第032話 風が強くて
> 【第七支部 覚知記録】
> 覚知 ── 十一月二十一日 十六時十二分。
> 入電 ── 固定電話。発信地 ── 商店街 東端。
> 第一声 ──「風が強くて」
> 出場 ── 第七支部 全隊。
「風が強くて」
尾花律子は用紙を引き寄せた。時刻を分まで書く。秒は書かない。風のことは、まだ書かない。
「はい、鳴瀬市消防指令センターです。今何処におられるか教えてください」
「商店街です。うちの店の前。武藤とうふ店の前です」
「お名前と、何が燃えているかを教えてください」
「武藤です。武藤徳三。燃えてるのは、東の端の外の、枝の山です」
尾花は書いた。商店街東端、屋外、剪定枝。三語で足りる。書いた紙を、左手で当直の側へ半分だけ送る。
送っただけで、まだ渡さない。渡すのは、燃えているものが決まってからになる。
「武藤さん。炎が見えるか、煙だけかを教えてください」
「炎が見えます。低いです。低いんですが、風で寝てます」
尾花は用紙の右の欄へ、有炎、低い、風で寝る、と書いた。三つ並ぶと、燃え広がる向きが決まる。
「武藤さん。火の粉が飛んでいるかどうかを教えてください」
「飛んでます。アーケードの、屋根の無いところから入ってきてます」
屋根の無い区画は、東の端の七つになる。秋のうちに骨組が歪んで、上を張り直せないまま冬に入った。
「武藤さん。火を消そうとしないでください。水を掛けにも行かないでください」
「消しません」
二文目まで言い切ってから、返ってきた。返ってくるまでに一拍あった。
「武藤さん。風下の側の戸と窓を閉めて、外へ出てください。閉めてから出てください」
「閉めます。閉めますけど、東の端の細田さんとこ、二階にばあちゃんがいます」
尾花の右手が止まった。止まったのは、書く欄を選ぶ分になる。
「武藤さん。その方のお名前と、今日ご家族がおられるかどうかを教えてください」
「細田サチさん。八十九です。息子さんは市場で、帰りは六時過ぎです」
「武藤さん。細田さんのお宅の番号が分かるかどうか教えてください」
「分かります。組の名簿があります」
武藤が番号を読んだ。尾花は復唱した。復唱してから、左手で受信席の三番へ回す。
三番から、速水が細田サチへ掛けた。二度目の呼び出しで出た。
尾花は自分の受話器を耳から離さない。
「武藤さん。ご自分で細田さんのところへ行かないでください。今おられる場所から動かないでください」
返事が来なかった。来ないまま、風の音が受話器の中を通った。
「武藤さん」
「……行きません」
尾花はその一行も書かなかった。書く欄が無い。無いまま、下の欄へ「通報者・現在地保持」と書いた。
用紙の一番下に、背後の音を書く。風、板、鉄。三語になる。
鉄の音は、アーケードの骨組が鳴っている音になる。
*
十六時十二分の三階は、窓が全部閉まっていた。
三日前から西北西の風が続いている。乾燥注意報も三日目になる。この時期の鳴瀬市は、山から下りてくる風がそのまま海まで抜ける。
抜ける途中に、商店街がある。
寺尾剛が大鍋の火を落としたところだった。湯豆腐は十一月に入ってから毎日出ている。落としてから、蓋を少しずらして置いた。
「班長、まだ夕方ですよ」
「落としておく。風の日は、開けた鍋の湯が減る」
二文で言って、蓋の角度をもう一度直した。
灰谷蒼汰は屋上へ上がっていない。この日は下で索を見ている。
「四本です。風速十二だと、索が三メートル流れます」
七尾ひかりは資器材の棚から、気道を診る道具を前へ出していた。乾いた風の日に増えるのは、火傷そのものより、吸い込んだ方になる。
乾いていると、煙が上がらずに横へ走る。横へ走った煙は、人の高さを通る。
火群迅は非常階段の途中に立って、風を受けていた。上着は着ていない。
風は西北西から来ている。来た風が、階段の踊り場で一度渦を巻いて、上へ抜けた。
