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急報戦隊サイレンジャー ~呼ばれたら、行く。呼べないなら、見つけに行く~  作者: 智珠
第三巻

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第046話 うそじゃない

> 【第七支部 覚知記録】

> 覚知 ── 二月二十七日 十七時四十分。

> 入電 ── 携帯電話。発信地 ── 川沿い 三丁目。

> 第一声 ──「うそじゃない」

> 出場 ── 第七支部 全隊。


「うそじゃない」


 尾花律子は用紙を引き寄せた。時刻を分まで書く。秒は書かない。何が嘘でないかは、まだ書かない。


「はい、鳴瀬市消防指令センターです。今何処におられるか教えてください」


「川沿いの三丁目です。堤防の下。あの、ぼく、前に一回、間違えて掛けてて」


「前のことは、今日のことと別になります。場所を、もう少し詳しく教えてください」


 子どもの声になる。十四くらいで、声が二つの高さの間で揺れている。


「堤防の、階段を下りたとこです。葦の中に、人が倒れてます」


 尾花は書いた。川沿い三丁目、河川敷、要救助者一。三語で足りる。書いた紙を、左手で当直の側へ半分だけ送る。


「お名前を教えてください」


「岡部です。岡部蓮。中学二年です」


「岡部さん。その方は、動いておられますか」


「動いてません。でも、息はしてます。肩が動いてるから」


 尾花の右手が止まった。止まったのは、書く欄を選ぶ分になる。


「岡部さん。今、その方の近くにおられますか」


「三メートルくらい。葦が高くて、そこから先が入れません」


「岡部さん。無理に入らないでください。声を掛けて、返事があるかどうか教えてください」


 通話の向こうで、呼ぶ声がした。二度呼んで、三度目で少し大きくなった。


「返事、ないです。でも、肩は動いてます」


「岡部さん。今おられる場所から動かないでください。今から人が行きます」


「動きません」


 尾花は用紙の右の欄へ、河川敷、葦、呼吸あり応答なし、と書いた。三つ並ぶと、持っていくものが決まる。


「岡部さん。堤防の階段は、何番目のものですか。番号が書いてあると思います」


「あります。四って書いてあります」


「岡部さん。その階段の上まで戻れますか。戻れるなら、上で待っていてください」


「戻ります。でも、上にいたら、あの人が見えなくなります」


「岡部さん。見えなくても大丈夫です。場所は、あなたが教えてくれました」


「……上で待ちます」


「岡部さん。この電話は切らないでください」


「切りません。切ったら、また嘘だと思われるから」


 尾花はその一行を書かなかった。書く欄が無い。


 用紙の一番下に、背後の音を書く。葦、水、電車。三語になる。


 電車の音は、堤防の向こうの鉄橋を渡る音になる。十七時四十分に渡るのは、上りの一本しかない。


*


 十七時四十分の三階は、灯りを点けたばかりだった。


 二月の末は、この時刻でちょうど日が落ちる。落ちてから点けるのではなく、落ちる前に点ける。


 落ちてから点けると、その間の三分が見えない。


 寺尾剛が大鍋に水を張っていた。夕方の一回目になる。


「班長、今日は早くないですか」

「早い。二月の最後の週は、みんな腹が減る。寒いのが続いた分だ」


 二文で言って、鍋の縁を布で拭いた。


 灰谷蒼汰は索を膝の上へ広げて、端から端まで指で送っていた。三年、出る前に必ず一度やる。


「四本です。葦が硬いので細いのは使いません」


 七尾ひかりは、ナイフの刃を布で拭いていた。拭くのは、使った後ではない。


 使う前に拭く。二月の刃は、鞘の中で汗を掻く。掻いた分が、抜く時の抵抗になる。


 この人がナイフを抜いた回数は、三年で四十一回ある。そのうち、人を斬った回は零になる。


 斬ったのは、紐と、帯と、ロープと、シートと、荷造りの結び目だけになる。


