足場が、南面から一斉に落ちた。落ちた鉄が、歩道の植え込みの中で山になる。
山の上に、シートが被さった。被さった布の下で、鉄が鳴り止むまでに十秒掛かった。
その十秒の間に、はしご車が伸びはじめた。
伸ばす前に、機関員が脚の外側を見た。寺尾の柱が三本、そこに立っている。柱を見てから、機関員は車体の傾きの目盛りを読んだ。読んだ数字は、動いていない。
梯子の先端が四階を越えた。越えてから、五階、六階と上がる。
相田が下で拡声器を持った。持ったまま、上へは向けない。向けたのは、自分の隊員の方になる。
「風を見ろ。八階は三十だ。先端が振れたら止めろ」
止まった。八階の少し下で、梯子が振れた。振れ幅が、先端で一メートル近くある。
屋上の縁に、二人の頭が出ていた。若い方が手を振っている。振り方が大きい。
「三上さん。手を下ろして、半歩後ろへ」
ひかりの声が、ブレスの外部音で上へ届いた。若い方の手が下りた。
「戸田さん。座って口を押さえてもらえますか」
四十くらいの方が座った。座り方が遅い。煙を吸っている人の座り方になる。
梯子は伸びきらなかった。伸ばせば振れる。振れれば人を乗せられない。
相田が拡声器を下ろした。下ろしてから、水利の方を見た。三本のホースは東の消火栓から来ている。細い方の系統になる。
「押し上げが足りん」
誰にも言っていない。言ってから、道の西を見た。
サイレンファイヤーの水槽が、そこにある。
迅は上を見ていた。見ているだけで、動かない。動かないことを選んでいる。
水を回せば早い。回せば、市の隊の水が第七支部の水になる。三十年、この人はそれを一度もやっていない。
市の隊員が三人、機関員の後ろに立っていた。立ったまま、相田の背中を見ている。見ているだけで、誰も何も言わない。
風がもう一段上がる時刻になった。上がる前に、空気が一度だけ止まる。止まった空気の中で、八階の縁の布が垂れた。
垂れた布は、二秒で戻った。戻る時に、梯子の先端がまた振れる。
宮ヶ瀬の金の輪が四つ、迅の掌の上にあった。差し出したのは迅で、言葉は付けなかった。
相田は、輪を見た。見てから、自分の隊の口金を見た。二ミリ細い。
「二ミリだ」
「はい」
「うちの口金は、四十年前の規格だ。市が替える金を出さん」
迅は何も返さなかった。掌を出したままでいる。
人垣の向こうで、駅前の風がもう一段上がった。上がった風が、梯子の先端をまた振らせる。
振れた先端の上に、屋上の縁がある。縁の内側で、四十くらいの男が咳をしていた。
相田が輪を取った。四つとも取った。
「借りる」
一言だった。
機関員が輪を受け取って、口金へ押し込む。押し込んだ音が、道の端まで届いた。
ホースが二本、市の車体からファイヤーの吐出口へ繋がった。繋いだのは市の隊員になる。迅は手を出さない。
水が入った。入った瞬間に、ホースが太くなる。太くなった線が道を横切って、壁の側へ走る。
梯子が、もう一度伸びた。今度は先端が振れない。水を送った側の重さが、車体を地面へ押し付けている。
八階の壁面に、二本の水が並んだ。
一本は市消防の梯子の先端から、四階の窓へ入る。もう一本はサイレンレッドの筒先から、屋上の縁の下へ当たる。
当たった水は、火へは行かない。行かせない。壁の熱を落として、屋上の床の温度を下げるためだけに出している。
高さが同じになった。並んだ二本の水は、下から見ると一本の白い線になる。
人垣の中で、森田拓が上を見ていた。
屋上の二人が下りたのは、十四時二十一分になる。
若い方が先で、四十くらいの方が後だった。順番を決めたのは戸田で、理由は言わなかった。
メディックの後扉が開いた。ひかりが戸田を乗せる。乗せてから、酸素を当てた。
「戸田さん。私の数える速さに合わせてください」
七つ数えた。七つ数えて、六つで戻った。
三上涼が、道の縁で電話を握ったままでいた。通話は繋がっている。十一分、切っていない。
握っている手が、指の第二関節から白くなっていた。力の入れ方を、途中で一度も変えていない。
屋上にいた間、この人は風上の側から動かなかった。動くなと言われたので、動かなかった。それだけになる。
「切って大丈夫です。よく待てました」
迅がそう言った。言ってから、上を見た。上には何も無い。
三上は電話を耳から離した。離してから、右手を耳の高さへ上げた。掌を外へ向ける。
誰も教えていない。下でその形をしているのを、屋上から見ていた。
相田が迅の傍へ来た。来てから、輪を四つ、掌に載せて返した。
迅は輪を受け取った。受け取ってから、一つだけ相田の掌へ戻した。
「一つ、置いていきます」
相田は何も言わなかった。言わないで、輪を作業服の胸の袋へ入れた。
寺尾が少し離れた場所で、蒼汰へ言った。
「あの梯子の止め方は上手い。振れた瞬間に止めた。あれは、何度も振れさせた奴の止め方だ」
「本人に言えばいいのに」
「言わん」
三上の連れは来ていない。屋上に上がったのは二人で、三人目は下で待っていた。待っていた人は、人垣の中で電話を持ったままでいる。
