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急報戦隊サイレンジャー ~呼ばれたら、行く。呼べないなら、見つけに行く~  作者: 智珠
第一巻

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第004話 落ちました

> 【第七支部 覚知記録】

> 覚知 ── 四月十六日 十九時五分。

> 入電 ── 駅構内 非常電話。発信地 ── 中央駅前 地下街 二層。

> 第一声 ──「落ちました」

> 出場 ── 第七支部 全隊。


「落ちました」


 尾花律子は用紙を引き寄せた。時刻を分まで書く。秒は書かない。


「何が落ちましたか」

「人です。上から」


 声が反響していた。天井の低い場所で、硬い床の上に立っている人の声になる。周りに人がいる。いるのに、誰も喋っていない。


「今どこですか」

「地下の、二階です。駅の」

「上の階から落ちたということですか」

「三階から。エスカレーターの、脇のところ」


 尾花は書く手を止めなかった。書きながら、次を訊いた。


「息はしていますか」

「動いてます。起き上がろうとしてます」

「起こさないでください。そのままで」

「わかりました」


 そこで電話が切れた。非常電話は受話器を戻すと切れる。戻したのか、離しただけなのかは分からない。


 二階の壁で、回線の表示が一本だけ落ちた。


 十九時の三階は明るい。当直の五人が、それぞれの場所で待っていた。


 窓の外はもう暗い。四月半ばで、日が落ちるのが遅くなってきていた。それでも七時を過ぎると外は見えなくなる。


 寺尾剛が卓を拭いていた。夕食は済んでいる。この人は自分の分を最後に食べるので、片付けも最後になる。


 拭き方には順番がある。奥から手前へ、右から左へ。三年、同じ向きになる。誰も気付いていない。


 灰谷蒼汰は屋上から降りてきたばかりだった。訓練塔で懸垂降下を二十本やって、汗が引いていない。降りる度に索を確かめる。二十本で二十回になる。


「今日、何本」

 寺尾が訊いた。

「二十です」

「先週も二十だったな」

「はい」

「増やさないのか」

「増やしません」


 蒼汰は本数を増やさない。三年、二十本のままになる。理由は言わない。


 増やせないのではなかった。二十一本目を降りようとしたことは、一度もない。


 火群迅は壁の前に立っていた。腕を上げて、肩の高さで止める。そこから先が上がらない。上がらないところで、いったん下ろす。もう一度上げる。


「見えてるぞ」

 寺尾が言った。迅は答えずに腕を下ろした。


「六日だ」

「治る」

「治るかとは訊いてない」


 寺尾は雑巾を絞りに行った。それ以上言わない。


 逢坂澪は二階にいた。地図の上に付箋を貼っている。四月九日の旧市街、四月九日の湾岸、四月十日の丘の上。三枚とも同じ形の付箋で、同じ書き方をしていた。通報 一件、と書いてある。