 数えているのは本人で、数えたことは誰にも言っていない。


 火群迅は非常階段の一番下にいた。手の甲を鉄の手すりへ当てて、そのまま止めている。


 鉄が冷たい。二月の最後の週は、朝より夕方の方が冷える日がある。


 逢坂澪は受信席の斜め後ろに立っていた。手にはコーヒーがある。砂糖も牛乳も入っていない。


 この三年の通報の記録を見ていた。掛かってきて、現場に何も無かった件が、三年で百八十件ある。


 百八十件のうち、掛けた人が子どもだった件は二十二件になる。


 二十二件のうち、同じ人が二度掛けた例は一つも出ていない。一度目の後、二度目が来た記録は無い。


 次に本当のことが起きなかったのかも知れず、起きても掛けなかったのかも知れない。


 どちらかを分ける欄は、どの用紙にも無い。


 佐波悠が地下三層から上がってきた。工具箱を提げたままになる。


「宮ヶ瀬さん。ファイヤーの前面、塗りを打ち直しました」


「打ち直しました。ただし、下の浮きは残っています。剥がして直す時間を、まだ作れていません」


 宮ヶ瀬佳代は逆から言う。出来ていることを先に言わない。


 速水が受信席で、川沿いの地図を出した。出してから、堤防の階段の番号を指でなぞった。


*


 分析に入ると、澪は喋らない。


 盤面に川沿い三丁目が出る。堤防の階段は、上流から順に番号が振ってある。


 四番の階段は、遊水地の入口の手前になる。下りた先が河川敷で、葦の原が広がっている。


 葦は、二月の終わりでまだ枯れたまま立っている。高さは人の背より上になる。


 刈るのは三月の頭で、市の委託が入る。今年はまだ入っていない。入っていない葦の原は、上から見て中の見えるところが一つも無い。


 見えない場所は、通報が来ないと分からない。


「アンサー」


> ── はい。


「川沿い三丁目、河川敷。今日この場所からの通報を、過去三年で」


> ── 三年で四件です。うち三件は、何もありませんでした。


「残りの一件は」


> ── 二年前の八月です。……その一件の中身は、記録の欄が空白です。


 アンサーは返事の前に一度、上を向いた。頭の受話器の形が、天井を向いてから戻る。


 何も無かった三件と、空白の一件が、同じ場所から出ている。


 澪は盤面の河川敷を、四番の階段の下だけ残して消した。


 残した場所に、細い筋が一本走っている。葦の中に、人が歩いて出来た道になる。


 道は、河川敷を横切って、川の側の水際まで続いている。


 水際まで行く用がある人は、この時期にいない。釣りは三月からになる。


 いないはずの道が、去年より太くなっている。


 澪は左手を下ろした。


「座標、出た」


 五人が動いた。下ろした瞬間に動く。この人の手が下りるまで、誰も一歩も出ない。


「川沿い三丁目、四番階段の下。葦の中に一名、呼吸あり応答なし。葦は未刈で背丈以上。通報者は階段の上」


 迅は最後まで聞いていない。「応答なし」で走り出している。澪は最後まで言い終えた。


 久遠寺修司が受信席の後ろで立ち上がった。


「通報者は」

「十四歳です。回線は、いま五本空いています」


「第七支部 ── 出場!」


*


 ポールは二本ある。迅が一番に握った。掌が焼ける。焼けるのを毎回やる。一階で装備を背負い、階段で地下三層へ下りる。


 地下三層の扉が上がった。


「三層、開放!」


 宮ヶ瀬佳代が盤の前に立っていた。この日は日没の時刻を、盤の隅に出したままにしてある。


「一号から五号、出場!」


 川沿い三丁目までは、支部から八分になる。この日は九分掛かった。堤防の道が、途中で工事に入っている。


 四番の階段の上に、岡部蓮が立っていた。十四歳になる。学生服の上に、何も着ていない。


 鞄は足元に置いてある。置いた場所が、階段の一段目になる。


「消防です。上で待ってたな」

「待ちました。ぼく、前に一回」


「聞いた」


 迅はそれだけ言って、階段を下りた。


