第044話 冷たいです
> 【第七支部 覚知記録】
> 覚知 ── 二月十五日 十六時二十分。
> 入電 ── 携帯電話。発信地 ── 山側 峰谷(推定)。
> 第一声 ──「冷たいです」
> 出場 ── 第七支部 全隊。
「冷たいです」
尾花律子は用紙を引き寄せた。時刻を分まで書く。秒は書かない。何が冷たいかは、まだ書かない。
「はい、鳴瀬市消防指令センターです。お名前を教えてください」
「里見です。里見きよ。主人が、沢に落ちて」
声が途切れた。途切れてから、また戻った。
「里見さん。今、電話は繋がっています。ゆっくりで大丈夫です」
「主人の手が、冷たいです。さっきまでは温かいのに」
尾花は書いた。山側、沢、転落。三語で足りる。書いた紙を、左手で当直の側へ半分だけ送る。
「里見さん。今おられる場所を教えてください」
「わかりません。林道を上がって、途中で車を停めて、歩いて」
「里見さん。近くに目印はありますか。看板でも、木でも構いません」
「岩です。平らな岩の上にいます。郵便の人が、ここなら繋がるって」
尾花の右手が止まった。止まったのは、書く欄を選ぶ分になる。
「里見さん。その郵便の方は、今も近くにおられますか」
「います。ご主人のところへ戻ってます」
「里見さん。その岩から動かないでください。動くと、電話が切れます」
「動きません」
尾花は用紙の右の欄へ、転落一、低体温疑い、通話可能地点固定、と書いた。三つ並ぶと、行く順が決まる。
「里見さん。ご主人は、話が出来ますか」
「さっきは返事しました。今は、目を開けてるだけです」
「里見さん。ご主人にかけられる上着は、ありますか」
「郵便の人が、自分のを掛けました」
「里見さん。ご主人の下に、何か敷けますか。地面に直接だと、上から掛けるより早く冷えます」
「敷きます。私の、これを」
尾花はその一行も書かなかった。書く欄が無い。
「里見さん。この電話は切らないでください。切れたら、その岩の上でもう一度掛けてください」
「掛けます」
用紙の一番下に、背後の音を書く。水、雪、風。三語になる。
水の音は、沢の音になる。二月の沢は、凍りきらずに音を出す。
*
十六時二十分の三階は、窓の外がもう暗かった。
二月の半ばの日没は、十七時半になる。山側は東に尾根があるので、平地より三十分早く暗くなる。
寺尾剛が大鍋に水を張っていた。夕方の一回目になる。
「班長、今日は早いですね」
「早い。山へ行く日は、帰りが遅い。先に張っておく」
二文で言って、鍋の縁を布で拭いた。まだ、行くと決まっていない。
灰谷蒼汰は索を膝の上へ広げて、端から端まで指で送っていた。三年、出る前に必ず一度やる。
「四本です。沢なら長いのを一本足します」
七尾ひかりは、温める袋と、下に敷く銀の膜を前へ出していた。二月に入ってから、この二つは並べて置いてある。
冷えた人を助ける時、上から掛けるものより、下に敷くものの方が効く。地面は、人から熱を取り続ける。
取られる速さは、上から逃げる速さの二倍以上になる。
火群迅は非常階段の一番下にいた。手の甲を鉄の手すりへ当てて、そのまま止めている。
鉄が冷たい。この日は、冷たさが一定していない。風が上がったり止んだりしている。
逢坂澪は受信席の斜め後ろに立っていた。手にはコーヒーがある。砂糖も牛乳も入っていない。
須永が中継の盤の前に座っていた。座っているのは珍しい。この人は、たいてい立って見ている。
「山側の三号が、五分の一まで落ちてます」
「雪か」
「雪です。それと、朝から風が当たってます」
中継の三号は、山側の谷を跨いで立っている。谷を跨ぐ塔は、風の向きが変わると受ける面が変わる。
面が変われば、届く方向も変わる。届かなくなった方向は、地図の上では白いままになる。