道の向かいの、五階建ての屋上に、人影が立っていた。
立っているだけになる。何もしていない。風が正面から来ているのに、上着の裾が動いていない。
迅がもう一度そちらを見た時には、屋上には何も無かった。
下りていく音を、誰も聞いていない。
落ちた足場の山が、風を受けて一度だけ鳴った。鳴った後で、山が動く。
動いた鉄は、下から順に立ち上がった。立ち上がった高さが、六階、七階と上がって、そこで止まらない。
シートが被さったまま、白い布の柱になった。柱の中で、単管が擦れ続けている。
*
地下三層で宮ヶ瀬が盤を叩いた。
「駅前です。市の車輌が四台、道に残っています。避けてください」
「発進」
合図は整備班が出す。
サイレンファイヤーが道の西で立った。レスキューが右へ、クレーンが左へ、メディックが右の脚へ、ウイングが背へ回る。
> ── 回線、残り 二本。
五機が組み上がる音を、道の人垣は聞いていない。見ている。
森田拓は、駅の改札の柱の陰から見上げていた。柱の緑の骨組みが、視界の右の端にある。
サイレンオーの左手は、握ったままだった。開かない。
その左手を、迅は風下の壁の側へ立てた。立てた腕が、市の車輌四台の上に影を作る。
風が、腕に当たって割れた。割れた風の下で、はしご車の梯子が振れなくなった。
「相田さん。そのままで」
ひかりの声が、下の隊へ届いた。
白い柱が、腕の外側から回り込もうとした。回り込む先には、駅の改札がある。
右腕が動いた。開く方の掌が、柱の腹を横から押さえる。押さえた場所で、布が裂けた。
裂けた下から、単管の束が出てくる。束の芯は、二階の壁つなぎになる。断ったはずのものが、まだそこにある。
「芯です。地上四メートル、同じ位置」
澪の声が、盤から届いた。
迅は右腕を引かなかった。引く代わりに、掌の下の縁を、芯へ滑らせた。
「サイレンオー ── 全消斬ッ!」
押し出した掌が、芯を横から抜いた。
抜けた芯の上で、束が繋がらなくなった。繋がらない鉄は、一本ずつになる。
ばらばらになった単管が、駅前の道に落ちた。落ちた先は、市の車輌の脇を外れている。
人垣から声が出た。出たのは、拍手ではない。
声だった。言葉になっていない。改札の前から、道の西の端まで、同じ高さで一度だけ上がって、それから散った。
散った後で、市の隊員が三人、上を見ていた。見ていた顔に煤が付いている。誰も、輪のことは言わなかった。
*
地下二層で、戸倉がクレーンの四本目のアウトリガーを見ていた。
風で一度浮いた分、根元の塗りが剥げている。剥げた場所を、指の腹で撫でた。
「半拍、また遅れました」
「直しません」
宮ヶ瀬は工具を置いた。置いてから、それ以上は足さなかった。
須永が受信席の後ろで、水道課の紙を畳んでいた。畳んだ紙には、東の系統の口径と、西の系統の口径が、二列で並んでいる。差は十五ミリになる。
畳みながら、戸倉に言った。
「東の系統、細いままです。市は来年度も替えないそうです」
「うちが押せばいい」
「押せる回だけです」
梅木が盤の並びを元へ戻した。ウイングを一番上から下ろして、明日の朝の順に直す。
「明日は風が落ちます。屋根の口も、閉まります」
言ってから、口の軋んだ場所へ油を差した。差した油が、三月の空気で白く濁る。
戸倉は塗りの剥げた場所へ札を掛けた。札には、日付と、剥げた長さだけが書いてある。直す順番はまだ決まっていない。
二機を同時に直すと、三機目が待つ。待たせる順は宮ヶ瀬が決める。決めた理由を、この人は言わない。
三階の食堂で、寺尾が湯豆腐を出した。三月の椀は、六つ並んだ。
一丁増えた分は、鍋の中に残っている。煮すぎても崩れない、と言った通りに崩れていない。
武藤の紙は、鍋の傍の棚に置いてあった。誰も捨てていない。読めないまま、明日まで置かれる。
蒼汰は索を四本とも解いて、結び目を大きく取り直した。風の日に取った結びは、風の日のうちに解く。解かないと、翌日に固まる。
尾花律子は受信席に残った。用紙を綴じて、次の一枚を出す。
綴じた束の背には、この月の数字が入る。三月の束は、二月より一センチ厚い。年度末は通報が増える。増える理由を、この人は毎年、誰にも説明しない。
用紙の下の方に、一分十二秒、と書いた欄がある。三本目に待ってもらった時間になる。
六人は、この人に礼を言わない。
支部の玄関の内側に、豆腐が一丁あった。
三上涼の電話は、十一分四十秒、繋がっていた。切った後で、画面の残量は八パーセントだった。
その数字を、誰も記録していない。
> 【第七支部 出場記録】
> 臨場 ── 十四時二十一分。所要 ── 十一分。
> 保留 ── 一件。最長 ── 一分十二秒。
> 未着 累計 ── 零。
> 損壊 ── 中央駅前三丁目 雑居ビル 外部足場 全面 崩落。四階 内部 焼損。
> 高架水槽 一基 給水管 破断。
> 救助 ── 二名。搬送 ── 一名(煙)。
> 市内 屋上へ出られない建物 十一棟 ── 記録なし。
> 本件、処理 ── 完了。
> ── 入電。




