第020話 何でもないの
> 【第七支部 覚知記録】
> 覚知 ── 八月二十六日 十七時三分。
> 入電 ── 固定電話。発信地 ── 丘の上 三丁目。
> 第一声 ──「何でもないの」
> 出場 ── 第七支部 全隊。
「何でもないの」
尾花律子は用紙を引き寄せた。時刻を分まで書く。秒は書かない。第一声を、聞こえたとおりに書く。
「はい、鳴瀬市消防指令センターです。今何処におられるか教えてください」
「あの、何でもないんです。間違えました。すみません」
「切らずに、まず今何処におられるか、それだけ先に教えてください」
「……丘の上の三丁目です。うちの、玄関の前の石段のところ」
尾花は書いた。丘の上三丁目、戸建、石段。三語で足りる。
「お名前と、今どういう姿勢でおられるか教えてください」
「藤木といいます。座ってます。石段に座ってます」
「藤木さん。ご自分で立てるかどうか、無理をしないで教えてください」
「立てます。立てると思います。ちょっと待ってくださいね」
通話の向こうで、布の擦れる音がした。それが途中で止まった。止まってから、息の音だけが続いた。
「藤木さん。立たないでください。そのまま石段に座ったままでいてください」
「大丈夫です。何でもないの」
「藤木さん。今、どこが痛むか教えてください」
間があった。間の長さは、四秒になる。
「……手首です。左の」
「その手を動かさないでください。右手だけで、体を起こさないでください」
「起こしません」
尾花は欄を一つ飛ばした。あとで埋める欄になる。飛ばした欄の数を、この人は毎日勘定している。
「藤木さん。近くにどなたかおられるか教えてください」
「いません。上の家の梶本さんはいると思うけど」
「その梶本さんに、声を掛けられそうかどうか教えてください」
「呼びません。何でもないので」
尾花はそこを書かなかった。書く欄が無い。
用紙の下の欄に、背後の音を書いた。雨だれ、車、蝉。三語になる。
夕立が二十分前に上がっている。丘の上の石段は、上がったあとが一番滑る。
「藤木さん。このまま通話を繋いでおいてください。切らないでください」
「切りません」
尾花は左手で当直へ回した。回してから、右手の受話器を持ち替えた。持ち替えても、耳から離さない。
*
十七時三分の整備場は、天井の扇が三台とも回っていた。回っていても、床は乾いていない。夕立の湿気が、地下二層まで下りてきている。
その中で、サイレンウイングの羽が、四分の三ではなく、全部開いていた。前の出場から二日目になる。二日と言われた期限より、半日早い。
梅木が脚立の上で、羽の根の当たりを見ていた。当たりというのは、部品と部品が触れて出来る跡になる。跡が均一に出れば、荷重が正しく回っている。梅木は跡を指の腹でなぞって、途中で止めて、また端まで戻した。三度やってから、下へ声を落とした。
「宮ヶ瀬さん。当たり、出ました」
「出ました。二日かかると言いましたが、一日半で済みました。全開を掛けても構いません」
宮ヶ瀬佳代は逆から言わない日がある。この日がそうだった。滅多にない。
滅多にないので、梅木は脚立の上で一度、手を止めた。止めてから、何も言わずに工具を持ち替えた。この人は褒められた時の返し方を知らない。
戸倉が、二日ぶりに乾いた索を四本、抱えて三階へ上がってきた。索は湾岸の霧の日に置いていったものになる。誰も頼んでいない。
「三本目まで戻りました。四本目は伸びたままです」
灰谷蒼汰が三本を受け取った。受け取って、一本ずつ結び目を作り、一度だけ引いた。
「三本で足ります。二十メートル取れます」
七尾ひかりは、資器材の秋の並びを終えていた。終えてから、冷やす用の袋の数を数え直している。夏の間に減った数を、この人は月の終わりに必ず合わせる。合わせた数が足りない月は、足りない理由まで書く。
副木の板も並べ直していた。夏は使う数が少ない。秋から冬にかけて増える。段の上の方へ移してある。
