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急報戦隊サイレンジャー ~呼ばれたら、行く。呼べないなら、見つけに行く~  作者: 智珠
第二巻

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第031話 崩れました

> 【第七支部 覚知記録】

> 覚知 ── 十一月九日 十時十八分。

> 入電 ── 携帯電話。発信地 ── 丘の上 三丁目。

> 第一声 ──「崩れました」

> 出場 ── 第七支部 全隊。


「崩れました」


 尾花律子は用紙を引き寄せた。時刻を分まで書く。秒は書かない。何が崩れたのかは、まだ書かない。


「はい、鳴瀬市消防指令センターです。今何処におられるか教えてください」


「丘の上の三丁目です。二本目の坂の、下の方にいます」

「お名前と、何が崩れたかを教えてください」

「藤木といいます。藤木ハルです。坂の途中の石積みが、道へ全部出てしまって」


 尾花は書いた。丘の上三丁目、二本目の坂、石積み。三語で足りる。


「藤木さん。崩れた土の上か下に、人か車がいるかどうか教えてください」

「車がいます。軽トラックです。前が土に乗り上げて、こっち側へ傾いてます」

「藤木さん。その車の中から、音がするかどうか教えてください」

「します。窓を叩いてます。手が見えます」


 尾花は用紙の右の欄へ、軽貨物、傾斜、在車一、と書いた。三つ並べると、出す隊が決まる。


「藤木さん。坂を上がらないでください。今おられる場所から動かないでください」

「上がりません。私、前にそこで転んでますから」


 尾花はその一行を書かなかった。書く欄が無い。無いまま、下の欄へ「通報者・受傷歴あり」とだけ書いた。


「藤木さん。運転している方へ、声が届くかどうか教えてください」

「届きます。届きますけど」

「藤木さん。届くようでしたら、動かないで、と伝えてください。伝えたら、また私に教えてください」


「はい」


 通話の向こうで、息を吸う音がした。吸ってから、坂の上へ向かって声が出た。


「そのまま! 動かないで!」


 二度言った。二度目の方が大きかった。


「言いました。動いてません」

「藤木さん。通話を切らないでください」

「切りません。前も、切らないでって言われましたから」


 尾花は左手で当直へ回した。回してから、右手の受話器を持ち替えた。持ち替えても、耳から離さない。用紙の下の欄に、背後の音を書いた。風、鳥、水。三語になる。


 水の音は、崩れた土から出ている。三日降った雨が、まだ土の中を通っている。


*


 十時十八分の三階は、窓が全部開いていた。


 三日降って、前の夜に上がっている。上がった翌朝は、外より支部の中の方が湿っている。開けて通すのが、この時期の決まりになる。


 寺尾剛が大鍋を出していた。十一月に入ると、三階の椀は湯豆腐になる。出汁を張る鍋は、夏の間ずっと棚の一番上にある。


「班長、まだ十時ですよ」

「出しておく。昼に出すと、水を張る時間が足りん」


 二文で言って、鍋の底を掌で拭いた。拭いてから、一度傾けて、内側の水を切る。


 灰谷蒼汰が屋上から索を提げて降りてきた。雨のあとの索は重い。重い索は、投げると先が落ちる。


「三本です。濡れると二割重くなるので、短いのを足しました」


 七尾ひかりは資器材の棚を見ていた。十一月の並びは、もう冬の側へ寄せてある。


 寄せる順は、体を温めるものが先になる。雨の上がった日の気温は、晴れが続いた日より三度ほど低い。低い場所に人が長くいると、救急の側の仕事が増える。


 夏の間に減った冷やす袋は、まだ補充が届いていない。届かないまま、今度は温める側が要る季節になった。


 火群迅は非常階段の一番下にいた。手の甲を鉄の手すりへ当てて、そのまま止めている。冷たさを測っているのは、外の温度を知るためになる。


 測ってから、両手を擦り合わせた。擦る音が、階段の下で二度鳴った。


 逢坂澪は受信席の斜め後ろに立っていた。手にはコーヒーがある。砂糖も牛乳も入っていない。


