第025話 中に人が
> 【第七支部 覚知記録】
> 覚知 ── 九月二十四日 十九時四十一分。
> 入電 ── 携帯電話。発信地 ── 中央駅前 二丁目。
> 第一声 ──「中に人が」
> 出場 ── 第七支部 全隊。
「中に人が」
尾花律子は用紙を引き寄せた。時刻を分まで書く。秒は書かない。第一声を、聞こえたとおりに書く。何処の中かは、まだ書かない。
「はい、鳴瀬市消防指令センターです。今何処におられるか教えてください」
「中央駅前の二丁目、地下街の二層です。下りのエスカレーターの前」
「お名前と、中というのが何処の中かを教えてください」
「戸沢です。三層です。シャッターが下りてて、その向こうに人がいます」
尾花は書いた。中央駅前二丁目、地下街三層、防火シャッター閉鎖。三語で足りる。
「何人おられるか、声で分かる範囲で教えてください」
「三人だと思います。掃除の人と、多分、店の人が二人」
「その方たちの声が今も聞こえるかどうか教えてください」
「聞こえます。叩いてます。金属を叩く音がします」
尾花は用紙の右へ書いた。意識あり、応答あり、三名。ここまでは揃っている。
「戸沢さん。三層に水が来ているかどうか教えてください」
「来てます。エスカレーターの下から上がってきてます」
「今、水は何処まで来ているか教えてください」
「二層の床に届きました。さっきまで届いてなかったです」
尾花はそこで、書く手の速さを変えた。速くはしていない。書く字を短くした。
「戸沢さん。ご自分は下りないでください。今いる二層から、一層の階段へ上がってください」
「でも、シャッターの向こうに」
「上がってください。上がりながら、周りの人にも上がるように伝えてください」
「……伝えます」
「戸沢さん。上がったら、階段の上から下を見ていてください。通話は切らないでください」
「切りません」
尾花は左手で当直へ回した。回してから、右手の受話器を持ち替えた。持ち替えても、耳から離さない。用紙の下の欄に、背後の音を書いた。水、金属、放送。三語になる。
三語目に放送と書いたのは、この日が初めてになる。地下街の放送は、たいてい背後の音に入らない。人の声に消される。
この日は、人の声が少なかった。
*
十九時四十一分の三階は、窓が全部閉まっていた。
秋雨が四日続いている。四日目の雨は、降り方が変わらない。強くもならず、止みもしない。
こういう雨の日に出場が増えることを、この支部の全員が知っている。知っているので、誰も雨の話をしない。
話す代わりに、それぞれが自分の持ち場のものを一度ずつ触る。触って、置き直す。置き直す位置は、乾いた日と同じになる。同じにしておくと、暗い場所でも手が届く。
寺尾剛が汁を火に掛けていた。武藤とうふ店の豆腐が、朝と同じ時刻に届いている。雨でも届く。
「班長、四日続けて雨ですけど」
「届いとる。雨で止める店なら、三年ももたん。うちも同じだ」
二文で言って、蓋を半分ずらした。
灰谷蒼汰は索を四巻き、床に並べていた。雨の日は一巻き多く持つ。三年、この数え方を変えていない。
「雨の日は四巻きです。使えるのは三本半になります」
言ってから、七つ目の器具箱に入れる予備を選んだ。前の出場で使った一巻きは、支部の棚から入れ替えてある。
この人は、七つ目を空にしない。空にしておくと、次に足りなくなった時に開ける場所が無くなる。
七尾ひかりは、三階の窓際で封筒を一つ開けていた。
差出人は宮川になる。丘の上四丁目の公園で、百二十九まで数えた高校生になる。
中には便箋が一枚だけ入っていた。文字は大きい。書き慣れていない字になる。行の終わりで、いつも一字ぶん余っている。
「おじさん、退院したそうです」
「よかったですね」
寺尾がそれだけ言って、火を細くした。