寺尾剛は、飯の支度をしていなかった。この日は当直の交代日で、飯は次の班が作る。
支度をしていない寺尾は、代わりに椅子を直していた。三階の食堂の椅子は、脚の一本が短い。
「まあ待て。俺が支える。この脚は削るんじゃない、下に噛ませるんだ」
二文で言って、木の切れ端を一枚、脚の下へ差し込んだ。
火群迅は非常階段の一番下にいた。立ったまま、靴の紐を結び直している。
右の掌に、細い切り傷が一本ある。前の出場で鉄を叩いた時のものになる。この人はまだ気付いていない。気付いていないので、手当てもしていない。紐を締める時にだけ、その線の上を親指が通る。
逢坂澪は、受信席の斜め後ろに立っていた。
立ったまま、尾花の背中を見ていた。尾花の背中は、通話が長い時だけ前に出る。
速水が地図を出した。丘の上の三丁目ではなく、四丁目を出していた。
「すみません、一本ずれてました」
澪は何も言わずに、自分で三丁目へ切り替えた。切り替えてから、左手を右耳へ当てた。
*
分析に入ると、澪は喋らない。
盤面に、丘の上三丁目の地形が出ている。坂の道が三本、石段が七つ。石段は道と道を繋いでいる。
夕立の量は、市の観測で二十二ミリになる。二十分で二十二ミリは多い。多いが、坂が持たない量ではない。丘の上の側溝は、五十年前に作られた時から、この倍を流す形で切ってある。
持たないものが一つあった。丘の上の給水塔の、溢れ水を落とす管になる。塔は満水になると、余った分を管から下へ落とす。落とした先が側溝であれば、水は道へ出ない。
管の先は側溝に入っている。入っているはずのものが、盤面では側溝の外へ出ていた。
外へ出た水が、石段の七つ目を、上から下まで洗っている。
「アンサー」
> ── はい。
「丘の上三丁目、給水塔の溢れ水。管の位置、三年分の記録と今を並べたい」
> ── 出します。……三年前と今で、管の先が四十センチ動いています。
「動いた理由は」
> ── わかりません。工事の記録はありません。
アンサーは返事の前に一度、上を向いた。頭の受話器の形が、天井を向いてから戻る。
澪は盤面の給水塔を消した。消してから、石段の七つ目だけを残した。
残した一枚に、水の落ちる筋が三本出ている。三本のうち二本は側溝へ入る。一本だけが入らない。
入らない一本が、七つ目の石段を洗い続けていた。三年、誰もそれを見ていない。見えるのは、雨の降った日の二十分だけになる。
澪は左手を下ろした。
「座標、出た」
五人が動いた。下ろした瞬間に動く。この人の手が下りるまで、誰も一歩も出ない。
「丘の上三丁目、坂の中ほど、石段の七つ目、上から数えて四段目の踊り場、その脇の戸建」
迅は最後まで聞いていない。「石段の七つ目」で走り出している。澪は最後まで言い終えた。
久遠寺修司が受信席の後ろで立ち上がった。
「回線は」
「五本、空いています」
「第七支部 ── 出場!」
*
ポールは二本ある。迅が一番に握った。掌が焼ける。焼けるのを毎回やる。
一階で装備を背負い、階段で地下三層へ下りる。スロープの壁は、雨の後で濡れていた。
地下三層の扉が上がった。
「三層、開放!」
宮ヶ瀬佳代が盤の前に立っていた。この日は珍しく、徹夜の日数を言っていない。
「一号から五号、出場!」
サイレンファイヤーの水槽が満載で、車体の後ろが沈んでいる。サイレンレスキューの右腕の黒い跡は、雨に濡れても落ちない。
外へ出ると、空の西が割れていた。夕立の切れ目から、光が斜めに落ちている。
丘の上の坂は、車で上がれるのが二本目までになる。三本目から先は階段になる。
迅は二本目の坂の途中で降りた。降りて、走った。
坂の中ほどに、家が一軒ある。板塀の低い、古い造りになる。門の前に、割れた鉢と、折れた枝が落ちていた。夕立の風で落ちたものになる。
その門の内側に、人が立っていた。八十を越えた女の人になる。エプロンの前を握って、坂を見下ろしていた。
見下ろしている先は、石段の七つ目になる。そこに人が座っていることを、この人は知っている。知っていて、門から出ていない。
