第030話 点検の日です
> 【第七支部 覚知記録】
> 覚知 ── 十月三十一日 九時四分。
> 入電 ── 固定電話。発信地 ── 中央駅前 一丁目。
> 第一声 ──「点検の日です」
> 出場 ── なし。
「点検の日です」
その声は、おれのいる場所まで届いていた。二階の階段の下にいたからだ。尾花さんの受け方は、いつもと同じだった。
「はい、鳴瀬市消防指令センターです。今何処におられるか教えてください」
「あ、いえ、そういうのじゃなくて。中央駅前一丁目のビルなんですが、今日、消防設備の点検でして」
「はい」
「受信機を鳴らすので、通報が入るかも知れません。誤報だと思っていただければ」
尾花さんは、一拍だけ置いた。置いてから、声の高さを変えずに言った。
「こちらは緊急の回線になります。点検のご連絡は、消防署の予防課へお願いします」
「あ、そうでした。すみません」
「謝らなくて大丈夫です。番号をお伝えしますので、書けるものをご用意ください」
番号を言った。相手が復唱した。復唱が合っていた。合っていても、尾花さんはもう一度言った。二度言うのは、書き間違いが一度目に出るからだ。
「それから、もし本当に火が出た時は、すぐこちらへ掛けてください」
「はい」
通話は四十秒で終わった。おれは階段の下で、二階の盤を見ていた。受信の八本が、四十秒だけ一本減って、それから戻った。
八本のうち一本が塞がっている間、この街の誰かが掛けたら、七本目に入る。七本目まで空いていたから、何も起きなかった。何も起きなかった日のことは、誰も記録しない。
記録しないから、数もない。数のないものが、この仕事には多いらしい。おれは数える係なのに、数えられないものの方が多い場所で働いている。
*
十月の最終日は、年に一度の点検の日だ。装備を全部出して、並べて、数える。数えるのはおれの係になっている。
見習いだからじゃない。三年目で、まだおれが一番よく落とすからだ。落とす人間に数えさせると、落とさなくなる。宮ヶ瀬さんがそう言った。理屈は分からない。分からないが、この三年で落とした回数は確かに減っている。
地下二層の床に、青い布を敷く。布の上に、五人分の装備を並べる。並べる順は決まっている。頭から足へ、それから手に持つものへ。手に持つものは最後だ。
最後にする理由は、教わっていない。訊いたこともない。三年やっていると、順番の理由を訊く機会が無くなる。
たぶん、手に持つものが一番減るからだ。減ったら分かるように、最後に置く。合っていなくても、おれはそう思っておくことにしている。
布は青い。青いのは、落ちたものが見えるからだ。灰色の床に灰色の部品が落ちると、見つかるまでに三十分かかる。三年前、それで三十分かかったことがある。かかったのはおれだ。
九時半に、五人が下りてきた。当直の日じゃない。年に一度の点検の日は、当直かどうかに関係なく、全員が下りてくる。
五人が揃って地下二層にいるのを、おれは年に一度しか見ない。現場では見られない。おれは現場へ行かないからだ。
行かない人間が、行く人間の道具を数える。おかしい話に聞こえるが、たぶんこれで合っている。使う人は、自分の道具の数を数えない。減っていることに気付くのは、次に手を伸ばした時になる。
「佐波」
寺尾班長が最初に来た。手にはハンマーを持っている。自分で持ってきた。点検の日でも、これだけは人に運ばせない。
「持ってみろ」
持った。重い。腕が下がった。持ったまま十秒で、指が開きはじめた。
「重いだろう。重いから支えられる。軽いものは、支えるより先に自分が飛ぶ」
二文だった。班長はいつも二文で言う。一文目で止めて、二文目で理由を言う。三年聞いていて、順番が変わったのを聞いたことがない。
「入れる場所は、落ちてくるものの真下じゃない。真下の一つ手前だ」
なぜ、と訊きたかった。訊く前に、班長が床へ柱を一本、寝かせた。寝かせてから、その上に自分の掌を置いた。置いた掌に、体重を少しだけ乗せる。
「真下に入れると、落ちてくるものが柱に乗る。乗ったら、柱ごと下へ来る。一つ手前なら、当たって止まる」
おれは布の端に、そう書いた。書きながら、真下と一つ手前の絵を描いた。絵は下手だった。下手でも、あとで見れば分かる。分かる絵かどうかは、明日の自分に決めさせる。
班長が離れると、七尾さんが来た。ナイフを二本、鞘ごと置いた。置き方が揃っている。刃の向きも、柄の角度も同じだった。