 三日の雨量を見ていた。市の観測で百十二ミリになる。一日で降った量なら大きい。三日に分かれた量としては、大きくはない。


 大きくはないが、この降り方が一番土を含ませる。強く降れば表を流れて、そのまま側溝へ行く。弱く長く降ると、中へ入る。


 中へ入った水は、晴れた日に出てこない。二日か三日、土の中に残っている。残っている間だけ、土は重い。


 戸倉が整備場から上がってきた。手に測る道具を提げたままになる。


「宮ヶ瀬さん。クレーンのアウトリガー、四本目の遅れが戻りました」


「戻りました。ただし、揃えたわけではありません。四本目だけ、油の道を短くしました」


 宮ヶ瀬佳代は逆から言う。出来ていることを先に言わない。


 速水が地図を出して、丘の上三丁目を開いた。三本ある坂のうち、二本目を指で押さえている。


「言いません」


「言ってません、とも言わないでください」


 澪はそう言ってから、左手を右耳へ当てた。


*


 分析に入ると、澪は喋らない。


 盤面に丘の上三丁目が出る。坂は三本ある。車で上まで上がれるのは二本目だけになる。


 二本目の坂の山側は、五十年前に切った面になる。切った面を支えているのは石積みで、練っていない。石を積んで、噛ませてあるだけになる。


 空積みは水を通す。通すから、普段は裏に溜まらない。溜まらない代わりに、通る道が一本ずつ決まっている。


 その道が詰まると、水は石の裏へ回る。回った水は、石の裏の細かい土を運び出す。運び出された分だけ、石の座りが浅くなる。


 浅くなっても、晴れている間は落ちない。落ちるのは、土が重くなった日になる。


 三日で百十二ミリなら、詰まっていた側は二日分の水を持っている。


「アンサー」


> ── はい。


「丘の上三丁目、二本目の坂。山側の石積みの点検の記録を、直近の三回分」


> ── 二回分しかありません。三度目は、記録が空白です。


 アンサーは返事の前に一度、上を向いた。頭の受話器の形が、天井を向いてから戻る。


「空白の理由は」


> ── わかりません。


 澪は盤面の一本目と三本目の坂を消した。残した二本目の、下から三分の二だけを白くする。


 崩れたのは上ではない。上が抜けたなら、土は坂の下まで届いている。届いていないなら、抜けたのは真ん中になる。


 真ん中で抜けると、その上の土は坂へ乗ったまま止まる。止まっているだけで、留まってはいない。


 澪は坂の上の家を数えた。三軒ある。そのうち一軒は、三年、この番号に掛かってきたことがない。


 数えたのは家の数になる。その先は数えていない。


 澪は左手を下ろした。


「座標、出た」


 五人が動いた。下ろした瞬間に動く。この人の手が下りるまで、誰も一歩も出ない。


「丘の上三丁目、二本目の坂、下から三分の二。山側の石積みが十二メートル抜けた。土の上に軽貨物が一台、谷側へ傾いて止まっている。中に一名。坂の上に三軒」


 迅は最後まで聞いていない。「中に一名」で走り出している。澪は最後まで言い終えた。


 久遠寺修司が受信席の後ろで立ち上がった。


「上は」

「三軒です。回線は、いま五本空いています」


「第七支部 ── 出場!」


*


 ポールは二本ある。迅が一番に握った。掌が焼ける。焼けるのを毎回やる。一階で装備を背負い、階段で地下三層へ下りる。


 地下三層の扉が上がった。


「三層、開放!」


 宮ヶ瀬佳代が盤の前に立っていた。この日は雨量の記録を、盤の隅に出したままにしてある。


「一号から五号、出場!」


 丘の上の坂は、車で上がれるのが二本目までになる。その二本目が埋まっている。


 五機は坂の下で止まった。止まった先から、走ることになる。


 坂の下に、藤木ハルが立っていた。七十四歳になる。夏に折った左の手首は、六週間で外れている。外れたあとも、朝の間だけは強張る。


 迅がその前で足を止めた。止めたのは一拍になる。


「呼んだのは」

「私です」


 迅は頷いた。頷いてから、坂を上がった。


 崩れた土は、坂の幅を全部埋めていた。幅は四メートル、長さは十二メートルになる。高いところで、腰より上まである。