迅は走りながら、その人の前を通った。通り過ぎてから、二歩戻った。
「大丈夫ですか」
女の人は首を横に振らなかった。頷きもしなかった。
「何でもないの」
迅はそれ以上訊かなかった。訊かずに、門の前の折れた枝を、片手で拾って脇へ寄せた。寄せた枝の長さは、腕より少し長い。片手で足りる重さになる。
寄せてから、また走った。走り出す前に、一度だけ振り返っている。振り返って、何も言わずに向き直った。
寺尾が後から上がってきて、割れた鉢を門の内側へ入れた。入れてから、何も言わずに追い越した。土は零れたままにしてある。掃くと時間が掛かる。
誰も、この人の名前を訊いていない。訊く場面が、この日、一度も来なかった。
*
石段の七つ目は、上から水が流れていた。
流れているというより、薄く張っている。張った上に、苔が乗っている。
四段目の踊り場に、藤木ハルが座っていた。七十四歳になる。
左手を右手で抱えている。抱え方が、肘から先を体につけた形になっていた。
澪が先に着いた。着いて、しゃがんだ。
しゃがんでから、訊いた。
「藤木さん。丘の上三丁目、石段の四段目。名前と、転ぶ前に何をしていたか」
「藤木ハルです。植木鉢を、下ろそうとして」
「痛むところは左の手首。他に痛むところ」
「ないです」
「頭は打ったか、打っていないか」
「打ってません。尻からいきました」
「左手、指は動くか」
「動きます。動くけど、こう、ここが」
澪は順番を変えなかった。場所、名前、状況、痛むところ、頭、動くかどうか。
この順番は、隊員の訊き方ではない。
支部の二階で、速水がそれを聞いていた。回線は開いたままになっている。
速水は尾花の方を向いた。
「今の、指令の受け方の順番です。逢坂さん、一度も飛ばしませんでした」
尾花は用紙から目を上げなかった。
「本人に言ってあげてください」
「言いません。怒られるので」
石段では、ひかりが澪と入れ替わっていた。
「息、返すよ」
七つ数えた。数える長さを変えない。三年、一度も変えていない。
「藤木さん。左の腕、このまま動かさないでもらえますか」
「動かしません」
ひかりは副木を当てた。当てる前に、指の先を二本、軽く押した。
「爪の色が戻ります。血は通っています。このまま巻かせてください」
巻いた。手首の上と下で二箇所、押さえながら巻く。巻いた端を二度折り返して止めた。
骨は折れている。左の手首の、親指側の骨になる。
藤木は巻かれている間、一度も声を出さなかった。出さずに、坂の下を見ていた。
「あの人にね」
ひかりは手を止めなかった。止めずに聞いた。
「上の梶本さん。あの人、こういう時に呼ばないんですよ。私が言っても、何でもないのって」
ひかりは、その話に返事をしなかった。返事の代わりに、毛布の端を藤木の膝へ掛けた。掛けた毛布は夏用の薄いものになる。夏でも、痛みの出た人は体が冷える。
石段の一番上で、水の音が変わった。落ちる音から、擦れる音になる。変わった場所から、水が立ち上がった。
立ち上がった水に、苔と土と落ち葉が混ざっている。混ざったまま、段の形に沿って一本の塊になっていく。塊の表面は、上から下へ絶えず流れていた。流れているのに、形は崩れない。
高さは七段ぶんになる。幅は段より広い。両脇の擁壁に、体を預けている。預けられた擁壁の石が、下から順に二つ、押し出されて落ちた。
迅が左手首の蓋を跳ね上げた。五人が同じ動作をした。
「急報 ── 出場!」
> サイレン ── 起動。〈火群 迅〉。応答、確認。
> サイレン ── 起動。〈逢坂 澪〉〈灰谷 蒼汰〉〈寺尾 剛〉〈七尾 ひかり〉。応答、確認。
反射帯の光が足元から頭まで走った。装甲が下から順に組み上がる。五つの送話口が、同じ高さで止まった。
五人が同時に右手を上げた。耳の高さで止めて、掌を外へ向ける。受話器を取る形になる。
> 水を持ってく、火の現場 ─── サイレンレッド!