白いのは、圏外という意味ではない。測った人がいないという意味になる。
測るには、塔に登る。登るのは一人しかいない。その一人が、今は盤の前に座っている。
「今日は繋がりません」
須永がそう言った。三年で、初めてになる。
言ってから、この人は盤の前に座り直した。座ったまま、手は止めていない。
佐波悠が地下三層から上がってきた。工具箱を提げたままになる。
「宮ヶ瀬さん。ブレスの応答、山側だと遅れますか」
「遅れます。ただし、遅れる分を先に詰められる回路を、まだ作れていません」
宮ヶ瀬佳代は逆から言う。出来ていることを先に言わない。
*
分析に入ると、澪は喋らない。
盤面に山側が出る。峰谷の林道は、集落の上から三キロ続いている。
三キロの間に、車を停められる場所が四か所ある。四か所とも、沢の側に寄っている。
里見きよは、林道を上がって、途中で車を停めて、歩いたと言った。
歩いた先が沢になる。沢へ降りられる場所は、四か所のうち二か所しかない。
残りの二か所は、下が崖になる。降りられない場所からは、落ちても沢まで届かない。
「アンサー」
> ── はい。
「山側峰谷、林道。携帯の繋がる場所を」
> ── 三号中継の圏内は、林道の入口から八百メートルまでです。それより上は圏外になります。
「今は繋がっている」
> ── 繋がっています。……八百より上のどこで繋がっているかは、わかりません。
アンサーは返事の前に一度、上を向いた。頭の受話器の形が、天井を向いてから戻る。
圏外のはずの場所から、電話が来ている。
来ているということは、圏外の中に、繋がる場所が一つあるということになる。
繋がる場所は、たいてい上にある。上にあって、平らで、木が無い。
澪は盤面の林道を、入口から順に指でなぞった。なぞりながら、木の無い場所だけを白く残した。
残ったのは三か所ある。三か所のうち、沢へ降りられる場所の近くにあるのは一か所しかない。
その一か所は、地図に道が付いていない。道の無い場所に、平らな岩がある。
「アンサー。この岩へ行く道は」
> ── 地図にはありません。
地図に無い道を知っている人が、この街に一人いる。
その人は、今日も配達に出ている。山側の順路は、午後に上がって、日没までに下りる。
日没までに下りるということは、今この時刻は、まだ上にいるということになる。
澪は左手を下ろした。
「座標、出た」
五人が動いた。下ろした瞬間に動く。この人の手が下りるまで、誰も一歩も出ない。
「山側峰谷、林道の三つ目の停め場。沢の下に転落一名、低体温の疑い。通報者は上の岩。地図に無い道が一本。三号中継は五分の一」
迅は最後まで聞いていない。「転落一名」で走り出している。澪は最後まで言い終えた。
久遠寺修司が受信席の後ろで立ち上がった。
「繋がるか」
「上では繋がります。回線は、いま五本空いています」
「第七支部 ── 出場!」
*
ポールは二本ある。迅が一番に握った。掌が焼ける。焼けるのを毎回やる。一階で装備を背負い、階段で地下三層へ下りる。
地下三層の扉が上がった。
「三層、開放!」
宮ヶ瀬佳代が盤の前に立っていた。この日は中継三号の記録を、盤の隅に出したままにしてある。
「一号から五号、出場!」
山側の林道は、途中から幅が三メートルになる。雪も残っている。
五機は集落の上で止まった。そこから先は、歩いて上がることになる。
歩き始めて十分で、応答の盤が一度、全部落ちた。落ちてから、三十秒で半分だけ戻る。半分というのは、五人のうち二人しか繋がらないという意味になる。
林道の三つ目の停め場に、軽自動車が一台停まっていた。運転席の扉が開いたままで、閉める前に走ったことが分かる。
沢は、停め場から二十メートル下になる。降りる斜面は、雪と、その下の落ち葉になる。