 河川敷の葦は、下りると視界が消える。両側が壁になって、二メートル先が見えない。


 岡部が指した方向へ、三メートル入った。入った先で、葦が一部だけ倒れている。


 倒れた場所に、自転車が横になっていた。前輪が曲がっている。


 その向こうに、人が一人いた。六十くらいの男で、仰向けに倒れていた。


 肩が動いている。息はしている。


「消防です。聞こえるか」


 返事は無い。目は閉じている。


 ひかりが後ろから入った。入る幅が足りない。葦が濃くて、二人並べない。


「先に道を作ります」


 ひかりがナイフを抜いた。抜いてから、刃の向きを地面と平行にした。


 立っている葦を、根元から三十センチのところで薙ぐ。薙いだ葦は、その場へ倒す。


 倒した葦を踏むと、下の土が濡れていても滑らない。


 薙いだ幅は、担架が通る分になる。八十センチになる。


 八十センチの道が、三メートル分できた。


 ひかりはその道を通って、男の横へ膝を突いた。


「聞こえますか。七尾といいます」


 返事が無い。ひかりは男の額へ手を当てた。冷たい。それから、首の横へ指を当てた。


 脈はある。速い。


「頭を打ってます。後ろです」


 言ってから、男の頭を動かさなかった。動かさずに、両手で耳の後ろを挟んで、その位置で止めた。


 止めたまま、寺尾を呼んだ。


「板を、まっすぐ入れてもらえますか。私は動かしません」


 寺尾が板を持って入ってきた。板は、薙いだ八十センチの道をちょうど通る。


「まあ待て。俺が入れる。この土は、下が柔らかい」


 二文で言って、板の下へ柱を二本、横向きに入れた。入れた柱が、板の沈む分を止める。


 男を板へ移すのに、四人が要った。移す間、ひかりは頭から手を離さなかった。


 離さないまま、三十秒掛けて移した。


「息、返すよ」


 七つ数えて、六つで戻った。息は、初めから止まっていない。


 止まっていないのは、この人が仰向けだったからになる。俯せなら、葦が顔に当たる。


 仰向けにしたのは、この人自身ではない。


 葦の道の途中に、自転車がある。前輪が曲がっているのは、堤防の上から落ちたからになる。


 落ちた人は、たいてい落ちた向きのまま止まる。仰向けで止まる人は、少ない。


 迅がその自転車を横へ寄せた。寄せた場所の下に、足跡が二つ残っていた。


 一つは、大人の靴になる。もう一つは、それより小さい。


 小さい方は、階段の上まで続いている。


 迅は何も言わなかった。言わずに、担架の前を持った。


 担架が階段の下まで来た時、河川敷の葦が一度、全部同じ方向へ倒れた。


 風ではない。風なら、上の方から倒れる。


 倒れたのは根元からになる。根元から倒れた葦が、水際の方へ集まっていく。


 集まった葦が、そこで立ち上がった。高さは五メートルほどになる。


 枯れた葦の束は、内側に空気を持っている。持っている分だけ、軽くて、大きい。


 迅が左手首の蓋を跳ね上げた。五人が同じ動作をした。


「急報 ── 出場!」


> サイレン ── 起動。〈火群 迅〉。応答、確認。

> サイレン ── 起動。〈逢坂 澪〉〈灰谷 蒼汰〉〈寺尾 剛〉〈七尾 ひかり〉。応答、確認。


 反射帯の光が足元から頭まで走った。装甲が下から順に組み上がる。五つの送話口が、同じ高さで止まった。


 五人が同時に右手を上げた。耳の高さで止めて、掌を外へ向ける。受話器を取る形になる。


 葦の原の中で、五つの光だけが背の高さより上に出た。堤防の上から、それが見えた。


> 水を持ってく、火の現場 ─── サイレンレッド!

> 声を持ってく、知の現場 ─── サイレンブルー!

> 綱を持ってく、高の現場 ─── サイレンイエロー!

> 梁を持ってく、圧の現場 ─── サイレングリーン!

> 息を持ってく、生の現場 ─── サイレンピンク!

>

> 特別災害対策機構、第七支部 ──

> 呼ばれたら、鳴らして、行く!

> 急報戦隊、サイレンジャー!


