第043話 傾いてます
> 【第七支部 覚知記録】
> 覚知 ── 二月八日 七時五十分。
> 入電 ── 携帯電話。発信地 ── 川沿い 二丁目。
> 第一声 ──「傾いてます」
> 出場 ── 第七支部 全隊。
「傾いてます」
尾花律子は用紙を引き寄せた。時刻を分まで書く。秒は書かない。何が傾いたかは、まだ書かない。
「はい、鳴瀬市消防指令センターです。今何処におられるか教えてください」
「川沿いの二丁目です。堤防の内側の畑。松尾といいます」
「松尾さん。何が傾いているかを教えてください」
「隣の倉庫です。農協の古いやつ。屋根に雪が乗って、南側の柱が沈んでます」
尾花は書いた。川沿い二丁目、農業用倉庫、傾斜。三語で足りる。書いた紙を、左手で当直の側へ半分だけ送る。
「松尾さん。中に人がいるかどうか分かりますか」
「軽トラが入ってます。前田さんとこの。だから、多分中に」
尾花の右手が止まった。止まったのは、書く欄を増やす分になる。
「松尾さん。声を掛けて、返事があるかどうか教えてください。ご自分は中へ入らないでください」
「入りません。呼びます」
通話の向こうで、松尾が呼んだ。名字を二度呼んで、三度目で返事が来た。
「います。中にいます。出られないって」
「松尾さん。その方に、動かないでいてもらってください。今から人が行きます」
「動くなって言います」
尾花は用紙の右の欄へ、在中一、応答あり、積雪荷重、と書いた。三つ並ぶと、道具の順が決まる。
「松尾さん。倉庫の出入口は、何処にありますか」
「南です。大きい引戸が一枚。今、その上が下がってて、開かないんだと思います」
「松尾さん。倉庫から離れてください。屋根の雪が落ちる側は、南になります」
「離れます」
「松尾さん。この電話は切らないでください」
「切りません。あの、私、去年もここで呼んでるんです」
尾花はその一行を書かなかった。書く欄が無い。
用紙の一番下に、背後の音を書く。雪、鉄、鳥。三語になる。
鉄の音は、倉庫の屋根の折板が、荷を受けて鳴っている音になる。
*
七時五十分の三階は、窓が白かった。
前の日の夜から降って、朝の五時に止んでいる。積もったのは十五センチになる。
この街で十五センチは、三年に一度の量になる。降る日は決まって、前の日が暖かい。
寺尾剛が笊を洗って、伏せて、その前に立っていた。武藤とうふ店の豆腐は、この日も七時十分に届いている。
「班長、雪でも来ましたね」
「来た。三年、来なかった日が無い。今日は長靴だったが」
二文で言って、笊をもう一枚出した。
灰谷蒼汰は索を膝の上へ広げて、端から端まで指で送っていた。三年、出る前に必ず一度やる。
「四本です。雪の日は手袋を先に替えます」
濡れた手袋で結ぶと、締めが二割甘くなる。替えるのに掛かる十秒を、この人は先に払う。
七尾ひかりは、雪の日の並びを出していた。冷えと、打った傷と、切った傷が同じ日に来る。
雪の下は見えない。見えないものを踏むと、足首から先が先に壊れる。
火群迅は非常階段の一番下にいた。手の甲を鉄の手すりへ当てて、そのまま止めている。
鉄が冷たい。冷たさの上に、雪の粉が薄く乗っている。
逢坂澪は受信席の斜め後ろに立っていた。手にはコーヒーがある。砂糖も牛乳も入っていない。
積雪の記録を見ていた。十五センチの雪は、屋根の一平方メートルあたりで四十五キロある。
四十五キロは、人が一人乗ったのと同じになる。屋根の広さの分だけ、人が並んで乗っていることになる。
古い倉庫の屋根は、その計算で作られていない。作られた頃、この街に十五センチは降らなかった。
降らなかった年が四十年続くと、次に降った年に、四十年分がまとめて出る。
佐波悠が地下三層から上がってきた。工具箱を提げたままになる。
「宮ヶ瀬さん。クレーンのアウトリガー、滑り止めの板を全部載せました」
「載せました。ただし、雪の上で板が沈む分は、まだ計算出来ていません」
宮ヶ瀬佳代は逆から言う。出来ていることを先に言わない。
梅木あかねが盤の前で、五機の下回りを一度ずつ見た。雪の日は、出る前に必ず見る。