抜ける時に、手すりが鳴った。鳴る高さで、風の強さが分かる。
逢坂澪は受信席の斜め後ろに立っていた。手にはコーヒーがある。砂糖も牛乳も入っていない。
実効湿度を見ていた。三日続けて四十を下回っている。
湿度は今日の空気の話になる。実効湿度は、昨日と一昨日と、その前の日の空気を足したものになる。木が乾いているかどうかは、こちらでしか分からない。
四十を下回った日が三日続くと、この街では毎年、火の件数が二倍になる。二倍になるのは件数で、規模ではない。規模が変わるのは、風が足された日になる。
この日は足されている。
三年で、風速十二を超えた日に二件以上出た日が七回ある。七回のうち五回は、二件目の方が大きかった。
一件目で人と機体が出払っている時に、二件目が来る。来た時に空いているのは、残った回線だけになる。
澪はその七回を数えたことがある。数えたことは、誰にも言っていない。
久遠寺修司が受信席の壁の掲示を直していた。未着累計の紙になる。三年、零のまま張り替えられている。
風の強い日は、当直を一人増やすことになっている。増やす一人は、その日一番早く来た人から選ぶ。
この日は速水になった。速水は掲示の下で、地図を三枚とも同じ向きに揃えて置いている。
揃えてから、自分では何も言わない。言わないので、澪も何も言わなかった。
灰谷蒼汰が索の一本を膝の上へ広げて、端から端まで指で送った。三年、出る前に必ず一度やる。
指が二か所で止まった。止まった場所に、印を付けた紐を巻いてある。前の出場で骨組に擦った箇所になる。
擦った索は使う。使えなくなるのは、擦った場所を忘れた時になる。
地下二層で、宮ヶ瀬佳代が台の前に立っていた。台の上に五つ、並べてある。
サイレンハンマー、サイレンアックス、サイレンワイヤー、サイレンソナー、サイレンナイフ。五つとも、柄の端に見慣れない口金が付いている。
梅木あかねが工具を渡しながら、須永の方へ小さく言った。
「三晩です。三晩、帰ってません」
「本人に言ってあげたらどうですか」
「言いません。四晩目の話になるので」
須永は中継の盤を見ていた。西北西の風は、山側の中継に一番当たる。
「今日は繋がります。今日は」
宮ヶ瀬は口金の一つを指で弾いた。弾いた音が、五つとも同じ高さで返った。
同じ高さで返るまでに、三晩掛かっている。
「五つ、揃いました。ただし、これは今日出すつもりのものではありません」
*
分析に入ると、澪は喋らない。
盤面に商店街が出る。長さは四百メートル、東西に一本になる。アーケードは西の端から六十区画あって、東の端の七区画だけ屋根が無い。
屋根が無いのは、秋に骨組が歪んだからになる。張り直しの見積もりは出ている。工事は年明けになる。
風は西北西から来る。商店街は東西に走っている。風は商店街の背中から入って、東の端から抜けていく。
抜ける場所に、屋根の無い七区画がある。
煙突と同じ形になる。下から入った空気が、屋根の無いところで上へ抜ける。抜ける時に、下のものを持っていく。
澪は盤面の西側を消した。残したのは東の端の七区画と、その外の空き地になる。
「アンサー」
> ── はい。
「商店街東端の外、市の集積場所。剪定した枝が、何日置かれているか」
> ── 十一月十八日に集められています。搬出は二十五日の予定です。
「三日ではない」
> ── 十八日は二度目です。一度目は十一月十一日。十日置かれています。
アンサーは返事の前に一度、上を向いた。頭の受話器の形が、天井を向いてから戻る。
積んだ枝の山は、中が外より温かくなる。十日置けば、手を入れて分かるくらいになる。
温かい山の表を、乾いた風が十二メートルで撫でていく。
澪は盤面の空き地を白くした。白くしてから、その隣の七区画も白くする。
「空き地の火は、消せる」