斜面の途中に、人が二人いた。
一人は、七十を越えた男になる。仰向けで、動いていない。目は開いている。
もう一人は、その横に膝を突いている。制服の上を着ていない。着ていたものは、男の上に掛かっている。
室谷になる。山側の郵便配達で、六十くらいになる。
迅が斜面を下りた。下りた先で、室谷が指を差した。
差した先は、男の脚になる。左の膝から下が、沢の水に入っている。
「引き上げるぞ」
室谷は頷いた。この人は、喋らない。
寺尾が斜面へハンマーを立てた。柱を三本、雪の下の地面へ打ち込む。
「まあ待て。俺が支える。この斜面は、雪の下が凍っとる」
二文で言って、三本の柱の間へ板を渡した。渡した板が、下ろす道になる。
蒼汰が索を停め場の軽自動車の後ろへ回した。回してから、二重に取る。
「上、任せろ。車が支点。索は二本です」
ひかりが板の上を下りて、男の横へ膝を突いた。
膝を突く前に、下に敷く銀の膜を先に広げた。上へ掛けるより先に、下へ入れる。
「里見さん。七尾といいます。今から下に敷きます」
男は返事をしなかった。目は開いている。
ひかりは室谷の掛けた上着を、外さなかった。外さずに、その上から自分の毛布を重ねた。
外すと、そこで一度冷える。冷えた分は、あとから戻すのに三倍かかる。
左の脚を、沢の水から抜いた。抜いた足を、拭かずにそのまま膜の上へ載せる。
拭くと、そこで熱が逃げる。
「息、返すよ」
七つ数えた。七つでは戻らなかった。もう一度、七つ数えた。
二度目の六つ目で、男の目が動いた。動いた先が、ひかりの顔になる。
「里見さん。名前を言ってもらえますか」
「……さとみ」
声が出た。出れば、通っている。
上の岩の方から、里見きよの声が降りてきた。まだ電話を持っている。
持っているのは、切らないでくださいと言われたからになる。
男を板の上へ乗せた時、沢の水の音が変わった。
変わったのは、上流の側になる。
上流から、白いものが下ってきた。凍った沢の表が、剥がれて流れている。
剥がれた氷が、途中で止まった。止まった場所で、積み上がっていく。
積み上がった氷が、沢の幅いっぱいで立った。高さは四メートルほどになる。
迅が左手首の蓋を跳ね上げた。
「急報 ── 出場!」
> サイレン ── 起動。〈火群 迅〉。応答、確認。
返った。一度で返った。
地下三層で、宮ヶ瀬が盤の一行を見た。見て、指を止めた。
止めただけで、何も言わなかった。
澪が蓋を跳ね上げた。返らない。
二度目で、二十秒待って返った。
> サイレン ── 起動。〈逢坂 澪〉。応答、確認。
蒼汰が跳ね上げた。四十秒。
> サイレン ── 起動。〈灰谷 蒼汰〉。応答、確認。
寺尾が跳ね上げた。三十秒。
> サイレン ── 起動。〈寺尾 剛〉。応答、確認。
ひかりは、男の横から動かなかった。動かないまま、片手で蓋を跳ね上げた。
一分待った。
> サイレン ── 起動。〈七尾 ひかり〉。応答、確認。
五人揃うまでに、三分掛かった。
三分の間、迅は氷の柱の前に一人で立っていた。立っていただけで、前へ出ていない。
出れば、後ろが空く。後ろには、板の上の男と、ひかりがいる。
五人が揃ってから、同時に右手を上げた。耳の高さで止めて、掌を外へ向ける。受話器を取る形になる。
斜面の上から、室谷がそれを見ていた。
> 水を持ってく、火の現場 ─── サイレンレッド!
> 声を持ってく、知の現場 ─── サイレンブルー!
> 綱を持ってく、高の現場 ─── サイレンイエロー!
> 梁を持ってく、圧の現場 ─── サイレングリーン!
> 息を持ってく、生の現場 ─── サイレンピンク!
>
> 特別災害対策機構、第七支部 ──
> 呼ばれたら、鳴らして、行く!
> 急報戦隊、サイレンジャー!