 口上が葦の原を渡って、堤防に当たって返ってきた。返った声を、階段の上の岡部蓮が両方の耳で聞いた。


 迅がブレスを葦の柱へ向けた。


「トリアージ!」


> 判定 ── 黒。要救助者、内部に確認できません。


「黒」


> ── 回線、残り 三本。


 柱が階段の方へ動いた。階段の下には、担架がある。


 迅は柱と階段の間へ入った。入った足の下は、薙いだ葦の上になる。


 薙いだ葦は滑らない。滑らない分だけ、踏ん張れる。


 柱が当たった。装甲越しに、乾いたものが擦れる感触が来る。


 迅は下がらなかった。下がると、階段の一段目に鞄がある。


 寺尾が階段の下へハンマーを立てた。柱を三本、河川敷の土へ打ち込む。


「まあ待て。俺が支える。ここは下が柔らかい。長く入れると効かん」


 二文で言って、三本を浅く、広く打った。広く打つと、面で受ける。


 蒼汰が索を投げた。投げた索が、柱の腰へ巻いた。巻いてから、堤防の手すりへ二重に取る。


「上、任せろ。手すりが支点。二本で足ります」


 留めた索が張った。張った先で、柱の進みが半分になった。


 澪が階段の途中でソナーを構えた。撃つ前に必ず人数を言う。


「三名。階段の上に一、下に二。柱の中は零。撃てる」


 撃った。低い音が柱の腹を通った。通った音が、内側で散った。


 散ったのは、束の中に空気があるからになる。空気は音を通すが、返さない。


「返りません。中身がない。切るなら束ねている場所です」


 束ねている場所は、柱の下から三分の一のところになる。そこだけ、葦が横に巻いている。


 迅が斧を横に寝かせた。寝かせたまま、動かなかった。


「そこは、俺の刃だと広すぎる」


 ひかりが前へ出た。出てから、ナイフを抜き直した。


 この日、二度目になる。一度目は、道を作るために薙いだ。


 二度目は、束を解くために抜く。


 迅が柱の腹を斧の背で押した。押した分だけ、巻いている場所が伸びる。


 伸びた場所は、細くなる。細くなった場所に、刃が入る。


「サイレンナイフ ── 急救斬ッ!」


 刃が、巻いている場所を横に一度だけ抜けた。


 抜けた場所から、束が解けた。解けた葦が、一本ずつになって落ちる。


 一本ずつになった葦は、もう立たない。立つには、束ねる何かが要る。


 蒼汰は手すりの二重を解いて、索を手繰った。柱が無くなった先は軽い。巻き取りへ収めてから、端を指で一度送る。


 落ちた葦が、河川敷の上へ広がった。広がった葦の上を、担架が通った。


 通った先が、四番の階段になる。


 解けたはずの葦が、水際でもう一度集まった。集まった数は、河川敷の全部になる。


 集まった高さが、堤防を越えた。


*


 地下三層で宮ヶ瀬が盤を叩いた。


「堤防の外です。中が空です。押しても、手応えが返りません」


 五機が堤防の上の道へ並んだ。サイレンクレーンが道の上でアウトリガーを張る。片側は河川敷になる。


 サイレンウイングが葦の原の上を低く抜けた。抜けた風で、解けた葦が下流へ寄った。


 サイレンメディックは堤防の道に着けて、後扉を開けたまま待っている。


「五機、連結!」


「特災合体 ── サイレンオー!」


 サイレンオーが立った。


 階段の上の岡部蓮には、脚と、胴の下半分が見えた。担架の男は、目を閉じたままになる。


 その左手は、開いていない。握ったままになる。


> ── 回線、残り 二本。


 葦の柱が、堤防を越えて街の側へ倒れようとした。堤防の内側には、住宅の列がある。


 サイレンオーは掴まなかった。掴んでも、中が空で手応えが返らない。


 掴まずに、左腕を堤防の天端に沿わせて、横へ寝かせた。


 寝かせた腕が、堤防の上に一本の欄干になる。


 柱は欄干を越えられない。越えようとして、上へ伸びた。


 伸びれば細くなる。細くなれば、束ねている場所が減る。


 寺尾の声が回線に入った。


「細くなった。今なら通る」


 迅が言った。


「今だ」


 右腕の放水砲が開いた。


「サイレンオー ── 全消斬ッ!」


 水が出た。斬るのではなく、押す形で出る。


 押された柱が、堤防の外で潰れた。潰れた先で、体が保てなくなる。


 葦は葦に戻った。戻った葦が、河川敷いっぱいに広がって、そこで倒れたままになった。