便箋には、もう一行あった。押している間、自分の数が合っていたかどうかを訊く一行になる。
ひかりは、その一行に返事を書く紙をまだ持っていない。持っていないまま、便箋を畳んで上着の内側へ入れた。
入れる場所は、手帳と同じ側になる。手帳の最後の頁には、別のものが書いてある。この人以外、誰も見ていない。
火群迅は非常階段の一番下にいた。立ったまま、靴の紐を結び直している。
右の掌の切り傷は塞がっていた。塞がった線が、まだ白く残っている。この人は、塞がったことにも気付いていない。
逢坂澪は受信席の斜め後ろに立っていた。手にはコーヒーがある。砂糖も牛乳も入っていない。
四日分の雨量を見ていた。合計で百六十二ミリになる。一日あたりで見れば大したことはない。四日で見ると、地面が水を持てなくなる量になる。
地面が持てなくなった水は、低い方へ行く。この街で一番低いのは、川ではない。
中央駅前の地下街三層になる。
速水が地図を出した。中央駅前の一丁目を出していた。
「すみません、隣でした」
澪は何も言わずに二丁目へ切り替えた。切り替えてから、左手を右耳へ当てた。
久遠寺修司が地図の前に立った。壁の紙に、今月の数字が自分の字で書いてある。
九月の出場は、この日で二十二件目になる。八月より四件多い。四件のうち三件が、雨の日に入っている。
久遠寺は数字の下に、月の残りの日数を書き添える。この月は、あと六日ある。
この人は数字を書くだけで、意味を言わない。言わないまま、受信席の後ろに立った。
*
分析に入ると、澪は喋らない。
盤面に中央駅前の地下街が出る。三層ある。一層が店舗、二層が店舗と通路、三層が駐車場と機械室になる。
三層の排水は、二基のポンプで汲み上げている。汲み上げた水は、駅の東側の排水路へ流す。
ポンプの記録を出した。二基とも動いている。動いているのに、水位が下がっていない。
下がらない理由は二つある。入ってくる量が多いか、出る先が塞がっているかになる。
澪は排水路の記録を出した。駅の東側の排水路は、九月の頭に点検が済んでいる。異常なしになっている。
異常なしの記録が、この人は好きではない。異常が無いのではなく、見ていないだけの場合がある。
三年で、異常なしと書かれた場所から出た通報が、四件ある。四件とも、点検の日付は新しかった。
四件のうち三件は、この人の地図に付箋が貼ってある。残りの一件は、貼っていない。貼らなかった理由を、澪は自分でも説明できない。
盤面を切り替えた。市の道路の記録になる。
中央駅前二丁目の歩道で、この日の十九時二十分に、マンホールの蓋が一枚外れている。通報は入っていない。記録は道路課の巡回から上がっていた。
外れた蓋の下は、地下街三層の換気口に繋がっている。
水は、そこから入っている。
「アンサー」
> ── はい。
「中央駅前二丁目、地下街三層。今の水位と、上がる速さ」
> ── 三層の床から百十センチ。毎分、二センチ上がっています。
「防火シャッターの内側の空間、天井までの高さは」
> ── 二百四十センチです。
澪は計算した。答えは六十五分になる。使ったのは、天井までの高さと、上がる速さの二つだけだった。二つで足りる日は、この人にとって楽な日に入る。
六十五分というのは、この街の救助では長い方になる。長いということは、途中で数字が変わるということでもある。入ってくる量が増えれば、六十五は四十になる。
六十五分で、シャッターの内側の天井まで水が来る。三人はそれまで動けない。動けないというのは、閉じ込められているという意味だけではない。歩ける床が、少しずつ減っていくという意味になる。
シャッターは、火の時に閉まる。閉まると、内側からは開かない。そういう作りになっている。
「アンサー。シャッターが閉まった理由は」