口上が沢の底から、両側の斜面に当たって返ってきた。返った声が、上の岩まで届いた。
届いた先で、里見きよが電話を耳から離した。離してから、また当てた。
迅がブレスを氷の柱へ向けた。
「トリアージ!」
> 判定 ── 黒。要救助者、内部に確認できません。
「黒」
> ── 回線、残り 三本。
柱が沢を下ってきた。下る先に、板と、その上の男がいる。
迅は柱と板の間へ入った。入った足の下は、凍った沢の石になる。
凍った石は動かない。動かない分だけ、踏ん張れる。
柱が当たった。装甲越しに、冷たさと重さが同時に来る。
迅は下がらなかった。下がると、板まで四メートルしかない。
寺尾が板の下の柱を、もう一本増やした。増やした一本で、板が下流へ流れなくなる。
「保っとる。上げるのを続けろ」
二文で言って、板の縁へ肩を入れた。
蒼汰が索を投げた。投げた索が、氷の柱の腰へ巻いた。巻いてから、上の軽自動車へ二重に取る。
「上、任せろ。車で止める。二本だ」
留めた索が張った。張った先で、柱の下りが半分になった。
澪が斜面の途中でソナーを構えた。撃つ前に必ず人数を言う。
「五名。沢に四、上の岩に一。柱の中は零。撃てる」
撃った。低い音が柱の腹を通った。通った場所の氷が、粉になって落ちた。
落ちた粉の下から、去年の枝が出た。氷の中に、沢の枝が巻き込まれている。
「枝が縦に通っています。上から下まで、一本で」
枝が通っていると、氷はそこで割れない。割れないので、押しても崩れない。
迅は斧を右手一丁で持った。持ってから、刃を横に寝かせた。
寝かせた刃は、縦の枝を切らない。切るのは、枝と氷の境目になる。
「サイレンアックス ── 急救斬ッ!」
刃が柱の腹を、下から斜めに抜けた。
抜けた先で、氷が枝から外れた。外れた氷が、沢の水へ落ちて、そのまま下流へ流れていく。
蒼汰が軽自動車の二重を解いた。解いた索は、氷が外れた分だけ軽い。二本とも巻き取りへ収めて、端を指で一度送る。
枝だけが、沢の真ん中に残った。
残った枝が、そこで立ち上がった。立ち上がった高さが、両側の斜面の木を越えた。
*
地下三層で宮ヶ瀬が盤を叩いた。
「沢の中です。谷が狭くて、機体を並べられません」
五機が林道の三つ目の停め場から上がってきた。停め場より上は、道が二メートル半しかない。
サイレンクレーンは林道の上でアウトリガーを張る。片側は谷になる。
サイレンウイングが谷の上を低く抜けた。抜けた風で、斜面の雪が下へ落ちた。
サイレンメディックは停め場に着けて、後扉を開けたまま待っている。
「五機、連結!」
「特災合体 ── サイレンオー!」
サイレンオーが立った。
沢の底から見上げた室谷には、脚と、胴の下半分が見えた。上の岩の里見きよには、左手だけが見えた。
その左手は、開いていない。握ったままになる。
> ── 回線、残り 二本。
枝が下流へ倒れようとした。下流には、集落の上の取水の口がある。
塞がれると、集落の水が止まる。二月に水が止まると、次に出るのは春になる。
サイレンオーは掴まなかった。掴まずに、左腕を沢の下流側へ、上から差し入れた。
差し入れた腕が、沢の幅を跨ぐ一本の桁になる。
枝は桁を越えられない。越えられない分だけ、上流へ戻る。
寺尾の声が回線に入った。
「桁になった。下へは行かん」
迅が言った。
「今だ」
右腕の放水砲が開いた。
「サイレンオー ── 全消斬ッ!」
水が出た。斬るのではなく、押す形で出る。
押された枝が、沢の中で潰れた。潰れた先で、体が保てなくなる。
枝は枝に戻った。戻った枝が、沢の石の間へ引っ掛かって止まった。
止まった枝の上を、水がまた流れ始めた。
林道に、六人ほどが出ていた。集落から上がってきた人になる。
誰も拍手をしなかった。この街の山側は、暗くなってからは音を立てない。
十七時二分に、里見の夫が搬送された。
体温は三十四度八分になる。三十五度を下回ると、名前が言えなくなることが多い。
この人は、言えた。言えたのは、下に膜が入るのが早かったからになる。