 土の色が二つに分かれている。表は雨で洗われて明るい。掘れた場所だけが暗い。暗い方が、あとから出てきた土になる。


 軽トラックは、その土の上へ前輪を乗せて止まっていた。車体は谷側へ傾いている。傾きは十五度ほどになる。


 山側の扉は土に埋まっている。谷側の扉は開けられる。開ければ、体重がそのまま谷側へ移る。


 中に六十くらいの男が一人いた。両手で天井の把手を掴んでいる。


 ひかりが谷側の窓の前へ回った。ガラスは割らない。割ると、破片が中へ落ちて、開いた分だけ重心が動く。


 窓越しに、声を掛ける。


「そのまま握っていてもらえますか。聞こえたら、瞬きを二回してください」


 男が瞬きを二回した。


「お名前を教えてもらえますか。窓は開けなくて構いません」


「谷口。谷口昭三」


 声はガラス越しでも通った。通ったということは、息が足りているということになる。


 寺尾がハンマーを提げて谷側へ入った。


「まあ待て。俺が支える。この車は前が軽い。荷台に鉢が六つ載っとる」


 二文で言って、坂の谷側へ柱を打ち始めた。二本を斜めに立てて、一本を横へ渡す。打ち込んだ柱は残る。この坂に柱が残るのは、これが初めてになる。


 蒼汰が索を山側の電柱へ回した。二本を掛けて、一度緩めてから引く。


「上、任せろ。二本です。緩めてから引きます」


 引いた索が、車の山側の枠に掛かった。掛かった先が、傾きを一度だけ戻した。戻った角度は三度になる。


 三度で足りるかどうかは、扉を開けた瞬間に決まる。


 迅は坂の上側に立った。崩れた土の、上の縁になる。


 上の土は止まっているだけで、留まってはいない。留めるものが一つ要る。


 迅は斧を右手一丁で持って、刃を土へ横向きに差し込んだ。差し込んだ柄の上へ、片足を掛けて体重を乗せる。


 落ちてくるとしたら、この位置に落ちてくる。


 迅はそこから動かなかった。


 ひかりが谷側の扉を開けた。開ける幅は三十センチになる。


「谷口さん。右の足から、こちらへ出してもらえますか。手は、そのまま握っていてください」


 谷口の右足が出た。出た先に、寺尾の組んだ柱の足場がある。


 足が乗った。乗った分だけ、車の重心が外へ出る。


 出た重心を、蒼汰の索が引き戻した。


 左足が出て、腰が抜けて、上半身が出た。ここまでで四十秒掛かっている。


 ひかりは、出た谷口の手首をすぐには離さなかった。離さずに、坂の下まで十メートル歩かせた。歩かせてから、座らせた。


 座った谷口の息が速い。車から出るまでは速くなかった。出てから速くなる人は多い。


 ひかりは自分の掌を谷口の胸の前に置いて、七つ数えた。


「息、返すよ」


 七つで戻らなければ、袋を出す。この日は五つで戻った。


 坂の上で、土が動いた。


 動いたのは、崩れた土の真ん中になる。真ん中が持ち上がって、下から石が出てきた。


 石は空積みの石になる。角が丸い。五十年、雨と土に洗われている。


 その石が二十ほど集まって、土に包まれた。包まれた形は、坂の幅と同じ四メートルになった。


 迅が左手首の蓋を跳ね上げた。五人が同じ動作をした。


「急報 ── 出場!」


> サイレン ── 起動。〈火群 迅〉。応答、確認。

> サイレン ── 起動。〈逢坂 澪〉〈灰谷 蒼汰〉〈寺尾 剛〉〈七尾 ひかり〉。応答、確認。


 反射帯の光が足元から頭まで走った。装甲が下から順に組み上がる。五つの送話口が、同じ高さで止まった。


 五人が同時に右手を上げた。耳の高さで止めて、掌を外へ向ける。受話器を取る形になる。


 坂の下から見上げると、五人は崩れた土の上に立っていた。土の高さの分だけ、足元が普段より高い。


> 水を持ってく、火の現場 ─── サイレンレッド!

> 声を持ってく、知の現場 ─── サイレンブルー!

> 綱を持ってく、高の現場 ─── サイレンイエロー!

> 梁を持ってく、圧の現場 ─── サイレングリーン!

> 息を持ってく、生の現場 ─── サイレンピンク!

>

> 特別災害対策機構、第七支部 ──

> 呼ばれたら、鳴らして、行く!

> 急報戦隊、サイレンジャー!


