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急報戦隊サイレンジャー ~呼ばれたら、行く。呼べないなら、見つけに行く~  作者: 智珠
第二巻

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第033話 川が近いです

> 【第七支部 覚知記録】

> 覚知 ── 十一月二十七日 五時四十分。

> 入電 ── 携帯電話。発信地 ── 不明。

> 第一声 ──「川が近いです」

> 出場 ── 第七支部 全隊。


「川が近いです」


 尾花律子は用紙を引き寄せた。時刻を分まで書く。秒は書かない。何処の川かは、まだ書かない。


「はい、鳴瀬市消防指令センターです。お名前を教えてください」


「桑原です。桑原進」

「桑原さん。今おられる場所が分かるかどうか教えてください」


「分からんのです。川が近いです。それは分かる」


 尾花は書いた。氏名あり、所在不明、水音あり。三語で足りる。書いた紙を、左手で当直の側へ半分だけ送る。


「桑原さん。足元が土か、草か、石かを教えてください」


「石です。丸いのが多い」


「桑原さん。今、立っておられますか。座っておられますか」


「立ってます。片方の足が、抜けんのです」


 尾花の右手が止まった。止まったのは、書く欄を選ぶ分になる。


「桑原さん。抜こうとしないでください。そのまま立っていてください」


「引っ張ると、余計に入りますな」


「入ります。動かないでください」


 尾花は用紙の右の欄へ、川床、片足埋没、自立可、と書いた。三つ並ぶと、急ぐ順が決まる。


「桑原さん。聞こえる音を、三つ教えてください。近い方から言ってください」


「水が落ちてます。ずっと落ちてる。途切れません」


「二つ目を教えてください」


「犬です。上の方で、続けて吠えとる」


「三つ目を教えてください」


「今、鉄の上を、何か渡りました」


 尾花はそれを三つとも書いた。書いた順に番号を振って、受信席の後ろへ紙を回す。


「桑原さん。上着は何枚着ておられますか」


「一枚です。散歩のつもりで出たんで」


「桑原さん。手を袖の中へ入れて、脇に挟んでもらえますか。腕は組む形になります」


「はい」


「桑原さん。ご家族はご在宅ですか」


「息子がおります。おりますが、まだ早いんで」


 尾花はその一行も書かなかった。書く欄が無い。無いまま、下の欄へ「家族・未連絡」と書いた。


「桑原さん。この電話は切らないでください。切れそうになったら、教えてください」


「あと二つです。目盛が二つ」


 用紙の一番下に、背後の音を書く。水、犬、鉄。三語になる。


*


 五時四十分の三階は、電気が半分しか点いていない。


 当直の朝は、六時になるまで全部は点けない。決まりでそうしているのではなく、三年、誰も点けずに来た。


 寺尾剛が湯を沸かしていた。豆腐が届くのは七時十分になる。それまでに湯を沸かして、落として、また沸かす。


「班長、まだ早いですよ」

「早いうちに沸かす。七時に沸かすと、間に合わん」


 二文で言って、蓋を少しずらした。


 外は五度になる。前の夜が晴れて、風が無い。晴れて風の無い夜の翌朝が、この街では一番冷える。


 灰谷蒼汰が索の端を結び直していた。三度目になる。


「三度目です。かじかむと、締めが二ミリ甘くなります」


 二ミリ甘い結びは、使えないわけではない。使えないわけではないので、この人は三度やる。


 七尾ひかりは毛布を数えていた。十一月の下旬から、常備の枚数が二枚増える。


 冷えた人の体温は、助け出したあとに下がる。外から来た冷たさより、中の血が回り直す時の方が下がる。


 だから毛布は、運ぶ時ではなく、運んだあとに要る。


 火群迅は屋上にいた。手すりに手の甲を当てて、そのまま止めている。


 鉄が冷たい。冷たさで、外の温度が分かる。分かった数字は、この人の頭の中にしか残らない。


 逢坂澪は受信席の斜め後ろに立っていた。手にはコーヒーがある。砂糖も牛乳も入っていない。