 速水がその横で端末を見ていた。


「三件とも一件です」

「そうです」

「ふつう、何件くらい来るんですか」

「火事なら十件。地下街なら二十件を超える」


 澪はそこで言葉を切った。切ってから、付箋をもう一枚出した。何も書かずに、地図の中央駅前へ貼った。


「何ですか、それ」

「まだ何でもない」

 澪は付箋の位置を指で少し直した。直してから、席を立たなかった。


 十九時五分。


 卓の端末が低い音を一度だけ立てた。


> 覚知。第七支部、全隊。中央駅前 地下街 二層。


 迅が腕を下ろしきった。



 二階の指令室に、地下街の断面図が貼ってある。三年前に貼ったもので、端が反り返っていた。


 中央駅前の地下街は三層ある。


 一層目に飲食が並び、二層目が通路と店になっている。三層目は駐車場になる。三層とも吹き抜けで繋がっていて、上から下まで一つの空洞が通っていた。


 澪は席についてすぐ、左手で右耳を塞いだ。


「一件です」

 尾花が言った。

「非常電話です。携帯からは来ていません」


「二十時前だぞ」

 久遠寺修司が地図の前に立った。

「あの時間の地下街に、何人いる」

「金曜です。三千人を超えます」


 三千人いて、非常電話が一本。携帯からは零になる。


 三千人の中に、電話を持っていない人間はいない。それでも来たのは一本になる。しかも非常電話から来た。


 久遠寺は壁の紙を見た。今月の数字が並んでいる。


 未着 累計 ── 零。


> 候補、三点ございます。第一、地下二層 中央通路。第二、同 東通路。第三、地下三層 駐車場。


「三点ですか」

「三点でございます。それ以上は、わかりません」


 澪は候補を見なかった。見たのは通報の音になる。


「反響しています」

 澪が言った。

「天井が低くて、床が硬い。二層の通路は絨毯です。硬いのは東側の階段の下だけになる」


 速水が図面を出した。地下二層。今度は合っている。


「それと」

 澪が続けた。

「後ろに人がいます。三人以上。誰も喋っていない」


 久遠寺が振り向いた。


「喋らないのか」

「喋っていません」


 澪が手を下ろした。


「座標、出た」


「第七支部 ── 出場!」



 地下三層の扉が上がった。


「三層、開放!」

 宮ヶ瀬佳代が盤を叩いた。髪を後ろで括っている。この日は寝ていた分だけ声が出た。


「一号から五号、出場!」


 サイレンファイヤーの真空引きが鳴った。上がりきる前に迅がアクセルを踏む。


 中央駅前までは六分掛かる。道は市内で一番広い。広い代わりに、金曜の夜は車が多かった。


「回線、五本使います」

 澪の声が耳に入った。

「市民が使えるのは三本」


 駅前の広場に着いた。地下への降り口は四箇所ある。東側の階段が一番近い。


 広場には人が出ていた。金曜の夜で、待ち合わせの時間になる。誰も地下の方を見ていない。地下で何が起きているかを、地上の誰も知らなかった。


 降りると、暗かった。


 照明が落ちている。非常灯だけが壁の低い位置で点いていた。緑の光で、床から三十センチくらいの高さだけを照らしている。天井は見えない。


 人がいた。通路に何十人も立っている。誰も動いていない。誰も喋っていない。


 金曜の夜の地下街になる。ここは普通、話し声で埋まる場所だった。靴の音だけが残っている。歩いている人はいない。それでも、床が軋む音は聞こえた。


 迅は非常灯の高さに膝を落とした。低いところからなら、床の様子が見える。靴が並んでいた。全部が同じ向きを向いている。吹き抜けの方角になる。


「聞こえますか」

 迅が声を出した。


 返事は無い。人が振り向く。振り向いて、それだけになる。口は開いていた。開いていて、音が出ていない。


「声が出ていません」

 澪が言った。

「全員です。この区画の中だけ」


 階段の下に人が倒れていた。三十くらいの男で、片脚が変な向きになっている。起き上がろうとして、途中で止まっていた。


 七尾ひかりが着いた。息を七つ数えて整える。長さはいつも同じになる。


「息、返すよ」


 言ってから、脈を見た。ある。呼吸もある。落ちたのは骨だけになる。


「大腿部。動かさないで」


 ひかりは男の靴を脱がせた。脱がせてから、足の指を軽く押す。動いた。神経は通っている。それを確かめてから、初めて男の顔を見た。


 寺尾がハンマーを打った。倒れた男の上に柱が一本立つ。上は吹き抜けになっている。三層目まで抜けた穴の下に、この男は寝ていた。


 打つ前に、寺尾は床を靴の先で二度叩いていた。石の下がコンクリートか土かを、その音で分ける。石の下は硬かった。


「まあ待て。俺が支える」


 言ってから、寺尾は上を見た。吹き抜けの縁に、手すりの一部が外れて垂れている。落ちてくるとすれば、そこからになる。


 迅は男の脇にしゃがんだ。しゃがむと、非常灯の高さと目が合う。男の顔の下半分だけが緑に照らされていた。


「誰か呼んだか」


 男が口を動かした。音は出ない。


 迅は男の手を取って、自分の手甲へ当てた。二回叩けば「はい」、一回で「いいえ」と決めた。決め方を説明するのに、指で二度と一度を示した。男が頷く。頷いてから、決めてある通りに叩き返してきた。