「佐波さん。抜くところを見ないでください」
「え」
「私が抜く時、見るのは刃じゃありません。押さえる方の手を見てください」
抜いた。速くはなかった。速くないのに、途中が見えなかった。左手が先に動いていた。左手で布を押さえて、それから右手が入った。
「止めるのと切るのは、同じ動きになります。押さえていない場所を切ると、両方できません」
七尾さんはそう言って、ナイフを鞘へ戻した。戻す音が短い。抜く音より短かった。
「佐波さんは抜きません。でも、押さえる方は覚えておいてもらえますか」
「はい」
覚えておいてもらえますか、という言い方を、この人はよくする。命令はしない。三年で一度も聞いていない。
おれは布に、左手、と書いた。それだけ書いた。ほかに書くことが無かったからじゃない。書きすぎると、次に見た時に読まないからだ。
灰谷さんは、索を三本持って来た。おれの前で結んで、解いて、また結んだ。三回とも、同じ速さだった。
「結び方は、この三つで足ります。全部覚えなくていいです」
「三つですか」
「三つです。ただし、結んだあと三十センチ引くのは、三つとも同じです」
やらせてくれた。結んだ。引いた。二センチ滑った。
「もう一回です」
もう一回結んだ。引いた。動かなかった。
「通ります」
灰谷さんは、それ以上何も言わなかった。言わずに、次の索を出した。この人は、出来た時に何も言わない。出来ていない時だけ「もう一回です」と言う。
だから「通ります」は、この人の一番いい言葉になる。褒め言葉じゃない。ただ、通るというだけだ。
通るかどうかしか言わないのは、たぶん、それしか約束できないからだと思う。索は結び方で決まらない。引いてみるまで分からない。
この人は屋上でも同じことを言っていた。前に一度、山へ入る前の布の話を聞いた。あの時は途中までしか分からなかった。今日も途中までだ。少しずつでも、二度聞けば繋がるのかも知れない。
逢坂さんは、ソナーを台に置いたまま動かさなかった。
「撃ち方は教えない。佐波は撃たない」
「はい」
「代わりに、一つだけ。撃つ前に人数を言う。あれは、聞かせるために言っているんじゃない」
おれは布を見た。何も書けなかった。
「自分に数えさせるために言っている。声に出さないと、人は数えたつもりになる」
逢坂さんはそれだけ言って、台の上の埃を指で払った。払ったところだけ、少し色が違った。
「点検の記録も同じ。書いた数字だけが残る。数えた気になった数字は残らない」
おれは布に、声に出す、と書いた。書いてから、その下に線を一本引いた。線を引くのは、あとで読み返す印になる。
火群さんは、斧を一丁だけ持ってきた。二丁あるのに、一丁しか持ってこなかった。
「もう一本は」
「置いてきた。要らん」
それだけだった。持たせてもらう。片手では上がらない。両手で持ち上げた。
「両手で持つと、片方が空かない」
「空けるんですか」
「空けとく。掴む用だ」
火群さんは、置いた斧の柄を靴の先で少しだけ動かして、向きを直した。刃が壁を向く向きだ。置き方も決まっているらしい。誰も教えていないのに、五人とも同じ向きに置いていた。
揃っているものを、この五人は揃えようとしていない。並べた結果が揃っている。三年見ていて、それが一番不思議だ。
誰かが決めた形じゃない。五人が別々に、一番使いやすい向きを選んで、それが同じ向きになった。同じ道具を、同じくらいの回数使ったからだと思う。
おれには、その回数が無い。無いから、置き方も無い。
*
十一時から、ギアの切り替えをやらせてもらった。
共通武器のサイレンギアは、柄を半回転させると形が変わる。筒先から斧になる。斧から筒先に戻る。それだけの仕組みだ。
仕組みは簡単だが、噛む音が毎回違う。乾いた日は短く、湿った日は長い。この日は乾いていた。
音が違うことに、五人は気付いていないと思う。訊いたことは無い。訊いたら、たぶん「そうか」で終わる。気付いているのは、毎日同じ場所で同じ道具を触っている側になる。
おれは持った。柄に手を掛けた。回した。
途中で止まった。半分までしか回らない。
「力じゃないです」
灰谷さんが横から言った。
「回すんじゃなくて、掌を返してください。手首は動かさなくていいです」
やり直した。掌を返した。回った。噛む音が、短く鳴った。
二回目も回った。三回目も回る。四回目で落とした。
床に落ちた音が、地下二層の壁に当たって返ってくる。全員が同じ方を向いた。
「今年は早いな」