 前の夜からの気温を見ていた。日付が変わってから、一時間に一度ずつ下がっている。


 放射冷却になる。地面の熱が、遮るものが無いまま空へ抜けていく。抜けた分だけ、地面の近くが冷える。


 冷えるのは地面の近くだけになる。人の背の高さより上は、それほど下がらない。


 倒れている人と、立っている人では、受ける冷たさが違う。


 佐波悠が地下三層から上がってきた。五機の暖機を掛けてきたところになる。


「宮ヶ瀬さん。レスキューだけ、掛かりが遅いです」


「遅いです。冷えた朝に速く掛かるものを、まだ作れていません」


 宮ヶ瀬佳代は逆から言う。出来ていることを先に言わない。


 戸倉が受信席の後ろで、尾花の回した紙を受け取った。番号の振ってある紙になる。


*


 分析に入ると、澪は喋らない。


 盤面に鳴瀬川が出る。市内を通る区間は十一キロになる。堰は二つある。


 上流の堰は、この時期に点検で水を落としている。落としている間、下流の水位が三十センチ下がる。


 下がった分だけ、川床が出る。出た川床は、去年の秋から水の下にあったものになる。


 澪は音の紙を見た。一つ目、水が落ちる音、途切れない。


 途切れない水音は、堰から落ちる音になる。瀬の音は途切れる。石の間を抜ける度に、音が切れる。


 この日、落としているのは上流の堰だけになる。


 二つ目、犬。上の方で続けて吠えている。


 鳴瀬川の堤防の上に、犬を連れて歩く人が朝に通る道が三本ある。三本のうち、五時台に人が通るのは一本だけになる。


 三つ目、鉄の上を何かが渡った。


「アンサー」


> ── はい。


「鳴瀬川に掛かる鉄の橋を、始発の通る時刻つきで」


> ── 三つあります。上流から、峰谷鉄橋 五時四十八分。中之瀬鉄橋 五時五十二分。河口大橋には軌道がありません。


「通報の中で鉄の音がしたのは、五時四十四分」


> ── どちらの時刻とも合いません。……わかりません。


 アンサーは返事の前に一度、上を向いた。頭の受話器の形が、天井を向いてから戻る。


 電車ではない。鉄の上を渡ったのは、別のものになる。


 五時四十四分に鉄の橋を渡るものが、この街に一つある。新聞を積んだ軽自動車になる。


 軽自動車が渡って音の出る橋は、板の継ぎ目が浮いている橋だけしかない。浮いているのは、上流の峰谷鉄橋の隣の、古い方の橋になる。


 澪は盤面の下流側を消した。残ったのは、上流の堰から下へ八百メートルの区間になる。


 その区間で、堤防の上を五時台に人が通る道は、右岸に一本ある。


 左岸ではない。左岸の道は、犬を連れて入れない。


 入れないのは、去年から工事の柵が立っているからになる。柵は年明けまで外れない。


 柵の内側を歩く人はいる。いるが、犬は連れていない。


 澪は左岸の道を、盤面から消さずに薄くした。消さないのは、そこを歩く人が零ではないからになる。


 澪は左手を下ろした。


「座標、出た」


 五人が動いた。下ろした瞬間に動く。この人の手が下りるまで、誰も一歩も出ない。


「鳴瀬川右岸、上流の堰から下へ六百から八百。水位は三十センチ下がっている。出た川床に一名。片足が埋まって自立。八十一歳、上着一枚。外気五度」


 迅は最後まで聞いていない。「川床に一名」で走り出している。澪は最後まで言い終えた。


 久遠寺修司が受信席の後ろで立ち上がった。


「体温は」

「まだ数字がありません。回線は、いま五本空いています」


「第七支部 ── 出場!」


*


 ポールは二本ある。迅が一番に握った。掌が焼ける。焼けるのを毎回やる。一階で装備を背負い、階段で地下三層へ下りる。


 地下三層の扉が上がった。


「三層、開放!」


 宮ヶ瀬佳代が盤の前に立っていた。この日は外気温の記録を、盤の隅に出したままにしてある。


「一号から五号、出場!」


 五時四十七分の街は、まだ暗い。日の出は六時二十四分になる。


 右岸の堤防道路は幅が四メートルで、機体が並んで走れない。一列で走った。


