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急報戦隊サイレンジャー ~呼ばれたら、行く。呼べないなら、見つけに行く~  作者: 智珠
第二巻

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第021話 うちの子が

> 【第七支部 覚知記録】

> 覚知 ── 八月三十日 十六時四十一分。

> 入電 ── 携帯電話。発信地 ── 川沿い 二丁目。

> 第一声 ──「うちの子が」

> 出場 ── 第七支部 全隊。


「うちの子が」


 尾花律子は用紙を引き寄せた。時刻を分まで書く。秒は書かない。第一声を、聞こえたとおりに書く。


「はい、鳴瀬市消防指令センターです。今何処におられるか教えてください」


「川です。鳴瀬川の、川沿いの二丁目のところです。橋の、下流の」

「橋の名前が見えるかどうか教えてください」

「見えます。相生橋って書いてあります」

「お名前と、その子との関係を教えてください」

「森田です。母親です」


 尾花は書いた。鳴瀬川、相生橋の下流、通報者は母親。三語で足りる。


「その子が今何処にいるか、見えるかどうか教えてください」

「見えます。真ん中の、砂の出てるところに。二人います」

「お二人の年と、名前を教えてください」

「うちのが四年生で、拓です。もう一人は隣の、二年生の子で、みなとちゃん」


 尾花は用紙の右へ二つ書いた。四年、二年。人数は先に書く欄がある。


「森田さん。今、上流のサイレンが鳴っているかどうか教えてください」

「……鳴ってます。さっきから鳴ってます」

「水の高さが上がってきているかどうか教えてください」

「上がってます。さっきまで足首だったのが、もう膝です」


 尾花は欄を一つ飛ばした。あとで埋める欄になる。


「森田さん。ご自分は水に入らないでください。絶対に入らないでください」

「でも、あの子が」

「入ると二人が三人になります。入らないでください」

「……入りません」


 言い終わるまでに、三秒掛かった。三秒は長い。


「森田さん。お二人に、その場から動かないで、一番高いところに立つように大きい声で伝えてください」

「伝えます」

「伝えたら、通話をこのまま繋いでおいてください。切らないでください」

「切りません」


 尾花は左手で当直へ回した。回してから、右手の受話器を持ち替えた。持ち替えても、耳から離さない。


 用紙の下の欄に、背後の音を書いた。サイレン、水、母親の声。三語になる。


 背後の音の欄に、サイレンと書いたのは三年で初めてになる。この欄に書くのは、たいてい鳴っていない音の方だった。


 鳴っているのに届かない音がある。鳴っている場所と、聞いている場所が離れているからではない。聞こえていて、それが何かを知らなければ、鳴っていないのと同じになる。


 尾花はそこまでを考えない。考えずに、次の欄へ手を動かした。


*


 十六時四十一分の三階は、屋上へ出る扉が開けてあった。


 夏の終わりの風が、階段の踊り場を抜けて食堂まで来る。来る風の中に、川の匂いが混ざっていた。


 屋上では、灰谷蒼汰が佐波悠に索の結びを教えていた。


「形は覚えなくていいです。引くのを覚えてください」


 佐波は結んだ。結んでから、引かなかった。


「引いてください。一回でいいです。三十センチだけ引いて、動かなければ通ります」


 佐波が引いた。結び目が二センチ滑った。


「もう一回です。二センチは、十メートル上がると二十センチになります」


 蒼汰は自分の分も結び直した。三回続けて結び直している。誰も何とも言わない。


 この人は山にいた頃から、三回までは自分に許している。四回目になると手を止めて、別の結びに変える。四回目を出したのは、三年で二度しかない。


 佐波は四本目を結んだ。結んで、引いた。動かなかった。


「通ります。今の、覚えておいてください」


「はい」


 三階の食堂では、寺尾剛が飯の支度をしていた。この日は寺尾の班になる。