> 声を持ってく、知の現場 ─── サイレンブルー!
> 綱を持ってく、高の現場 ─── サイレンイエロー!
> 梁を持ってく、圧の現場 ─── サイレングリーン!
> 息を持ってく、生の現場 ─── サイレンピンク!
>
> 特別災害対策機構、第七支部 ──
> 呼ばれたら、鳴らして、行く!
> 急報戦隊、サイレンジャー!
声が坂を下りていった。下りた先の三本の道で、傘を畳んだ人が全部、上を向いた。
迅がブレスを塊へ向けた。
「トリアージ!」
> 判定 ── 黒。要救助者、内部に確認できません。
「黒」
迅は前に出た。出た足が、水の張った石段を一段だけ滑った。滑ってから止まった。
塊が上から下りてきた。下りる速さが、水の速さになる。
寺尾がハンマーを打った。石段の三段目の、擁壁の継ぎ目へ、鉄の柱を横に一本渡す。
「入った。ここで一度受け止める」
二文で言って、柱の下で膝を落とした。落として、両腕で柱を支えた。
塊が柱に当たった。当たった音が、石段の下まで届いた。
届いた先で、藤木が肩を跳ね上げた。ひかりが膝の毛布を押さえ直した。
蒼汰が擁壁の上へ索を投げた。掛かってから、一度だけ引いた。
「上、任せろ。給水塔の管まで十四メートル」
登った。登って、管の先を掴んだ。四十センチずれている管を、手で戻す。
戻したところで、索を回収した。回収の一動作を省かない。
管が側溝へ戻ると、石段へ落ちる水が三分の一になった。
塊が細くなった。細くなった分だけ、動きが速くなる。
速くなった塊が、寺尾の柱を跳び越えた。
跳び越えた先に、迅がいた。
迅は避けなかった。避けずに、斧を左手一丁で立てた。
塊が斧に当たって、割れた。割れた水が、迅の胸から下を全部濡らした。
濡れた装甲の下で、右の掌の切り傷が開いた。この人はまだ気付いていない。
澪がソナーを構えた。撃つ前に必ず人数を言う。
「零名。石段の上に人はいない。撃てる」
撃った。低い音が、塊の真ん中を通っていく。通った場所だけ、水が止まる。
止まった場所へ、ひかりが入った。ナイフを抜いたのは、この日はここが初めてになる。抜く回数より助けた回数の方が多い日を、この人は数えている。
「サイレンナイフ ── 急救斬ッ!」
斬った先が、土と落ち葉に分かれた。分かれた土が、石段の脇へ落ちた。
塊が、石段の一番上へ戻った。
戻ってから、給水塔の脚に絡んだ。絡んだ先の脚が、四本のうち二本まで見えなくなる。
絡んだ塊が、給水塔を持ち上げた。
持ち上げた高さが、坂の家の屋根を越えた。越えてから、塔と一緒に大きくなった。
地下三層で宮ヶ瀬が盤を叩いた。
「ウイングの当たりが出ました。遠慮は要りません」
五機が坂の下から上がってきた。三本目の道は狭い。狭い分だけ、二本目を回る。
サイレンクレーンのアウトリガーが、坂の途中で三十センチずれて止まった。サイレンメディックの後扉は、この日は閉めてある。
サイレンウイングが低い位置から上がった。上がってから、羽を全部開いた。
開いた音が、坂の下の三本の道まで届いた。
「五機、連結!」
「特災合体 ── サイレンオー!」
サイレンオーが立った。
坂の下から見上げた人には、脚と、胴の途中までが見えた。屋根の列で、それより上は切れている。
石段の下から見上げた藤木には、左手だけが見えた。
その左手は、開いていない。握ったままになる。
藤木は巻かれた左手を右手で抱えたまま、それを見ていた。
サイレンオーが右腕を上げた。上げた先に、給水塔と塊がある。
塊は塔から離れなかった。離れないまま、塔ごと坂へ倒れようとした。