 口上は坂を下りていった。下りた先の道で、座っていた谷口が顔を上げた。


 迅がブレスを土の塊へ向けた。


「トリアージ!」


> 判定 ── 黒。要救助者、内部に確認できません。


「黒」


> ── 回線、残り 三本。


 塊が坂を下り始めた。下りる速さは、歩くより遅い。遅いが、止まらない。


 止まらないものは、速いものより厄介になる。避ける場所を、こちらが先に決められない。


 迅は前に出た。出た足が崩れた土に沈む。沈んだ分だけ、進みが遅くなる。


 澪が坂の下でソナーを構えた。撃つ前に必ず人数を言う。


「五名。坂の下に二、上の三軒に三。塊の中は零。撃てる」


 撃った。低い音が塊の腹を通った。通った場所の石が二つ、外れて落ちた。


 落ちた石が坂を転がる。転がった先は、藤木と谷口のいる場所になる。


 蒼汰が索を投げた。投げた索が石の一つに巻きついて、坂の脇の側溝へ落とす。


 もう一つは寺尾が受けた。ハンマーの柄を横にして、下から受ける。受けてから、山側へ返した。


 蒼汰は索を引き戻した。巻きついた輪を外して、手の中で束ね直す。投げた索は、必ず戻す。


 ひかりはナイフを抜いた。抜いて、軽トラックの荷台のロープを一本だけ切った。


 荷台の鉢が六つ、山側へ転げ落ちる。落ちた分だけ、車が軽くなった。


 軽くなった車を、蒼汰の索が山側へ寄せた。寄せた場所は、塊の通り道から外れている。


 この日、ひかりが斬ったのはロープ一本になる。


 塊が寺尾の柱に当たった。三本のうち、横へ渡した一本が鳴った。


「保ってる。押されとるのは谷側だ」


 二文で言って、寺尾は柱の間へ肩を入れた。入れた肩の上へ、塊の腹が乗る。


 乗った重さは、坂の土十二メートル分になる。


 寺尾は膝を曲げなかった。曲げれば、下の柱が抜ける。


 迅が坂の上から下りてきた。斧は右手一丁になる。


 塊の腹は寺尾が受けている。受けている間、腹だけが動かない。


 動かない場所へ入れる一撃が、この日の一撃になる。


「サイレンアックス ── 急救斬ッ!」


 斧が塊の腹を、下から上へ割った。割れた場所から、石が二十、坂へ落ちた。


 落ちた石は坂の脇へ寄った。寄った先で、もう積み上がらない。


 土は残った。石だけが抜けた。


 抜けた土が、坂を下りずに上へ戻った。戻った先で、上の三軒の手前に立った。


 立った高さが、屋根を越えた。


*


 地下三層で宮ヶ瀬が盤を叩いた。


「坂の上です。三軒の手前に立たれると、機体を谷側へ置けません」


 五機が一本目の坂から回った。二本目は埋まっている。


 サイレンクレーンが一本目の坂の上でアウトリガーを張る。四本目は、この日は遅れなかった。


 サイレンメディックが坂の下で後扉を開けたまま待つ。サイレンウイングが丘の上を低く抜けた。抜けた風で、崩れた土の表だけが乾いた。


「五機、連結!」


「特災合体 ── サイレンオー!」


 サイレンオーが立った。


 坂の下から見上げた藤木には、脚と、胴の下半分が見えた。座ったままの谷口には、左手だけが見えた。


 その左手は、開いていない。握ったままになる。


> ── 回線、残り 二本。


 塊が上の三軒へ寄ろうとした。寄られると、六人は撃てない。


 サイレンオーは掴まなかった。掴まずに、左腕を坂の谷側へ、上から下へ沿わせて置いた。


 置いた左腕が、坂と家並みの間に一本の堰になる。


 塊は谷側へ出られない。出られない分だけ、坂の中へ戻る。


 寺尾の声が回線に入った。


「堰になった。家の方へは行かん」


 迅が言った。


「今だ」


 右腕の放水砲が開いた。


「サイレンオー ── 全消斬ッ!」


 水が出た。斬るのではなく、押す形で出る。


 押された土が坂の中で潰れた。潰れた先で、体が保てなくなる。


 土は土に戻った。戻った土が、坂の上から下まで薄く延びる。延びた先は、側溝の中で止まった。


 坂の下の道に、三十人ほどが出ていた。丘の下の家の人が半分と、通りがかりが半分になる。


 拍手が起きた。起きたのは一人からで、その一人は谷口になる。座ったまま、両手を打った。


 打った音に、あと十人ほどが続いた。この街は、拍手の仕方を覚え始めている。


 十一時六分に、坂の土が半分どけられた。