> ── わかりません。火災の信号は出ていません。
アンサーは返事の前に一度、上を向いた。頭の受話器の形が、天井を向いてから戻る。
この機械は分からないと言える。便利ではない。便利ではないので、誰も頼り切らない。
澪は盤面を三枚重ねた。外れた蓋と、動いているポンプと、閉まったシャッターになる。
三枚とも、この日の十九時二十分から二十五分の間に起きている。五分の中に三つ並ぶのは、偶然の並び方ではない。
澪は左手を下ろした。
「座標、出た」
五人が動いた。下ろした瞬間に動く。この人の手が下りるまで、誰も一歩も出ない。
「中央駅前二丁目、地下街三層、東の防火シャッター。歩道のマンホールが一枚外れている。閉じるのが先か、開けるのが先かは、現場で決めて」
迅は最後まで聞いていない。「東の防火シャッター」で走り出している。澪は最後まで言い終えた。
久遠寺が受信席の後ろで立ち上がった。
「水位は」
「六十五分です。回線は五本、空いています」
「第七支部 ── 出場!」
*
ポールは二本ある。迅が一番に握った。掌が焼ける。焼けるのを毎回やる。一階で装備を背負い、階段で地下三層へ下りる。
地下三層の扉が上がった。
「三層、開放!」
宮ヶ瀬佳代が盤の前に立っていた。この日は雨具を全員分、車へ積み直させている。
「一号から五号、出場!」
サイレンファイヤーの水槽は空にしてある。水を持っていく現場ではない。出す現場になる。
サイレンレスキューの器具箱は七つある。七つ目に、入れ直した予備が一巻き入っている。
外へ出ると、雨が真っ直ぐ落ちていた。風が無い。風の無い雨は、量が読みにくい。
中央駅前までは五分掛かる。駅前の道は、雨の夜でも人が多い。
東口の階段の上で、車を降りた。降りた先の歩道に、人が三十人ほど立っている。
立っている人は、下を見ていない。駅の方を見ている。地下で何が起きているかを、この人たちはまだ知らない。
知らないまま、傘の下で電車を待つ。待っている間、足元の格子から水の音が上がってきていた。誰も下を向かなかった。
階段の上に、人が立っていた。
傘を差している。黒い傘になる。骨が八本ある。差し方が正しい。傾けかたが、通る人に合わせて動いていた。
階段を上がってくる人が一人いた。傘を持っていない。
黒い傘が、その人の上へ動いた。動いてから、少しだけ低くなった。
「ご迷惑ですから」
声は低い。男とも女とも取れる高さになる。
傘に入った人は、頭を下げて通り過ぎる。通り過ぎた後、その人は振り返らなかった。
傘は、その場に残っている。
迅が階段の上で止まった。止まったのは一歩ぶんになる。
傘の下から、手が出た。白い手袋をしている。指が長い。
その手が、歩道のマンホールの縁を軽く撫でた。蓋は、もう外れている。外したのではない。撫でただけになる。
「ご迷惑ですから」
二度目は、迅に向けて言われた。
迅は答えない。答えずに、階段を下りた。
黒い傘は追ってこなかった。追わずに、その場で次の人を待っている。
一層は明るかった。店は閉まっていない。買い物をしている人がいる。二十一時までの店が、まだ十軒ほど開いていた。
放送が流れている。
「お客様にお知らせいたします。地下三層は、ただいま立入を止めております」
二層へ下りると、床が濡れていた。濡れているのは端からになる。
下りのエスカレーターは止まっていた。止まった段の下から、水が上がってきている。
階段の上に、戸沢が立っていた。三十くらいの男で、電話を耳に当てたままになる。
「消防です。上がってください」
「上がりました。ここが上です」
戸沢は二層の階段の三段目にいた。上がったつもりでいる。
寺尾がその腕を掴んで、一層へ押し上げた。押し上げてから、階段の上で振り返った。
「まあ待て。俺が支える。三段目は上じゃない。ここから上がらん」