見るのは氷ではなく、氷になる前の水になる。
*
分析に入ると、澪は喋らない。
盤面に川沿い二丁目が出る。堤防の内側に畑が広がっていて、その中に倉庫が三棟ある。
三棟のうち、一番古いのが南の一棟になる。建ったのは四十二年前で、木の柱に鉄の折板を載せてある。
柱は六本ある。南と北と真ん中に、二本ずつ立っている。
沈んだのは南側の一本になる。沈んだ分だけ、屋根が南へ傾いた。
傾いた屋根は、雪をその方向へ寄せる。寄った分だけ、南側の荷が増える。
増えれば、また沈む。
「アンサー」
> ── はい。
「川沿い二丁目、南の倉庫。基礎の記録を」
> ── 三十年前に一度、南側だけ打ち直しています。北側の記録はありません。
「打ち直した理由は」
> ── 記載がありません。……わかりません。
アンサーは返事の前に一度、上を向いた。頭の受話器の形が、天井を向いてから戻る。
打ち直したのは南側だけになる。三十年前に沈んだ場所が、今日も沈んだ。
澪は盤面の倉庫を大きくした。大きくしてから、南の引戸だけを色で囲んだ。
引戸は幅が四メートルある。上に鴨居が一本渡っていて、その鴨居が屋根の荷を受けている。
屋根が南へ傾くと、鴨居が下がる。下がった鴨居が、引戸の上を押さえる。
押さえられた戸は、横へ動かない。動かないので、開かなくなる。
中の人は、閉じ込められているのではない。出口が下りてきているだけになる。
澪は左手を下ろした。
「座標、出た」
五人が動いた。下ろした瞬間に動く。この人の手が下りるまで、誰も一歩も出ない。
「川沿い二丁目、南の倉庫。築四十二年、柱六本。南の一本が沈んで屋根が傾斜。鴨居が下がり引戸が開かない。中に一名、応答あり」
迅は最後まで聞いていない。「中に一名」で走り出している。澪は最後まで言い終えた。
久遠寺修司が受信席の後ろで立ち上がった。
「戸は」
「開きません。回線は、いま五本空いています」
「第七支部 ── 出場!」
*
ポールは二本ある。迅が一番に握った。掌が焼ける。焼けるのを毎回やる。一階で装備を背負い、階段で地下三層へ下りる。
地下三層の扉が上がった。
「三層、開放!」
宮ヶ瀬佳代が盤の前に立っていた。この日は積雪の記録を、盤の隅に出したままにしてある。
「一号から五号、出場!」
川沿い二丁目までは、支部から八分になる。この日は雪で、九分掛かった。
堤防の内側の道は、除雪が入っていない。轍が二本だけ付いている。
倉庫の前に、松尾が立っていた。六十くらいで、長靴の上まで雪に入っている。
「消防です。中の人は」
「返事してます。さっきも」
迅は倉庫の南側へ回った。回った先の引戸は、上の縁が三センチ下がっている。
三センチ下がると、戸は横へ動かない。動かそうとすると、鴨居が引っ掛かる。
迅は戸に手を掛けなかった。掛ける代わりに、戸の下の隙間へ膝を突いて、中へ声を掛けた。
「消防だ。名前は」
「前田です。前田隆」
「怪我は」
「してません。車の陰にいます」
迅はそこで、ブレスを倉庫へ向けた。
「トリアージ!」
> 判定 ── 緑。要救助者、自力で脱出可能。
盤面の色が変わった。黒でも黄でもない。
「緑」
「壊さないでください。この戸を割ると、鴨居が落ちます。落ちた鴨居が、屋根の荷を全部持っていきます」
澪の声が続いた。
「中の人は歩けます。閉じ込められてはいません。出口が下りています」
六人がやることが、それで一つに決まった。
出口を、上げる。
迅が左手首の蓋を跳ね上げた。五人が同じ動作をした。
「急報 ── 出場!」
> サイレン ── 起動。〈火群 迅〉。応答、確認。
> サイレン ── 起動。〈逢坂 澪〉〈灰谷 蒼汰〉〈寺尾 剛〉〈七尾 ひかり〉。応答、確認。
反射帯の光が足元から頭まで走った。装甲が下から順に組み上がる。五つの送話口が、同じ高さで止まった。
五人が同時に右手を上げた。耳の高さで止めて、掌を外へ向ける。受話器を取る形になる。
雪の上に、五つの影が並んだ。影は青い。雪の日の影は、朝でも青くなる。
> 水を持ってく、火の現場 ─── サイレンレッド!