 どけたのは市の道路課ではない。まだ来ていない。来るのは午後になる。


 半分どけたのは、丘の下の家の人が七人になる。誰が言い出したわけでもなく、スコップを提げて上がってきた。


 寺尾が上の三分の一だけ止めた。


「そこから上はまだ触るな。まだ水が抜けとらん」


 二文で言って、自分の柱の間へ入り、上の面を掌で確かめた。


 坂の上の三軒のうち、二軒から人が下りてきた。持ってきたのは水と、乾いた上着になる。谷口が礼を言った。


 残りの一軒からは、誰も下りてこなかった。


 板塀の低い、古い造りの家になる。門は閉まっている。


 迅がその門の前を通った。通る時に、崩れた土の縁を見た。


 縁のところだけ、土が薄く掃いてあった。箒の目が、門の内側から外へ向かって出ている。


 掃いてある幅は、人が一人通れる分になる。


 迅は箒を探した。門の内側にも、外にも無い。


 誰が掃いたのかは、訊かなかった。訊く相手が、この場にいない。


 坂の下では、藤木ハルがまだ立っていた。


 ひかりがその前へ行った。


「藤木さん。ここから先は私たちが上がりますので、下で待ってもらえますか」


「待ちます。待つのは、慣れました」


 藤木は右手を上げた。耳の高さで止めて、掌を外へ向ける。


 誰も教えていない。夏に一度、石段の下から、この形を見上げている。


 ひかりは、その手に返事をしなかった。返事の代わりに、同じ高さまで自分の手を上げた。


 坂の下の角に、傘を持った人影が立っていた。


 傘は畳んである。雨は前の夜に上がった。


 差す相手はいる。土の水を吸った上着が、谷口の肩から下だけ色を濃くしていた。


 人影は差さなかった。畳んだままの傘を、持ち替えただけになる。


「濡れていないので」


 声はそう言った。谷口の肩は濡れている。


 言ってから、角の向こうへ消えた。消えたあとに、傘を落とした音がしない。


 迅がそちらを見た。見たのは一拍で、追わなかった。追う前に、坂の土がまだ半分残っている。


*


 支部へ戻ると、武藤とうふ店の豆腐が届いていた。


 十一月から数が一つ増える。夏は四丁で、冬は五丁になる。増える理由を、この人は言ったことがない。


「五丁ですね」

「十一月だからな」


 武藤徳三はそれだけ言って、空の箱を提げて帰った。三年、十一月の一日目に必ず一つ増える。


 戸倉が地下二層でクレーンのアウトリガーを見ていた。四本目の油の道は短くしてある。


「今日は遅れませんでした。左の前腕は、外板が上から下まで擦れてます」


「擦れました。ただし、堰にする形は、まだ作っていません。あれは腕の使い方ではありません」


 宮ヶ瀬は工具を置いた。置いてから、それ以上は足さなかった。


 毎回、作れなかったものを一つ言う。三年、欠かしたことが無い。


 速水が受信席で地図を畳んでいた。畳みながら、戸倉に言った。


「灰谷さん、索を引く前に一度緩めてました。緩めてから引くと、土が動かないそうです」


「本人に言ってあげたらどうですか」


「言いません。結び方の名前を、全部聞かされるので」


 澪は受信席の裏で、丘の上三丁目の記録を出していた。


 二本目の坂の石積みは、点検の三度目が空白になっている。空白は、抜けたのか、しなかったのかが分からない。


 分からないものを、この人は消さない。


 澪は自分の地図に付箋を一枚貼った。丘の上三丁目、二本目の坂。これで十一枚目になる。


 付箋には何も書いていない。


 三階の食堂で、寺尾が湯豆腐を出した。十一月の椀は、十月のものより少し熱い。


 食べ終わらないうちに、二階の受信席で、電話が鳴った。


> 【第七支部 出場記録】

> 臨場 ── 十時二十七分。所要 ── 九分。

> 保留 ── 一件。最長 ── 三十八秒。

> 未着 累計 ── 零。

> 損壊 ── 丘の上三丁目 二本目坂 山側石積 十二メートル 崩落。

>     坂路 全面 埋塞。軽貨物車 一台 右側面 損傷。

> 救助 ── 一名。避難 ── 二名。

> 丘の上三丁目 二本目坂 通行止 ── 継続。

> 本件、処理 ── 完了。

> ── 入電。

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