二文で言って、戸沢を一層の柵の内側へ入れた。
三層へ下りる階段は、水の中にあった。膝の上まで来ている。
水は濁っていない。地下街の水は、雨のわりに澄む。澄んでいるので、階段の段が数えられる。数えられるということは、下がどれだけ深いかが分かるということになる。
十四段目まで数えて、そこから先が見えなくなった。
五人は下りた。下りた先の突き当たりに、防火シャッターがある。
高さ三メートル、幅六メートルの鉄の板になる。下端が床に着いている。着いた場所が、もう水の下になっていた。
内側から、叩く音がした。金属を金属で叩く音になる。一定の間隔で、続いている。
迅がシャッターを掌で叩いた。二度叩いた。
内側から、三度返ってきた。二度に三度で返すのは、決めごとではない。中の誰かが、そうした方が伝わると思ったことになる。
三度目が来るまでに、四秒あった。四秒の間、五人とも動かなかった。
「三人、いる」
迅がそう言って、シャッターの下端に指を掛けた。掛けた場所は、床との隙間になる。隙間は二センチほどある。
装甲の指を、そこへ入れた。入れた先の鉄が冷たい。水に浸かっているので、外側より冷える。
水面が持ち上がった。
シャッターの手前、五メートルほどの場所になる。持ち上がった水の中に、外れた蓋の錆と、排水管の内側の泥が混ざっている。
混ざったまま、三層の天井まで立った。天井は二百四十センチしかない。柱は、そこで潰れて横に広がった。
広がった先が、階段の下を塞いだ。
迅が左手首の蓋を跳ね上げた。五人が同じ動作をした。
「急報 ── 出場!」
> サイレン ── 起動。〈火群 迅〉。応答、確認。
> サイレン ── 起動。〈逢坂 澪〉〈灰谷 蒼汰〉〈寺尾 剛〉〈七尾 ひかり〉。応答、確認。
反射帯の光が足元から頭まで走った。装甲が下から順に組み上がる。五つの送話口が、同じ高さで止まった。
五人が同時に右手を上げた。耳の高さで止めて、掌を外へ向ける。受話器を取る形になる。
> 水を持ってく、火の現場 ─── サイレンレッド!
> 声を持ってく、知の現場 ─── サイレンブルー!
> 綱を持ってく、高の現場 ─── サイレンイエロー!
> 梁を持ってく、圧の現場 ─── サイレングリーン!
> 息を持ってく、生の現場 ─── サイレンピンク!
>
> 特別災害対策機構、第七支部 ──
> 呼ばれたら、鳴らして、行く!
> 急報戦隊、サイレンジャー!
天井が低いので、口上は上へ行かなかった。横へ走って、三層の端まで届いて、返ってきた。
返ってきた声が、シャッターの内側にも入った。内側の叩く音が、そこで一度、速くなった。
迅がブレスを柱へ向けた。
「トリアージ!」
> 判定 ── 赤。要救助者、内部に一名。生存反応、あり。危険。
盤面が赤くなった。
五人とも、その色を初めて見た。
誰も、すぐには何も言わなかった。
「赤って」
蒼汰が言った。声が一段低い。
澪が答えた。声の高さを変えていない。変えていないので、余計にはっきり聞こえた。
「撃てない。必殺は使えない。開けるだけになる」
「開けるって、どっちを」
「両方」
シャッターの内側に三人。柱の内側に一人。開ける先が二つある。
二つのうち、片方は鉄で、片方は水になる。鉄は力で開く。水は力では開かない。
五人とも、そこまでは一秒で分かった。分からないのは、どちらを先にするかになる。先にした方が助かって、後にした方が助からない場合がある。
迅は指をシャッターの隙間から抜かなかった。抜かずに、そのまま体重を掛けた。
「寺尾さん」
「分かった」
寺尾がハンマーを構えた。構えて、シャッターの下端の左右へ、鉄の柱を二本、斜めに打ち込む。
打ち込んだ柱が、シャッターを下から二センチ持ち上げた。隙間が、その倍まで広がる。