早かったのは、上着を掛けた人がいたからになる。
里見きよが岩から下りてきた。下りるのに、七分掛かった。
下りてから、まず室谷を探した。室谷は、もう斜面の上にいる。
制服の上は着ていない。着ていないまま、配達の鞄を持ち直していた。
「上着、洗ってお返しします」
室谷は首を振った。振ってから、指で自分の鞄を差した。
鞄の中に、替えが一枚入っている。この人は、冬の間はいつも二枚持って出る。
二枚持つ理由を、誰も訊いたことがない。訊いても、この人は指で鞄を差すだけになる。
里見きよが、右手を耳の高さまで上げて、掌を外へ向けた。
誰も教えていない。この人は、電話を切らないでくださいと言われてから、四十分それを守った。
室谷は、同じ形を返さなかった。返す代わりに、下りる道を指で差した。
差した先は、来た道ではない。もう一本、地図に無い道になる。
斜面の上に、素手の男が立っていた。
上着を着ていない。この寒さで、袖をまくったままになる。
その人は、里見の夫を乗せた担架の方を見ていた。
「上着は、二枚要らん」
声はそう言った。誰にも向けていない。
言ってから、自分の腕を一度だけ擦って、木の間へ入った。入った先で、雪を踏む音がしない。
*
支部へ戻ると、玄関の内側に豆腐が五丁あった。
朝の分が、そのまま残っている。この日は誰も三階へ上げていない。
寺尾が笊を出して、五丁を移した。移してから、角を確かめる。
「崩れとらん。一日置いても崩れとらん」
佐波が地下二層で、サイレンウイングの下面を見ていた。谷の雪が、翼の付け根に張り付いている。
「落とします。凍る前に」
「凍る前です。ただし、張り付かない付け根を、まだ作れていません」
宮ヶ瀬は工具を置いた。置いてから、それ以上は足さなかった。
毎回、作れなかったものを一つ言う。三年、欠かしたことが無い。
置いてから、この人は盤の記録をもう一度出した。出したのは、応答の時刻の並びになる。
一人目が零秒。二人目が二十で、三人目が四十。四人目は三十まで戻り、五人目は一分掛かっている。
零秒の行を、宮ヶ瀬は指で押さえた。押さえたまま、暫く動かさなかった。
それから紙を閉じて、抽斗へ入れた。抽斗の一番奥になる。
誰にも見せていない。
須永が中継の盤の前に立っていた。三号は、まだ五分の一のままになる。
「明日、塔に登ります」
「登ってください」
久遠寺はそれだけ言った。理由は訊かない。
速水が受信席で、山側の地図を畳んでいた。畳みながら、佐波に言った。
「室谷さん、上着を二枚持って出るそうです。冬の間ずっと」
「本人に言ってあげたらどうですか」
「言いません。あの人、返事をしないので」
澪は受信席の裏で、山側の記録を出していた。
地図に無い道は、この林道だけで三本ある。三本とも、郵便の配達の順路に入っている。
順路の紙は、消防には回ってこない。回ってくる紙には、道の名しか載っていない。
名の無い道を数える欄は、どの用紙にも無い。
無い欄のものは、要る日まで誰も知らない。要る日に知っているのは、毎日そこを歩いている人だけになる。
澪は自分の地図に付箋を一枚貼った。山側峰谷、林道の上。これで二十四枚目になる。
付箋には何も書いていない。
抽斗へ入れた紙は、翌朝の点検の記録に写されない。写す欄が、その紙には無い。
三階の食堂で、寺尾が湯豆腐を出した。帰りが遅かった分、湯を二度足してある。
食べ終わらないうちに、二階の受信席で、電話が鳴った。
> 【第七支部 出場記録】
> 臨場 ── 十六時四十四分。所要 ── 二十四分。
> 保留 ── 一件。最長 ── 五十三秒。
> 未着 累計 ── 零。
> 応答 ── 遅延。五名の変身に三分を要した。
> 損壊 ── 山側峰谷 沢 上流 結氷 剥離。取水口 異常なし。
> 林道 三つ目停め場 路肩 一部 崩れ。
> 救助 ── 一名。搬送 ── 一名(低体温)。
> 中継三号 出力 五分の一 ── 継続。
> 本件、処理 ── 完了。
> ── 入電。