寺尾班長がそう言った。去年は午後だった。去年も、おれが落とした。
拾った。傷は付いていなかった。この道具は、落としたくらいでは傷が付かない。付かないように作ってある。落とす人がいることを、初めから見込んで作ってある。
付かないように作った人が、奥の台で部品を拭いている。こちらを見ていない。見ていないのに、落とした音のあとで一度だけ手が止まった。
その次に、変身の手順を通しで見せてもらった。
これは点検の項目に入っている。年に一度、五人とも同じ手順で通す。宮ヶ瀬さんが横で見て、記録を付ける。
火群さんが前に出た。左手首の蓋を、右手で跳ね上げる。開いた蓋が受話器の形になる。それを耳の高さまで持ち上げる。持ち上げる速さは、思ったより遅かった。
現場ではもっと速いはずだ。速いはずのものが、この日は遅い。遅いのは、見せるためだからだ。
速くやると、途中が消える。消えた途中を、おれは覚えられない。だから遅くやってくれている。誰もそう言わないが、たぶんそうだ。
「急報 ── 出場!」
> サイレン ── 起動。〈火群 迅〉。応答、確認。
反射帯の光が足元から頭へ走った。装甲が下から順に組み上がる。最後に、送話口の格子が顎の下で閉じた。
閉じる音を、おれは初めて近くで聞いた。思っていたより、小さい音だった。
小さい音でいい。現場では、この音を聞くのは本人だけになる。本人が聞ければ足りる。
火群さんが右手を上げた。耳の高さで止めて、掌を外へ向ける。受話器を取る形になる。
その先は無かった。この日は誰も名乗らない。あれをやるのは現場でだけだと、宮ヶ瀬さんが言った。
おれは同じ形をやってみた。右手を耳の高さまで上げて、掌を外へ向ける。道具は要らない。広さも要らない。
やってみて、分かったことが一つある。この形は、電話を取る形じゃない。取ろうとしている形だ。まだ鳴っていない電話に、手を出している形になる。
火群さんが装甲を解いた。解いてから、おれの手を見た。見ただけで、何も言わなかった。
言われなかったから、おれは手を下ろさなかった。三秒くらい、そのままでいた。
その三秒で、腕が少し重くなった。この形は、続けると重い。現場で何秒やるのかを、おれは知らない。訊けば教えてくれると思う。訊かなかった。
*
昼は三階で食べた。手順を見たあとになる。寺尾班長が汁を作って、武藤とうふ店の豆腐を切った。点検の日は、整備班も上がって食べる。全部で九人になる。
九人で食べるのは、年に一度だけだ。椀が足りないので、班長が去年から二つ買い足した。買い足したことを、この人は言わない。棚に増えているから分かる。
増えた二つは、色が違う。色を揃えなかったのは、たぶん、揃えると増やしたことが分からなくなるからだ。分かる形で増やす人だと、おれは思っている。
七尾さんが最初に食べ終えた。班長がまだ配っている途中だった。
「もう?」
「もう」
戸倉さんが笑う。梅木さんも笑った。おれも笑った。この遣り取りを、おれは去年の点検の日にも聞いている。
速水さんだけが笑わなかった。汁の椀を運んでいて、両手が塞がっていたからだ。運んだ先で、椀を一つ落とした。
落とした音がして、全員が同じ方を向く。
「今日は速水か」
班長がそう言った。おれは笑った。去年は、おれが落としている。
誰かが落とすと、その日はもう誰も落とさない。三年見ていて、これも不思議だ。
落ちた音を全員が聞いたからだと思う。聞いた人は、そのあと少しだけ丁寧になる。丁寧は一日もたない。次の日には戻る。
*
午後の最後は、予備の点検だった。
予備は整備場の棚の一番下に置いてある。鍵は掛かっていない。掛ける必要が無いからだ。持っていく人間がいない。
箱は木で出来ている。四十年くらい前のものだと聞いた。支部が建った時からあるらしい。中に、緩衝材が敷いてある。
緩衝材は、箱より新しい。何度か替えている。替えたのは宮ヶ瀬さんで、記録は残っていない。記録を残す欄が、備品の帳面に無い。
おれは箱を開けた。開けて、数えた。
六つあった。
ブレスは五つのはずだ。隊員が五人だから、予備も五つになる。三年、そう記録されている。
おれは数え直した。左から右へ、指で押さえて数える。六つだった。もう一度、右から左へ数えた。やはり六つある。
六つ目は、一番端にあった。ほかの五つと同じ形をしている。同じ大きさで、同じ色で、同じ厚みだ。
持ち上げてみた。重さも同じだった。手に乗せた感じで分かる。三年、五つの重さを毎年一度ずつ持っている。