「まあ待て。俺が支える。一気に上げるな。上げた分だけ、水が入る」
二文で言って、柱の下に自分の肩を入れた。
迅は指を入れ替えた。広がった隙間へ、両手の指を全部入れる。
入れてから、引いた。
鉄が鳴った。鳴った音が、三層の端まで走った。走った先の壁で返って、また戻ってくる。戻ってきた音の方が、大きく聞こえた。
装甲の指の腹が裂けた。裂けた場所から、赤いものが出た。水に落ちて、すぐ見えなくなる。
迅は止めなかった。止めずに、もう一度引いた。
隙間が二十センチになった。
柱が背中から来た。
迅は振り返らない。振り返らずに、引き続けた。
当たる直前で、ひかりが間に入った。入って、両腕を上げた。
当たった。ひかりの体が横へ飛んで、水の中を三メートル滑る。
滑った先で、この人は立った。立ってから、七つ数えた。
「息、返すよ」
数えたのは自分の分になる。三年で、自分に向けて数えたのは数えるほどしかない。
蒼汰が索を投げた。柱の上、三分の一の高さへ。掛かってから、一度だけ引いた。
「上、任せろ。天井まで二百四十。真横に引きます」
引いた。引いた場所が裂けた。裂けた隙間から、手が一本出た。
女の手になる。指に軍手をしている。
ひかりが水を蹴って走った。走って、その手を掴んだ。掴んでから、七つ数えた。
「息、返すよ」
引き出した。出てきたのは四十くらいの女で、地下街の清掃の服を着ていた。目は開いている。何も言わない。
誰も、この人が何故そこにいたのかを訊かなかった。訊く言葉を、六人はまだ持っていない。
ひかりは女を階段の途中まで運んで、そこへ座らせた。座らせてから、上着を脱いで肩へ掛けた。水に浸かった人は、上がってからの方が冷える。
シャッターの隙間は、五十センチになっていた。
中から、人が出はじめた。這って出る。一人目は五十くらいの男。二人目は二十くらいの女。三人目は六十を越えた男になる。
出る順は、三人が中で決めていた。決め方を、六人は聞いていない。聞かないまま、出てきた順に受け取った。
三人目が出る時に、迅の指が滑った。
滑った分だけ、シャッターが五センチ下りた。下りた先に、三人目の背中がある。
寺尾が肩を入れ直した。入れ直した分だけ、五センチが戻った。
三人目が出た。出た後で、シャッターは自分の重さで床まで落ちた。
落ちた音が、三層の水を一度だけ揺らした。揺れた水の面に、天井の非常灯が映って、割れて、また揃った。
澪が柱の反対側でソナーを構えた。撃つ前に必ず人数を言う。
「八名。三層に八。柱の中は零。撃てる」
撃った。低い音が、柱の真ん中を通った。通った場所だけ、水が止まる。
止まった場所へ、迅が入った。斧は右手一丁になる。左手は、握れていない。
技の名は呼ばなかった。呼ぶ形にならない。片手では、あの構えが取れない。
振った。刃が柱の腹へ横から入って、水の面と同じ高さで抜けた。
割れた場所から、外れた蓋の錆が、水の上へ広がった。
柱は割れたまま、階段の下から上へ抜けた。抜けた先が、一層になる。
*
地上へ出た人が、最初に見たのは水だった。
東口の階段から、水が横向きに出てきた。出てきた水が、そのまま歩道の上で立ち上がる。
立ち上がった高さが、駅前の街路樹を越えた。越えてから、まだ伸びた。
階段の上に、黒い傘が残っていた。
迅はそこへ出た。出てから、傘の前で止まった。
白い手袋の手が、傘の柄を持ち替えた。持ち替えただけで、何もしていない。
「ご迷惑ですから」
三度目になる。言い方は、一度目と同じ高さだった。
迅は斧を上げた。上げた腕が、いつもより低い位置から始まった。
低いのは、左手が使えないからになる。片手で振ると、腕は下から出る。下から出る分だけ、届くまでが遅い。
遅い方が、当たらない。当たらないと分かっている距離だった。