 もう一度訊いた。


「誰かが呼ぶのを見たか」


 二回叩いた。


「何人見た」


 男は迷ってから、何度も叩いた。数えきれない回数になる。


 迅は手甲を離した。離してから、周りに立っている人を見た。全員が、この男が落ちるところを見ている。



 非常灯が消えた。


 地下二層が完全に暗くなる。目が慣れる前に、床が動いた気がした。動いたのは床ではない。


 闇の方が動いていた。


 天井から下りてくる。黒の板が何枚も重なって、吹き抜けの穴を上から塞ぐ形になる。人の形は取らない。二層と三層の間を、それが埋めた。


「下がって」

 迅が言った。人は動かない。声が出ないだけでなく、聞こえてもいないらしい。


 迅は手を振った。それで五人分が動いた。あとは動かない。


 左手首の蓋を跳ね上げる。受話器の形になる。五人が同じ動作をした。


「急報 ── 出場!」


> サイレン ── 起動。〈火群 迅〉。応答、確認。

> サイレン ── 起動。〈逢坂 澪〉〈灰谷 蒼汰〉〈寺尾 剛〉〈七尾 ひかり〉。応答、確認。


 反射帯の光が足元から頭まで走った。装甲が下から順に組み上がる。五つの送話口が、同じ高さで止まった。


 五人が同時に右手を上げた。耳の高さで止めて、掌を外へ向ける。受話器を取る形になる。


> 水を持ってく、火の現場 ─── サイレンレッド!

> 声を持ってく、知の現場 ─── サイレンブルー!

> 綱を持ってく、高の現場 ─── サイレンイエロー!

> 梁を持ってく、圧の現場 ─── サイレングリーン!

> 息を持ってく、生の現場 ─── サイレンピンク!

>

> 特別災害対策機構、第七支部 ──

> 呼ばれたら、鳴らして、行く!

> 急報戦隊、サイレンジャー!


 地下の吹き抜けに反響して、三層まで下りていった。


 その光で、通路にいる人の顔が見えた。全員がこちらを見ている。


 迅がブレスを向けた。


「トリアージ!」


> 判定 ── 黒。要救助者、内部に確認できません。


「黒だ。潰すぞ」


 サイレンギアを抜いた。柄を半回転させる。ギアが噛んで、短い音が鳴った。


「筒先!」


 水が出た。闇の板に当たる。当たった場所だけ水が跳ねて、そこに形があると分かった。分かっただけになる。板は減らない。


 跳ねた水が床へ落ちる。床の上で、水だけが光った。闇はそこにあるのに、水を弾いた痕跡しか見えない。


「見えない」

「見なくていい」

 寺尾が言った。

「音で来る。当たる前に空気が動く」


 板が横へ振られた。倒れた男の上を通る。寺尾の柱が受けた。柱が撓んで、戻った。


 風は起きなかった。空気が動く前に、板がそこにある。音も出ない。当たった柱だけが鳴った。


 蒼汰がワイヤーを投げた。索が闇の中で何かに噛む。噛んだ手応えだけが手に来る。見えていない相手に噛ませるのは、三年で初めてになる。


 引く。板が一枚傾いた。


「上に軸がある。三層の天井」


 蒼汰は索を手繰りながら言った。手繰る速さは変えていない。見えない相手でも、索の張り方は変わらないらしい。

「登れるか」

「登ります」


 蒼汰は索を張って、吹き抜けの縁へ登った。手すりの外れた場所を避けて、その隣から上がる。上がりきる前に、垂れていた手すりが落ちた。


 落ちた先に人がいる。


 迅がそこへ入った。両腕を上げる。手すりの鉄を手甲で受ける。膝が落ちて、そこで止まった。


 右肩に力が入らない。左だけで持つ形になる。


「レッド」

「持ってる」


 寺尾が柱を足した。柱が入ってから、迅は腕を下ろした。下ろす時、右の肩が動かなかった。


 澪がソナーを撃った。音が三層まで通る。


「回線、残り三本。三層に十四名。全員が動いています」


 闇の板が下へ広がった。二層の床に接した。接した先から、通路の照明が一つずつ消えていく。もともと消えている照明が、さらに黒くなった。


「グリーン」

 迅が言った。

「柱、何本打てる」

「この床なら、いくらでも」


 寺尾は答えてから、周りを見た。地下街の床はコンクリートの上に石が貼ってある。硬い。硬い床は打ち込みやすい。旧市街の敷石とも、湾岸の床とも、丘の上の土とも違う。三年やっていると、打つ前に手が覚えている。