 鍋に汁が張ってある。武藤とうふ店の豆腐が、朝と同じ時刻に届いていた。届いた豆腐は、いつも四丁になる。


「班長、今日は何丁ですか」

「四丁だ。切るのは出てから帰ってからにする。切っておくと角が崩れる」


 二文で言って、鍋の火を細くした。細くしてから、蓋を半分だけずらした。


 七尾ひかりは、副木と冷やす袋の数を数え終えていた。数え終えてから、子ども用の毛布の枚数を見ている。


 子ども用は三枚しかない。夏の間に一枚、返ってこなかった。返ってこない毛布は、たいてい家の押入れに入っている。取りに行かない。取りに行くと、その家の話になる。


 火群迅は非常階段の一番下にいた。立ったまま、靴の紐を結び直している。


 右の掌の切り傷に、この日はようやく絆創膏が貼ってあった。貼ったのはひかりで、迅は貼られるまで気付いていない。


 逢坂澪は受信席の斜め後ろに立っていた。手にはコーヒーがある。砂糖も牛乳も入っていない。


 立ったまま、尾花の背中を見ていた。尾花の背中は、通話が長い時だけ前に出る。


 この日は、いつもより早く前に出た。


*


 分析に入ると、澪は喋らない。


 左手で右耳を塞ぐ。盤面に鳴瀬川の中流が出る。相生橋から下流へ四百メートル、砂の出ている場所が一つある。


 中洲になる。夏の間だけ出る。水が引いた分の砂が溜まって、幅は十五メートルほどある。


 上流の堰は十六時二十分に放流を始めていた。予告の警報は十六時十分から鳴っている。


 鳴り始めから、三十分が経っている。


 水位は毎分二センチずつ上がっていた。中洲の一番高いところまで、あと三十八センチになる。


 三十八を二で割ると十九になる。割り算が答えになる現場は、そう多くない。この日はそうだった。


 澪は水位の線を一本引いた。引いた線が、十九分後に中洲を消す。


「アンサー」


> ── はい。


「川沿い二丁目、相生橋下流。中洲までの最短の渡り、岸から何メートル」


> ── 十九メートルです。ただし、水面下の地形は分かりません。


「分からない理由は」


> ── 昨日の測量がありません。砂は毎日動きます。


 アンサーは返事の前に一度、上を向いた。頭の受話器の形が、天井を向いてから戻る。


 澪は盤面の中洲を残して、あとを消した。消してから、橋の上の欄干を一つ拡大した。


 欄干の高さは一メートル十センチになる。そこから索を張れば、水に入らずに届く。


 澪は左手を下ろした。


「座標、出た」


 五人が動いた。下ろした瞬間に動く。この人の手が下りるまで、誰も一歩も出ない。


「川沿い二丁目、相生橋の下流四百メートル、右岸の階段を降りて草の切れているところ、その正面の中洲」


 迅は最後まで聞いていない。「相生橋の下流」で走り出している。澪は最後まで言い終えた。


 久遠寺修司が受信席の後ろで立ち上がった。


「時間は」

「十九分です。回線は五本、空いています」


「第七支部 ── 出場!」


*


 ポールは二本ある。迅が一番に握った。掌が焼ける。焼けるのを毎回やる。


 一階で装備を背負い、階段で地下三層へ下りる。この日は救命胴衣を五つ、余分に積んだ。積んだのは佐波になる。


 地下三層の扉が上がった。


「三層、開放!」


 宮ヶ瀬佳代が盤の前に立っていた。上流の放流の記録を、盤の隅に出したままにしてある。


「一号から五号、出場!」


 サイレンファイヤーの水槽は、この日は八分目にしてある。川の近くでは満載にしない。


 外へ出ると、川の方の空が低かった。上流に雨が降っている。ここには降っていない。


 降っていない場所の水が増えるのは、そういう理屈になる。晴れている川で人が流されるのは、たいていこの理屈になる。


 鳴瀬川は市の東を縦に抜けている。上流に堰が二つ、下流に堰が一つある。夏は水が少ない。少ない夏ほど、砂が出る。砂が出れば、子どもは渡る。


 迅は車を出す時に、一度だけ口を開いた。


「行くぞ。先に着く」


 それから現場まで、一度も喋らなかった。