振った。
届いた。
傘の縁が、三十センチほど切れた。切れた場所から、雨が中へ入った。
黒い傘の下で、白い手袋が動いた。動いて、切れた縁を指で摘まんだ。摘まんで、そこを見た。
何も言わなかった。三度目のあと、この声は何も言わない。
傘が閉じた。閉じてから、雨の中を歩いていった。
歩き方が速くない。逃げていない。逃げる必要が無い側の歩き方になる。
三十人ほどが、その背中の前を通り過ぎた。誰も避けなかった。避ける理由が無い。傘を差してくれる人の顔を、この街の誰も覚えていない。
迅は追わなかった。追えなかったのではない。追う前に、階段から人が上がってきたからになる。
最初に上がってきたのは、清掃の服の女だった。ひかりが背中を支えている。
二人目、三人目、四人目が続いた。シャッターの中にいた三人になる。
六十を越えた男が、階段の上で振り返った。振り返って、下を見た。
下は、もう水しか見えない。
「あんた」
男が迅を呼んだ。迅は振り向いた。
「叩いてたの、聞こえてたか」
「聞こえた」
「そうか」
男はそれだけ言って、頷いた。頷いてから、両手で顔を拭いた。雨で濡れているのか、そうでないのかは分からない。
「ありがとう」
迅は答えなかった。頷きもしない。頷く形が、まだ体に戻っていなかった。
左手は、上着の袖の中で握れていない。握れていないことに、この人はまだ気付いていない。
礼を言われる回と、言われない回がある。この日は、言われた回になった。
答えずに、階段の下をもう一度見た。
見た先で、水がまだ上がってきている。上がる速さは、地下にいた時より速い。塞いでいた柱が、抜けたからになる。
地下三層で宮ヶ瀬が盤を叩いた。
「駅前です。地下のある場所には立てません」
五機が駅前の道から入ってきた。サイレンクレーンが東口の手前でアウトリガーを張る。四本目が、半拍遅れて張られた。
サイレンメディックが西口へ回り、後扉を開けたまま待っている。サイレンウイングが雨の中を低く抜けた。
抜けた風で、水の柱の表面が一度だけ乱れた。
「五機、連結!」
「特災合体 ── サイレンオー!」
サイレンオーが立った。
東口の階段の上から見上げた戸沢には、脚と、胴の下半分が見えた。清掃の服の女には、左手だけが見えた。
その左手は、開いていない。握ったままになる。
水の柱が、駅の東側へ動いた。動いた先に、排水路の入口がある。九月の頭に点検が済んでいる入口になる。
迅の声が回線に入った。
「撃たない」
誰も何も言わなかった。
サイレンオーは右腕を上げない。上げずに、左腕を排水路の蓋へ差し込んだ。
握ったままの左手が、蓋の縁に掛かる。掛かった指は、四本とも入らない。三本だけになる。
三本で、引いた。
鉄と石の擦れる音が、駅前の広場まで届く。届いた先で、二百人が同じ方を向いた。
蓋が開いた。開いた先から、水の音が下へ落ちていく。
水の柱が、そちらへ傾いた。傾いてから、崩れた。
崩れた水が、排水路へ落ちていく。落ちながら、体を保てなくなった。
最後に残ったのは、外れた蓋の錆になる。錆は水に浮いて、そのまま流れていった。
駅前の広場に、二百人ほどが立っていた。傘を差している人と、差していない人がいる。
誰も拍手をしなかった。この街は、まだ拍手の仕方を知らない。
二十一時二分に、地下街三層の水位が下がりはじめた。
下がりはじめたのは、外れた蓋を戻したからではない。蓋は戻していない。戻す前に、排水路が開いたからになる。
三層は、その夜のうちに閉鎖された。ポンプが二基とも水に浸かっている。動くようになるまで、三週間掛かる。
閉鎖の掲示は、翌朝に一層の階段の脇へ貼られた。紙は一枚で、理由は書かれていない。書かれているのは、いつまで使えないかだけになる。