 堤防の上に、犬を連れた人が立っていた。六十くらいの女で、犬は綱を短く持たれている。


「そこ、下です。声がしたので」


 この人は呼んでいない。声を聞いて、堤防の上から下を見ていた。見ていただけになる。


 迅が堤防の斜面を下りた。下りた先が、去年から水の下にあった川床になる。


 石は丸い。丸い石の間に、細かい泥が詰まっている。詰まった泥は、水が引いたあとも乾いていない。


 桑原進は、その泥の中に立っていた。八十一歳になる。右足が、脛の半分まで入っている。


 携帯を右手で耳へ当てたままになる。左手は、袖の中へ入れて脇に挟んである。


 言われたとおりの形をしている。


「消防です。動かなかったですね」

「動かんかった。引くと入る言うから」


 迅はそこで足を止めた。止めた場所は、桑原から二メートル手前になる。


 自分がその泥へ入ると、二人になる。二人になると、抜く順番が要る。


「上、任せろ」


 蒼汰が堤防の上から索を垂らした。垂らした先を、迅が受ける。


 寺尾が斜面の下へ板を渡した。板の下に柱を二本打って、板が沈まないようにする。


「まあ待て。俺が支える。この泥は、上に載るぶんには持つ」


 二文で言って、板の端に自分の体重を掛けた。板が三センチ沈んで、止まった。


 ひかりが板の上を歩いて、桑原の横まで行った。行ってから、毛布ではなく、先に手を見た。


 爪の色を見る。息の速さを数える。震えているかどうかは、肩で分かる。


 震えている。震えているうちは、体はまだ自分で温めようとしている。


「桑原さん。電話は、まだ切らないでもらえますか。もう少しだけ、そのまま」


「はい」


 迅が桑原の右足の周りへ、水を入れた。筒先ではない。手で汲んで、埋まった脛の外側へ回す。


 泥は、引くと締まる。水を入れると緩む。


 緩んだ分だけ、足と泥の間に隙間が出来る。隙間が出来てから、初めて上へ持ち上がる。


 三度に分けて水を回した。三度目で、桑原の右膝が二センチ上がった。


「桑原さん。私の肩に手を置いてもらえますか。上げるのは、私が数えてからにします」


 ひかりが三つ数えた。三つ目で、迅が桑原の腰を後ろから支えた。


 右足が抜けた。抜けた足に、靴が無い。


 靴は泥の中に残った。誰も取りに戻らなかった。


 板の上を歩かせて、堤防の斜面まで上げる。上げてから、ひかりが毛布を二枚掛けた。


 一枚は肩から、もう一枚は膝から下へ掛ける。


「息、返すよ」


 七つ数えて、六つで戻った。


 堤防の上で、犬を連れた人が綱を短く持ち直した。犬が、川の方を向いて吠えている。


 吠えている先は、桑原のいた場所ではない。もう二十メートル上流になる。


 その二十メートル上流で、水位の下がった川床が持ち上がった。


 持ち上がったのは、泥と、去年の流木と、古い護岸のブロックになる。


 ブロックは五十年前のものになる。今は使っていない形で、川床に埋まったまま残っていた。


 集まった形は、川幅の半分と同じになる。高さは六メートルほどになる。


 迅が左手首の蓋を跳ね上げた。五人が同じ動作をした。


「急報 ── 出場!」


> サイレン ── 起動。〈火群 迅〉。応答、確認。

> サイレン ── 起動。〈逢坂 澪〉〈灰谷 蒼汰〉〈寺尾 剛〉〈七尾 ひかり〉。応答、確認。


 反射帯の光が足元から頭まで走った。装甲が下から順に組み上がる。五つの送話口が、同じ高さで止まった。


 五人が同時に右手を上げた。耳の高さで止めて、掌を外へ向ける。受話器を取る形になる。


 まだ日が出ていない。五つの反射帯だけが、川床の上で明るい。


> 水を持ってく、火の現場 ─── サイレンレッド!

> 声を持ってく、知の現場 ─── サイレンブルー!

> 綱を持ってく、高の現場 ─── サイレンイエロー!

> 梁を持ってく、圧の現場 ─── サイレングリーン!

> 息を持ってく、生の現場 ─── サイレンピンク!

>

> 特別災害対策機構、第七支部 ──

> 呼ばれたら、鳴らして、行く!

> 急報戦隊、サイレンジャー!