「上へ抜けさせない。天井を支える」


 抜ければ地上へ出る。地上には金曜の夜がある。地下街の何十人と、駅前の何百人では、数が二桁違う。


 寺尾が走った。三年、この人は走らない。この日は歩幅を広げた。走ってはいない。


 迅がその前を空けた。空ける時、自分は動かない。板の下に立ったままで、寺尾の通る幅だけを作る。


 吹き抜けの周りに柱を打つ。一本、二本、三本。四本目を打ったところで、四本が枠になった。


「サイレンハンマー ── 急救斬ッ!」


 五本目を、枠の真ん中へ打ち込んだ。


 真ん中は空洞になっている。柱は空を打つ。打った先で、闇の軸に当たった。


 柱が軸を貫いて、そのまま床へ届いた。上と下が繋がる。


 闇の板が上から順に落ちた。落ちて、床に着く前に消えた。七枚が消えるのに、七秒掛からなかった。


 非常灯が戻った。緑の光が壁の低い位置で点く。点いてから、天井の照明が一列ずつ戻っていった。二列目までで止まる。三列目から先は焼けていた。


 それから、声が戻った。


 三千人分ではない。この区画にいた何十人分だけになる。全員が同時に喋り出したので、何を言っているかは分からなかった。


 最初に聞き取れたのは、通報した人の声だった。壁の非常電話の前に立っている。まだ受話器を握っていた。


「もしもし」

 誰も出ていない線に向かって、その人はそう言った。



 救急が来た。


 脚を折った男は板に乗せられて、東の階段から上げられた。担架では階段の角を曲がれない。四人がかりで、板ごと持ち上げていく。


 メディックの奥の担架は、この日も出なかった。ひかりは手前の一台の留め具だけを外して、奥には触れない。


 ひかりが下から支えた。支えながら、男に言った。


「呼んでくれた人、いましたよ」


 男は天井を見ていた。それから、少しだけ首を動かした。


 通路には人が残っていた。三十人くらいになる。誰も帰らない。声が戻ったのに、まだ何も言わない人が半分いた。


 迅は階段の下を離れる前に、非常電話の前へ寄った。受話器はもう戻っている。番号の書いた札が、少し斜めになっていた。迅はそれを指で真っ直ぐにした。


 それから、通路の中の一人に訊いた。四十くらいの女で、買い物袋を提げている。


「非常電話、押しましたか」

「わたしは」

 女は口を開いて、そこで止まった。


「押してません。誰かが押したと思って」


 迅は頷いた。それから、非常電話の方を指した。壁の低い位置に、赤い箱が付いている。


「押した人がいました」

「そうなんですか」

「一人だけです」


 女は袋を持ち直した。持ち直してから、また口を開いた。


「わたしも、押せばよかったんですね」


 迅は答えなかった。答えずに、階段の方へ歩いた。


 その後ろで、女が何か言った。届かない。届かないまま、女は袋を提げ直して、反対の方向へ歩いた。


 人は少しずつ帰り始めた。帰る時に、何人かが倒れていた場所を見た。見て、それだけになる。


 地上へ出た。


 駅前の広場に、闇が立っていた。


 地下から抜けてきている。降り口の四箇所から出て、広場の中央で一つになった。高さは十五を超えて、それから二十を超える。街灯の光が届かない。届かないので、輪郭が分からない。