 右岸の階段の下に、森田が立っていた。裸足になっている。靴は草の上に揃えて置いてあった。


 揃えて置いたということは、一度、入ろうとしたということになる。


 入らなかった。入らなかったまま、電話を握って立っている。握っている手の指の関節が白い。


 白いということは、力が入り続けているということになる。この人は三十分、その力を抜いていない。


 ひかりが先に行った。行って、森田の隣に立った。並んで、同じ方を向いた。


「森田さん。靴を履いてもらえますか。ここから先は、私たちが行くので」


 森田は靴を履いた。履く間、中洲から目を離さなかった。


 中洲には、二人いた。四年生の男の子が、二年生の女の子の手を握って、砂の一番高いところに立っている。握っているのは左手で、右手は空いている。


 空いている右手を、この子はまだ何にも使っていない。


 水は女の子の膝の上まで来ていた。男の子の膝の下になる。


「拓ーッ」


 森田が叫んだ。声が川の上を渡っていった。


 渡った先で、男の子が手を上げた。上げた手が、少し震えていた。


 蒼汰が橋の欄干を見た。見てから、階段を三段飛ばしで上がった。


「上、任せろ。欄干から二十六メートル」


 一本目を投げた。中洲の流木に掛かった。掛かってから、一度だけ引いた。


 二センチ滑った。


 蒼汰は索を手繰り戻した。戻してから、投げ直した。この人は投げたら必ず回収する。その一動作を省かない。


 二本目は、中洲の反対側の杭に掛かった。引いても滑らなかった。


「通ります。二本目、通りました」


 寺尾が右岸の階段の下へハンマーを打った。階段の脇のコンクリートへ、鉄の柱を斜めに一本入れる。


「まあ待て。俺が支える。この索の下は俺が持つ」


 二文で言って、柱に索の端を巻いた。巻いてから、自分の腰にも回した。


 迅が索を渡った。渡る前に、救命胴衣を二つ、背中に括った。


 渡っている間、水は迅の腿まで来ていた。腿の高さで、水は押してくる。押されると、体は下流へ回る。


 迅は回らなかった。回らないように、索を掴む手を一度も持ち替えない。持ち替えると、その一瞬で押される。


 水は冷たくない。上流から来た水は、この時期、風呂の残り湯くらいの温度になる。冷たくないので、体力の減り方が分からない。分からないまま減る。


 中洲に着いた。着いてから、女の子に先に胴衣を着せた。着せてから、男の子に着せた。


 迅は二人の顔を順に見た。


「大丈夫か」


「うん。あのさ。さっきから鳴ってる音、あれ何の音?」


 拓が袖を掴んでいる。掴んだまま、答えを待っている。


 答えは返らなかった。返らないまま、二人は索へ移された。


*


 水面が盛り上がった。


 中洲の下流側、十メートルほどのところになる。盛り上がった水が、そのまま立った。


 立った水の中に、流木と、砂と、上流から流れてきた枝が混ざっている。混ざったまま、川幅の三分の一を塞いだ。


 塞がれた分、水が中洲の側へ寄った。中洲の砂が、下から削られていく。削られた砂は下流へ運ばれて、また別の場所で溜まる。夏の川は、そうやって形を変える。


 迅が左手首の蓋を跳ね上げた。五人が同じ動作をした。


「急報 ── 出場!」


> サイレン ── 起動。〈火群 迅〉。応答、確認。

> サイレン ── 起動。〈逢坂 澪〉〈灰谷 蒼汰〉〈寺尾 剛〉〈七尾 ひかり〉。応答、確認。


 反射帯の光が足元から頭まで走った。装甲が下から順に組み上がる。五つの送話口が、同じ高さで止まった。


 五人が同時に右手を上げた。耳の高さで止めて、掌を外へ向ける。受話器を取る形になる。


> 水を持ってく、火の現場 ─── サイレンレッド!

> 声を持ってく、知の現場 ─── サイレンブルー!

> 綱を持ってく、高の現場 ─── サイレンイエロー!

> 梁を持ってく、圧の現場 ─── サイレングリーン!

> 息を持ってく、生の現場 ─── サイレンピンク!

>

> 特別災害対策機構、第七支部 ──

> 呼ばれたら、鳴らして、行く!

> 急報戦隊、サイレンジャー!