> 声を持ってく、知の現場 ─── サイレンブルー!
> 綱を持ってく、高の現場 ─── サイレンイエロー!
> 梁を持ってく、圧の現場 ─── サイレングリーン!
> 息を持ってく、生の現場 ─── サイレンピンク!
>
> 特別災害対策機構、第七支部 ──
> 呼ばれたら、鳴らして、行く!
> 急報戦隊、サイレンジャー!
口上が雪の畑の上を、遮るものが無いまま堤防まで届いた。届いた先の堤防の道で、除雪の車が一度止まった。
> ── 回線、残り 三本。
寺尾が引戸の東の端へハンマーを立てた。
「まあ待て。俺が支える。この鴨居は、押し上げるんじゃない。落ちないようにするだけだ」
二文で言って、柱を二本、鴨居の両端の下へ打ち込んだ。
打ち込んだ柱が、鴨居を下から持つ。持った分だけ、鴨居はそれ以上下がらない。下がらないだけで、三センチは戻らないままになる。
蒼汰が屋根へ索を投げた。投げた索が、屋根の北側の折板の縁に掛かった。
「上、任せろ。引きません。雪だけ落とす」
掛けた索を、蒼汰は横へ引いた。引いた索が、屋根の雪の上を東から西へ走る。
走った索の下で、雪が板になって外れた。外れた板が、北側の畑へ落ちる。
北側へ落とすのは、南に人がいるからになる。
一枚目が落ちた。二枚目が落ちた。三枚目のところで、屋根が一度鳴った。鳴った音を、寺尾が柱で受けている。
「保っとる。北から順でいい」
北の雪が減った分だけ、屋根の傾きが戻る。戻ったのは、三センチのうち一センチになる。
一センチでは、戸は動かない。
迅が戸の下へ入った。入って、背中を戸の内側へ着ける形で、両足を雪へ突っ張った。
突っ張った足の下は、踏み固めた雪になる。固めたのは、この人が自分の足で三十秒踏んだ分になる。
「一センチ、俺が持つ。残りをやれ」
背中で受けているのは、戸ではない。戸の上の鴨居と、その上の屋根になる。
装甲越しに、重さが来た。冷たさより先に、重さが来る。
迅は下がらなかった。下がると、一センチが戻る。
澪が畑の側でソナーを構えた。撃つ前に必ず人数を言う。
「四名。畑に三、倉庫の中に一。中の一名は動いていません」
撃たない。緑の日は撃たない。
澪は撃つ代わりに、ソナーの口を屋根の折板へ当てた。当てて、低い音を板の中へ通す。
通った音が、板の継ぎ目で返ってきた。返り方の違う場所が、南の二枚目にある。
「南の二枚目、下の受けが外れています。踏めません」
蒼汰が索の掛け先を変えた。二枚目を避けて、三枚目へ移す。
移した先で、四枚目、五枚目と落とした。落とした雪は全部、北の畑へ行った。
傾きが、三センチのうち二センチまで戻った。
ひかりが引戸の隙間へ屈んで、中へ声を掛けた。
「前田さん。戸が動きます。動いたら、私の声の方へ来てもらえますか」
「行きます」
「前田さん。外れた板があるかも知れません。跨いでもらえますか」
「跨ぎます」
この日、ひかりはナイフを抜いていない。
寺尾が柱の間へ肩を入れた。入れてから、鴨居を持つ柱を、下から一度だけ叩き上げた。
叩いた分だけ、鴨居が半センチ上がった。
その半センチと、雪で戻した二センチと、迅の背中の分を足すと、戸が動く幅になる。
「開くぞ」
迅が背中を着けたまま、戸を横へ押した。押した戸が、五センチ動いた。
五センチ動けば、あとは人の手で開く。開いたのは四十センチで、人が横向きに抜けられる幅になる。
前田隆が出てきた。五十くらいの男で、作業着の上に半纏を着ている。
外へ出てから、自分の足で三歩歩いた。歩いてから、倉庫の方を振り返った。
振り返った先で、屋根が下がった。
下がった屋根から、雪と、折板と、四十二年分の埃が一度に出た。