 口上が川面を渡った。渡った先の左岸で、まだ点いていた街灯が一つ消えた。時刻で消える灯りになる。


 迅がブレスを塊へ向けた。


「トリアージ!」


> 判定 ── 黒。要救助者、内部に確認できません。


「黒」


> ── 回線、残り 三本。


 塊が下流へ動いた。下流には、桑原を上げた斜面がある。


 斜面の上には、犬を連れた人がいる。


 迅は前に出た。出た足が泥に入る。入った足を、抜かずに前へ滑らせた。


 抜けば時間が要る。滑らせれば要らない。この人は要らない方を選ぶ。


 塊の側面から、黒いものが五つ剥がれて立った。人の背の高さになる。


 剥がれたものは、音を出さない。歩く音も、水を踏む音も出ない。


 水の中を歩いているのに、水の面だけが動く。


 寺尾が板を持ち上げて、横へ立てた。立てた板の裏へ、桑原と、ひかりと、犬を連れた人を入れる。


「まあ待て。俺が支える。ここは通さん」


 二文で言って、板の裏に肩を入れた。黒いものが板へ当たる。当たった音も出ない。


 出ないので、寺尾は掌に返る震えだけで数を数えた。三度当たって、四度目が無い。


 蒼汰が索を投げた。投げた索が、黒いものの一つを横から巻いた。巻いてから、引かずに堤防の杭へ結ぶ。


「上、任せろ。倒しません。留めます」


 留められた一つが、その場で動けなくなった。


 澪が板の裏でソナーを構えた。撃つ前に必ず人数を言う。


「四名。板の裏に三、川床に一。塊の中は零。撃てる」


 撃った。低い音が塊の腹を通った。通った場所の泥が落ちた。


 落ちた泥の下から、古い護岸のブロックが出た。ブロックは音を通しやすい。


「腹の真ん中に石があります。石なら、音が返ります」


 澪はソナーの角度を三度だけ変えた。変えた先が、塊の腹の真ん中になる。


 迅が前へ出て、黒いもの四つを斧の背で払った。払われた四つが、水の中で形を崩した。


 崩れた四つは、崩れる時も音を出さなかった。


 塊の腹が空いた。空いた腹の真ん中に、石がある。


「今」


 迅の声が短い。澪は答えずに、引き金の位置を下げた。


「サイレンソナー ── 急救斬ッ!」


 音が出た。低い音が、塊の腹の石へ真っ直ぐ届く。


 石が鳴った。鳴った音が、塊の内側で返って、外へ出られずに回った。


 回った音が、塊の形を内側から押した。


 塊が割れた。割れた場所から、泥と流木が川へ落ちた。


 落ちたものが、下流へ流れずに、その場で沈んだ。沈んだ先で、また持ち上がる。


 持ち上がった高さが、堤防を越えた。


*


 地下三層で宮ヶ瀬が盤を叩いた。


「川の中です。足元が固まりません。クレーンのアウトリガーを、川床には張れません」


 五機が右岸の堤防道路へ一列で入った。サイレンクレーンは堤防の天端に張る。川床には降りない。


 サイレンウイングが川面を低く抜けた。抜けた風で、水面が下流へ寄った。


 サイレンメディックは堤防の上に着けたまま、後扉を開けて桑原を入れてある。


「五機、連結!」


「特災合体 ── サイレンオー!」


 サイレンオーが立った。


 堤防の上から見上げた犬を連れた人には、脚と、胴の下半分が見えた。後扉の中から見た桑原には、左手だけが見えた。


 その左手は、開いていない。握ったままになる。


> ── 回線、残り 二本。


 塊が右岸へ寄ろうとした。右岸には、堤防の上の道がある。


 サイレンオーは掴まなかった。掴まずに、左腕を川の中へ差し入れて、川床へ肘まで沈めた。


 沈めた腕が、川の流れを右岸から左岸へ振った。


 振られた流れが、塊の足元の泥を、下から浚った。


 浚われた分だけ、塊は右岸へ寄れなくなる。


 寺尾の声が回線に入った。


「足元が抜けた。右へは行かん」


 迅が言った。


「今だ」


 右腕の放水砲が開いた。


「サイレンオー ── 全消斬ッ!」


 水が出た。斬るのではなく、押す形で出る。


 押された塊が、川の真ん中で潰れた。潰れた先で、体が保てなくなる。


 泥は泥に戻る。流木は流木に戻った。古い護岸のブロックだけが、川床へ落ちて、そこに残った。


 六時二十四分に、日が出た。


 出た日が、川面の東側から順に当たっていく。当たった場所から、湯気が上がった。