 声が水面を渡って、対岸の堤防に当たって返ってきた。返ってきた分だけ、二重に聞こえた。


 迅がブレスを塞いだ水へ向けた。


「トリアージ!」


> 判定 ── 黄。要救助者、内部に一名。生存反応、あり。待機可能。


 盤面が黄色になった。


 五人とも、その色を初めて見た。


「一名」


 蒼汰が言った。言ってから、索を握る手に力が入った。


 迅は盤面の隅を見た。回線は二本しか空いていない。五人が変身して、合体の分が一本要る。


 空きが二本あるということは、この最中に街の誰かが呼んでも、二人までなら繋がるという意味になる。


 澪が答えた。声の高さを変えていない。


「黄は待てる。中の人を先に出して、それから撃つ。順番を飛ばさない」


 迅は前に出た。出た足首まで水に入って、そこで止まった。


「何処にいる。深さは」


「上から三分の一。動いていない。呼吸はある」


 寺尾がハンマーを持ち替えた。持ち替えて、水の柱の根元へ回り込む。


「入れる場所を作る。二分もらう」


 二文で言って、川底の礫へ鉄の柱を一本打った。打った柱に体を預けて、水の押しを受け止める。


 受け止めた分だけ、柱の周りの流れが遅くなった。


 蒼汰が索を投げた。水の柱の上、三分の一の高さへ。


「上、任せろ。索は一本残ってる」


 掛かった。掛かった索を、寺尾が下から引いた。


 引いた場所が裂けた。裂けた隙間から、腕が一本出た。


 男の腕になる。三十代くらいの、日に焼けた腕だった。


 ひかりが入った。入って、腕を掴んだ。掴んでから、七つ数えた。


「息、返すよ」


 引き出した。男は目を開けていた。開けたまま、何も言わなかった。


 ひかりは男を岸へ渡した。渡してから、脈を見て、水を吐かせる姿勢に横向きにした。


「意識あります。呼吸あります。搬送させてください」


 誰も、この人が何故そこにいたのかを訊かなかった。訊く言葉を、六人はまだ持っていない。


 男は担架の上で一度だけ口を動かした。音は出ていない。ひかりは耳を近づけた。近づけても、何も入ってこなかった。


 訊く前に、水の柱が動いた。


 澪がソナーを構えた。撃つ前に必ず人数を言う。


「零名。中に人はいない。撃てる」


 撃った。低い音が、水の柱の真ん中を通った。通った場所だけ、流れが止まる。


 止まった場所へ、迅が斧を持って入った。この日、二丁とも抜いている。


「サイレンアックス ── 急救斬ッ!」


 斧が水の柱を、下から上へ割る。割れた場所から、流木が三本、下流へ抜けていく。抜けた流木の一本が、相生橋の三番の脚に当たって止まった。


 柱が細くなった。細くなってから、川の底へ沈む。沈んだ跡の水面が、二秒だけ平らになった。


 沈んだ場所から、また上がってきた。上がってきた時には、堤防より高くなっていた。高くなった水の面が、相生橋の欄干と同じ高さで止まっている。


 地下三層で宮ヶ瀬が盤を叩いた。


「河川敷は地盤が緩い。板を噛ませてから張ってください」


 五機が堤防の上へ並んだ。サイレンレスキューの右腕の黒い跡は、水に浸かっても落ちない。サイレンクレーンは、アウトリガーの下に板を四枚敷いてから張った。


 サイレンメディックが堤防の上で止まり、後扉を開けたまま待っている。サイレンウイングが川の上を一度、低く抜けた。


 抜けた風で、水面の泡が横へ流れた。


「五機、連結!」


「特災合体 ── サイレンオー!」


 サイレンオーが立った。


 堤防の上から見上げた森田には、胸から下しか見えなかった。二人の子どもは、その脚だけを見ていた。


 相生橋の上で自転車を止めた人には、左手だけが見えた。


 その左手は、開いていない。握ったままになる。


 水の柱が橋の脚に絡んだ。絡んだ脚が、上流側へ十センチ動いた。


 サイレンオーが左腕を橋の下へ入れた。握ったままの左手が、橋桁の腹を持ち上げる。


 橋が止まった。止まった分だけ、水の柱が橋から剥がれた。


 寺尾の声が回線に入った。