消せる火が、この日の相手ではない。相手は、その火が飛んだ先になる。
火の粉は、風速十二なら三十メートル先まで届く。届いた先が、屋根の無い七区画になる。
七区画のうち、東から三軒目が細田乾物店になる。乾物店は、乾かしたものを積んで置いてある。
残りは、履物屋、金物屋、空き店舗が二つ、荒物屋、それに一番端の畳屋になる。畳屋は表を開けていない。
開けていない店は、閉まっている店とは違う。閉まっている店には人が住んでいる。
「アンサー。商店街東端の消火栓を、水圧の記録つきで」
> ── 二基あります。東の端の一基は、二年前から水圧が三割落ちています。
「落ちた理由は」
> ── わかりません。
二年前の記録に、落ちたという数字だけがある。理由の欄が空いている。
水圧が三割落ちている消火栓の側に、屋根の無い七区画がある。
この二つが同じ場所に並んだのは、たまたまになる。たまたま重なったものを、誰も一枚の紙の上で見ていない。
澪は左手を下ろした。
「座標、出た」
五人が動いた。下ろした瞬間に動く。この人の手が下りるまで、誰も一歩も出ない。
「商店街東端、屋根の無い七区画。火元は外の空き地の剪定枝。飛ぶ距離は三十メートル。東から三軒目、細田乾物店の二階に一名。歩けない。息子は市場、帰りは六時過ぎ」
迅は最後まで聞いていない。「二階に一名」で走り出している。澪は最後まで言い終えた。
久遠寺修司が受信席の後ろで立ち上がった。
「風は」
「西北西、十二。最大二十一。回線は、いま五本空いています」
「第七支部 ── 出場!」
*
ポールは二本ある。迅が一番に握った。掌が焼ける。焼けるのを毎回やる。一階で装備を背負い、階段で地下三層へ下りる。
地下三層の扉が上がる前に、宮ヶ瀬佳代が階段の下に立っていた。
台車を押している。台の上に、五つ載っている。
「五人とも、一度止まってください」
迅が止まった。止まるまでに二歩ぶん行き過ぎて、戻った。
「柄の端に、口を付けました。今朝までに五つとも同じ高さで鳴るようになりました」
宮ヶ瀬は一つずつ渡した。渡す順は決めていない。手の近い人から渡している。
迅の斧の柄の端に、口金が二つ付いている。ひかりのナイフには一つ、蒼汰の索の巻き取りには一つ、澪のソナーの下に一つ、寺尾のハンマーの石突に一つ。
「繋がります。五つで一つになります」
「ただし、六つ目の口が付きません」
誰も何も言わなかった。六つ目という言葉に、当てはまる手がこの支部に無い。
宮ヶ瀬は台車を引いて下がった。下がりながら、最後に一つだけ足した。
「順番があります。台座から先です。土台を置く人が、一番に置いてください」
誰の名前も言わなかった。言わなくても、五人のうち一人だけが、自分のことだと分かる顔をした。
地下三層の扉が上がった。
「三層、開放!」
宮ヶ瀬佳代が盤の前に戻った。この日は風速の記録を、盤の隅に出したままにしてある。
「一号から五号、出場!」
商店街の入口までは、支部から四分になる。この日は三分五十秒で着いた。
入口に立った時点で、匂いは無かった。風下ではないので、匂いは東へ行っている。
匂いで気付ける場所にいる人が、東の端にしかいない。そこにいる人は、毎日、火を使う仕事をしている。
武藤徳三は自分の店の前に立っていた。暖簾は下ろしてある。外していない。下ろして、内側へ折り込んである。
三年、この人が支部の玄関へ豆腐を置く時刻は七時十分になる。届かない日は一度も無い。
この日は、置いてから八時間経っている。
「消防です。動かなかったですね」
「動かんかった。動かんかったが、あれは、ようない」
武藤が指したのは、東の端になる。指した手が、途中で一度止まった。
止まった先の敷石が、四十メートル向こうで濡れている。この人の店の前だけ、水を撒いた跡が続いていた。
撒いた跡は、東へ二十歩ぶんで切れている。