 金曜の夜の駅前に、人が二百人以上いた。


「五機」

 迅が言った。

「上げろ」


 五機がスロープを昇った。この日も、五つは噛み合わない。


 サイレンファイヤーが放水した。届く。届いても消えない。闇は濡れない。水は闇の向こう側へ抜けて、広場の反対の石畳を叩いた。


「見えないぞ」

 蒼汰が言った。

「ウイングのサーチを入れます」


 澪が高度を下げた。ローターの下に照明がある。地上へ向けて落とすと、闇の形が浮いた。板が七枚。地下と同じ数になる。


 照らされた部分だけが、そこにある。照明を切ると消える。


「消えたんじゃない。見えなくなっただけだ」

 寺尾が言った。


 サイレンクレーンがアウトリガーを張った。広場は平らで、四本とも土に当たらない。四本目が半拍遅れる。張り終えてから、アームを上げた。


 レスキューが右腕を伸ばした。掴もうとして、掴めない。闇には掴む場所が無い。左腕は動かない。掌が開かないからになる。


 メディックは走り出していた。折れた脚を乗せて、病院へ向かう。その分、地上が一人減る。


 人が退かない。二百人が広場に立ったままになっている。


 迅がファイヤーの拡声を入れた。


「下がってくれ」


 動いたのは半分だった。半分は上を見たままになる。


 迅は車を人の側へ回した。車体で列を作る。作ってから、もう一度言った。


「下がってくれ」


 今度は動いた。


 闇が広場の石を撫でた。撫でた先が黒くなる。黒くなった場所から、照明の光が反射しなくなった。


 撫でられた石は五十枚を超えていた。翌朝、駅の職員がそこを洗うことになる。洗っても落ちない。


 ウイングが上から照明を絞った。一点に集める。絞ると照らせる幅が狭くなる。狭い光を、澪は一枚ずつ順に当てていった。六枚目までは何も起きない。


 集めた光が、板の七枚目に当たった。


「そこです」

 澪が言った。


 クレーンのアームが伸びた。届く。広場は坂ではない。二十メートル足りない場所は無かった。


 アームが七枚目を押した。押した先で、板が折れた。


 残りの六枚が、上から順に落ちた。落ちて、広場の石に着く前に消えた。


 街灯が戻った。二百人の顔が一度に明るくなる。誰も声を上げなかった。上げないまま、四方へ歩き出した。


 拍手は起きなかった。地下街の入口に、閉鎖の札が下りていくのが見えていたからになる。


 札を下ろしたのは駅の職員で、四十くらいの男だった。下ろしてから、暫くそこに立っていた。



 地下二層と三層は、その夜から閉まった。


 照明の系統が焼けている。復旧の見込みは立っていない。金曜の夜に三千人が通る通路が、当面の間通れなくなった。


 地下二層は油の匂いがする。


 サイレンレスキューの右腕に、黒い跡が付いていた。掴もうとして掴めなかった場所になる。


 宮ヶ瀬佳代が布で拭いた。落ちない。石鹸を付けて、もう一度拭いた。落ちない。


「これは残るな」

 布を畳んで、腕の下へ潜り込む。裏側も見た。裏には付いていない。


 言ってから、地下街の図面を広げた。三層分の断面が書いてある。吹き抜けの穴に、赤で丸が入れてあった。


「暗いところで掴めるレスキューは、まだ作れない」


 誰にともなく言って、図面を巻いた。


 佐波悠が拭き取りの布を持ってきた。落ちないと言われてから持ってきたので、渡す相手がいなかった。持ったまま、二分ほど立っていた。


 佐波は布を棚へ戻した。戻す位置を間違えて、自分で気付いて置き直した。誰も見ていない。


 速水が地下街の照明系統の図を出した。二階の指令室で、澪の横に立っている。


「三層とも、同じ系統でした」

「知ってる」

「一つ落ちると、三つ落ちます」

「知ってる」


 澪は付箋を書いていた。四枚目になる。四月十六日、中央駅前。通報 一件。


 書いてから、その下にもう一行足した。非常電話、と書いた。携帯からは零だった。


 書いてから、四枚を横に並べた。並べただけで、何も書き足さない。並べた四枚を、久遠寺が後ろから見ていた。見て、何も訊かずに出ていった。


 二階の受信席で、電話が鳴った。


> 【第七支部 出場記録】

> 臨場 ── 十九時十一分。所要 ── 六分二十秒。

> 保留 ── 一件。最長 ── 四十二秒。

> 未着 累計 ── 零。

> 閉鎖 ── 中央駅前 地下街 二層および三層。当面。

> 本件、処理 ── 完了。

> ── 入電。

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