「剥がれた。今なら下流側は空だ」


 迅が言った。


「今だ」


 右腕の放水砲が開いた。


「サイレンオー ── 全消斬ッ!」


 水が出た。斬るのではなく、押す形で出る。


 押された水の柱が、下流へ運ばれていく。運ばれた先で、体が保てなくなる。


 保てなくなった柱は、川に戻った。戻った水は、そのまま海へ向かう。海までは十一キロある。


 橋の上の人が、下を見た。下では、堤防の上に三十人ほどが並んで、同じ方を向いている。


 誰も拍手をしなかった。この街は、まだ拍手の仕方を知らない。


*


 十七時二十六分に、上流の放流が止まった。


 水位は四十分かけて元へ戻る。中洲は、明日の朝にはまた出ている。出ている限り、子どもは渡る。


 渡らせない方法は一つしかない。何の音かを知らせることになる。知らせる仕事は、六人の仕事ではない。


 森田は二人の子どもを堤防の上に座らせて、毛布を掛けていた。掛けたのはひかりの子ども用の毛布で、三枚のうち二枚になる。


 二年生の女の子が、毛布の下から右手を出した。


 出した手を、耳の高さまで上げた。掌を外へ向ける。


 誰も教えていない。堤防に並んだ三十人のうち、その形を作ったのは一人だけだった。


 毛布の端から、拓が口を尖らせているのが見えた。まだ答えを待っている。


 迅は膝を折った。折って、目の高さを合わせた。


「上流の水を流す音だ」


「え、あれ、水の音なの」


「鳴ったら川から上がる」


「知らなかった」


 迅は立ち上がった。立ち上がる前に、一つだけ足した。


「今日、よく待った」


「あのさ。おれ、もう一回鳴ったら上がるから」


 迅は振り返らない。振り返らずに、右手を一度だけ上げた。上げた高さは、耳より少し上になる。


 下りた先で、澪が水位の記録を見ていた。


 澪は迅の方を見ずに言った。


「あの音は、三年前から同じ時刻に、同じ長さで鳴っている。知らない子は、あの二人だけではない」


 迅は答えなかった。答えずに、川の上流を見た。上流には、まだ雨の降っている空がある。ここからは、降っているようには見えない。


 支部へ戻ると、佐波が救命胴衣を五つ、干していた。


 干しながら、蒼汰の結び目を一つ、ほどいて結び直している。ほどいてから、三十センチ引いた。


 動かなかった。


「班長。灰谷さんの結び方、投げる前に必ず一回、足元を見てからです。三年、順番が変わってません」


 寺尾は薬缶を火に掛けた。掛けてから答えた。


「本人に言ってやってくれ」


「言いません。照れるので」


 須永が中継塔の記録を持ってきた。川沿いは中継が届く。届かないのは山側になる。この人は数字を持ってくるだけで、意味を付けない。


「川沿い、減衰ゼロでした。山側は、今日も一箇所落ちてます」


 誰もそれに返事をしなかった。


 宮ヶ瀬が工具を置いた。置いてから、一言だけ足した。


「中洲まで届く声を、まだ作れていません」


 言ってから、もう一度口を開いた。


「二十六メートル先で、意味の分かるものが要ります」


 毎回、作れなかったものを一つ言う。三年、欠かしたことが無い。


 三階の食堂で、寺尾が豆腐を切った。四丁を六人分に切ると、一人あたりが半端になる。


 半端な分は、いつも寺尾の椀に入る。誰も、そこを見ていない。見ていないので、この人は三年、同じことを続けられている。


 食べ終わらなかった。二階の受信席で、電話が鳴った。


> 【第七支部 出場記録】

> 臨場 ── 十六時五十二分。所要 ── 四十七分。

> 保留 ── なし。

> 未着 累計 ── 零。

> 損壊 ── 川沿い二丁目 相生橋 橋脚 三番 沈下 十センチ。右岸階段 手すり 一本。

> 救助 ── 三名。搬送 ── 一名。氏名 ── 不詳。

> 本件、処理 ── 完了。

> ── 入電。

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