貼られた紙の前で足を止める人は、朝のうちは多い。昼を過ぎると、誰も止まらなくなる。三日目には、掲示があること自体を通行人が忘れる。
三週間、駅の東側の駐車場は使えない。使えない分だけ、地上の道が混む。混んだ道は、救急車の通りも遅くする。
この街から、地下に一つ、使える場所が減った。減った分は戻る。三週間で戻る。それでも、戻るまでの三週間は数えられている。
混むことを、この夜の誰も知らない。
ひかりが迅の左手を取った。取ってから、装甲の指を一本ずつ外した。
指の腹が、四本とも裂けている。爪の脇まで来ているのが二本になる。
「痛みが出たら、出たと言ってもらえますか」
「いや」
「痛いです。これは痛いので、痛いと言ってもらえますか」
迅は何も言わなかった。ひかりは洗って、当てて、巻いた。巻いた端を二度折り返して止める。
「三日で塞がります。跡は残ります」
「分かった」
迅はその手で、また靴の紐を結び直した。巻いた布の分だけ、指が太い。結ぶのに、いつもの倍かかった。
結び直してから、階段の上を見た。
黒い傘のいた場所には、切れた布が三十センチぶん落ちていた。
澪がそれを拾った。拾ってから、袋へ入れた。
入れた袋を、この人は宮ヶ瀬へ渡さなかった。自分の机の引き出しへ入れた。
渡せば調べてもらえる。調べれば、布の織り方くらいは分かる。分かったところで、次に降ってくる雨は止まらない。
澪は引き出しを閉めた。閉めてから、その上に手を置いて、五秒ほどそのままにした。
五秒というのは、この人が何かを決めるのに使う長さになる。決めた内容は、口に出さない。出さないので、誰も知らない。
*
支部へ戻ったのは、二十二時を回ってからになる。
速水が地下三層で、五機の下へ受け皿を並べていた。五機とも水を持って帰っている。
「五台とも下から落ちてます。床が濡れるので、朝までこのままにします」
佐波がサイレンファイヤーの下へ潜って、泥の量を見ていた。見てから、出てきた。
「泥が上まで来てます。膝より上です。全部の機体で同じ高さです」
宮ヶ瀬が工具を置いた。置いてから、一言だけ足した。
「水の中で握れる手を、まだ作れていません」
毎回、作れなかったものを一つ言う。三年、欠かしたことが無い。
戸倉と梅木は、この夜は上がっていた。翌朝から五機の泥を落とすことになる。落とす順は、下から上と決めてある。
速水が佐波に言った。
「レッド、シャッターに指を入れたまま二回引いたそうです。二十センチと、五十センチ」
「本人に言ってやったらどうだ」
「言いません。二十センチのところを訊かれるので」
澪は受信席の裏で、尾花の用紙を見ていた。
背後の音の欄に、水、金属、放送、と書いてある。三語目に放送と書いたのは、この日が初めてになる。
澪は自分の地図に付箋を一枚貼った。中央駅前二丁目、東口。これで八枚目になる。
付箋には何も書いていない。
貼ってから、引き出しを開けた。切れた布の袋が入っている。
閉めた。
三階の食堂で、寺尾が汁を温め直した。豆腐は形を保っている。
寺尾は、迅の椀だけ箸を短いものに替えていた。替えたことを言わない。迅も何も言わずに使う。
六人は、食べ終わらなかった。二階の受信席で、電話が鳴った。
> 【第七支部 出場記録】
> 臨場 ── 十九時四十七分。所要 ── 八十一分。
> 保留 ── 一件。最長 ── 一分五十四秒。
> 未着 累計 ── 零。
> 判定 ── 赤。必殺、不使用。
> 損壊 ── 中央駅前二丁目 地下街三層 全域 冠水。排水ポンプ 二基 水没。復旧まで三週間。
> 同 歩道 人孔蓋 一枚 亡失。
> 救助 ── 四名。搬送 ── 一名。氏名 ── 不詳。
> 傷病 ── 隊員 一名。左手 裂傷。
> 本件、処理 ── 完了。
> ── 入電。