二十歩ぶん行って、戻ったことになる。戻った理由は、誰も訊かなかった。
屋根の無い七区画に、火の粉が入っていた。入って、下へ落ちずに、区画の中で回っている。
回っているのは、屋根が無いからではない。両側の建物が残っていて、上だけが開いているからになる。
迅は東へ走った。走った先で、細田乾物店の庇の下に入る。
庇の上に、乾いた昆布の束が三つ載っていた。夕方に取り込む物が、この日はまだ載っている。
束の一つが、もう焦げていた。
迅は斧の背で庇を叩いた。叩いて、束を三つとも下へ落とす。落ちた束を、靴で踏んで消した。
装甲越しに熱が来る。来た熱は、掌ではなく足の裏から来た。
ひかりが店の中へ入った。階段は急で、幅は六十センチほどになる。上りながら、上へ声を掛ける。
「細田さん。七尾といいます。今から上がりますので、そのまま座っていてもらえますか」
「はいはい。息子はねえ、市場ですよ」
「細田さん。息子さんには、こちらから掛けます。番号は、あとで教えてください」
返事があった。返事の速さで、息の状態が分かる。
二階の窓は閉まっていた。閉まっている部屋の中は、まだ煙が来ていない。
細田サチは座椅子に座っていた。八十九歳になる。膝の上に、電話の子機を載せている。
「さっき、消防の人が掛けてきてくれてね」
「細田さん。その電話、切らないでもらえますか。私が下まで一緒に行きます」
細田は子機を握り直した。握った指の間に、電話の線の代わりに、毛糸の端が挟まっている。
編みかけのものが膝から落ちて、床で解けていた。
ひかりは背負う前に、窓の桟へ手を当てた。熱くない。まだ、外の熱は来ていない。
下ろすのは、急な階段になる。背負って下りるのは、この幅では危ない。
「細田さん。私が前を下ります。手すりはこちら側だけです。左手で握って、右手は私の肩へ置いてもらえますか」
一段ずつ下りた。十四段を、一分十秒掛けて下りた。
外へ出た時、風が正面から来た。細田サチが目を細めた。
ひかりは自分の背中を風上へ回して、細田を風下へ入れた。
入れてから、七つ数えた。息が速い。上がってはいない。上がってはいないが、乾いた風を三度吸っている。
「息、返すよ」
六つで戻った。
蒼汰が屋根の無い七区画の骨組へ索を投げた。投げた索が三メートル流れる。流れる分を見越して、風上へ三メートルずらして投げてある。
「上、任せろ。四本、横へ渡します。落ちる向きが変わります」
寺尾が細田乾物店の庇の柱の根元に、柱を一本打ち込んだ。庇が落ちても、店の前が塞がらない位置になる。
「まあ待て。俺が支える。この庇は、落ちるなら手前へ落ちる」
二文で言って、ハンマーの石突を地面に当てた。当てた石突の口金が、地面に触れて鳴った。
外の空き地の火は、低いまま東へ寝ていた。
寝ていた火が、一度だけ立った。
立った火が、屋根の無い七区画の中へ吸い込まれた。
吸い込まれた火の粉が、区画の中で回りながら集まった。集まった形は、下が細く、上が太い。
高さは五メートルほどになる。骨組の間に立って、動かない。
迅が左手首の蓋を跳ね上げた。五人が同じ動作をした。
「急報 ── 出場!」
> サイレン ── 起動。〈火群 迅〉。応答、確認。
> サイレン ── 起動。〈逢坂 澪〉〈灰谷 蒼汰〉〈寺尾 剛〉〈七尾 ひかり〉。応答、確認。
反射帯の光が足元から頭まで走った。装甲が下から順に組み上がる。五つの送話口が、同じ高さで止まった。
五人が同時に右手を上げた。耳の高さで止めて、掌を外へ向ける。受話器を取る形になる。
風が正面から来ていて、五人とも前へ傾いている。傾いたまま、手の高さだけが揃った。
> 水を持ってく、火の現場 ─── サイレンレッド!
> 声を持ってく、知の現場 ─── サイレンブルー!
> 綱を持ってく、高の現場 ─── サイレンイエロー!