出たものが、倉庫の南の前で集まった。集まった形は、屋根と同じ角度で傾いている。
高さは五メートルほどになる。立っているのに、真っ直ぐ立っていない。
迅がブレスをそちらへ向けた。
「トリアージ!」
> 判定 ── 緑。要救助者、自力で脱出可能。
二度目の緑になる。
中にいるものは、出られる。出られないのは、傾いているからになる。
「壊さないでください。壊すと、傾いたまま散ります。散ると、畑の三棟が全部その角度になります」
澪の声が、回線に入った。
六人は倒さない。倒す代わりに、傾きを起こす。
寺尾が塊の低い側へ回った。回ってから、柱を三本、地面へ打ち込んだ。
「まあ待て。俺が支える。低い方から上げる。高い方を押すと折れる」
二文で言って、三本の柱の頭を、塊の低い側の下へ入れた。
蒼汰が索を投げた。投げた索が、塊の高い側の肩へ掛かる。
「上、任せろ。引かずに、こちらが下りる」
蒼汰は索を引かずに、自分が倉庫の屋根の残りへ登った。登ってから、体重を索へ預けて下りる。
下りた分だけ、塊の高い側が下がった。下がった分だけ、低い側が上がる。
迅は塊の下へ入らなかった。入る代わりに、低い側の縁へ肩を当てて、下から押し上げた。
押し上げるのは、斧ではない。肩と、背中と、両足になる。
足の下の雪が、押した分だけ後ろへ逃げる。逃げた分を、迅は踏み直した。
踏み直しながら、押し続けた。
塊が、真っ直ぐになった。
真っ直ぐになった瞬間、腹の側に縦の切れ目が入った。
その切れ目から、何かが歩いて出た。
人の形をしている。三十くらいの男で、作業着を着ている。
男は雪の上に立って、自分の足元を見た。見てから、堤防の方へ歩いていった。
誰も追わなかった。追わないのが、緑の日の決まりになる。追わないと決めてある日は、見送る側の足も動かない。
蒼汰は屋根の残りから下りて、肩の上の縁から索を外した。外した索を巻き取りへ収める。収めてから、端を指で一度送る。
塊は、中身が出た後で崩れた。崩れた雪と板が、倉庫の前で山になった。
山になったものは、もう傾いていない。
*
地下三層で宮ヶ瀬が盤を叩いた。
「畑です。雪の下が土です。アウトリガーが、板を載せても沈みます」
五機が堤防の道へ並んだ。サイレンクレーンは堤防の舗装の上でアウトリガーを張る。畑へは降りない。
サイレンウイングが畑の上を低く抜けた。抜けた風で、落とした雪の板が二枚、動いた。
サイレンメディックは堤防の道に着けて、後扉を開けたまま待っている。
「五機、連結!」
「特災合体 ── サイレンオー!」
サイレンオーが立った。
畑の松尾には、脚と、胴の下半分が見えた。堤防の除雪の車の運転席からは、左手だけが見えた。
その左手は、開いていない。握ったままになる。
> ── 回線、残り 二本。
残った倉庫の二棟が、同じ方向へ傾き始めた。
三棟は同じ年に、同じ職人が建てている。同じ場所が同じように沈む。
サイレンオーは撃たなかった。
撃つ代わりに、左腕を二棟の間へ、上から下へ差し入れた。
差し入れた腕が、二棟の傾く先を塞ぐ支えになる。
支えられた二棟は、それ以上倒れない。倒れないだけで、直りはしない。直すのは、この六人の仕事ではなかった。
寺尾の声が回線に入った。
「支えた。直しはせん」
迅が言った。
「それでいい」
サイレンオーは、そのまま動かなかった。動かずに、左腕を差し入れたまま立っている。
八時四十一分に、市の建設の課が来た。仮の支柱を入れるまで、四十分掛かった。
四十分の間、サイレンオーは同じ姿勢で立っていた。
立っている間、堤防の道には、二十人ほどが集まっていた。除雪の車の人と、近くの畑の人になる。