 倒れた葦は、三月の刈り取りを待たずに済む。


 堤防の上に、十人ほどが出ていた。散歩の人と、工事の人になる。


 拍手が起きた。起きたのは工事の人からで、軍手のまま打っている。


 軍手の拍手は、音が低い。


 十八時六分に、男が搬送された。


 名前は、鞄の中の定期で分かった。堤防の上の住宅に住んでいる人になる。


 自転車で堤防の道を通っていて、工事の脇で落ちた。落ちてから、どれだけ経っていたかは分からない。


 分かるのは、見つかった時刻だけになる。


 岡部蓮は、階段の上に立ったままだった。鞄は、まだ一段目にある。


 ひかりがその前へ行った。並んで、同じ方を向いた。


「岡部さん。もう帰って大丈夫です。家に伝えてもらえますか」


「伝えます」


 言ってから、この子は一度、堤防の下を見た。葦は全部倒れている。


「あの、ぼく、前のは」


「前のは、今日のことと別になります」


 ひかりはそれ以上言わなかった。言わずに、鞄を取って、この子の手へ渡した。


 岡部蓮は鞄を持って、階段を上がりきった。上がってから、振り返った。


 振り返ってから、右手を耳の高さまで上げて、掌を外へ向けた。


 誰も教えていない。この子は、堤防の上から、五つの光がその形を作るのを見ている。


 迅がそれを見て、同じ高さまで自分の手を上げた。


 堤防の道の端に、傘を差した人が立っていた。


 雨は降っていない。二月の終わりの空は、乾いている。


 差した傘の下に、工事の人が一人入っていた。軍手のまま、まだ手を打っている。


「ご迷惑ですから」


 声はそう言った。工事の人が振り向いた時には、傘だけがその場に立っていた。


 傘の下の地面だけ、霜が残っていた。周りは、もう溶けている。


 差した人は、河川敷の方へ下りていった。倒れた葦の上を歩いて、足跡が付いていない。


*


 支部へ戻ると、玄関の内側に豆腐が五丁あった。


 寺尾が笊を出して、五丁を移した。移してから、角を確かめる。


「崩れとらん。二月は、これで最後だ」


 三月からは四丁になる。冬の五丁が、春の四丁へ戻る。


 佐波が地下二層で、サイレンファイヤーの前面を見ていた。打ち直した塗りは、まだ乾いていない。


「明日には乾きます。今日は触りません」


「触らないでください。ただし、一日で乾く塗りを、まだ作れていません」


 宮ヶ瀬は工具を置いた。置いてから、それ以上は足さなかった。


 毎回、作れなかったものを一つ言う。三年、欠かしたことが無い。


 速水が受信席で地図を畳んでいた。畳みながら、佐波に言った。


「七尾さん、道を作るのに薙いだ葦、全部倒す方へ倒してました。踏むためです」


「本人に言ってあげたらどうですか」


「言いません。踏む側の話を、靴底から始められるので」


 澪は受信席の裏で、河川敷の記録を出していた。


 三年で四件。三件は何も無く、一件は欄が空白になる。


 空白の一件は、二年前の八月になる。八月の河川敷は、葦が青くて、もっと見えない。


 見えない場所からの通報を、何も無かったと書いた紙が三枚ある。


 書いたのは、行った人になる。行って、見て、書いた。


 見えない場所で見つからなかったことと、無かったことを分ける欄は、どの用紙にも無い。


 澪は自分の地図に付箋を一枚貼った。川沿い三丁目、四番階段の下。これで二十六枚目になる。


 付箋には何も書いていない。


 三階の食堂で、寺尾が湯豆腐を出した。二月の最後の椀になる。


 食べ終わらないうちに、二階の受信席で、電話が鳴った。


> 【第七支部 出場記録】

> 臨場 ── 十七時四十九分。所要 ── 九分。

> 保留 ── 一件。最長 ── 四十二秒。

> 未着 累計 ── 零。

> 損壊 ── 川沿い三丁目 河川敷 葦原 全面 倒伏。四番階段 手すり 一部 変形。

>     自転車 一台 前輪 損傷。

> 救助 ── 一名。搬送 ── 一名(頭部)。

> 川沿い三丁目 河川敷 通報四件のうち三件「異常なし」── 記録の欄なし。

> 本件、処理 ── 完了。

> ── 入電。

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