> 梁を持ってく、圧の現場 ─── サイレングリーン!
> 息を持ってく、生の現場 ─── サイレンピンク!
>
> 特別災害対策機構、第七支部 ──
> 呼ばれたら、鳴らして、行く!
> 急報戦隊、サイレンジャー!
口上は風下へ持っていかれた。持っていかれた先の、屋根の無い七区画で、火の粉の回る速さが一度だけ落ちた。
迅がブレスを柱へ向けた。
「トリアージ!」
> 判定 ── 黒。要救助者、内部に確認できません。
「黒」
> ── 回線、残り 三本。うち一本は、細田サチ様に繋がったままです。
迅は前に出た。斧を右手一丁で持って、柄を半回転させる。ギアが二度噛んだ。
「筒先!」
水が出た。出た水が、柱に届く前に横へ折れた。
風速十二の中では、細い水は届かない。届く前に、風の方が水を持っていく。
迅はもう一度出した。距離を五メートル詰めて出した。詰めた分だけ届いて、届いた分だけ、柱が濃くなった。
濃くなったのは、水が火の粉を集めたからになる。
「近付いても駄目だ」
澪がソナーを構えた。撃つ前に必ず人数を言う。
「四名。通りに二、店の中に一、東の外に一。柱の中は零」
撃った。低い音が柱の下三分の一を通った。通った場所だけ、火の粉が薄くなった。
薄くなった場所へ、上から新しい火の粉が落ちてきた。外の空き地から、まだ供給されている。
「元を切っても、この柱は消えません。中に十日分溜まってます」
寺尾がハンマーを地面から抜いた。抜いてから、石突を通りの真ん中へ立てた。
「まあ待て。俺が置く」
石突が敷石に噛んだ。噛んだ音が、通りの西の端まで届いた。
置いたのは台座になる。ハンマーの柄が真上を向いて止まる。
迅が斧を二丁とも外して、柄の端の口金を台座の上へ落とした。二丁が横に並んで、一本の太い管になる。
蒼汰が索の巻き取りを管の腹へ掛けた。掛けてから、索を二本、両側の骨組へ渡す。渡した索が、管を吊った。
「上、任せろ。吊れました。振れる分は索が食います」
澪がソナーを管の上へ載せた。載せた位置が、迅の目の高さより少し上になる。
ひかりが最後に、ナイフを管の先へ差し込んだ。差し込んだ先が、口を細くする。
「五器、連結!」
五つが一度に鳴った。三晩掛けて揃えた高さで鳴った。
出来上がったものは、砲の形をしている。だが撃つための形ではない。
口が細くない。太い。太い口から出るものは、線にならない。
五人が同じ位置に立った。台座に寺尾、管に迅、索に蒼汰、照準に澪、口にひかり。
迅の声が低いところから出た。
「風上から」
「特災合技 ── 全消ッ!」
水が出た。撃つのではない。流す。
線ではなく、面で出た。面の幅は通りの幅と同じ、七メートルになる。
風が水を持っていく。持っていかれることを、初めから勘定に入れてある。
風に乗った水は、屋根の無い七区画の上を、西から東へ渡っていった。
渡った先で、上から下へ落ちる。落ちた水が、柱の中の火の粉を、一つ残らず下へ連れて下りた。
柱は消えなかった。消えずに、下へ潰れた。
潰れた先で、体が保てなくなる。
火の粉は火の粉に戻った。戻った火の粉が、濡れた敷石の上で、順に黒くなっていく。
水は止まらない。止まらずに、東の外の空き地まで届いた。届いた先で、低い火が消えた。
十日置かれた枝の山が、上から順に濡れていく。
風下にいた武藤徳三が、暖簾の内側から出てきた。
「うちの前まで来たぞ」
水は、武藤とうふ店の前の敷石も濡らしていた。
*
濡れた敷石の上で、空き地の枝の山が動いた。
動いたのは、消えたはずの山になる。十日分の熱は、水が届いてもまだ中に残っている。
残った熱が、濡れた表を持ち上げた。持ち上がった山が、そのまま立ち上がる。
立った高さが、商店街の東の端の建物を越えた。