違うところが一つだけあった。留め具の形が、少し古い。今の五つは、留め具が二つ折りになっている。六つ目は、一枚で出来ていた。
おれは緩衝材の跡を見た。跡は六つ分ついていた。窪みが六つ、同じ深さで残っている。深さが同じということは、六つとも同じ時間そこに置かれていたことになる。
三年、おれはこの箱を開けている。開けて、五と書いている。三年で三回だ。三回とも、蓋を開けて、閉じて、五と書いた。
開けた時に数えなかった。数える前に、五だと思っていた。五だと思っていたから、五に見えた。
数えたつもりになっていた。逢坂さんの言った通りだった。
「宮ヶ瀬さん」
おれは呼んだ。宮ヶ瀬さんは奥の台で、ウイングの部品を拭いていた。
「六つあります」
「何が」
「予備のブレスです。五つのはずですけど、六つあります」
宮ヶ瀬さんは布を置いた。置いてから、こちらへ来た。来て、箱を覗いた。覗いた時間は、三秒くらいだった。
「五つです」
おれは箱を見た。六つある。
「六つあります」
「五つです」
声の高さは変わらなかった。怒っていない。いつもの言い方だった。この人は、出来ていることを先に言わない。逆から言う。今日も逆から言った。
宮ヶ瀬さんは箱の蓋に手を掛けた。掛けてから、少し待った。待ってから、閉めた。
「佐波さん」
「はい」
「今日は、五つで記録してください」
おれは記録の用紙を見た。予備、と書いた欄がある。三年分の記録が、全部五になっている。書いたのは、去年もおれだ。
「はい」
おれは五と書いた。書いてから、宮ヶ瀬さんの方を見た。宮ヶ瀬さんは、もう奥の台へ戻っていた。戻って、また部品を拭いている。拭き方が、さっきと同じだった。
何も変わっていない。おれの手だけが、少し止まっていた。
訊けば答えるだろうか。訊いても、たぶん「五つです」と言う。二度言った人は、三度目も同じことを言う。
訊かない方を選んだのは、おれだ。誰にも止められていない。宮ヶ瀬さんは、訊くなとも言っていない。
言わない人と、訊かない人がいて、その間に箱が一つある。箱は棚の一番下にあって、鍵は掛かっていない。
*
十六時に、点検が全部終わった。
装備は全部、元の場所へ戻した。数は全部合っていた。合っていない場所は、一つだけだ。
その一つは、記録の上では合っている。合っていないのは、おれの中だけになる。中だけのものは、書く欄が無い。
二階へ上がると、受信の盤が見えた。八本とも、緑のままだった。この日、この街から一件も掛かってこなかった。三年で、そういう日は十一回しかない。
尾花さんは席にいた。八本が全部空いている日でも、この人は席を立たない。立たないのは、いつ鳴るか分からないからだ。
鳴らない日の八時間と、鳴り続ける日の八時間で、この人の座り方は同じだった。おれは三年、それを階段の下から見ている。
同じ座り方をしているのに、鳴らない日の方が、見ていて長い。長いのはこちら側の話で、あの人にとっては同じらしい。
おれは階段の踊り場で足を止めた。窓がある。窓の外に、庁舎の外壁がある。
五日前、おれはそこに何かが立っているのを見た。三秒だけ見て、もう一度見たら、いなかった。誰にも言っていない。
今日も、壁には何も無い。無いのを確かめてから、おれは十秒くらいそこにいた。
十秒いても、何も出なかった。出ないのが普通で、出た方がおかしい。おかしい方を、おれは一度見ている。
言わないことが二つになった。二つになると、一つの時より重い。
おれは窓から離れて、三階へ上がった。上がった先の食堂で、班長が明日の仕込みをしていた。
「佐波、終わったか」
「終わりました」
「数は合ったか」
おれは、一拍だけ置いた。置いた長さは、たぶん尾花さんの一拍と同じくらいだった。
「合いました」
班長は頷いた。頷いてから、笊を伏せた。それ以上は訊かなかった。
二階の受信席で、電話が鳴った。この日、初めての一件になる。
おれは階段を下りた。下りながら、盤の八本を見た。一本目が赤く変わっていく。
尾花さんの声が、階段の下まで届いた。いつもと同じ受け方だった。
> 【第七支部 出場記録】
> 本日、出場 ── なし。所要 ── なし。
> 受信 ── 一件。緊急以外。四十秒。
> 保留 ── なし。
> 未着 累計 ── 零。
> 装備点検 ── 完了。ブレス 五。予備 五。
> 本件、処理 ── 記録のみ。
> ── 入電。