誰も拍手をしなかった。この街は、何も倒れなかった日には音を立てない。
仮の支柱が入ってから、サイレンオーは腕を抜いた。
抜いた跡に、二棟の壁の間へ、雪の付いていない縦の帯が一本残った。
前田隆は、堤防の道でひかりに診られていた。
怪我は無い。中に四十分いて、体温は三十六度になる。
「前田さん。今日は重いものを持たないでもらえますか」
「持ちません。倉庫、入れませんし」
前田はそう言って、笑った。笑ってから、松尾の方を見た。
松尾は、まだ電話を持っていた。切っていない。
「松尾さん。もう切って大丈夫です。助かりました」
尾花の声が、通話の向こうから聞こえた。
松尾は切った。切ってから、右手を耳の高さまで上げて、掌を外へ向けた。
誰も教えていない。この人は、去年もここで呼んでいる。
迅がそれを見た。見て、同じ高さまで自分の手を上げた。
堤防の上に、傘を差した人が立っていた。
雪は止んでいる。朝の五時に止んで、それきりになる。
差した傘の下に、除雪の車から降りた運転手が入っていた。入っていることに、この人はまだ気付いていない。
「ご迷惑ですから」
声はそう言った。運転手が振り向いた時には、傘だけがその場に立っていた。
傘の下の雪だけ、朝から一度も踏まれていない形で残っていた。
差した人は、堤防を下流の方へ歩いていった。歩いた跡に、足跡が付いていない。
*
支部へ戻ると、玄関の内側の豆腐は、まだ五丁あった。
雪の日でも、届く時刻は七時十分になる。三年、五分と違ったことがない。
寺尾が笊を出して、五丁を移した。移してから、角を確かめる。
「崩れとらん。雪の日でも崩れとらん」
梅木が地下二層で、サイレンクレーンの左腕の外板を見ていた。倉庫の壁を擦った跡が、縦に一本ある。
「擦れただけです。板は入ってません」
「入っていません。ただし、支える時に擦れない腕を、まだ作れていません」
宮ヶ瀬は工具を置いた。置いてから、それ以上は足さなかった。
毎回、作れなかったものを一つ言う。三年、欠かしたことが無い。
佐波が工具箱の蓋を閉めながら、梅木の方へ小さく言った。
「寺尾さん、低い方から上げてました。高い方を押すと折れるって」
「本人に言ってあげたらどうですか」
「言いません。折れる理由を、材の話から始められるので」
澪は受信席の裏で、市の建物の記録を出していた。
四十年より前に建った農業用の倉庫は、市内に六十一棟ある。六十一棟のうち、基礎を打ち直した記録があるのは九棟になる。
九棟とも、打ち直したのは片側だけになる。
片側だけ打ち直した建物が、次にどちらへ傾くかを書いた欄は、どの紙にも無い。
澪は自分の地図に付箋を一枚貼った。川沿い二丁目、南の倉庫。これで二十三枚目になる。
付箋には何も書いていない。
三階の食堂で、寺尾が湯豆腐を出した。雪の日の椀は、いつもより早く冷める。
早く冷めるので、この人は湯を一度足した。足すのは、雪の日だけになる。三年で、足した日は九日ある。
食べ終わらないうちに、二階の受信席で、電話が鳴った。
> 【第七支部 出場記録】
> 臨場 ── 七時五十九分。所要 ── 九分。
> 保留 ── 一件。最長 ── 三十八秒。
> 未着 累計 ── 零。
> 判定 ── 緑。撃たず。
> 損壊 ── 川沿い二丁目 南倉庫 屋根 折板 五枚 落下。南側柱 一本 沈下。引戸 鴨居 三センチ 下降。
> 中央倉庫・北倉庫 傾斜。仮支柱 設置(市建設課)。
> 救助 ── 一名。避難 ── 一名。
> 市内 片側だけ基礎を打ち直した倉庫 九棟 ── 記録なし。
> 本件、処理 ── 完了。
> ── 入電。