地下三層で宮ヶ瀬が盤を叩いた。
「風速十二です。ウイングを浮かせられません」
五機が商店街の外の道へ並んだ。サイレンウイングは、この日一度も浮かない。地上を走って、東の端で合流した。
サイレンクレーンがアウトリガーを張る。西北西の風を横から受けて、四本目に一番荷が掛かる。
サイレンメディックが後扉を開けたまま、細田サチの側に着けてある。
「五機、連結!」
「特災合体 ── サイレンオー!」
サイレンオーが立った。
通りの西の端から見上げた人には、脚と、胴の下半分が見えた。細田乾物店の前から見上げた武藤には、左手だけが見えた。
その左手は、開いていない。握ったままになる。
> ── 回線、残り 二本。うち一本は、繋がったままです。
山が西へ倒れようとした。西は、屋根のある五十三区画になる。
サイレンオーは掴まなかった。掴まずに、左腕を東の端の骨組の内側へ差し入れて、下から上へ起こした。
起こした腕が、歪んだ骨組を七区画分、一度だけ真っ直ぐにした。
真っ直ぐになった骨組が、風の向きを変えた。変わった風が、山を西ではなく上へ押した。
寺尾の声が回線に入った。
「上へ向いた。西へは行かん」
迅が言った。
「今だ」
右腕の放水砲が開いた。
「サイレンオー ── 全消斬ッ!」
水が出た。斬るのではなく、押す形で出る。
押された山が、屋根の無い七区画の真上で潰れた。潰れた先で、体が保てなくなる。
枝は枝に戻った。戻った枝が、空き地へ落ちて、濡れたまま積み上がった。
商店街の通りに、二百人ほどが出ていた。日の落ちる前の時刻に、店の人が半分と、買い物の人が半分になる。
拍手が起きた。西の端から起きて、東へ渡ってきた。渡ってくる速さは、この日の風より遅い。
十六時三十九分に、日が落ちた。
落ちてから、火の粉がまだ落ちてきた。空き地の山は濡れているが、中の熱は残っている。
残っている限り、屋根の無い七区画には、上から何かが落ちてくる。
張り直しは年明けになる。それまで、この七区画は開いたままになる。
武藤徳三が自分の店の日除けを外し始めた。夏の間だけ出す、布のものになる。
「これ、まだ使えるぞ」
誰も答えなかった。答える前に、隣の乾物屋が自分の日除けを引き出した。
その隣が引き出す。その隣も、奥から引き出してきた。
七軒分の日除けが、東の端の骨組の間へ渡された。端と端を、荷造りの紐で繋いでいく。
繋いだのは店の人になる。六人は誰も指示していない。
紐を回したのは、履物屋の子どもになる。十くらいで、骨組の下に立って、上の人へ紐の端を投げ上げていた。
投げ上げる前に、右手を耳の高さまで上げて、掌を外へ向けた。上の人が、同じ形を返した。
二人とも、誰にも教わっていない。
繋がった布は、屋根にはならない。雨は抜ける。風も抜ける。
だが、上から落ちてくるものは止まる。
迅がそれを下から見ていた。見ている間、一言も言わなかった。
布は七枚とも色が違う。柄も違う。継ぎ目の高さも揃っていない。
揃っていないまま、七区画の上を渡っていた。
渡した高さは、骨組の一番下の段になる。上の段まで上げれば風が抜けるが、上げる梯子がこの時刻には出せない。
低いところで繋いだので、布は風を受けて膨らんだ。膨らんだ布が、下から見ると波の形になる。
波の下に、七軒の灯りが点いている。日はもう落ちている。
細田サチは、メディックの後扉のところに座っていた。膝の上に、下から拾ってきた編みかけが戻っている。
「うちの毛糸も出そうか」
「細田さん。それは、そのまま持っていてもらえますか」
ひかりが言った。細田は頷いて、編みかけを膝の上で抱え直した。
東の端の骨組の上に、人が一人座っていた。
素手になる。上着も、道具も持っていない。
左の掌に、布を巻いている。巻いているのは自分の手で、巻いてもらってはいない。