寺尾の声が回線に入った。
「まあ待て。俺が支える。左腕を塔の腹へ入れる」
左腕が塔の下へ入った。握ったままの左手が、塔の腹を押し上げる。
塔が止まった。止まった分だけ、塊が塔から剥がれた。
剥がれた瞬間に、迅が言った。
「今だ」
右腕の放水砲が開いた。
「サイレンオー ── 全消斬ッ!」
水が出た。斬るのではなく、押す形で出る。
塊が坂の上から、塔の外側へ流されていく。流された先で、体が保てなくなる。
保てなくなった塊は、水に戻った。戻った水が、側溝へ入っていく。
側溝は、四十センチ戻った管の下にある。
坂の三本の道で、上を向いていた人たちが、そのまま立っていた。傘を持ったまま、誰も差していない。雨はもう落ちていない。
誰も拍手をしなかった。この街は、まだ拍手の仕方を知らない。一人だけ、二本目の坂の角で、右手を耳の高さまで上げた子どもがいた。上げたところで母親に手を引かれて、そのまま行った。
*
十八時十一分に、藤木ハルが搬送された。
救急車に乗る前に、この人はひかりの袖を右手で掴んだ。掴む力が強い。折れた側ではない手に、力が全部入っている。
「呼んで、よかったのかしらね」
「よかったです。手首は、二時間置くと戻りにくくなるので」
ひかりは、それ以上言わなかった。言わずに、扉を閉めた。
閉めてから、閉めた側の手で一度、扉の縁を叩いた。合図になる。叩き方は二回で一組になっていて、三年、変えていない。
搬送先は市民病院の整形になる。手首の骨は、その日のうちに戻す。戻したあと、六週間ほど固める。固めている間、この人は坂の石段を使えない。
坂の途中の家の門は、閉まっていた。
折れた枝は脇に寄せてある。割れた鉢は門の内側にある。
誰も呼び鈴を押さなかった。
押さないことを、六人のうち誰も口にしなかった。口にしないことを決めた者もいない。誰も決めていないのに、六人とも同じことをした。
支部へ戻ると、梅木が脚立をまだ片付けていなかった。
「全開、何秒掛けました」
「四十秒」
「四十秒なら、根は持ちます。次は六十秒までいけます」
宮ヶ瀬が工具を置いた。置いてから、一言だけ足した。
「坂の上で滑らない靴底を、まだ作れていません」
毎回、作れなかったものを一つ言う。三年、欠かしたことが無い。
澪は受信席の裏で、尾花の用紙を見ていた。
背後の音の欄に、雨だれ、車、蝉、と書いてある。その下に、何も書き足されていない。
書き足す欄が無い。呼ばなかった人のための欄は、この用紙に無い。無いのは、呼ばなかった人は記録に残らないからになる。記録に残らないものを、澪は自分の地図に貼っている。
澪は自分の地図を出した。丘の上三丁目の、坂の中ほどに、付箋を一枚貼った。
付箋には何も書いていない。
これで五枚目になる。四枚は、三年で一度しか通報が来ていない場所に貼ってある。
五枚目だけが、一度も来ていない場所になる。
久遠寺が後ろから見ていた。
「見えたか」
「まだです」
久遠寺はそれ以上訊かない。訊かずに、当直表の方へ戻っていく。戻る途中で、澪の地図をもう一度見た。見て、五枚目の付箋の位置を覚えた。覚えたことを、この人も言わない。
二階の受信席で、電話が鳴った。
> 【第七支部 出場記録】
> 臨場 ── 十七時十九分。所要 ── 六十八分。
> 保留 ── 一件。最長 ── 三十三秒。
> 未着 累計 ── 零。
> 損壊 ── 丘の上三丁目 石段 七の四 踊り場 手すり 二本。給水塔 脚部 塗装。
> 傷病 ── 一名。左橈骨遠位端骨折。搬送。
> 本件、処理 ── 完了。
> ── 入電。