 堤防の上に、十人ほどが立っていた。犬を連れた人と、新聞を配り終えた人と、朝の散歩の人になる。


 誰も拍手をしなかった。この街の朝は、早い時刻ほど声が出ない。


 六時四十分に、桑原進が搬送された。


 搬送先は市民病院になる。体温は三十五度二分まで下がっていた。下がってはいるが、震えは止まっていない。


 止まっていないうちに運べたのが、この日の全部になる。


 後扉が閉まる前に、桑原がひかりを呼んだ。


「あんた」

「はい」


「息子には、言わんでくれ」


 ひかりは返事をしなかった。返事の代わりに、毛布の端を桑原の肩へ寄せ直した。


 寄せてから、扉を閉めた。


 搬送の記録には、家族への連絡欄がある。欄は空けられない。


 空けられないので、ひかりはそこへ書いた。書いてから、一度だけ手が止まった。


 迅が堤防の斜面の下へ、もう一度降りていた。


 降りた先の泥の中から、片方の靴を拾った。拾って、川の水で二度洗って、逆さにして水を切る。


 誰にも見せずに、それを持って上がってきた。


 上がってきた時、堤防の上の犬がもう一度吠えた。今度は、迅の方を向いて吠えている。


 迅は足を止めて、犬の高さまで屈んだ。屈んだだけで、手は出さなかった。


*


 支部へ戻ると、武藤とうふ店の豆腐が届いていた。


 届いた時刻は七時十分になる。この日も五丁ある。


 寺尾が笊を出して、五丁を移した。移してから、角を確かめる。


「崩れとらん。寒い朝は、崩れにくい」


 佐波が地下二層で、サイレンレスキューの下回りを見ていた。川床の泥を噛んでいる。


「泥です。乾く前に落とします」


 乾いてから落とすと、削ることになる。削ると、そこだけ薄くなる。


 戸倉が工具を三本まとめて放った。放る方は手元を見ていない。佐波は腰の前で三本とも受けて、そのまま台へ並べた。


 落ちた音がしない。


 受けたことに、この人は気付いていなかった。気付いていないので、数えてもいない。


 戸倉が工具を渡しながら、佐波の方へ小さく言った。


「尾花さん、聞こえる音を三つ訊いてました。近い方から、って」


「本人に言ってあげたらどうですか」


「言いません。訊く順番の理由を、三つとも説明されるので」


 尾花律子は受信席にいた。次の当直が来るまで、まだ二十分ある。


 用紙の背後の音の欄に、水、犬、鉄、と書いてある。書いた三語のうち、二つ目と三つ目は使われなかった。


 使われなかった語も、消さない。


 犬の吠えた向きと、鉄の橋を渡ったものの重さは、盤面へ入っていない。入っていないまま、紙の上には残る。


 この用紙は三年で四千枚を越えている。越えた分は、地下一層の棚に順番に入っている。


 棚の一番下の段だけ、高さが合っていない。合っていないので、そこの紙だけが斜めに入る。


 斜めのままで、三年、誰も直していない。


 澪は受信席の裏で、鳴瀬川の記録を出していた。


 上流の堰の点検は、毎年この時期に十日ある。十日の間、下流の水位が三十センチ下がる。


 下がって出る川床に、何が埋まっているかを見る欄が、どの用紙にも無い。


 澪は自分の地図に付箋を一枚貼った。鳴瀬川右岸、堰から下へ六百。これで十三枚目になる。


 付箋には何も書いていない。


 三階の食堂で、寺尾が湯豆腐を出した。朝の椀は、夜より小さい。


 迅は洗った靴を、玄関の内側の、いつもの豆腐の場所の隣に置いた。


 置いた場所を、誰も動かさなかった。


 乾いたら、市民病院へ届けることになる。届ける役は決めていない。


 決めなくても、届く。三年、この支部から出た物で、届かなかった物が一つも無い。


 食べ終わらないうちに、二階の受信席で、電話が鳴った。


> 【第七支部 出場記録】

> 臨場 ── 五時五十一分。所要 ── 十一分。

> 保留 ── 一件。最長 ── 四十四秒。

> 未着 累計 ── 零。

> 損壊 ── 鳴瀬川右岸 堤防斜面 一部 崩れ。旧護岸ブロック 十二基 川床に露出。

>     右岸堤防道路 六百メートル 泥の付着。

> 救助 ── 一名。避難 ── なし。

> 鳴瀬川 上流堰 点検放流 ── 継続。

> 本件、処理 ── 完了。

> ── 入電。

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