巻き終わってから、その人は端を歯で噛んで止めた。止めてから、下を見た。
「手は、自分で巻け」
迅の前腕に、細い切り傷が一本ある。庇を叩いた時のものになる。この人はまだ気付いていない。
迅が顔を上げた。上げた時には、骨組の上に誰もいない。
誰も落ちる音を聞いていない。
骨組の上に、布の切れ端が一つ残っていた。噛んで止めた端の、余った分になる。長さは指の幅ほどしかない。
迅はそれを拾わなかった。拾う前に、上から火の粉がまた一つ落ちてきて、足はそちらへ出た。
自分の前腕の線には、まだ気付いていない。
*
支部へ戻ると、武藤とうふ店の豆腐が届いていた。
届いた時刻は十六時前になる。火が出るより前に、置いていったものになる。
五丁ある。十一月の数になる。
玄関の内側の、いつもの場所に置いてある。置く場所は三年、一度も変わらない。
寺尾が笊を出して、五丁を移した。移してから、角を確かめる。
「崩れとらん。今日も崩れとらん」
梅木が地下二層で、サイレンクレーンのアウトリガーを見ていた。四本目の油の道は、秋に短くしてある。
「四本目、横風で伸び切りませんでした」
「伸びませんでした。短くした分です。長くすると、今度は遅れます」
宮ヶ瀬は工具を置いた。置いてから、それ以上は足さなかった。
三晩の話は、自分からは出さない。
須永が中継の記録を出していた。西北西十二メートルの日に、山側の中継は一度も落ちていない。
「今日は繋がりました」
「本人に言ってあげたらどうですか」
「言いません。今日は、としか言わない人なので」
梅木はそう返して、工具箱の蓋を閉めた。
澪は受信席の裏で、商店街東端の記録を出していた。
市の集積場所は、月に二度の搬出になる。一度目と二度目の間が、十日ある。
十日の間、そこに何が積まれているかを見る欄が、どの用紙にも無い。
澪は自分の地図に付箋を一枚貼った。商店街東端、外の空き地。これで十二枚目になる。
付箋には何も書いていない。
貼り終えてから、地図の東の端を指で押さえた。押さえた先に、屋根の無い七区画がある。
布が渡っているのは、今日から先の話になる。地図の上には、まだ何も乗っていない。
地下二層の台の上に、五つの武器が戻されていた。口金は五つとも、まだ新しい。
新しい口金の一つに、敷石の粉が噛んでいる。ハンマーの石突のものになる。
宮ヶ瀬はそれを拭かずに、粉の噛んだ場所を指で押さえて、深さを見た。見てから、記録の紙へ数字を一つ書いた。
初めて使った日の数字になる。次に同じ場所が噛んだ時に、比べる相手がいる。
台の端に、六つ目の場所が空けてある。空けてあるだけで、何も置かれていない。
細田サチの息子は、六時十分に商店街へ着いた。市場からの車を、東の端の一つ手前で降りている。
降りた先が、繋がった布の下になる。上を一度見上げて、それから店へ入った。
ひかりは、その人に母親の様子を三つだけ伝えた。息、足、それと、膝の上の編みかけになる。
礼を言われた。言われたのは、七尾ひかり一人になる。
三階の食堂で、寺尾が湯豆腐を出した。風の日の椀は、湯気が横へ流れる。
食べ終わらないうちに、二階の受信席で、電話が鳴った。
> 【第七支部 出場記録】
> 臨場 ── 十六時十九分。所要 ── 七分。
> 保留 ── 一件。最長 ── 五十二秒。
> 未着 累計 ── 零。
> 損壊 ── 商店街 東端七区画 骨組 全面 変形。細田乾物店 庇 焼損。
> 市集積場所 剪定枝 全量 焼損。
> 救助 ── 一名。避難 ── 十一名。
> 商店街 東端七区画 屋根 未張替 ── 継続。
> 装備 ── サイレンバスター 初運用。連結 一。
> 本件、処理 ── 完了。
> ── 入電。




